Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「7・17」記念の協議会 真の富は「内心の幸福」

1995.7.15 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

前後
1  「心」ひとつで百八十度変わる
 人生は「心」で決まる。同じように行動しても、心ひとつで、幸・不幸は百八十度変わる。
 「星の王子さま」で知られる、フランスの作家サン=テグジュペリが、こんな話を書いている。
 一人の庭師がいた。彼は元気なころ、時には、土を耕すのがつらかった。
 特にリューマチで足が痛い時など、「こんな奴隷仕事なんか!」と文句を言った。その時、彼にとって、庭は「徒刑場」だった。だが彼は病気で床につくと、庭のことが心配でたまらない。
 ──あの庭は荒れ地になってしまう! 今まで世話をしてきた樹々だって、これから、どうなってしまうのか?
 そして、死を前にこう言った。
 「いまとなっては、土を掘って、掘りまくりたいですね。土を掘り起こすという仕事が、わたしにはそんなにすばらしいものに思われるんですよ! 土を掘り起こしているときは、そんなに自由なんですよ!」(『人間の大地』山崎庸一郎訳)
 彼は小さな「庭」を通して、実は、地球の広大な「大地」に結ばれていた。
 いわば全人類を代表して、彼はこの庭に「責任」をもっていたのである。彼にしかできない仕事であった。彼がやらなければ庭は荒れてしまうのだ。その分、地球が荒れ地になるのだ。
 彼は、かけがえのない仕事をしていたのだ。何と素晴らしい人生だったか!
 彼は、かつて不平を言ったことなど忘れたように、自分の一生に満足して死んでいった。
 サン=テグジュペリは書いている。彼は「真の王侯」であり「勇者」だったと。
 同じく「ツルハシを振るう」仕事でも、いやいや、やっている時、彼は奴隷であり、囚人だった。庭は拷問の場だったかもしれない。
 ところが彼が「自分は、この庭を耕すことで、自分にしかできない仕事、自分の責任を果たしているのだ。意味がある。使命があるのだ」と自覚したとたん、彼は自由になり、王者となった。庭は「彼自身の王国」となった。心ひとつで一切は変わる。いわんや仏法は一念三千と説く。
2  皆さまも、それぞれの立場で、社会のため、広宣流布のために働いておられる。苦労もある。汗もある。時には嘆きもあるかもしれない。
 しかし、同じく働くならば、「よし、これでまた自分を鍛えよう」「また福運の貯金をしよう」「偉大な事業に連なる喜びを感じていこう」と決めることである。
 「広宣流布していこう」という「心」があれば、すべてが生きる。
 勇んで為す──その「心」から、人生の宝が無尽蔵にあふれ出てくる。
 だれしも完全な人間はいない。だから互いの短所を補い合い、長所を生かし合っていこう──その団結の「心」に福運がついてくる。
3  心の力といえば、大詩人・ミルトン(一六〇八〜七四年)を思い出す。
 彼は「失楽園」で「心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、──地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」(平井正穂訳、岩波書店)と歌った。
 彼は人類の「楽園の喪失」(失楽園)を悲しみ、心の変革による「楽園の回復」(復楽園)を願った。過労で失明するまで働き、その後も崇高な理想のため戦い続けた闘士であった。
 彼は、「正義のための受難」を喜んだ。「魂の勝利」を、生きる目的とした。
 (この年〈一九九五年〉八月、インドの「世界詩歌協会」から、世界初の「世界桂冠詩人」賞が名誉会長に贈られた。同協会のスリニバス会長は、名誉会長の詩について「ミルトン的な高みに到達している」と評価した)
4  「内面の富」を積もう
 ミルトンについて、百四十年ほど後に活躍した同じイギリスの大詩人ワーズワース(一七七〇年〜一八五〇年)は、こうたたえた。
 ミルトンよ、君こそ今の世に生きてほしき人、
 英国は、君を必要とすること切なり。
 我が国は今やよどめる沼のごとし。
 教会、軍隊、文学、家庭、いかめしき邸宅をもつ富者も、
 すべてはかつてありし日の内心の幸福を失いたり、
 そは古代英国の遺産なりしに。
 われらは利己的な人間、
 ああわれらを引き立て、再びわれらに帰り来れ。
 そして、礼譲、徳行、自由、力を与え給え。
 君の魂は星のごとく、遙かの空に宿れり。
 君は大海のごとくとどろく大きなる声を有せり。
 澄める天のごとく清く、おごそかに、自由に、
 神のごとく喜びに充ちて、君は人生の常道を辿りぬ。
 されど君はいとも賤しき義務を背負いたりき。(詩「ロンドン一八〇二年」)
 魂なき社会。空虚な、から騒ぎの社会。崇高な美しさから遠い、沼地のような時代。宗教(祭壇)も、権力(剣)も、言論(文学)も、家庭も、「内心の富」を失ってしまった。だれもが外ばかり、「外面」ばかりを向いている。「内面」を見つめ、耕そうとしなくなってしまった。
 ミルトンの大いなる魂の息吹で、こういう社会を救ってほしいというのである。
 「内心の幸福」という財産、すなわち「心のたから」を第一に大切にする社会に変えたいとの祈りである。世界全体が今、そう願っている。私どもに、それを期待しているのである。
 内心に宝が輝いている人は、毎日が豊かである。内心に「汚れなき青空」が広がっている人は、吹きつける嵐に左右されない。
5  偉人は嵐の中に立つ
 彫刻家のロダン(一八四〇〜一九一七年)が、フランスのある大聖堂を見に行った。
 オーストリアの有名な詩人リルケ(一八七五〜一九二六年)が一緒であった。二人は大聖堂を目指して歩いていった。空は灰色に曇っていたが、風はなかった。
 ところが大聖堂に到着するやいなや、急に一陣の風が吹いてきて、二人に容赦なく、鋭く襲いかかった。詩人は「おお、急に嵐になりましたね」と言った。
 するとロダンは答えた。「君は知らないのだね。こうした大聖堂の周りは、いつでも風が、こんな嵐が吹いているのだ。それは、建物の偉大さのために揺り動かされ、苦しんでいる風が、いつも周りをうろついているからだ」(「妻への手紙」、『リルケ全集』6所収、彌生書房。参照)
 風たちは堂々たる建物の偉大さに圧迫され、はね飛ばされ、周囲を「うろついては」吠えたてている。「急に嵐がきた」のではない。「いつも嵐なのだ」というのである。遠くから見ていると、悠々たるその姿に、「嵐に囲まれている」事実など想像もできない。
 ロダンの言葉は、ロダン自身のことをも言い表していたのかもしれない。
 偉人は常に嵐の中に立つ。彼の周囲には、いつも無定見の風たちが、うろついている。しかし彼が平気な顔をしているから、皆、わからない。
 彼は、右に左に揺れる風説や、一時の風潮など見おろして、そびえ立っている。彼が揺るがないからこそ、彼が大きいからこそ、風はまとわりつくのである。団体についても、それは同じである。
 人生は戦いである。広宣流布は勝負である。あの「七・一七」も嵐であった。雷雨が天地を揺るがした。あの嵐は、私の人生を象徴していたようにも思う。(昭和三十二年〈一九五七年〉七月十七日、無実の罪で勾留されていた名誉会長が二週間ぶりに出獄。大阪大会が開かれた)
6  権力の魔性に滅ぼされた三浦一族の教訓
 この世は闘争の世界である。知恵と力がぶつかり合う修羅の現実がある。
 鎌倉時代、神奈川県の三浦半島を根拠地に、大豪族・三浦一族がいた。彼らは一二四七年(宝治元年)、北条氏に滅ぼされた。佐渡御書にも仰せの「宝治の合戦」(宝治の乱)である。
 鎌倉幕府でも随一といわれた強大な力がありながら、なぜ三浦一族は滅亡したのか──こういう質問が寄せられた。これには、さまざまな見方がある。
 一つの次元から見れば、三浦一族には、激しい変化に的確な手を打つ「知略」が欠けていた、乱世を力強く生き抜く「人材」がいなかったと指摘できよう。北条氏は後に将軍にかわって幕府の実権を握るが、はじめは、いわゆる″成り上がり″で、基盤は弱小であった。
 一方、三浦氏は幕府官僚は少ないが、巨大な軍事力をもち、重要な戦いの勝敗を決するキャスチングボートを握っていた。しかも、「いざ鎌倉!」という時に即応できる「地の利」もあった。
 両者の関係は、結果的には、北条氏が三浦氏の力を実に巧みに利用し抜いたと言える。
 一二〇二年、北条時政の孫・泰時と三浦義村の娘が政略結婚。両家は実質的に軍事同盟で結ばれた。翌年、三浦義村は土佐の守護職に。北条時政は三浦一族とともに、将軍・源頼家を支える比企ひき一族を打倒した。時政は初代の執権になり、幕府に君臨した。一二〇五年には同様にして畠山一族を壊滅させた。
 しかし、この時、「謀反を企てた」として、無実の罪で殺された畠山重忠は、三浦義村が尊敬する友であった。義村は心中、穏やかではなかった。
 三浦氏の力を利用して他の有力者を次々とつぶし、そのあとで″甘い汁″を吸うのは、結局、北条氏であった。そのことが、義村にも、はっきり、わかってきた。
7  三浦一族は巻き返しに出た。二代将軍・源頼家の遺児・善哉丸ぜんやまるを次の将軍に擁立しようとしたのである。これに対し北条義時は機先を制する。一二一一年、善哉丸を出家させ、決定的に将軍への道を絶った。善哉丸は公暁くぎょうと名のり、のちに三代将軍・源実朝を暗殺する。
 さらに一三年、北条側の相次ぐ挑発にのった和田義盛が凄絶せいぜつな戦いの末、全滅させられた(和田合戦)。
 三浦一族は同族の和田氏を最後になって裏切り、北条氏に味方した。それが勝敗をわけた。
 北条氏は広大な領地と幕府の要職を手にしたが、三浦一族は他の御家人から「三浦の犬は、友をくらなり」と罵倒された。
 一二二一年の承久の乱を経て、幕府は全国支配の体制を固める。御家人の領地は飛躍的に拡大した。やがて三浦一族は、北は宮城・福島から西は福岡・佐賀まで、点在する所領をもつ大豪族となる。一方、北条氏も、これに匹敵する広大な領地があった。両家の対立は避けがたかった。
8  「苦労しらずで気が弱い」三浦一族の当主・泰村を、北条時頼は巧みな心理作戦で揺さぶった。デマを流して、泰村を疑心暗鬼に陥らせた。
 また時頼は三浦氏の一族の中に味方を作り、結束を崩した。分断作戦である。「敵の中に味方を作る」のは北条氏のお家芸であった。
 緊張が高まるなか北条側から和平交渉をもちかけ、三浦氏がほっと安心したその時、北条陣営の安達軍が奇襲をかけた。北条軍が続いた。三浦邸は焼かれ、一族郎党、五百余人が自刃。各地の残党も、親族も討ち取られた。三浦一族の滅亡の悲劇であった。(奥富敬之著『相模三浦一族』新人物往来社刊などを参照)
 しかも鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡あずまかがみ」では、これはひとえに三浦氏に「逆心」(反逆の心)があったからだと決めつけている。
9  権力は無常、仏法は永遠
 敗れれば悲惨である。だまされてはならない。真実を見抜かなければ、権力の魔性に利用されてしまう。
 日蓮大聖人は、三浦一族滅亡の「宝治の合戦」の時、満年齢で二十五歳。関西で修学中であられたが、事件のニュースは伝えられたであろう。
 三浦一族の滅亡によって、北条氏に対抗できる勢力はなくなった。将軍家も形式だけのものになった。北条一族は独裁的な権力を手に入れた。
 日蓮大聖人が立ち向かわれたのは、こうした権力の魔性だったのである。
 やがて北条一族も滅びた。鎌倉幕府も滅びた。権力の世界は、強いようで「無常」である。反対に、日蓮大聖人は、幕府から、あれほどの迫害を受けられたが、今、大聖人の仏法は、世界に燦然と陽光を放っている。
 私どもは、この「永遠性」の次元に奥底の一念を置いて、日々、修行しているのである。ゆえに、私どもの人生の価値もまた永遠である。
10  創価学会は、最高の「善意」の団体である。ただ社会のために、未来のために、不幸な人々のために無償の行動を重ねている。その善意を、あえて曲解する「悪意」の濁世かもしれない。
 しかし私どもは、それでも人々の「善意」を信じたい。そして、よりよき社会を願う「善意」と「善意」を結び合わせて、時代を変えてまいりたい。
 人と人とを、つなげ、善意で善意を触発していく。「善の波」を広げていく。これが私どもの運動であると申し上げ、記念のスピーチとしたい。

1
1