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日蓮大聖人・池田大作

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栃木・茨城代表協議会 賢人は″絶えず新しくなる″

1995.6.12 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

前後
2  本日、キルギス共和国より、栄えある「マルディバエフ記念賞」を賜った。
 バザルバエフ文化大臣には、わざわざ東京の聖教新聞社までお越しいただき、秋谷会長を代理として受賞させていただいた。
 この賞はキルギスの著名な大詩人・大音楽家であるマルディバエフの名前を冠した賞である。外国人に贈られるのは初めてとうかがった。その栄誉に応えるべく、私はキルギス共和国と日本との文化交流、友好促進に、一層、尽力していく決心である。
 キルギスは、あのシルクロードが走る「美しき自然」と「ロマンの歴史」、そして「豊かな文化」で知られる国である。
 ここ栃木は、爽やかな高原や牧場、湖、また歴史の街道などに恵まれている。その点、キルギスによく似た天地といえるかもしれない。
 キルギスといえば、親友である世界的文学者・アイトマートフ氏の故郷でもある。また、この五・六月、民音の「シルクロード音楽の旅」公演ではキルギスの素晴らしい音楽が紹介された。なお、現在、このキルギスでも創価大学出身者が活躍している。
3  フレッシュな「知恵」で価値ある「変化」を
 ″一番幸福な人間″とはどういう人であろうか。
 ドイツの文豪ゲーテは語る。
 「自分の生涯の終末をその発端と結びつけることができる人は、いちばん幸福な人間である」(『箴言と省察』、『ゲーテ全集』13〈岩崎英二郎・関楠生訳〉所収、潮出版社)
 生涯の終わりに、″自分はやり切った″″使命を果たした″″信念を貫いた″──そう言える人は幸福である。
 ゆえに随自意ずいじいで生き切っていくことである。何ものにも左右されてはならない。人間の骨格である「信念」を変えてはならない。
4  そのうえで、人生は変化の連続である。社会も絶えず変化している。変化、変化の中で、より豊かに、より価値的に生き抜いていくには、何が大事か。
 それは「知恵」である。縦横無尽の、みずみずしい「知恵」こそが力である。
 「知恵」とは、人生を「美・利・善」の方向にもっていく″原動力″である。皆を幸福の方向にもっていく″舵取り″である。社会が複雑になればなるほど、そうした「知恵」が必要とされる。
5  ゲーテもまた、豊かな「知恵の人」であった。
 ゲーテが八十歳の時のエピソードである。当時のドイツの著名な理論家であり、政治家であったミュラーと、政治的な話題をめぐってゲーテは議論を交わした。しかし、ある点についてゲーテの言うことが以前と比べて変わっていた。
 ミュラーは「前は、まるで違った考えだったではないか?」とゲーテに問いただした。すると、ゲーテは悠然と答えたという。
 「おや、私は一体、いつまでも同じことを考えるべく八十という年を食ってきたものだろうか? 私はむしろ毎日少しでも変わったこと、新しいことを考えようと努力しているのだ。でなければ退屈になろうじゃないか。たえず変化し、新しくなり、若返り、停滞しないようにするのが人間じゃないか」(リヒァルト・フリーデンタール『ゲーテ─その生涯と時代』、平野雅史・森良文・小松原千里・三木正之訳、講談社)
 ゲーテは、自分を硬直させなかった。変化をおそれず、その時その時で臨機応変に最大の価値を求めていった。「人生の達人」であった。
 八十歳にしてなお、青年の気概であった。常に新しい風を求めた。変化を楽しみながら、今日から明日へと前進を続けたその生涯は、惰性や退屈とは無縁であった。
 これから「安穏と希望の二十一世紀」をどう力強く開いていくか。
 「変化の時代」である。だからこそ「知恵の時代」と決めて、勝利していかなければならない。
 学会も「知恵」で進む。いかなる変化をも追い風として、悠々と、また喜々として、まっすぐに我らは我らの道を進んでまいりたい。
6  スペインの思想家・オルテガは語った。
 「すべて生あるものの特色をなすのは感染力であることを忘れてはならない。病気は感染する、しかし同様に健康も感染するのだ。悪徳も美徳も感染する。老人くささも若者らしさも感染する」(『哲学とは何か』生松敬三訳、『オルテガ著作集6』所収、白水社)と──。
 同じように「勇気」も感染する。「生命力」も感染する。生命の奥底から発する真剣な声は、必ずや相手の胸に伝わっていく。
 また、自分が張り切っていけば、周りの人も躍動していく。自分が生き生きとしていけば、その分、喜びの波動は広がっていく。
 ″一人の人間がどれほど偉大な力をもっているか″。これを証明するのが仏法のテーマである。その燦たる証明者の人生であっていただきたい。
7  マンデラ大統領「どんな人も必ず変わる。私は敵を味方にする」
 さて、南アフリカに新政権が発足して、一年余り。私の大切な友人であるネルソン・マンデラ大統領(一九九四年五月に就任)はその卓越した指導力で、懸命に指揮をとられている。
 さまざまな人種や民族や文化が″七色の虹″のように、それぞれの個性を生かしながら、調和しあう国土──。その「虹の国家」を目指して、マンデラ大統領の奮闘は続いている。
 そのなかで、かつて敵対していた人までが、一人また一人と協力者になり、マンデラ大統領を支持している様子も報道されている。
 「敵をも味方に」──大統領のこの実践は、今に始まったわけではない。若き日からの人権闘争の歴史に貫かれた姿勢であった。
8  大統領は二十八年に及ぶ獄中生活を送られた。ある時、マンデラ氏たちに対し、特に敵意を抱いていると思われる一人の看守がいた。
 そこでマンデラ氏ら「アフリカ民族会議(ANC)」のメンバーたちは、行動を開始する。自伝には、その模様がこう記されている。
 「すべての人を啓蒙するよう努めるのが、ANCの方針だった。どんな相手でも、たとえ看守だろうと、考えかたが変わる余地があるのだから、あらゆる手段を尽くして揺り動かしていくべきなのだ」(『自由への長い道──ネルソン・マンデラ自伝』東江一紀訳、日本放送出版協会)
 マンデラ氏たちは、その看守と友達になれるよう働きかけた。すると、初めはぶっきらぼうで、取りつくしまもなかった看守の態度が、やがて和らいでいった。
 ある日、マンデラ氏たちが、物置の下で昼食をとっていると、その看守がやって来た。そして、「ほら」と言って、サンドイッチを置いていった。友情の表現であったろう。
 こうして、初めはかたくなだった看守の心も、少しずつ開いていった。
 そのうち看守は、アフリカ民族会議のことについて、質問をしてくるようになった。看守は、マンデラ氏たちが、危険なテロリストの集まりだと誤解していたようである。
 そこで、マンデラ氏たちは「権利の平等」「富の再分配」など自分たちの目指すものを熱心に語り、看守の偏見を取り除いていった。このように、マンデラ氏は、身近なところから、敵をも味方にしていったのである。
9  地道といえば、実に地道である。しかし、こうした地道な対話の中にこそ、勝利の栄光は築かれていく。
 牧口先生、戸田先生もまた、獄中にあって、果敢に仏法を語られた。そして、看守や検事にも、仏縁を広げられたのである。
 敵をも味方に変え、敵の中にも味方を作っていく。その大胆さ。勇気。雄弁。これが私どもの師匠の戦いであった。
10  使命の道をどこまでも勇猛精進
 マンデラ大統領は、自伝をこう結ばれている。
 「わたしは自由への長い道のりを歩いてきた。(中略)わたしはここでひと息ついて、束の間、周囲のすばらしい景色を見渡し、来た道を振り返ってみた。けれども、休めるのは、ほんのひとときだけだ。自由には責任がともなう。のんびりしてはいられない。わたしの長い道のりが、まだ終わっていないからだ。」(同前)
 これが、現在七十六歳の「人権の闘士」の気概である。
 私どもも、広宣流布という大道で″間断なく″勇猛精進してまいりたい。
11  最後に、有名な「開目抄」の一節を拝したい。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
 ──われならびにわが弟子は、諸難があっても疑う心がなければ、自然に仏界にいたるであろう。天の加護がないからといって、疑ってはならない。現世が安穏でないからといって嘆いてはならない。(このことを)我が弟子に朝夕教えてきたけれども、疑いを起こして、皆、捨ててしまったのであろう。つまらない人間の常として、約束した事を、まことの時に忘れるのである──。
 この永遠の指針を胸に、日本と世界の模範となる「関東ルネサンス」をお願いしたい。
 関東の各県が底力を出せば、東京が変わり、全国が変わる。
 今回、お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしく伝えていただきたい。
 栃木と茨城。新しい出発、本当におめでとう!

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