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日蓮大聖人・池田大作

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第5回四国総会、第1回徳島栄光躍進総会… 「正義」の闘争で「大歓喜の生死」を

1994.12.4 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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1  徳島にひびく「歓喜の歌」の大合唱
 素晴らしい合唱と演奏ありがとう! 本当に見事な「第九(交響曲)」でした。(拍手)
 正義合唱団・オーケストラの皆さま、そして名指揮をしてくださったローレンス・レイトン・スミスさんに最大の敬意を表したい。(拍手)
 このたび、三万五千の徳島の方々が、ベートーヴェンの「第九」の「歓喜の歌」を見事に歌い上げられた。この浜辺でも、あの山村でも、平和を愛する庶民による「喜びの大合唱」が美しき天地に響きわたった。まさに壮大な歴史である。(拍手)
 この期間、徳島の各地で多くの心温まるエピソードが生まれた。皆さまの活躍の姿を全国の友にもお伝えする意味で、少々紹介させていただきたい。
2  鳴門市の地区では、地域内にある鳴門市ドイツ館の庭で、第九の合唱を行った。
 このドイツ館は、日本で初めてベートーヴェンの第九が演奏された「板東俘虜収容所」の跡地の近くに、記念として建てられたものである。第九の初演は大正七年(一九一八年)六月一日であった。
 合唱祭の当日、神戸からたまたま来ておられたブレツケ領事ご夫妻(駐日ドイツ総領事)が、この地区の皆さまの合唱を聴かれた。素晴らしいドイツ語での合唱をご夫妻は心から喜ばれ、「徳島に来て一番感動したのは、きょうの皆さまの歌声です」と語られていたとうかがった。
 会場となったドイツ館の館長も、大変喜ばれていたという。
 またある地区では、地域の公園で合唱を行っていたところ、居合わせた一般の方々も飛び入りし、和やかな交流の場となったという。
 また、会友の方の奏でる大正琴の調べに合わせて、詩情豊かな第九の合唱となった地域もあったようである。
 今回の合唱運動では、多宝会の方々も、大活躍された。何カ月も前からのドイツ語の特訓で、ドイツ語に自信がついた方も多いようである(爆笑)。
 地区を中心に繰り広げられた「歓喜の歌」の合唱運動は、地域に開かれた″草の根の大文化運動″である。
 皆さまの見事な健闘を心からたたえたい。
 まさに「正義の四国」から「歓喜の歌」が新世紀へと響きわたったのである。(拍手)
3  「君たちの道を行け! 英雄のように」
 四国の皆さまは、あらゆる難を乗り越えてこられた。悪侶に苦しめられながら敢然と戦い、理不尽な圧迫をすべてはね返してこられた。
 まさに(ベートーヴェンの言う)「苦悩を突き抜けて歓喜に至った」姿である。(拍手)
 ベートーヴェンは、「第九」の合唱部分に、ドイツの大詩人・シラーの詩「歓喜に寄す」を使った。それは、この詩を貫く人類愛と、民衆への連帯の叫びに、ベートーヴェン自身がだれよりも共鳴し、感動したからであった。
 シラーは「歓喜に寄す」の中で、こう謳っている。これは「第九」にも使われている個所である。
  もろもろの太陽が
  壮麗な青空を飛びめぐっているように
  兄弟たちよ たのしく君たちの道を進め。
  英雄のように喜ばしく勝利をめざせ
    (『手富雄訳全訳詩集』1、角川書店)
 これがシラーの、「第九」の心である。きょうの徳島の青空も「壮麗」である。(拍手)
4  シラーは若き日に、こう友人に語っていたという。
 「本を作ろう、しかし、それは、絶対に、圧制者によって焼き捨てられるようなものでなくてはならぬ」(内藤克彦『シラー 人と思想』清水書院)と。
 権力者から「本を焼くぞ」と脅されるような正義の本を出そうというのである。
 正義の戦いをしているからこそ、批判があり、迫害がある。不当な権力者から弾圧されるくらいでなければ、本物とはいえない──。これが、シラーの信念である。
 ベートーヴェンとも相通ずる。彼もまた、当時の権力者を公然と批判して恐れなかった。「人間王者の姿」である。
 彼の周りには、秘密警察の目が光っていたといわれる。
5  民衆のためにどう尽くしていくのか──それが、ベートーヴェンの心であり、彼の芸術家としての戦いであった。
 一番大切なのは民衆である。私にとって、一番大切なのは学会員の皆さまである。(拍手)
 病苦。耳が聞こえない。絶望。だが、彼は生き抜く。彼は書いている。
 「ぼくの芸術は貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない」(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』蜷川譲訳、旺文社文庫)
 また、あるとき、ベートーヴェンは手記に「おまえは、もう自分のための人間ではありえない。ただ、他人のための人間でしかありえない」(『ベートーヴェンの手紙』小松雄一郎編訳、岩波文庫)と記している。個人的な幸福はもう考えない──ここには悲痛な心情とともに、それを乗り越えて、芸術で人々に尽くすことに生きる意義を見いだそうと格闘する魂の声がある。芸術への使命感が彼を救ったのである。
6  私どもの人生は自他ともの幸福を実現していく。
 自分のことだけを考えるのではなく、民衆のため、会員のため、友のために祈っていく。その心が、我が胸中に、永遠に光り輝く宮殿を築いていくのである──これが仏法の方程式である。
 ″民衆のための戦い″″権力との戦い″──この一点において、我が創価学会は世界一であると確信する。(拍手)
 また徳島の皆さまが、大勝利で飾ったこのたびの合唱運動を、ベートーヴェンも、シラーも、賛嘆していると私は信ずる。(拍手)
7  宗門は、人類の理想と連帯を謳い上げた「歓喜の歌」を、歌ってはならないと否定した。「外道礼讃」である、と。(爆笑)
 まさしく、文化否定、人間性否定、国際性否定である。崇高なる人間精神の否定であり、それは、とりもなおさず仏法の否定なのである。(拍手)
 思えば、昭和五十六年(一九八一年)十一月、あの新しい門出に、婦人部の「若草合唱団」の皆さまが、さっそうと歌ってくださったのも「第九」であった。
 (名誉会長は述懐している。「当時、私は、背信者らの策謀のために、まったく動けない状況におかれていた。そうしたなか、″よし、四国から始めよう″と、謀略の鉄鎖を断ち切って、行動を開始したのが、あの徳島指導であった」)
 ベートーヴェンが大切にしていた言葉の一つに、「虻が刺したぐらいでは、疾走している馬を停めることはできない」(前掲『ベートーヴェンの生涯』)とある。
 大事なのはこの気概、この気迫である。虻のような策動など、はね返し、はね飛ばし、笑い飛ばし、私たちは前へ前へ、二十一世紀へと進んでまいりたい!(拍手)
8  永遠に「わか身は宝塔」と確信
 二〇〇一年五月三日を目指して、ここ四国の天地に「広宣流布の塔」を建立することになった。おめでとう。(拍手)
 大聖人は、広布に生きゆく皆さま方お一人お一人が、かけがえのない宝塔であると断言なされている。輝く「七宝の塔」である。
 御義口伝には、こう仰せである。
 「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり、我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るはしかしながら四徳の香を吹くなり
 ──(宝塔の)四つの面とは、生老病死という四つの相のことである。この生老病死をもって、我らの一身の塔を荘厳するのである。我らが「生」「老」「病」「死」にあたって南無妙法蓮華経と唱え奉れば、そのまま「常」「楽」「我」「浄」の四徳の香りを薫らせるのである──。
 生老病死という、だれびとにも避けられぬ苦悩を、どう打開するか。これがトインビー博士との対談の急所でもあった。世界の他の識者との語らいの最重要のテーマでもある。
 どんな権力者も有名人も学者も、死は避けられない。権力でも名声でも知識でも死は解決できない。これを、どうするか。
 この根本中の根本の課題を解明したのが、この大仏法である。
 結論的に言えば、この大法を信じ行じゆく以外に生死の解決はない。自分自身を最高に、また永遠に荘厳する道こそ妙法なのである。
 ゆえに学会という妙法流布の世界で生ききった人は、「安穏の死」を迎える。永遠に「生も歓喜」「死も歓喜」の境涯となっていく。
9  きのう、私は、じつに美しい夕陽を見た。神々しいまでの輝き──夕焼けは、素晴らしい晴天の明日を約束している。それに似て、安心しきった「荘厳な死」は、まばゆいばかりの「幸福な来世」を約束している。
 このように、「生死ともに幸福」「生死ともに歓喜」となるための学会活動である。仏道修行である。日々の信行である。
 ピアノでも、しばらく弾かないと、うまく弾けない。鏡も磨かなければ曇る。我が生命も、日々、磨き抜いてこそ常楽我浄と光っていく。
 どうか、四国の皆さまは、一人も残らず、常楽我浄の四徳の芳香に包まれて、健康で長生きをし、大長者の人生を送っていただきたい。(拍手)
10  大闘争心が仏法の命脈
 「正義の四国」の出発を、心から祝福申し上げたい。
 戸田先生は言われた。
 「創価学会は、世界にただ一つの、末法御本仏の正義を信ずる折伏の団体である」と。
 学会の正義、それは、すなわち大聖人の正義である。大聖人の正義のままに戦う──ここに創価学会の厳たる、ゆるぎない強さがある。
 この正義のための烈々たる大闘争──これこそ仏法を貫く魂である。信心の魂である。
 これを戸田先生は師子吼されたのである。
 「師子」とは師と弟子のことであり、妙法の音声、広布の音声を「師弟共に唱うる」のが「師子吼」の本義である。
 入滅の直前、釈尊が一番喜んだのは、いったい何か──。
 大聖人は、こう記されている。
 「かかるなげきの庭にても法華経の敵をば舌を・きるべきよし・座につらなるまじきよしののしりはべりき、迦葉童子菩薩は法華経の敵の国には霜雹となるべしと誓い給いき、爾の時仏は臥よりをきて・よろこばせ給いて善哉善哉と讃め給いき、諸菩薩は仏の御心を推して法華経の敵をうたんと申さば、しばらくも・き給いなんと思いて一一の誓は・なせしなり、されば諸菩薩・諸天人等は法華経の敵の出来せよかし仏前の御誓はたして・釈迦尊並びに多宝仏・諸仏・如来にも・げに仏前にして誓いしが如く、法華経の御ためには名をも身命をも惜まざりけりと思はれまいらせんと・こそ・おぼすらめ
 ──(釈尊の入滅を前にした)このような嘆きの庭にあっても、(その場に集った門下は)「法華経の敵の舌を切りましょう」「法華経の敵とは一座に連なりません」と大声で語られた。
 迦葉童子菩薩は、「法華経の敵の国には霜や雹となって責めましょう」と誓われた。
 その時に、(横になられていた)釈尊は起きて喜ばれ、「善きかな、善きかな」とほめられた。
 (この姿を見て)諸菩薩は仏の心を推し量り、「″法華経の敵を討ちます″と申し上げれば釈尊は(喜ばれて)少しでも長生きしてくださるであろう」と思って、一人一人、(闘争の)誓いを立てたのである。
 それゆえ諸菩薩・諸天人らは「法華経の敵よ出で来れ。(その敵と戦って)仏前のお誓いを果たし、釈尊ならびに多宝仏、諸仏・如来からも″たしかに、仏前で誓った通りに、法華経の御ためには、名をも惜しまず、身命をも惜しまなかった″と思われよう」と、心に期されていたのであろう──。
 入滅寸前の釈尊の前で、一人一人が「決意発表」をした。この「闘争心」を師匠が喜んでくださるだろうと思って。
 師匠というものは、ありがたい──。諸天・諸菩薩がこのように誓われた以上、法華経を弘める私どもを必ず守られるのである。守らなければ、釈尊への誓いを破ったことになる。
11  燃えたぎる闘魂──「戦う心」「戦い抜く師子の心」によってこそ、仏法の正義の命脈は受け継がれていく。
 逝去を前に、戸田先生も最後の力をふりしぼって叫ばれた。
 「宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え! 一歩も退いてはならんぞ。追撃の手をゆるめるな」と。
 ここ四国は、どこよりも悪侶に苦しめられてきた。本当に悪い人間どもである。「真実」を知れば知るほど、その悪さが、いよいよ明らかになっていく。「正義の四国」の同志よ! 悪に対しては絶対に容赦するな、遠慮するなと強く申し上げたい。(拍手)
 戸田先生は、こうも言われた。味わいのある、お言葉である。
 「戦いというのは、最後は『本当に楽しかった』と言えるまでやらなければいけない。そうでなければ、本当の戦いとはいえない」と。
 大聖人は、難のときに、「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」──師子王のような心をもった人は必ず仏になる──と仰せである。
 中途半端であっては、信心の醍醐味は味わえない。戦えば仏になる。戦えば楽しくなる。戦えば功徳がわき、悩みも喜びに変わる。
12  四国から行進を、制覇を、「歓喜の曲」を
 今年も、我が創価学会は、皆さまのおかげで、見事に勝った!(拍手)
 この上げ潮の勝利──「創価ルネサンス・栄光の年」(九四年)は、どこから始まったか。それは、ここ四国である。(拍手)
 昨年の十一月三十日、私は、瀬戸大橋を渡って四国に入った。その瞬間から、私は皆さまと、いち早く、この一年の戦いの火蓋を切った。
 「先んずれば人を制す」という。現在の勝利の因は、すでに一年前にあった。
 重ねて申し上げるが、我が四国の友は、この一年、本当によく頑張ってこられた。(拍手)
 とくに、ここ徳島の同志は、記念すべき創立の月・十一月、牧口先生の殉教五十周年を、堂々たる全国トップクラスの機関紙拡大で飾ってくださった。香川も同じく、見事な戦いをされた。おめでとう!(拍手)
13  ご存じの通り、ここ徳島は、源義経が嵐の海を越えて上陸し、打倒・平家へ進撃を開始した地である。
 私どもも「驕る平家」ではなく、永遠に、挑戦する「源氏」でありたい。正義が完全制覇するまで。私も、昭和三十五年(一九六〇年)、会長就任の年の師走(十二月)、大阪から船で小松島の港に入り、あの徳島支部の結成大会(十二月六日)に臨んだ。そのときの懐かしい友が会場にもおられる。(拍手)
 そして、昭和五十六年(一九八一年)十一月、再びの指揮を、ここ徳島から執り始めた。そのころ黒き陰謀ゆえに私は、まったく動けない状態にされていた。しかし、鉄鎖を切って、電撃のごとく、ここから進軍を始めたのである。(拍手)
 (九日に徳島入りし、徳島講堂の落成記念勤行会に昼・夜にわたり出席。十日も同講堂での自由勤行会で激励したあと、香川の四国研修道場へ向かった)
 私は、今年も、昨年と同じ十一月三十日に、瀬戸大橋を渡り、四国入りした。明年の「栄光・躍進の年」も、私は、愛する四国の皆さまとともに力強くスタートしたのである。(拍手)賢き民衆のスクラム──民賢(民衆賢人)運動で「希望の大橋」「勝利の大橋」「栄光の大橋」を、四国から全国へ、全世界へと、さらに広げていただきたい。(拍手)
14  ドイツ人と市民との美しき交流の歴史
 なぜ、この徳島で日本最初の「第九」の演奏が行われたのか?
 その理由として、第九を演奏した「板東俘虜収容所」の松江豊寿所長が立派な人格者であったこと、また人々のドイツ文化を愛する心が深く強かったことなど、さまざまな理由が挙げられている。
 そのうえで、ただ一点、歴史の上から私が強調しておきたいのは、その背景に徳島の人々の「開かれた心」があったということである。
 徳島の清らかな心の庶民は、異国の捕虜に対しても傲慢に見くだすことはなかった。反対に、臆病に敬遠することもなかった。
 そして、捕虜の人々の進んだ生活技術や教養を、謙虚に素直に学ぼうとしたという。よい意味の好奇心、探求心をもっていた。
 エンジンなどの機械の技術、ジャガイモ、トマトなどの野菜の栽培、サッカーなどのスポーツ等々、徳島の純朴な村人たちはドイツの捕虜から生き生きと学んだ。
 (ドイツの菓子やパンの作り方が、初めて日本に伝えられたのも徳島であったといわれる)
 捕虜たちは、どこに行っても、村の子供たちから、ドイツ語で「グーテン・モルゲン(おはよう)!」と声をかけられたと回想している。すごいことである。
 ドイツ語といえば、きょうの(「第九」の)ドイツ語も上手だった。(拍手)
 こうした麗しい触れ合いのなかから、あの「第九」の演奏会も、自然な盛り上がりのなかで実現していったと考えられる。
 捕虜の人々による写真展や絵画展などが行われたことも有名である。
 四国の我が同志も、各地でさまざまな展示を行い、これまでじつに約二百万人もの方が参加されたとうかがった。大変な歴史であるとたたえたい。(拍手)
 かつて、ドイツの捕虜の一人は、この徳島の民衆との交流の喜びを、ゲーテの大作「ファウスト」の一節に託して書き残している。
15   はやくも村人のどよめきが聞こえてくる、
  ここは民衆のほんとの天国だ。
  大人も子供も大満足で、歓声がしきり、
  ここでこそ私も人間、私は人間でいられるぞ!
    (山下肇訳、『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
 これが徳島の人々である。まさに人格に「徳」が輝いておられる。(拍手)徳島が、また四国が、どれほど素晴らしき理想の天地であることか──。
16  阿波踊り──民衆の躍動は誰も止められぬ
 次に、阿波踊りは、いつごろ始まったのか。
 きょうも、素晴らしい踊りを見せてくださった。また、昭和六十年(一九八五年)四月、あの徳島青年平和文化祭での阿波踊りも忘れられない。子供たちも、かわいかった。
 阿波踊りのルーツにはさまざまな説があるが、一つには、こう言われている。
 徳島城が完成した時──天正年間だから四百年ほど前になる。
 阿波の初代藩主蜂須賀家政が、完成のお祝いとして、職人や町人を城に招き入れ、無礼講(身分などにとらわれない宴会)を許した。感激した人々が、「では、踊らせてもらおう」と、喜び舞ったのが、阿波踊りの始まりだというのである。ただ歴史家の間では、藩主一人のおかげとする見方に否定的である。
17  この阿波踊りによる″民衆のエネルギーの沸騰″を、支配者は恐れ、抑えようとしてきた歴史がある。
 江戸時代、武士は阿波踊りに参加することを禁じられた。武士と庶民が、「同じ人間」として一体となって踊ることは身分体制にとって都合が悪かったのである。
 反対に毎年正月には、武士を集めて城内の大広間で能の鑑賞が行われた。その末席には、町人の代表が座らされた。
 ″武士は踊りのような下品なものでなく、こういう難解な芸術を楽しんでいるのだ。庶民とはちがうのだ″と見せつける狙いがあったと指摘する人もいる。
 日顕宗の儀式主義も同じである。さも深遠な何かがあるかのように見せかけて、自分たちの空虚な実体を隠そうとしているのである。(拍手)
 どんなに抑圧しようと、阿波踊りという民衆の躍動を抑えることはできなかった。
 第二次大戦中は、自粛を余儀なくされたが、戦後すぐに(昭和二十一年)復活。焦土にあって、徳島の人々は、阿波踊りとともに復興の歩みを始めたのである。
 だれもが体を動かしたくなる、あのリズム! 窮屈な決まりもなく、皆が自然に、皆が自由に舞える開放性! 今や、阿波踊りは、世界の踊りである。日本における「リオ(ブラジル)のカーニバル」という人もいる。
18  六年前、マレーシアで、日本との合同の記念公演が、民音などの共催で行われた。私もマハティール首相をご案内して出席した。(一九八八年二月六日、クアラルンプールのムルディカ・ホールで開催)
 演目の華の一つは、阿波踊りであった。舞台では、あの編み笠に、あざやかな着物姿の女性たちが、快活に、優美に舞い踊った。
 舞が終わった。満場の拍手である。女性たちが、編み笠をはずして拍手に応えた。その瞬間、場内がどよめきに揺れた。日本の女性たちと思っていたのに、多くのマレーシアの女性が入っていたからである。
 その感動の光景は、今も忘れられない。
 これから皆さまが、SGI(創価学会インタナショナル)の友との交流をされる機会も増えると思う。海外に行かれる場合でも、この阿波踊り一つあれば、語学ができなくてもこわくない(笑い)。海外の友も知っているし、友好を結ぶ力は抜群である。
 この郷土の誇りを披露しながら、今後いよいよ「世界との交流」を、自信をもって広げていっていただきたい。(拍手)
 最後に、きょうは徳島の創価同窓の皆さんが参加されている。お会いできて、とてもうれしい。また感謝したい。その皆さんに贈りたい言葉がある。
19   真玉焼不熱(真玉は焼けども熱せず)
  宝剣拗不折(宝剣は拗げれども折れず)
 (真の玉は、いくら焼いても熱くならない。宝剣は、いくら曲げても折れない。同じように、真の人間、力ある者は、決して屈しない)
 ──唐の詩人、顧況こきょうの言葉である。
 この一節をお贈りし、きょうの記念のスピーチを終わりたい。ありがとう! 長時間、ご苦労さま!
 (徳島文化会館)

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