Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回中国青年平和総会 自分をつくれ、その人が勝者

1995.5.7 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

前後
2  牧口先生は、「人を離れて事無し」(人間を離れて、何事もありえない)という吉田松陰の言葉をよく引かれた。
 ″社会の各方面の行き詰まりの根源はどこにあるか?──それはことごとく人材の欠乏にある″と喝破しておられたのである。
 まことに偉大な師匠であられた。
 「人材の養成」「人材の改善」を基礎としなければ、一切の改革も結局、砂上の楼閣に終わってしまう。ゆえに、制度・機構の改革に先立って、何よりもまず「新しい人材」を登場させよ!
 こう牧口先生は促された。
 まさに道理である。
 「新しき人材」よ出でよ──「人材の中国」の青年部こそ、牧口先生のこの期待に、鋭敏に応えていただきたい。(拍手)
3  悪人に屈するな、母の祈りを背に走れ
 では、そうした新舞台の人材の要件として、牧口先生が一貫して強調された点は何か。
 それは「正義のためには、敵を恐れぬ勇気を持て!」という一点であった。
 これこそ学会精神である。
 先生は『創価教育学体系』の中で訴えておられる。
 ″悪人が指導階級に立つ時代に、おとなしく追随するだけの「無気力の善人」であってはならない″と。
 これが、先生の師子吼であった。「革命」の叫びであった。
 また、″不当な圧迫を受けながら反論もできず、泣き寝入りしているようではならない″。
 そして″議論を闘わせることに臆病であってはならない″と。
4  ゆえに私も、語りに語っている。
 末法は「闘諍言訟の時代」であり、「闘いの時代」である。広宣流布も言論戦である。
 青年は今こそ、「正義」を、「真実」を、語って語って語り抜かねばならない。「声仏事を為す」との大聖人の仰せのままに。
 さらに牧口先生は、″傍若無人な悪人によって正義の人が迫害を受けている時、手をこまぬいて傍観するだけの「羊の群れ」であってはならない″と。
 また、″無遠慮な特権階級には屈するな! その代わり、庶民、なかんずく母たちの声を尊重し、反映せよ!″とも言われた。
 先生は自らこの信念に生き、そして殉じた師子であられた。
 わが中国青年部は、この牧口先生の道に直結して、創価学会を、いよいよの勝利へと導いていただきたい。(拍手)
5  どんなに傲った権力も三世永遠の生命観から見れば、はかない幻に過ぎない。
 大聖人は仰せである。
 「かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず、此の時はいかでか名聞名利・我慢偏執有るべきや
 ──このような死後の苦悩の世界に行ったならば、王の位も、将軍の位も問題にならない。獄卒の責めにあう姿は猿回しの猿と同じである。こうなった時は、どうして名聞名利や我慢偏執(我を頼んで心が傲り、偏ったものに執着すること)をもっていられようか──と。
6  イギリスの劇作家、ジェイムズ・シャーリー(一五九六年〜一六六六年)。チャールズ二世も愛誦したとされるこの劇作家は、次のような詩をつづっている。
  血筋や地位のもたらす栄光などは、
  単なる影にすぎず、実体などというものではない。
  堂々たる鎧で身を守っていても、運命には逆らえないのだ。
  王様だって氷のような手をもった死神に見舞われる。
  王笏おうしゃくや王冠を誇った者も、
  必ず真っ逆様さかさまに転落し、
  土の中に入ってしまえば、曲がった鎌や鋤を使って
  野原で働いていた農民と同じ身分になってしまうのだ。
    (「栄光の空しさ」、平井正穂編『イギリス名詩選』岩波文庫)
 「死」の前には、権力も身分も、栄誉もむなしい。
 それでは「死」をも超えるものは何か。シャーリーは結論している。
7   だが、正しく生きた人間の営みだけが、
  土の中でも馥郁と薫り、爛漫と咲き誇るのだ」(同前)
 正しく生きた人間──人間としての究極の正しき人生を説いたのが妙法である。ゆえに妙法に生き抜いた人こそ、生死を超えて、爛漫と花を咲かせ、永遠の幸福を薫らせていく。
 地位ではない。正しく生きたかどうかである。どんなに高い地位にあっても、「不知恩」であっては、死を前に後悔する敗北の人生になるにちがいない。
 この秋には、世界の大勢の友が中国に集まる。(十月十五日、広島で第十四回世界青年平和文化祭を開催)
 中国は″中心の国″と書く。「日本の中心」との気概で、中国から世界へ、平和と希望と信念のスクラムを愉快に広げていただきたい。青年の意気で、すべてに勝っていただきたい。(拍手)
8  釈尊の教え″皆、一緒に前進″が仏法のすべて
 仏道修行について、一言述べておきたい。(大正二巻参照)
 釈尊の弟子の一人に、阿難がいる。ある時、釈尊に阿難が尋ねた。
 「私が考えてみますに、私どもが善き友をもち、善き友と一緒に進むことは、すでに仏道の半ばを成就したに等しいと思われます。この考え方は正しいでしょうか」
 ″善き友を持つことが、仏道修行の半ばを意味する″──とは、あるいは、大げさに聞こえる表現かもしれない。実際、阿難も、遠慮がちに釈尊に聞いたのかもしれない。
 しかし、釈尊は、こう答えた。
 「阿難よ、その考え方は、正しくない。善き友をもち、善き友と一緒に進むということは、仏道の半ばではなく、仏道のすべてなのである」
9  同志と一緒に進み、一緒に苦労することは、仏道の半ばでなく、すべてなのである。この釈尊の心、仏法の精神を、その通りに実行してきたのが我々である。皆と一緒に進むことは、確かに面倒な時もあろう。大変な時もある。
 一人で好き勝手に生きるほうが気楽であるにちがいない。しかし、それでは、わがままになり、本当の仏道修行はできない。いつしか必ず正しき仏道から外れてしまう。結局は、孤独で、わびしい苦悩の境涯になってしまおう。
 さまざまな人がいるなかで、さまざまな苦労を経験しながら、一緒に進もう、一緒に成長しようと励まし合っていくところに、切磋琢磨があり、仏道修行がある。
 ここに本当の人間の道があり、本当の自由がある。依正不二の法理からいっても、善き人の集いの中にいることが、自分を成長させていくのである。
10  ドイツの哲人ニーチェは言った。
 「今後、あなたがたに栄誉を与えるのは、『どこから来たか』ではなくて、『どこへ行くか』なのだ! あなたがた自身を超えて行こうとするあなたがたの意志と足、──これこそ、あなたがたの新しい栄誉であらねばならぬ!」(『ツァラトゥストラはこう言った』氷上英廣訳、岩波文庫)
 「これから!」、常に「これから!」。仏法も現当二世の精神を教える。
 価値ある人生、なかんずく「価値ある青春」を開くもの──それは「今まで、どうであったか」ではない。「これから、どう生きるか」。その力強い前向きの一念である。そこに偉さがあり、勝利がある。
 今の自分を超える労作業に、絶えず挑戦していく。その「向上する心」にこそ、青年の魂がある。
11  戸田先生は、青年に訴えられた。
 「青年たる者は、たえず向上し、品位と教養を高めて、より偉大な自己を確立しなければならぬ」(『戸田城聖全集』第一巻)
 青年よ、自分をつくれ!──と。
 そして「読書と思索をせよ」と常に言われた。
 将来、社会の指導者、そして広宣流布の指導者となるべき皆さまである。だからこそ、人の何倍も思索し、苦労し抜くべきである。先頭に立って苦労し、先頭に立って勉強していただきたい。
 その自覚で進む時、目も輝き、生命も充実してくる。反対に、苦労を避けよう、逃げようとすれば、青春のみずみずしさはなくなってしまう。
12  私は「一日を一週間、一カ月分に生きよう」との思いで、動き、語り、挑戦を続けている。全部、会員の皆さまのためである。広宣流布のためである。私はこの「目的」を絶対に忘れない。
 修行なき生活は、堕落である。修行なき人生は、最後は敗北である。
 自分をつくらず、鍛えず、手練手管や要領だけで生きる人もいる。しかし、その人の人生の最終章は、むなしい。必ず悔いるにちがいない。「もう一度、青春をやり直したい」と。
 何事にも順序がある。若い時から何でも物があり、自由であるのは、かえって不幸である。
 青春時代に、精神を鍛え抜く。自分を磨き抜く。その土台の上に、ある年代に達した時、精神面でも、物質面でも、花が開くようになっていくのが道理である。それが人生の正しい軌道である。
13  中国の勝利は、全日本、全世界の勝利につながる。その使命感と誇りをもっていただきたい。
 ますますの中国の大発展を心から期待し、スピーチを終わらせていただく。
 きょうは、ご苦労さま。ありがとう!
 (東京牧口記念会館)

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