Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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阪神大震災追善勤行法要 われらは「生死不二の永遠の同志」

1995.2.4 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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2  経文には「悪い象に殺された場合は地獄等には堕ちない。悪知識に殺された場合は地獄等に堕ちる」とある。日蓮大聖人も御書に、何度も引かれている。
 震災等で亡くなられた場合も、悪象による場合と同じく、絶対に地獄に堕ちない。三悪道に堕ちない。
 (「悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」──悪象のために殺されても地獄・餓鬼・畜生の三悪道〈三悪趣〉には至らない。悪友〈悪知識〉すなわち仏道修行を妨げる者のために殺された場合には、必ず三悪趣に至る──。
 「悪象等は唯能く身を壊りて心を壊る能わず悪知識は二倶に壊る故に」──〈悪象などは恐れる必要がないが、悪知識を恐れなければならない理由は〉悪象などは、ただ肉体を壊すだけで、心は壊せない。悪知識は、身と心の二つとも壊してしまうからである──)
 広宣流布へと戦い、生命に積んだ福徳は、事故等では絶対に破壊されないのである。そして生死不二であるゆえに、再び私どもの広布の陣列に入ってこられるのである。
3  正法の行者は権力者より尊貴
 きょうは御書を拝したい。御書を拝すれば、新しい生命力がわく。
 大聖人は高らかに仰せである。
 「日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし
 ──日蓮は未熟な者ではあるが、法華経を弘めているゆえに、釈迦仏の御使いである──。
 私どもの立場で拝すれば、正法を弘める私どもは、御本仏の使いである。姿かたちがどうあれ、人間として最高に尊い人生なのである。
 「わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈ぼんしゃく・日月・四天に対すれば小神ぞかし、されども此の神人なんどをあやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしは是なり
 ──小さな神である天照太神、正八幡大菩薩などという神は、この日本国でこそ重んぜられているけれども、梵天・帝釈・日天・月天・四天王に比べれば小神である。しかし、この小さな神に仕える人などを殺害しただけで、普通の人を殺す七倍半の罪になるなどと言われている。(当時の最高権力者である)平清盛や、(隠岐に流罪された)後鳥羽上皇が滅亡されたのが、この神人などを殺したためである──。
 どんな権力者も、因果の理法にはかなわない。
 どんな権力者も、永遠の栄華はない。
 「此れはそれにはにるべくもなし教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり
 ──いわんや日蓮は、これらの神人どころではない。教主釈尊の御使いであるから、天照太神・正八幡も、頭を垂れ、手を合わせ、地にひれ伏されて日蓮を礼拝されるのである──。
 宗門は、この御書を読めなかった。戦時中、天照太神を拝まそうとしたのだから。
 「法華経の行者をば梵釈ぼんしゃく・左右にはべり日月・前後を照し給ふ
 ──法華経の行者を梵天・帝釈天が左右で(臣下のように)仕え、日天・月天が前後を照らされるのである──。
 日本の権力者を罰した小さな神。その小神よりずっと偉い梵天・帝釈、日天・月天が、法華経の行者に仕えるのである。
 大聖人の、この御確信から見れば、日本の権力者などはまさに、小さな小さな存在である。
 また、仏法の眼から見れば、妙法を弘める創価学会員は、いかなる大権力者よりも、はるかに尊貴であり、王者なのである。
4  御書には、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし」と仰せである。
 仏法こそ主体なのである。世間はその影である。ゆえに、仏法上の罪は、世間の罪よりも、はるかに大きい。そして、その現証は世間の上に現れる。
 「かかる日蓮を用いぬるともあしうやまはば国亡ぶべし
 ──これほどの日蓮をたとえ用いたとしても、敬い方が間違っていれば、国は滅ぶであろう──。
 大聖人を尊敬する格好を見せていても、大聖人の御心に背いていれば、国は滅ぶ。これは日顕宗の破折の御文でもある。
 御本尊を拝んでいても、学会の幹部であっても、格好だけであるか、本物であるか──これで分かれる。格好だけなら功徳はない。これまでの反逆者らがそうである。
 「何にいわんや数百人ににくませ二度まで流しぬ
 ──いわんや、敬うどころか数百人に憎ませて(襲撃させ)、二度まで流罪した──。
 ゆえに、国が滅びるのは当たり前であると。
5  さらに、大聖人は重大なことを仰せである。
 「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり
 ──この国が滅びることは間違いないけれども、(かわいそうなので)しばらく、それを止めて、「国を救いたまえ」と日蓮がひかえていたからこそ、今までは安穏だったのである。しかし、迫害が限度を超えたので罰があたってしまったのである──。
 今も同じである。この方程式を私どもはかみしめなければならない。
 罰には総罰・別罰とあるが、社会全体が一度に受ける「総罰」の場合には、信心していても影響を受けざるを得ない。しかし、必ず最後は成仏するのが妙法の大力用なのである。
 大聖人にとって、国家は小さく、妙法は大きい。国家は、はかなく、妙法は永遠である。ゆえに、かりに国家が滅びようとも、妙法を守れと教えられたのである。
 そして今は、妙法を広宣流布しゆく唯一の団体・創価学会を守ることが、妙法を守ることになる。
6  牧口先生″謗法者の中に敵前上陸せよ″
 大聖人の、この烈々たる御確信を受け継がれたのが、牧口先生、戸田先生である。
 「敵前上陸せよ」──牧口先生は、何度も言われていた。戦争中(昭和十七年)、牧口先生は、五月の総会と十一月の総会で、同じ叫びを繰り返されている。
 五月の総会では──。「我々は国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである」(『牧口常三郎全集』第十巻)と。
 十一月の総会では──。「我々は華が泥中より抜け出でて清浄の身をたもつがごとく、小善中善の謗法者の中に、敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものであレ場、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆえに(=法華経の)行者といわれるのである」(同前)と。
 牧口先生は、権力にへつらう宗門が、創価教育学会の弘教を妨害していることを「これはじつに容易ならぬ謗法の行いである」と破折されている。牧口先生の「敵前上陸」の「敵」とは、宗門であり、誤れる宗教であり、権力であった。
7  大聖人は、経文を引いて仰せである。
 「末法に入つて正法を行ぜん人・出来せば邪法のもの王臣等にうたへて
 ──末法に入って、「正法の行者」が出現すれば、邪法の者は、王やその臣下等に訴えて──と。
 「邪僧」と「権力者」が手を結ぶ、と。牧口先生も、戸田先生も、この方程式で弾圧されたのである。今もまた、同じである。我々は、真っ向から戦っている。御書の仰せの通り。牧口先生、戸田先生の軌道の通り──。素晴らしいことなのである。まさに皆さま方こそ、最高の福運を積める人である。
 大聖人は、「かつて敵対していた人間同士が手を結ぶ」ことも予言されている。
 「大慢のものは敵に随う」と。
 大慢心の人間は、結局、信念なく揺れ動いて、状況が変われば、自分も変わる。ひいては、従来の敵に従いさえするのである。
 (今も、山崎正友を敵とした日顕と、かつて日顕を否定した山崎正友が結託している)
 すべて、御書に仰せの通りである。このような魔の連合軍が出現することは、法華経の行者の証明である。
 法華経の行者であるならば、必ず「仏」になる。広宣流布に戦った人は、いかなる高位の人間よりも尊貴であり、「永遠の王者」「生命の皇帝」となる。
 関西の一日も早い復興を祈っている。全世界が、皆さまの行動を見守っている。「世界の模範」の関西として、勇んで立っていただきたい。
8  直ちに再びわれらが陣列に
 亡くなられた方々も、すぐに常勝の陣列に戻ってこられる。
 御書には「滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて」──滞りなく最高の寂光世界(仏界)への往生を遂げ、たちまちの間に九界生死の夢のなかに帰ってきて──と仰せである。
 仏界の生命を固めて亡くなられた方は、死後も、すぐに九界のこの世界へと生まれてこられる。そして、また広宣流布に活躍される。
 私どもは、亡くなった方々の分まで、明るく、希望をもって、高らかに妙法を唱えながら進んでまいりたい。それが即、生死不二で、兵庫の国土に、関西の大地に、今再びの大福運の威光勢力を増していくのである。
 被災地のすべての方々に重ねてお見舞い申し上げたい。くれぐれも、また、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。関西、頑張れ!
 (関西文化会館)

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