Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第2回沖縄最高会議 民衆の世論が歴史を変える

1995.3.27 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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1  戸田先生──大衆の中で語る人が歴史を変える
 草創期──ある春のことである。仏法の正義を訴えて、地道に対話を続けゆく若き、けなげな女子部員たちがいた。
 彼女たちには内心、「もっと、てっとり早く、颯爽とした活動があるのでは?」といった思いもあった。
 しかし、戸田先生は、そうした乙女の心を包容されながらも、こう語られた。
 「どんな戦いにも、世論ほど大事なものはない。歴史をよく見てごらん。どんな正しい行動も、民衆の支持がなければ成功しない。あなた方は勇ましい働きばかりを見ているけれども、常に大衆の中にあって世論を生んでゆくことが大事なんだよ」
 一対一の「草の根の語らい」──それはまことに地味である。しかし「人と人とのつながり」をつくっている。人の心を変え、意見を変えている。この粘り強い対話の繰り返しこそが、時代を底流で変えていくのである。
 なかんずく青年の声高らかな正論は、確実に未来をつくっている。歴史をつくっている。
 戸田先生は、乙女の胸に「歴史の主役」としての誇りを贈ってくださったのである。
2  華やかな虚像を追い求める青春もある。また、自分の小さな殻に閉じこもってしまう若者も少なくない。
 そうした風潮のなかで、青年部は、確固たる哲理を抱いて、社会に生き生きとかかわり、言論の力で新世紀を開いている。これほど価値ある青春はない。
 どうか心豊かに、また心朗らかに、語って、語り抜きながら、信頼のスクラムを広げていっていただきたい。
3  「行動の人」が美しい。人生が広がる。心が輝く
 日蓮大聖人は「行動する女性」をたたえられた。
 「日妙聖人」──素晴らしい名前を大聖人から贈られた婦人門下がおられた。
 大聖人は、彼女を「日本第一の法華経の行者の女人なり」と、たたえられた。
 この婦人は、幼い娘と二人きりであった。頼れる夫もいない彼女が、幼い娘と、はるばる鎌倉から佐渡の大聖人のもとに、はせ参じた求道の旅は有名である。
4  佐渡への険しい道のりにもかかわらず、仏法のため、自ら求めて行動した彼女を、大聖人は、こうたたえておられる。
 「当に知るべし須弥山をいただきて大海をわたる人をば見るとも此の女人をば見るべからず、砂をして飯となす人をば見るとも此の女人をば見るべからず、当に知るべし釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈・四王等・此女人をば影の身に・そうがごとく・まほり給うらん
 ──まさに知りなさい。須弥山を頭に乗せて大海を渡る人を見ることができても、このような女性を見ることはできないのです。砂を蒸して飯とする人を見ることができても、このような女人を見ることはできません。まさに知りなさい。釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、上行菩薩、無辺行菩薩等の大菩薩、大梵天王、帝釈天王、四天王等が、この女性を、影が身に添うように護られるでしょう──。
5  当時も、災害や争乱が絶えない世相であった。だが、御本仏は″仏法のために行動する女性を、影が身に添うように瞬時も離れず、全宇宙の仏・菩薩・諸天善神が守る″ことを教えてくださっている。「法」は目に見えない。しかし、その「法」のために働いた実証は、必ず目に見える形にも現れる。厳粛なる因果の理法の上から、必ず三世永遠にわたり、現実生活のなかで「幸福」という軌道に入っていくのである。
 今、多くの婦人部の方々も、けなげに広宣流布のために動いておられる。あの阪神淡路大震災で被災された兵庫の婦人部の皆さまも、苦難に打ち勝って、「常勝関西」の希望の風を広げてくださった。
 心美しく、心雄々しき、菩薩ともいうべき皆さま方を、経典に照らして、ありとあらゆる三世の仏・菩薩が守りに守っていくことは、絶対に間違いないと私は確信している。
 ″人間として最も美しい姿″とは何か。それは、悩んでいる人、苦しんでいる人のために、自ら苦難に向かって突き進んでいく姿ではないだろうか。
 人の痛みをわが痛みとしていく。何があろうと引き下がることなく、あえて困難を引き受けていく。その人の姿はまことに美しい。
6  「一番大変な所へ!」それが釈尊の心だった
 御書に次のような物語が説かれている。
 その昔、珊提嵐国さんだいらんこくという国に、千人の王子がいた。しかし、その千人の王子たちは皆、穢れた国土である娑婆世界を捨てて、浄土へ行ってしまった。それはなぜか。
 大聖人は仰せである。
 「此の娑婆世界は何なる所と申せば十方の国土に父母を殺し正法を誹謗ひぼうし聖人を殺せる者彼の国国より此の娑婆世界へ追い入れられて候、例せば此の日本国の人大科有る者の獄に入れらるるが如し、我が力に叶はざれば哀愍せずして捨て給ふ
 ──この娑婆世界は、どんな所であるかと言えば、十方の国土で父母を殺し、正法を誹謗し、聖人を殺した者が、それぞれの国々からこの娑婆世界へ追い入れられてきたのである。たとえば、この日本国の人で、大罪を犯した者が牢獄に入れられるようなものである。(千人の王子たちは)自分の力では及ばないので、衆生を哀れむことなく、捨ててしまわれたのである──。
 しかし、そうしたなか、ただ一人、宝海梵志ほうかいぼんじという勇者が立ち上がった。
 「宝海梵志一人請け取りて娑婆世界の人の師と成り給ふ、宝海梵志の願に云く我未来世の穢悪土の中に当に作仏することを得べし、即ち十方浄土より擯出せる衆生を集めて我れ当に之れを度すべしと誓ひ給ひき
 ──(ところが)宝海梵志一人が(この罪深き衆生を救うことを)引き受けて、娑婆世界の人の師となられた。宝海梵志の立てた「願」に言うことには、″私は未来の世の穢れた悪土の中において必ず成仏するであろう。そして、十方の浄土から追い出された衆生を集めて、私は必ず救うであろう″と。こう誓われたのである──。
 「其の宝海梵志と申すは今の釈迦如来なり、此の娑婆世界の一切衆生は十方の諸仏に抜き捨てられしを釈迦一人計りして扶けさせ給うを唯我一人と申すなり
 ──その宝海梵志というのは、今の釈迦如来である。この娑婆世界の一切衆生は、十方の諸仏から抜き捨てられたのを、釈尊一人だけが、助けられたのである。これを「唯我れ一人のみ(能く救護を為す=救い護る〈開結二三四ページ〉)」というのである──。
7  一番大変な所へ、自ら進んで入っていく。今の時代に、こんな立派な人間がいるであろうか。仏の使いでなければできえない尊き行動である。
 これこそが真の仏法者の魂であり、この人こそ仏法者の使命を知った人であるにちがいない。
 困難をあえて引き受け、あえて挑戦していく。その心意気こそが自分自身を革命し、自分自身を大きく磨いていくものだ。
 人生は悩みの連続である。しかし、自分の今いる場所から逃げてしまえば、結局、後悔と不満しか残らないであろう。
 大変な所であればあるほど、喜び勇んで戦う。その場所で、永遠に崩れない大境涯を築き上げていく──これが地涌の勇者の人生である。
 だれびとにも「わが使命の舞台」がある。その舞台で、全員が「わが勝利劇」を演じていただきたい。
 沖縄は素晴らしく発展された。沖縄は勝った。沖縄を私は愛する。私は感謝する。
 愛する沖縄の″人生の名優″″広布の名女優″の皆さまに栄光あれと申し上げ、祝福のスピーチとしたい。
 (沖縄)

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