Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「3.16」記念第86回本部幹部会、神… 堂々と「不動の自己」をつくれ

1995.3.8 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

前後
1  ゲーテ「彼(ナポレオン)はいつでも同じ人間だった」
 「大ナポレオン展」が、ここ神奈川で、盛大に開催された。
 一昨年(一九九三年)の十月から全国各地で行われた同展も、この神奈川展をもって、大成功で幕を閉じた。どこでも大反響であった。ある会場では、多い時に一日で二、三万人が来場されるなど、全国で数百万人の方々が鑑賞されたとうかがっている。
 東京富士美術館の創立者として、全国の関係者の皆さまに、謹んで感謝申し上げたい。
 (「大ナポレオン展」は、全国九都市で開催。大阪展における一日平均の入場者数は、一九九四年、全国で開かれた美術展覧会のなかでも第三位となった)
2  「世界史の巨人」ナポレオン。その生涯は、まさに波乱万丈であった。偉大な人物は、波乱万丈のなかから生まれる。ナポレオンの偉大さは、どこにあったのか。
 文豪ゲーテは、ナポレオンの没後、このテーマについて論じている。一八〇八年、ゲーテとナポレオンは、歴史的な出会いを刻んだ。ゲーテ五十九歳、ナポレオン三十九歳の時であった。
 私も、今から四十年以上前の青年時代に、この二人の出会いを、たびたび論じたものである。
 「出会い」は不思議である。「出会い」で決まる。私は、戸田先生との出会いを永遠に忘れない。戸田先生との出会いで、私の一生は決まったのである。
 ゲーテは語っている。
 「ことにナポレオンが偉大だった点は、いつでも同じ人間であったということだよ。戦闘の前だろうと、戦闘のさなかだろうと、勝利の後だろうと、敗北の後だろうと、彼はつねに断固としてたじろがず、つねに、何をなすべきかをはっきりとわきまえていて、彼は、つねに自分にふさわしい環境に身を置き、いついかなる瞬間、いかなる状態に臨んでも、それに対処できた」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
3  私どもも、何があろうと堂々と「同じ人間」でなければならない。「不動」でなければならない。
 何ものにも揺るがない「一個の人間」としての強さ。たとえ不遇な状況に陥っても、笑われても、けなされ、謗られ、迫害されても──いかなる苦難にあっても、決して屈しない。まったく動じない。そのような、堂々たる「人格」を鍛え、自分自身として輝き続ける。そのための信仰である。それが真の学会員の誇りなのである。
 今、私たちは、広宣流布という壮大なるロマンに生きている。「全人類の幸福」と「世界の平和」を実現するために、日々、戦っている。観念論ではなく、それを実現するための深き哲学を民衆がもっている。すごいことなのである。
 このような団体は、ほかにないのではないだろうか。(拍手)
 この大闘争の途上に、多くの苦労があるのは当然である。しかし現実がどれほど苦しくとも、それを乗り越えていくところに仏道修行がある。境涯が開けていく。道が開けていく。
4  まっすぐに「自分自身に生きよ」
 戸田先生はよく語っておられた。
 「自分自身に生きよ」「確信をもって生きよ」と。
 自分自身の「理想の大道」、そして「広宣流布の大道」。この道は、臆病であっては進めない。縁に紛動されては、歩み切れない。
 道を歩いていけば、疲れることもある。汗も出る。時には、風雪もある。これらの困難に耐えなければ、目的地に着くことはできない。
 何ものにも負けない「強さ」と「生きる力」をもたねばならない。その人が、最後には「勝利者」となる。
 ゆえに何があろうと、どこまでも自分らしく、自分自身に生き切っていくことである。巌のごとき「不動の自己」をつくっていくことである。ここに信仰の精髄がある。
5  ご存じのように、私は現在、ゴルバチョフ元ソ連大統領との対談を進めている。(総合誌『潮』に連載中)
 そのなかで「人間として最も偉大な生き方とは」という観点からも語り合っている。
 その結論は、決めた「一つの心」で生き切っていく、ということである。
 大聖人は「心こそ大切なれ」と仰せである。
 ゴルバチョフ氏は、こう語っておられる。
 「この道(=政治家への道)を歩もうという人にとって、何よりも大切なのは、自分が成功しようとしまいと、悠然として自信を失わないこと、家族や友人、そして、自分を信じて、権力や名誉などなくとも立派に生きていけることを、確信してゆくことです。『不動の自己』──政治家として世に出るためには、これは基本中の基本であると、私は思います」(本全集105巻収録)
 「不動の自己自身」をつくる──この人間革命が必要だというのが、ゴルバチョフ氏の波乱の人生の結論である。
 人生、すべてが順調というわけにはいかない。勝つ場合もある。負ける場合もある。
 しかし、仮に一時は敗北しても、自分自身に負けてはいけない。自分自身に負けるのがいちばん惨めである。何があろうと、何を言われようと、今、どんな境遇にあったとしても、自分自身に勝っている限り、その人は「王者」なのである。
6  ゴルバチョフ氏夫妻「私たちは生きて生きぬく」
 先月(一九九五年二月)、ゴルバチョフ氏が、ご夫妻で来日された。お互いに、再会を希望していたが、私が、関西へ震災のお見舞いにうかがっていたため、またの機会を待つことにした。
 そこで友人としてささやかな歓迎の席をもうけ、伝言を伝えさせていただいた。その折の模様を後からうかがった。
 ライサ夫人は、こう語っておられたそうである。
 「私たちは昨年暮れに医者から言われました。『(大統領辞任から)この三年間、よくぞ生き抜いてこられましたね』と。そうです。私たちは生き抜いてきたのです。生き延びるように頑張ってきたのです」
 このライサ夫人の声を聞きながら、ゴルバチョフ氏も大きくうなずき、人さし指を立てて、「そうだ。その通りだ」と力強く応えておられたという。
 また、ゴルバチョフ氏は、こう語られた。
 「いくら攻撃を受けようと、私は生き抜いていきます。生きて、生き抜いていかなければならないと思っています」
 こうした毅然たる姿に、側近の方も、「大統領の時代よりも、人間的に幅も深みも出てきたと思います」と語っておられたようだ。
 人間、難を受けなければ、大きくなれない。戦わなければ、大きくなれるわけがない。鍛えがなければ、モヤシのような人間になってしまう。
 その意味で、ハラを決めた人は強い。動じない。その人には文句もない。愚痴もない。後悔もない。停滞もない。自分の道を、自分らしく悠々と歩んでいける。その人が幸福である。
 ハラが決まらないから、文句が出るし、行き詰まってしまうのである。
7  戸田先生が全魂を打ち込んでつくられた創価学会である。学会は何があろうと学会らしく進む。何ものにも頼らない。学会は厳然と我が道を歩み続ける。ここに学会の強さがある。
 いちばん大切なのは会員である。会員をどこまでも大切にする──その心で進んだからこそ、世界一の「不動の城」「不滅の城」ができあがったのである。(拍手)
8  ナチスと戦った女優マレーネ・ディートリッヒ
 きょう三月八日は「芸術部の日」(結成三十三周年)である。
 芸術部の皆さま、おめでとう。この会場にも、代表の方々が参加しておられる。(拍手)
 お祝いの意味を込めて、ナチスと戦った一人の女優の話を紹介したい。
 その女優の名は、マレーネ・ディートリッヒ。世界的に有名であり、ご存じの方が多いと思う。生まれは、二十世紀最初の一九〇一年。三年前に亡くなられた。(享年九十一歳)
 ナチスのヒトラーが政権を握った当時(一九三三年)、ドイツ人であった彼女は、アメリカの地でも、すでに大女優としての名声を博していた。
 (一九三〇年に発表した映画『モロッコ』では、アカデミー賞の主演女優賞にノミネート〈推せん〉された。以来、ハリウッドでも次々とヒット作品を生み出していた)
 「この世でいちばん魅力的な女性」──と言われたほどであった。(スティーヴン・バック『マレーネ・ディートリッヒ』野中邦子訳、福武書店)
 独裁者ヒトラーは、彼女を手なずけようと、さまざまに試みた。彼女の主演した映画も好んで見たという。
 ヒトラーは、アメリカから祖国のドイツに帰ってくるよう彼女に命じた。
 しかし、彼女は、きっぱり「ノー!」とはねつけた。「お断りします!」と。
 彼女は、祖国を愛するがゆえに、ナチスの危険性を早くから見抜いていたのである。
 そうとわかると、ナチスは、マスコミを使い、彼女のことを「裏切り者」と罵った。執拗な攻撃、また攻撃。しかし、彼女は動じなかった。
 ──あんな連中を勝利させてなるものか! 未来には何の希望もなくなる!
 こう心に決めて、彼女は祖国と戦った。
9  正しいからこそ、邪悪な権力から迫害を受けるのである。悪と戦っているからこそ、悪に攻撃されるのである。方程式は今も同じである。
 その意味で、芸術部の皆さまは、堕落した、文化否定の宗門と戦われ、正義の歴史をつくってこられた。偉大な勝利を称賛したい。(拍手)
10  最前線へ! 私は勝利の名優
 第二次世界大戦の戦火がいよいよ激しくなってきた一九四三年、春。ディートリッヒは、勇気をもって、心を決めた。
 ──映画をやめよう。私も戦場に行こう。そしてナチスと戦おう──毅然たる態度である。
 その時、彼女は四十代。女優として、円熟期を迎えようとするころであった。
 しかし、彼女は家財道具や衣類を売り払った。たくさんあった宝石も──。名声や安穏な生活、個人的な夢も、かなぐり捨てた。
 ″勇気という武器″一つをもって、危険な戦場の前線へ、前線へと、みずから希望して旅立ったのである。
 女性は強い。女性がひとたび心を決めれば、男性には想像もつかない力を発揮するものだ。
11  北アフリカ、イタリア、グリーンランド、フランス、オランダ、そして連合軍の進攻とともに祖国ドイツへ──。ディートリッヒは、じつに三年間、ヨーロッパの各地を駆け巡った。
 行く先々で、粗末な舞台に立って、歌を歌った。あちこちで、兵士たちに温かな声をかける彼女の姿があった。
 彼女には、ただ一つ、″声の力″があった。歌の力があった。彼女の美しい歌声に触れると、兵士たちは、皆、勇気と安らぎに満たされていった。
 彼女には当然、将軍たちの招待があった。しかし、それには目もくれなかった。彼女は兵士とともにいた。ゆえに彼女は兵士から敬愛された。
 彼女は戦地のいたるところで、繰り返し歌い続けた。それは平和への願いを込めた歌「リリー・マルレーン」。敵味方を超え、多くの人々が愛唱したことは有名である。
 (「リリー・マルレーン」は戦場にいる兵士が故郷の女性に思いをはせる歌。第二次大戦初期にドイツ軍が愛唱していた歌が、いつのまにか敵の連合軍兵士に伝わり、彼らの歌にもなった)
12  美しさを絶賛された彼女の足も、手も、いつしか傷跡がたくさん刻まれていった。
 ある時は凍傷のため、手がボールのように腫れてしまった。またシラミには、いつも悩まされた。肺炎を起こして死にかけたこともあった。
 見栄や体裁など、まったく気にしていられなかった。軍服をまとい、顔を煤だらけにしながら、ある時はジープで、ある時はオートバイで、またある時は徒歩で、″最前線へ″″最前線へ″と回って、兵士たちを励まし続けた。
13  「名声」に幸福はない、幸福は「信念の闘争」にある
 戦争が終わった時、彼女の財産はほとんどなかった。体にも傷跡や後遺症が残った。また、心ない悪口も言われた。
 映画界で活躍し続けた生涯を通じても、彼女の自由奔放な生き方に対して、誤解や誹謗、中傷が数多くあった。嫉妬もあった。女優や歌手として、何度も浮き沈みを経験した。
 彼女は語った。
 「名声によってほんとうの幸せは得られない」(前掲『マレーネ・ディートリッヒ』)
 名声は陽炎のごとく、ホタルの光のごとく、はかない。
 「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」──愚人にほめられるのは第一の恥である──とは日蓮大聖人の御言葉である。
 彼女は、信念のままに我が身をなげうって戦った三年間を振り返り、「わたしの一生でたった一つ価値のあること」(前掲『マレーネ・ディートリッヒ』)をなした、と胸を張った。
 ″苦しかったが、あの時がいちばん幸福だった。名声なんて幸福ではなかった″と。こう悟った彼女は一流の女性であった。
14  私どもも、人気や名声ではなく、「信念の闘争」を繰り返している。三年どころか、何年、何十年と。芸術部の皆さまも、妙法を持ち、美しき芸術と文化をもって、友を励ましてくださっている。同志に希望を与えてくださっている。「価値ある人生」を開いておられる。
 泡のような、はかない人気だけ、名声だけに生きるのではない。それらをはるかに見おろす「無上道」──これ以上ない至高の道を歩んでおられる。舞っておられる。歌っておられる。
 偉大なる「芸術の帝王」「文化の女王」として、我が学会の芸術部の皆さま方を、私は最大に称賛したい。どうか、これからも、ますます健康で、ますます光り輝いて、素晴らしき人生と芸術の道を歩んでいっていただきたい。(拍手)
15  「正義」と「平和」の神奈川。その新出発を日蓮大聖人も、さぞかし喜んでおられるであろうと私は確信したい。(拍手)
 大聖人は、この神奈川の天地で、法難に殉ぜんとした四条金吾に、こう仰せである。大変、有名な御書である。
 「日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか、娑婆世界の中には日本国・日本国の中には相模の国・相模の国の中には片瀬・片瀬の中には竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか
 ──日蓮が難にあう所ごとに仏土(仏の国土)であるといえよう。この娑婆世界の中では日本国、日本国の中では相模の国、相模の国の中では片瀬、片瀬の中では竜の口に、日蓮の命をとどめおくのである。これは法華経ゆえのことであるから、その地は寂光土ともいうべきであろう──。
 この有縁の地で戦う皆さまの福徳は、どれほど大きいか──。
 私どもは、自分の「心」ひとつで、いくらでも人生を開いていける。素晴らしいことである。
 神奈川おめでとう。(拍手)
 戸田先生も「原水爆禁止宣言」という平和の獅子吼を、この神奈川の地から世界へ放たれた。神奈川は「正義」と「平和」の国土である。
16  「戦おう、この尊き同志のために」
 思えば昭和五十四年(一九七九年)四月、私の勇退にあたっては、宗門も、また社会も、″これで学会を封じ込めた″″名誉会長はもう動けない″と思った。そのように報道もされた。
 しかし不思議にも、まさにその時、世界広宣流布の牙城として、はるかに太平洋を望み、天にそびえ立つ神奈川文化会館が誕生していた。(拍手)
 (会長勇退は四月二十四日。神奈川文化会館は四月十一日に完成。十四日の開館記念勤行会に名誉会長は出席している)
 昭和五十四年五月三日、会長勇退の本部総会を創価大学で終えたあと、私はまっすぐに神奈川文化会館に来た。
 ″これで、もう学会は終わりだ″と、だれもが思うなか、新たな戦いの指揮を、神奈川のこの地から私は厳然と始めたのである。
 文化会館に着いた五月の三日、そして四日、五日。山下公園と会館近くの道に、何千、何万という学会員が自然に集まってこられた。
 そして会館にいる私のほうに向かって歓声で迎え、手を振り、呼びかけておられた、あの姿。神奈川の同志の皆さまであった。(拍手)
 毎日、毎日、たくさんの同志が集ってこられた。私は皆さまのことを祈った。
 「よし、こういう同志がいるのであれば、私はこの方々のために戦おう!学会員のために、もう一度、立とう!」
 あの光景を私は一生、忘れない。(拍手)
 ゆえに神奈川文化会館は、私にとって特別の場所なのである。
 その後、大阪へ行った。ここでも何万という同志が集った。名古屋でも何万──。どこへいってもたくさんの同志が集ってこられた。何十万と。
17  あの日から十六年。この間、(二十一世紀の)第二の「七つの鐘」に向けて、私は人知れず手を打ってきた。
 ナポレオンはエルバ島に流され、再び立ち上がったが百日しか続かなかった。私は再び立ち上がって十六年である。(拍手)
 広宣流布の″ノルマンディー上陸作戦″を、私は一人、神奈川から始めた。そして、学会は、だれびとも予想しなかった大発展を遂げた。(拍手)
 「私は戸田先生の弟子である」というこの一点。
 「学会員は、我が全生命に等しい大事な人である」というこの一点。
 これが永遠に不変であるゆえに、だれに何と言われようが、迫害されようが、私には問題ではない。眼中にない。今まで以上に、私は悠々と戦っていく。(拍手)
 縁も深き神奈川の皆さま、これからも総県長を中心に、学会の模範として朗らかに進んでいただきたい。(拍手)
18  「勝利」と「栄光」の五月三日へ
 きょうは「3・16記念」の第八十六回本部幹部会。そして神奈川栄光躍進総会。改めて祝福申し上げたい。(拍手)
 ここ横浜平和講堂には、大神奈川の代表、静岡の代表、芸術部・白樺会・白樺グループ・文化祭デザイン部の代表の方々、海外十カ国の同志の方々が集われている。ご苦労さまです。(拍手)
 さらに、全国各地でも記念の会合が開催されている。
 皆さま、本当におめでとう。(拍手)
 なお、きょうは台湾からも、婦人部長はじめ婦人部、女子部の代表八十人の方々が、沖縄に、研修に見えている。本当にご苦労さま。(拍手)
 台湾の沖縄研修は、今回が、ちょうど二十回目。一九九一年二月の第一回研修以来、壮年・婦人・男子・女子の代表が、延べ千百四十一人、参加されている。この立派な足跡をふまえ、今後とも充実した研修をお願いしたい。
 また、昨年十一月から行われている、東京での本部幹部会の代表参加も、本年も引き続き行っていく予定である。
 台湾では、昨年来、「教学大運動」に力を入れている。教学試験への立派な取り組みを通し、多くの教学部員が誕生しているとうかがった。
 「教学」に本格的に取り組む、この姿勢・求道心に、心からの称賛の拍手を送りたい。(拍手)
 ここ数年の台湾の発展には、目を見張るものがある。社会に貢献しておられる。
 台湾SGI(創価学会インタナショナル)は、多くの各種の団体のなかで、模範団体として毎年、表彰を受けている。(拍手)
 理事長、婦人部長を中心とした素晴らしい団結を、世界の同志が最大にたたえている。(拍手)
 「勝利」と「栄光」の五月三日は、もうすぐである。
 全国の、さらに全世界の尊き同志のご健康をお祈り申し上げ、本日の記念のスピーチを結びたい。ありがとう。また、お会いしましょう!
 (横浜平和講堂)

1
1