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日蓮大聖人・池田大作

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第83回本部幹部会、第9回東京総会 戦う「喜び」が「人生の充実」を拡大

1994.12.10 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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1  「私がやらねば、だれがやる」と青年が突破口
 ある財界人が言われていた。「どんなことがあっても、創価学会は決して悲観的にならない。すべてを楽観的に乗り越えて、また新たな道を開いている。本当に見事です。こんな団体は見たことがない」と。(拍手)
 この一年、皆さまは、本当によく戦ってくださった。ありがとう! ご苦労さま!(拍手)
 だれよりも日蓮大聖人が、皆さま方を称賛してくださっている。守ってくださっている。この一点を確信していただきたい。(拍手)
2  ご存じのように、先日(十二月八日)、私は、ポーランド共和国のワレサ大統領と会見した。
 ポーランドは、東欧の民主化に先駆して戦った。そして冷戦終結に向けての、偉大な道を開いた国である。その一番の牽引力となったのが、有名な労働者の自主的な組織「連帯」である。
 インテリではない。労働者から始まった。ここに時代の転換期を象徴する大きな意義がある。そして、その若きリーダーがワレサ大統領であった。
 当時の「連帯」を支えたのはだれか──。それは青年であった。すべては青年で決まる。
 彼らは、「我々がやらねば、だれがやる」という自覚から出発した。
 ″自分がやらなければ、だれがやる″──この責任と使命に立った人は強い。これが信仰の真髄である。信念に生きる人、使命に生きる人間の真髄の心である。
 私も、この心で戦っている。戸田先生もそうであられた。だれが見ていようがいまいが、だれが何と言おうが、そんなことは問題ではない。
 ″だれがやらなくても、俺がやる。私がやる″──この決定した信念が、人間としての偉さなのである。
 ポーランドは、列強に分割された小さな国、弱い国との誤ったイメージがあるかもしれない。しかし、天文学者のコペルニクスや科学者のキュリー夫人など、多くの偉大な人間を輩出している。
 逆境や障害の中からこそ、人材は生まれる。
 今の青年部は恵まれている。学会には多くの会館がある。態勢も充実している。同志も大勢いる。恵まれた環境に甘えれば、屹立した人材は出ない。一人で、敵の矢面に立って戦う人間が出ない。その意味では、幸福なようで、不幸といえる。
 恵まれているからこそ、その分、大きく伸び伸びと戦い、自分の力で広宣流布を広げていく。それが「本物」である。
3  女性革命家ローザ・ルクセンブルク──「信念の人」は晴れやか
 ポーランドが生んだ著名な女性革命家にローザ・ルクセンブルクがいる。一説では、牧口先生と同じ一八七一年の生まれである。
 彼女は、政治的、経済的に抑圧された我が同胞を救おう、我が民衆を解放しようと立ち上がる。そして″帝国主義、断固反対″″戦争反対″を貫く。簡単に聞こえるかもしれないが、権力の圧迫や障害の大きさは、現在とは比較にならない。文字通り、命がけである。
 投獄に次ぐ投獄。しかし彼女は少しも屈しない。その闘争は四十七歳で暗殺されるまで続いた。
 一九一六年の十二月も、彼女は獄中にあった。(四十五歳)
 第一次大戦中、反戦闘争に身を投じた彼女は、三年あまりの間、獄につながれる。まさに地獄の三年。牢獄の苦しさは、入った者でなければわからない。それでも彼女は、毅然として戦った。
 ひとたび自分が決めた道で、文句を言ったり、揺れ動く人間など「正義の行進」には必要ない。
4  その年の暮れ、彼女は獄中から友人に手紙を書き送っている。その中で、こうつづっている。
 「人間であることがなによりも大切です。人間であるとは、確固として明朗、かつ晴れやかであることです。そうです。どんなことがあっても晴れやかであることです」
 「世界はどれほど恐ろしいことがあっても美しいのです。弱虫や臆病者がいなくなったら、もっともっと美しくなるでしょうに」(ルイーゼ・カウツキー編『ローザ・ルクセンブルクの手紙』川口浩・松井圭子訳、岩波文庫)
 「人間であれ」と。人間以下になってはいけないと──。
 ″何があっても晴れやかに、何があっても恐れなく″。これが彼女の結論であった。友人へのメッセージであった。
 この強さ。この明るさ。とても牢獄にいる人間の言葉とは思えない。
 暴力と非道が支配する牢獄──しかし彼女は負けない。むしろ牢の外にいる友人以上に意気軒高であった。
 仏法の菩薩の境涯に通じる。
 人生の幸福は「小我」から「大我」への境涯の拡大にある。
 明年は「国連寛容年」。時代も、「小我」から「大我」の時代へと変えていかなければならない。
5  彼女には一つの信念があった。
 ──闘争への喜びは、活動に「明るさ」と「道徳的な力」を与える。だから同じ戦うのであれば、喜んで戦っていこう──。
 彼女は、決めた道を喜んで戦い進んだ。「不屈の闘士」であった。「覚悟」があったゆえに、どんな境遇に置かれようとも明るかった。
 覚悟のない人間は、ちょっと何かあると文句を言う。退く。苦しむ。それでは不幸である。自分も周囲も──。
 彼女の戦いに比べれば、今の広宣流布運動は恵まれきっている。だれも牢に入るわけでもなく、難は私が一身に受けている。それで不平を言うようでは真の仏法者とはいえない。信念のない人間である。
 いわんや私どもは、彼女よりも、もっと高次元の人間革命運動、真実の平和運動を展開しているのである。
 御書に「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せである。
 喜んで戦った分、すべてが無量の福徳に包まれていく。人生の「充実」が拡大する。「幸福」が拡大する。これが、ありがたい仏法の法理なのである。
 ゆえに、どこまでも晴れやかに、どこまでも楽しく、明年の「栄光・躍進の年」を勝利で飾りゆきたい。(拍手)
6  古代アテネの教訓──「嫉妬社会」は衰亡
 私の若き日の愛読書に「プルターク英雄伝」がある。そのなかに、古代ギリシャの指導者アリスタイディーズ(紀元前五二〇年頃〜四六八年頃)の伝記がある。
 彼は清廉で私利私欲なく、「正義の人」として有名であった。その彼が、アテネから追放されてしまった。しかも人々の投票によって追放されたのである。
 「民主主義の模範」とされたアテネに、いったい何が起こったのだろうか──。
 そのころ、「独裁者を防ぐため」という名目で、その危険があるとされる人物の名前を投票する制度があった。陶器の破片に名前を書いて投票したので、「陶片追放(オストラキスモス)」と呼ばれる。
 古代ギリシャの都市国家で、政権を独占した支配者・僣主の再現防止のために創設された。アテネでは前四八七年頃に初めて適用され、次第に政争の具と化した。
7  人々が投票しようとしていたとき、「正義の人」アリスタイディーズに、読み書きができない男が近づいてきた。自分で字が書けないその男は、本人(アリスタイディーズ)と知らず、「ここに、アリスタイディーズと書いてください」と言った。
 「正義の人」は男にたずねた。「彼は、何か、あなたに悪いことをしましたか」
 男は答えた。「いいや迷惑なんぞ一つだってありやしない。当人を識ってもいないんだが、ただどこへ行ってもあの男が正義者正義者と呼ばれるのを聞きあきたまでさ」(『プルターク英雄伝』3、鶴見祐輔訳、潮文庫)
 ″今まで何の迷惑も受けていない。会ったこともない。しかし、あまりにも評判がよいのが気にいらない″──要するに「嫉妬」であった。
 「正義の人」は、黙って自分の名前を書いて、男に渡した。そして、追放された。(前四八三年)栄光の「民主社会」は、完全に「衆愚社会」に堕していた。
 伝記作家プルタークは書いている。
 「最近の戦勝によって思いあがりうぬぼれきった民衆の心は、自然に通常以上の名声を有するすべての人にたいする嫌悪の情をいだいた。それゆえに四方よりアゼンス(=アテネ)に集まった彼らは、アリスタイディーズの名声に対する嫉妬に専制忌怖の名目を与えて、彼を貝殻追放(=陶片追放)に処した」(同前)
 国が栄えているので、アテネの民衆は、「自分たちは大したものだ」と、うぬぼれ始めた。ゆえに、人を尊敬する心を失った。自分が一番偉いと思い、″乱視眼″になった。何も正確に見られない。
 少しでも抜きん出た人物が出てくると、評価するどころか、嫉妬し、足を引っ張った。要するに、アテネは「嫉妬社会」「嫉妬国家」と変わった。
 「独裁を避ける」という名目をつけて、嫉妬ゆえに「正義の人」まで追放した。
 ゆえに、人物はいなくなり、栄華を誇ったアテネは、次第に没落していった。ギリシャ世界の覇権を競ったペロポネソス戦争(前四三一年〜)でアテネは前四〇四年、スパルタに全面降伏。アテネの栄光は幕を閉じたのである。
 嫉妬の社会は滅びる──この歴史の教訓から何かを学んでいただきたい。
 今の日本も″嫉妬の国″である。「衆愚」(民衆が愚か)ではなく、「衆賢」(民衆が賢明)に、つまり一人一人が賢明である社会にしなければ、民主社会の進歩はない。私どもの運動は、その原動力なのである。(拍手)
8  陰の人に配慮を、人間として成長を
 これからの創価学会の課題は何か。それは「幹部の成長」である。これが焦点である。
 ナポレオンの帝国も、ナポレオンの成長が止まり、周囲のリーダーの成長が止まったとき、下り坂になった。時代に適応する力がなくなったのである。
 慢心から、堕落から、リーダーが成長を止めれば、その団体は没落する。これは、古今の歴史の方程式であり、鉄則である。
 幹部が成長すれば、創価学会は今の何倍も拡大できる。幹部で決まる。ゆえに今こそ、幹部の自覚が、ますます大事になってきている。
9  先日、私は山口県を訪れた(十一月二十五日〜二十七日)。懐かしい″山口大闘争″の原点の地である。
 (昭和三十一年(一九五六年)十月から翌年一月にかけて、若き日の池田名誉会長〈当時、参謀室長〉は延べ二十二日間にわたり、山口県で弘教の指揮を執った。その結果、山口の会員数は四千世帯へと飛躍した)
 山口の各地で、悩み、苦しむ庶民の中に飛び込み、私は駆けた。絶望した親子には希望を与え、あきらめの人生を生きる人々には勇気を与えた。信心の素晴らしさを訴えきった。そして十倍以上の拡大を成し遂げた。
 私は、大阪の戦い、夏季地方折伏など、いずれの法戦においても、「日本一」の結果を残してきた。だれよりも真剣であったゆえに、だれよりも大いなる広布の記録を打ち立ててきた。(拍手)
 ここで「山口闘争」の一端を語っておきたい。私自身のことではあるが、幹部の皆さまの成長の糧になればと思い、そのまま紹介させていただく。
 岩国の拠点の一つに、「小池旅館」があった。当時は、拠点といっても立派な会館などない。また旅費をはじめ、すべて自分のお金である。
 先日の山口訪問の折、同志の皆さまが、県の形の大きな花壇を作られていた。そこには、開拓指導の時に私が訪れた旅館などの模型も作ってくださっていた。真心への感謝を込めて、私は写真に収めた。
10  私が小池旅館を訪れた時の模様を、ある幹部が、こう語られたという。
 「池田先生が来られるので、これはもう折伏の指導があるものと思っていたのです。
 ところが拠点に着くなり、先生は、すぐさまポケットから十数枚の絵ハガキを出されました。
 そして『これから、しっかり戦うには憂いがあってはできない。派遣の留守を守る奥さんに便りを出そう』と言われ、派遣メンバーの留守宅の住所や家族の氏名を聞いて、その場ですぐに書いてくださったのです。その光景は今もスロービデオのように、胸に焼き付いています」
 目の前にいる人を励ますのは、当然である。それ以上に、その人を支える陰の人に、どれだけ目を向けられるか。ここに指導者の真価がある。
 一人の人の背後には、家族、友人をはじめ、多くの人とのつながりがある。その方々のことを、どこまで考え、配慮できるか。数千人の社員の家族一人一人の状況を全部、覚えていたというアメリカの社長の話もある。
 目の前にご主人がいれば、「奥さんによろしく」と声をかける。また、奥さんが来られれば、支えているご主人をたたえる。このように、目に見えない人にまで心を配っていくのが、仏法であり、仏法の指導者である。
 命令や、かけ声で人を動かそうとするだけでは、組織主義であり、人間主義ではない。あまりにも安易である。危険である。
 幹部は組織の上で偉くなることを考えるのではなく、自分自身が人間として偉くなることを考えるべきである。組織の上で偉くなっても人間として失格の幹部が、過去に多々いたことは、ご存じの通りである。
 組織の立場が高くなるほど、厳しく、自分を戒めなければならない。
 自分が偉いのではない。支えてくれている人々が偉いのである。謙虚に感謝し、尊敬しなければならない。傲慢になり、独りよがりになった人間は、必ずダメになっている。
11  「心」を知るのが仏法の指導者
 日蓮大聖人も、門下が訪ねてきたとき、本人を励ますとともに、それ以上に、その夫人を称賛して御手紙を書かれた。
 佐渡まで来た四条金吾の夫人にも、佐渡から身延まで訪問した国府入道の奥さんにも、大聖人は懇切に励ましと称賛の御手紙を書かれている。
 この大聖人の御振る舞いを全幹部が拝したい。
 陰で戦っている人、苦労している人のことを、いつも念頭において幹部が行動すれば、広宣流布は今の十倍の広がりができる。
 佐渡の阿仏房の夫人・千日尼には、次のような御便りを送られている。
 「年年に夫を御使として御訪いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん、たとえば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土えどに候へども心は霊山に住べし
 ──(佐渡から身延までの遠い道を)あなた(千日尼)は毎年、ご主人(阿仏房)を使者として、私を訪ねてくださっております。あなたのお体は佐渡におられても、心はこの国(身延)に来られています。仏になる道も同じです。私どもは、「身」は汚れた国土にありますが、「心」は霊山浄土に必ず住めるのです──。
 目に見えない「心」を見る。それが仏法である。そこに「心」だけが来ている人の思いにも反応する。それが仏法の指導者である。
 「心こそ大切」と大聖人は仰せである。これが大聖人の結論であり、仏法の結論であり、人間性の結論なのである。
12  大聖人は、「身は穢土にあっても、心は霊山に住む」と言われた。
 現実は、厳しい。いやなこと、苦しいことも多くあるであろう。
 女子部であれば、ある時は、お母さんに怒られ、お父さんからは「早く帰ってこい」と小言を言われる(笑い)。それは皆さんを心配しているからである。
 青年部は親に心配をかけてはならない。人を安心させるのが仏法者なのだから──。
 女子部は、電話で帰宅時間を知らせるとか、実家から離れている人は、月に何回かは必ず電話をするとか──電話代も高いけれども、うまく工夫して──親の心をわかってあげられる聡明な女性であっていただきたい。
 ともあれ、この娑婆世界では、いいことも悪いこともある。勝つことも負けることもある。しかし、どんな時でも、私どもは、「心はいつも霊山」との仰せのごとく、悠々と生き抜いていける。これが信心である。
13  原点の地・大東京よ輝け!「信心の模範」と
 大聖人から、「日女御前」という素晴らしい名前で呼ばれた女性がいた。一説には、東京にゆかりの深い池上兄弟の夫人といわれる。兄・宗仲の妻であると。別の説もあり、詳しくは不明である。
 東京といえば、我が本陣・東京は、この一年、見事に戦われた。(拍手)北海道、東北の発展も素晴らしかった。関西はもちろん、中部、中国、九州、四国でも、偉大な成長をされていた。
 日女御前は、大聖人に真心からの御供養を重ねた方である。
 大聖人は、日女御前への御手紙で、「法華経」「御本尊」の深遠なる意義について説かれている。
 女性差別の時代の中で、大聖人は、一女性信徒であっても、心から大事にされた。大聖人こそ、男女同権を実行された民主主義の大哲学者であられる。
 法華経の会座(仏が法を説くところ)には、「地涌の菩薩」等が、陸続と集い来り、末法での弘通を誓願した。″末法で、必ず広宣流布をいたします″──と。
 その模様を大聖人は、「四百万億那由佗の世界にむさしの武蔵野すすきのごとく
 ──四百万億那由佗という(壮大な)世界に、武蔵野のすすきのごとく──と表現されている。
 「武蔵野」──。創価大学も学園も、東京牧口記念会館も、いずれも武蔵野の地である。(拍手)
 八王子にある記念碑にも刻まれているが、戸田先生は、ここに「創価の王城を築きゆけ」と遺言された。私は、恩師の深き心を知ったうえで、手を打ってきたのである。(拍手)
 いにしえの秋の武蔵野──一面に広がるすすきの波は、さぞかし壮観であったにちがいない。
 大聖人は、地涌の菩薩等の雲集(雲のようにたくさん集まること)を、武蔵野の光景にたとえられたのである。
 第二東京の皆さまは、広大な武蔵野を広布の舞台とされている。いつも、ご苦労さま。空気が冷たいので健康に気をつけていただきたい。また車の運転は、くれぐれも無事故で!(拍手)
 思えば、出獄された戸田先生が、戦後の焼け野原に、一人立ち上がられたのは東京であった。東京が原点なのである。(拍手)
 その戸田先生の出獄から明年(一九九五年)で五十年──。今や、武蔵野の天地・東京には「地涌のスクラム」の波が、かくも壮大に広がった。世界の模範・大東京となった。
 大聖人もお喜びくださっているにちがいない。あらためて申し上げるまでもなく、大聖人の御入滅の地も、東京である(弘安五年〈一二八二年〉、池上宗仲邸で御入滅)。私の故郷(大田区)である。
 大聖人ゆかりの地・東京の皆さまである。いよいよ「本陣」の力を世界に示していただきたい。(拍手)
14  釈尊は駆けつけた普賢菩薩の「心」を称賛
 ところで、法華経の会座に、一番最後に駆けつけてきたのはだれか。それは、有名な普賢菩薩である。
 このことについて大聖人は、日女御前への同じ御手紙で、こう仰せである。
 「普賢・文殊と申すは一切の菩薩多しといへども教主釈尊の左右の臣なり、而るに一代超過の法華経八箇年が間・十方の諸仏・菩薩等・大地微塵よりも多く集まり候しに・左右の臣たる普賢菩薩のおはせざりしは不思議なりし事なり
 ──普賢菩薩と文殊菩薩というのは、一切の菩薩が多くいましたけれども、(そのなかでも)教主釈尊の左右の臣(脇士)を務める菩薩です。にもかかわらず、釈尊の一代において最も勝れた法華経が説かれる八年の間、十方の諸仏・菩薩等が大地の微塵よりも多く集まったときに、左右の臣(の一人)である普賢菩薩がおられなかったのは不思議なことでした──。
 「而れども妙荘厳王品を・とかれて・さておはりぬべかりしに・東方・宝威徳浄王仏の国より万億の伎楽を奏し無数の八部衆を引率して・おくれせして・参らせ給いしかば、仏の御きそく気色や・あしからんずらんと思ひし故にや・色かへて末代に法華経の行者を守護すべきやうを・ねんごろに申し上られしかば、仏も法華経を閻浮に流布せんこと・ことにねんごろなるべきと申すにや・めでさせ給いけん、返つて上の上位よりも・ことに・ねんごろに仏ほめさせ給へり
 ──しかし釈尊が妙荘厳王品(法華経第二十七)を説かれ、いよいよ法華経の説法も終わろうとしている時に、(普賢菩薩が)東方の宝威徳浄王仏という仏の国から万億という非常に多くの伎楽(舞と音楽)を奏で、無数の八部衆(仏法守護の諸天善神たち)を率いて、遅ればせながら、馳せ参じたのです。そして(遅れてしまったので)釈尊のご機嫌が悪いのではないかと思ったからでしょうか、(普賢菩薩は)顔色を変えて(真剣な面持ちで)、末法に法華経の行者を守護することを真心から誓われたのです。
 すると釈尊も、(普賢菩薩が)これほど真心から法華経を閻浮提(全世界)に流布することを誓う姿を、よしと思われたのでしょう、(釈尊は)かえって先の上位の菩薩よりも、ことに手厚く普賢菩薩をほめられたのです──。
15  法華経の会座は、今で言えば、幹部会や総会などのような集いを想像すれば、わかりやすいかもしれない。
 法華経二十八品の第二十七であり、″閉会間際″である。
 そこへ普賢菩薩は駆けつけた。万億の伎楽──たくさんの音楽家たちも連れて。ちょうど芸術部の皆さまのようである。
 あまりに多くの人を引率してきたので、普賢菩薩は″遅刻″してしまったのかもしれない(笑い)。″きっと叱られるだろう″。普賢菩薩の心配が、他人事ではないという方もおられると思う。(笑い)
 しかし釈尊は叱るどころか、他の菩薩以上に、普賢菩薩をほめたたえたのである。
 何か言われる前に、普賢菩薩が先手を打って(笑い)″決意発表″したこともよかったのかもしれない(爆笑)。
 ともあれ、忙しくて時間がない。けれども、何とか駆けつけよう。馳せ参じよう。広宣流布へ戦おう。その真面目な心が尊い。
 その心をたたえてあげられるリーダーであっていただきたい。
16  世界広布へ「普賢」の力を証明
 御義口伝には、世界の広宣流布は、この普賢菩薩の力によると仰せである。すなわち、「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり」と。
 「普賢」──すなわち「あまねく」「賢き」英知の力用である。
 我がSGI(創価学会インタナショナル)は明年、発足二十周年。「英知」と「賢明」の行動で発展してきた。
 そして、世界の「知性」と「良識」の人々も、共感をもって見つめている。
 世界広布に大きく寄与するという普賢菩薩の力が、SGIによって現実に証明されている姿と信じる。(拍手)
 普賢菩薩は、法華経の行者を守ると誓っている。
 法華経の行者とは、別しては日蓮大聖人であられる。総じては、その直系の門下、広布に進む学会員である。
 皆さまに、この普賢菩薩の加護が厳然とあることを確信していただきたい。必ず力がわいてくる。知恵がわいてくる。(拍手)
 何があっても「歓喜」──それが信心の大境涯である。
 妙法は「歓喜の中の大歓喜」である。
 信心は、喜んでやらなければ損である。喜んで信心即生活を生き抜けば、その一念が御本尊に感応する。諸天に感応する。晴れやかに生きる人には、太陽も晴れやかに輝く。
 この一年、本当にありがとう。よいお正月を迎えていただきたい。そして来年も、大いに素晴らしい一年を、一緒に戦い抜きましょう!
 どこまでも「晴れやか」に! 何があっても「朗らか」に!
 (創価国際友好会館)

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