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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」祝賀第87回本部幹部会 われらは″人間として″輝く

1995.4.26 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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1  「五月三日」を世界中で祝福
 皆さまの信心、皆さまのお力によって、威風堂々たる新時代が開幕した。全国の皆さまに謹んで敬意と感謝を申し上げたい。(拍手)
 きょうは、ここ創価国際友好会館に、世界のトランペッター、シュンゾウ・オオノさんがアメリカから祝福に駆けつけてくださった。(拍手)
 (ここで、オオノさんが「春の小川」と「人間革命の歌」〈作詞作曲・山本伸一〉を演奏)
 素晴らしい演奏、ありがとう。(拍手)
 「春の小川」はここ渋谷区ゆかりの歌である。
 また「人間革命の歌」といえば、数日前、中国にいる方から報告が寄せられた。それには、北京最高の音楽ホール(北京音楽庁)で開催された、ブラジルの世界的ピアニスト、ビエイラ氏のコンサート(四月二十一日)の様子が記されていた。
 ──約千人の大観衆を前に、ビエイラ氏は、アンコールで「世界広布の歌」「人間革命の歌」を演奏されました。会場はに包まれ、感動的な光景でした──と。(拍手)
2  全国の衛星中継会場にお集まりの大勢の方々に御礼申し上げたい。(拍手)
 なお、きょうは、牧口先生、戸田先生のご家族、ゆかりの方々もお見えになっており、一同を代表して、謹んで感謝申し上げたい。
 さらに、真実の僧たる「日蓮正宗改革同盟」「憂宗護法同盟」「青年僧侶改革同盟」の皆さまも集われた。
 また、海外十一カ国から駆けつけてくださったSGI(創価学会インタナショナル)メンバーの方々、サンキュー・ソー・マッチ!
 世界各国のSGIからも、数多くの祝電をいただいている。「『5・3』おめでとうございます」「皆さまに、よろしくお伝えください」とあったことをご報告しておきたい。(拍手)
3  仏法の眼目は「人間を、より人間らしく」
 五月三日は「創価学会母の日」である。この日は、広宣流布の偉大なお母さん──婦人部の方々に、全員で「親孝行」する日としたい。(拍手)そういう伝統をつくりたい。
 御本仏・日蓮大聖人は、ある時、「もっと親孝行しておけばよかったと後悔している」と仰せである。
 「日蓮が母存生しておはせしに仰せ候し事をも・あまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候が・あながちにくやしく覚へて候へば、一代聖教をかんがへて母の孝養を仕らんと存じ候」──日蓮の母(梅菊女)が生きておられるころ、言われたことに対し、私は、あまりにもそむいてしまいましたので、母に先立たれた今になって、強い後悔の思いにかられています。そこで、釈尊のすべての経典を探究し、(最もすぐれた法華経をもって)母に孝養しようと思っているのです──。
 これは刑部ぎょうぶ左衛門尉の夫人への御手紙である。
 大聖人は、一生涯、法戦につぐ法戦であられた。心配するお母さんの言葉に、心ならずも従えなかったこともあられたであろう。
 それは、仕方のないことではあったが、やはり申し訳ない気持ちでいっぱいである──こういうお気持ちであられたと拝察する。
 御手紙には、こうした、ありのままの「人間」の心情を書いておられる。「人間」としての「母への思い」が脈打っている。そして、こうした人間性の延長線上にある信仰を教えてくださっているのである。
4  当たり前の人間性を離れて仏法はない。信仰はない。
 信仰は、むしろこうした人間性の昇華なのである。
 戸田先生は、よく「創価学会は″人間宗″でいくんだ。″人間宗″でいいんだ」と言われた。また「私は末法の凡夫だよ」と。
 人間以上の人間はいない。
 宗教が、ずる賢く、人間を人間以上のものに見せようとするとき、邪教になっていく。その最大の証拠が「日顕宗」である(賛同の拍手)。
 「特別の人」などいない。いるはずがない。ゆえに、どこまでも「人間」として、「人間」を相手に、「人間」らしく生き抜くことが正しい。
 そのための宗教である。そのための正道を教えたのが仏法である。(拍手)
5  学会の伝統「広布の母に親孝行を」
 また大聖人は、別の折に、こう仰せである。
 「但法華経計りこそ女人成仏・悲母の恩を報ずる実の報恩経にて候へと見候いしかば・悲母の恩を報ぜんために此の経の題目を一切の女人に唱えさせんと願す
 ──ただ法華経だけが女人成仏の経であり、悲母の恩を報じる真実の「報恩の経」であると見きわめました。そこで(私は)悲母の恩を報じるために、この経の題目を一切の女人に唱えさせようと願ったのです──。
 佐渡の千日尼への御手紙である。優しかった母(悲母)へ恩を返すために、すべての母、すべての女性に妙法を教えようと誓願したと仰せである。
 弘教といっても、広宣流布といっても、その根底は「お母さんに恩を返したい」という、人間としての心情から出発されている。仏法は、どこまでも人間主義である。学会も、この通りに進んできた。
 婦人部の代表から贈られた「美人像」(十九世紀、フランスのモロー作)も、「広布の母への報恩」の意義を込めて、この会場に飾らせていただいた。(拍手)
6  今、小説『新・人間革命』第三巻「仏陀」の章では、「人間・釈尊」について、私なりの次元から連載している。
 仏教の原点である釈尊。その釈尊の原点は何か。
 それは一面から言えば、「母の死」であったといわれる。
 釈尊の母・摩耶(マーヤー)夫人は、釈尊を産んで七日で死んでしまったとされる。
 釈尊が生まれた地は、ネパールの「ルンビニー」。ここは摩耶夫人の実家の方向(居城である迦毘羅城から見て)である。
 出産のために実家に帰る途中で産気づいて、このルンビニーの園で出産したという説がある。それが事実ならば、釈尊は、あるいは早産だったのかもしれない。また難産で、逆子だったという伝承もある。
 いずれにしても″生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と宣言した″というような事実はなかったにちがいない。ひとつの象徴の話であろう。
 摩耶夫人は、難産のためか、あるいは産褥熱(産後の発熱性の病気)のためか、高齢出産のためか──四十五歳説、三十五歳説などがある──生後一週間の息子を残して亡くなってしまった。さぞかし心残りだったにちがいない。
7  釈尊は摩耶夫人の妹である叔母の手で育てられた。(摩訶波闍波提。難陀の母。後に初の女性出家者となる)
 何不自由なく育ったとはいえ、仏伝によれば、いつも、もの思いにふけりがちな内省的な少年であったとされる。
 王家の後継者という立場。裕福な暮らし。しかし釈尊には満たされない渇きがあった。権力も栄華も、むなしかった。
 「お母さんがいない」寂しさ──顔も知らない母を思い、母を慕う気持ちが、いつも少年・釈尊の胸の底にあった。
 ──なぜ、お母さんは死んでしまったのか? どこに行ってしまったのか? どこに行けば会えるのか? 母を奪った『死』とは何か? そもそも『生命』とは何なのか?
 また、釈尊の心にのしかかって離れないのは「自分の誕生と引き換えに母は死んだ。自分が母を『死』に追いやったのと同じではないだろうか。母は自分のために犠牲になったのだ──」という負い目、罪の意識であったかもしれない。
 一次元から言えば、釈尊は、こうした苦しみを解決するために法を求め、出家し、修行したと見ることもできよう。
 (仏教学者の中村元博士も「かれは少年時代から、人生の問題に深く思い悩んだ。それにはかれの天性もあずかって力があったであろう。また母なき淋しさの憂鬱のためもあったであろう」〈『ゴータマ・ブッダ─釈尊の生涯─原始仏教1 中村元選集第11巻』、春秋社)と。そのほか「いまだ意識ももち得ない生後七日にして生みの母を失った悲しみは、成人後の釈尊にはかなり大きな精神的余韻を残したであろうから、その出家の動機の一つになったかも知れない」〈高下恵『釈迦─生涯とその弟子─』、百華苑〉等の指摘がある)
8  お母さんがいない悲しみをバネにして、釈尊は生き、修行し、悟りを開いた。
 悲しみをバネにする。苦しみをバネにする。仏法はこの生き方を教える。
 その根底には、深い「即」の法理(「煩悩即菩提」「生死即涅槃」等と説く)がある。
 この「即」の大哲学は西洋哲学にはない。
9  「お母さんがいない人こそ立派になれる」という実例を釈尊は残した。
 今も地球上で、戦争や病気、その他、いろいろな事情によって母親を亡くす場合がある。
 若くして母を亡くしたとしても、それでも偉大になれるのだ。仏になれるのだ──これを釈尊は示してくれたのである。
 それはそれとして、やはり母は生きて生き抜かなければならない。母が生き抜いている姿そのものが、子どもへの最高・最善の贈り物なのである。
 これを婦人部の皆さまは忘れないでいただきたい。新世紀の彼方まで、強く、健康に生き抜いていただきたい。(拍手)
10  インド仏教の伝統「まず母を大切に」
 釈尊が仏教を説いて以来、仏教徒は「両親」のことを必ず「母と父」と呼んだという。すなわち「母」を先に呼び、「父」を後に呼ぶ。こういう習わしが定着した。
 それ以前のバラモン教で使ったサンスクリット語では、「両親」のことを「父二人」(「父」の両数形)と表現し、母は入らなかった。日本でも、かつて父母会を「父兄会」といっていた。
 釈尊以後、インドの仏教徒は両親を「母と父」と呼んだ。単に呼び方だけではなく、「父よりも、まず母を重んじる」伝統がつくられていった。
 こうしたことを日本を代表する仏教学者・中村元博士が紹介しておられる。
 (「『両親』を表示するのに『母と父』として示すことは、その後のインド仏教を一貫している。そうして後世の仏教においても、父よりもまず母を重んじるという特徴が、顕著に認められる」〈『釈尊のことば─生きる倫理─』、春秋社〉等)
 やがて仏教が儒教の盛んな中国に入ると、「父が中心」とする中国社会の通念に合わせて変わっていったといわれる。
 その意味で、「母をとくに大切に」という日蓮大聖人の御言葉、そして創価学会の心は、仏教本来の姿なのである。(例として「母の御恩の事ことに心肝に染みて貴くをぼへ候」など)
 ともあれ「母を大切に」──これを具体的に実行してまいりたい。
 人間はどこまでも人間であるゆえに、「人間」として立派になる、「人間」として偉大になる、「人間」として輝いていく──ここに仏法の目的があることを確認しあっておきたい。(拍手)
11  皆さまの大闘争また大闘争で、素晴らしい栄光と勝利の「五月三日」を迎えることができた。改めて感謝申し上げたい。(拍手)
 アメリカの詩人ホイットマンの言葉がある。
 「何とまあ荘厳なこと、一人ひとりが、疲れ果て汗にまみれて帰ってくる兵士たちが、立ちつくすわたしのそばを列をつくって過ぎていくとき」
 「誰にもまして勇敢なのは、遮二無二前線に押し寄せて、名もなく、人知れず倒れた人びと」(『草の葉』酒本雅之訳、岩波文庫)
 だれよりも汗を流し、歩き、勇敢に戦った名もなき民衆。その人こそ、将軍よりも、だれよりも、いちばん荘厳なのだ!──ホイットマンは、こうたたえたのである。
 私も、まったくその通りだと思う。
 第一線の学会員の皆さまこそ荘厳なのである。尊いのである。英雄なのである。
 有名人だから、地位があるから偉いのか。そんなことは断じてない。正義のために、自分自身の信念で一生懸命働いている人にこそ最敬礼すべきである。
 学会は「御本尊根本」であり、「会員根本」である。
 私がどれだけ学会員を大事にしているか、想像もつかないであろう。
 幹部だからといって、皆がついてくるのは当然である──そんな慢心は微塵もあってはならない。
12  「民衆に最敬礼を」──この根本をさらに述べておきたい。
 舞台は四百年前のドイツ。マルチン・ルターの宗教改革によって、社会は激動し、動乱の時代となっていた。
 そのなかで、ドイツ・ルネサンスを開花させた芸術家にデューラー(一四七一年〜一五二八年)がいる。有名な画家で、東京富士美術館にも作品がある。
 彼を支持したのが神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアン一世(在位一四九三年〜一五一九年)であった。
 ある時、デューラーが梯子にのって大きな絵を描いていた。梯子がガタガタ揺れるので、皇帝は、そばにいた貴族に言った。
 「梯子を押さえてあげなさい」
 貴族は、そんなことはいやだといった。すると皇帝は立ち上がり、自分でその梯子を押さえた。
 「皇帝たるものが、そんなことを」──だれもが驚いた。当時、芸術家の身分は低く見られていたからである。
 しかし皇帝は平気な顔でこう言った。
 「私は貴族なら何人でもつくれる。しかし偉大な芸術家をつくることはできない」
 皇帝は「実際に働く人」を愛した。命令するばかりで、自分では何一つできない特権階級よりも──そうした心情を伝えるエピソードであろうか。(伊藤廉著『絵の話』、美術出版社を参照)
 かの皇帝は「最後の騎士」ともいわれる有徳の指導者であった。ハプスブルグ家の隆盛の基礎を築いた。
 「労働者に最敬礼」をする皇帝のもとで、ドイツのルネサンスを開花したのである。すべては人間で決まる。
 戸田先生は、よく言われた。
 「広宣流布のために、かせぐ(貢献する)んだ。それが全部、自分のためになるんだ」と。
 行動する人こそ尊い。実証を示す人こそ尊い。戦う人に上下などない。上下などにこだわっていては、敗北しかない。
13  「内なる王国」を築けば勝利
 イギリスの詩人ジョン・ミルトン(一六〇八年〜七四年)の大叙事詩『失楽園』を、私は十七、八歳のころから部屋に置き、繰り返し読んだ。
 その中にこうある。
 「心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、──地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」(平井正穂訳、岩波文庫)
 この信念から、ミルトンは「弱いということは哀れなことだ」「強くあれ」(同前)と呼びかけた。
 自身の「内なる王国」を厳然と築きゆけ。その人こそ勝利者なのだ。こう訴えたのである。
 心で一切が決まる──彼の思索は、仏法に通じる。
 この時、ミルトンの両目は光を失っていた。何も見えなかった。過労が重なり、四十三歳で失明したのである。
14  信教の自由を訴え、堕落した教会制度を弾劾した彼は、敵対者から″失明は天罰だ″とあざ笑われた。
 それでも、彼の「内なる王国」は揺るがなかった。
 「失明は惨めではない、失明に耐え得ないことが惨めなのだとの信念を持っていた」(才野重雄著『ミルトンの生涯』、研究社)のである。
 ″失明という最大の逆境に厳然と耐え、乗り越えている自分は絶対に不幸ではない。惨めではない。私は勝利者である″──これが彼の確信であった。
 そして『失楽園』をはじめ、『復楽園』『闘士サムソン』の三つの大作を、口述筆記で完成させていった。
 いずれも、今なお世界中で仰がれる名作である。
 「苦難を幸福に」「苦悩を向上に」「障害を拡大に」「混乱を前進に」──その転換のバネはすべて、我が心にある。一念にある。
 ここに「信心」の骨髄もある。
 「内なる王国」を築き上げた人間から見れば、少々の迫害など豆つぶのようなものである。
15  方便品・寿量品講義を連載開始
 ここで話題を変えたい。
 最近、新入会の友やSGIの方々などから、「勤行の際に読んでいる経文の意味を知りたい」という声が数多く寄せられている。
 そこで私は、「五月三日」を期して、「法華経 方便品・寿量品講義」を、新たに聖教新聞に掲載してまいりたい。(拍手)五月四日付から開始する予定である。(=一九九五年五月四日〜九六年三月十三日。後に『法華経 方便品・寿量品講義』三巻として発刊)
 方便品・寿量品の講義といえば、戸田先生が会長就任以来、七年にわたって、「一級講義」として繰り返し行ってくださった(「方便品寿量品講義」として『戸田城聖全集』第五巻に所収)。懐かしい思い出である。
 先生は、釈尊・天台の立場からの「文上の読み方」と、日蓮大聖人の御立場からの「文底の読み方」を立て分けられた上で、末法における正しい法華経の読み方をじつにわかりやすく、明快に教えてくださった。
 単なる理論的説明ではなく、一人一人を納得させ、それをバネにして苦悩をはね返させ、広々とした境涯を教えたい、人生の大いなる道を開かせてあげたい──こういう慈愛と智慧の名講義であった。
 戸田先生の講義ですべて尽くされているが、私は弟子として、先生の講義を原点としながら、現在の時代・社会に、より即した形で、もう一度、わかりやすく語ってまいりたい。
 緑の野辺の小道を、皆さんと一緒に散策しながら語り合うようなつもりで、進めていきたいと願っている。(拍手)
16  終わりに、日蓮大聖人の幸福観について、一言、述べておきたい。
 大聖人は常に「人間」を見つめておられた。それでは人間の究極の幸福は何か。
 戸田先生は、幸福には成仏という「絶対的幸福」と、状況によって変化する「相対的幸福」とがあると話されていた。
 日蓮大聖人は、こう仰せである。
 「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文・あに自受法楽にあらずや
 ──一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱えるよりほかに遊楽はないのである。経(法華経の寿量品)には、「衆生が遊楽する所」とある。この文は、法楽(妙法を味わう楽しみ)を自ら受けるということを言っているのである──。
 これは門下の四条金吾が迫害を受けていた時の、激励の御手紙である。(金吾は、主君の江間氏への折伏の後、冷遇され、同僚の武士からの迫害もあり、苦境の底にいた)
 一切衆生──すなわち、どんな国の人間であれ、どんな金持ちであれ、有名人であれ、どんな政治家であれ、権力者であれ、どんな才能の持ち主であれ、究極においては「南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はない、幸福はない」と仰せである。
 これが、三世永遠の、久遠元初から尽未来際までの仏であられる日蓮大聖人の結論であられる。
 皆さまは、この「幸福の根本法」を知っておられるのである。持っておられるのである。すでに最高の幸福の軌道に厳然と入っている。その自覚を、誇りを忘れないでいただきたい。
 題目を唱え抜いた人には、だれもかなわないのである。その人こそ勝利者である。
17  私のもとには、全国から毎日、たくさんの報告が寄せられる。
 なかでも、今年になって目立つのは、「壮年部の方々が本当によく働いてくださっている」「青年部の成長が目覚ましく、活動も非常に活発にやっている」という声である。(拍手)
 先日も申し上げた通り、会合、打ち合わせは短時間で、価値的にお願いしたい。
 早めに休んで、疲れをためないことである。疲れをためては敗北である。
 幹部は、皆のために、くれぐれも工夫し、配慮し、この一点を必ず実行していただきたい。
 大切なお一人お一人である。皆さまの栄光の人生をお祈りし、記念のスピーチを結びたい。
 全国の皆さま、お元気で! ありがとう!
 (創価国際友好会館)

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