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日蓮大聖人・池田大作

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創立の日記念第82回本部幹部会 学会は戦う「善の力」の連帯

1994.11.12 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

前後
2  「悪人は結託する」──牧口先生は、こう喝破された。
 悪人は何かしら弱みをもっており、孤立していては安心できない。ゆえに、他人と共同し、とくに強者の保護のもとで、その身を守ろうとする、と。また共通の敵に当たるために、たやすく結束をする、と。
 (「悪人は孤立しては安心してはいられないほどに生存上の欠陥をもっているがために、たちまち他人と共同し、ことに強者庇護のもとに在って、その身を防禦しようとするのである」「犯罪者は何処にあっても、常に戦々兢々として発覚を怖れるがゆえ、共同の敵に当たるためには、容易く結束をなしてそれにともなう窮屈や圧迫を忍ぶ」〈同前〉)
 いつの時代も変わらぬ悪の方程式を、牧口先生は見抜かれていた。現代にも通じる、牧口先生の「哲学」であり、「予見」である。先生は、まことに不思議な、偉大な方であられた。
3  しかし、「悪人たちの結託」に対して、善良な人は、なかなか力を合わせることができない。それはなぜか。
 「善人は自分に弱味のないので、孤立して対抗力を形成することをしないから圧迫され勝ちである」(「小学校長登用試験制度論」、同全集第八巻)
 つまり、善人は悪人と違い、自分に弱みがないので、わざわざ団結しようとしないというのである。その結果、どうなるか。
 「強くなってますます善良を迫害する悪人に対し、善人はいつまでも孤立して弱くなっている。一方が膨大すれば、他方はますます畏縮する。社会は険悪とならざるを得ないではないか」(前掲「教育改造論」)
 結託し、どんどん強くなる悪の力。孤立し、ますます弱くなる善の力。それでは、社会はすさみ、暗くなる。険悪となっていく。現代の日本そして世界も、先生の言葉の通りになってしまったといえないだろうか。
4  「善」は強く、「善の連帯」は無敵
 こうした悪の結託を打ち破るためには、明確な形として、「戦う善の力」を連帯させなければならない。ゆえに牧口先生は、民衆の善なる力の結集を目指して、「創価教育学会」を創立されたのである。(拍手)
 ″理論や理屈だけではだめだ。現実のうえで、民衆が、正義に連なっていくために、何ものにも壊されない「善の連帯の組織」「正義の組織」をつくろう″
 これが、学会の創立にこめられた、牧口先生、戸田先生の心であられた。
 (昭和五年〈一九三〇年〉十一月十八日の『創価教育学体系』第一巻発刊の日をもって創立とした。その後、賛同者が増え、発会式は昭和十二年〈一九三七年〉に行われた)
 戸田先生も、出獄され、戦後の荒野に一人立たれた時、まず「学会の組織」の再構築に手を着けられた。
 組織の再建に奔走された。そこから、あらゆる一切の戦いを始められたのである。
 戸田先生は、つねづね、「学会の組織は戸田の命よりも大事だ」と言われていた。
 私もまた若き日より、「組織」の重要性に注目していた。ちょうど、そのころは、労働組合などのさまざまな組織が活発に活動していた。
 入信前のことである。戦後間もないころ、何人かの青年たちと一緒に勉強会を開いた。その折、ある大学の教員が語っていた。
 「論ずることも大切かもしれない。しかし、これからは組織をつくったほうが勝つ。どんな理論をもっていても、組織をつくったものにはかなわない」と。
 この言葉は、今も忘れられない。そのような時に、私は戸田先生に出会った。学会という組織に出あったのである。戸田先生が学会の再建を始められたころであった。
 「この人は、あの学者の言ったことを実行している。不思議な人だ」──こう私は直感した。青年の鋭き眼で、戸田先生のすごさを見つめたのである。
5  ともあれ、我が創価学会は、今や、「世界一の民衆の組織」になった。
 私どもは、牧口先生の「創立の志」を受け継いで、″善と良識の連帯″を、世界に、広く、強く、結んでいる。さらに、このスクラムを広げてまいりたい。(拍手)
 邪悪の魔性が、いくら束になろうと、創価学会、SGI(創価学会インタナショナル)は、びくともしない。
 この学会の今日の栄光は、すべて牧口先生が命を賭し、戸田先生が命を賭して、権力の魔性と戦い抜かれた「功徳」であることを知っていただきたい。(拍手)
6  学会の永遠不滅の道を開いてくださった牧口先生のご恩に報いるために、私どもは、この東京牧口記念会館を建設させていただいた。
 この五月に記念会館を訪問された著名な知識人(ユダヤ人作家のフラムキン氏、″ホロコースト展″のため来日)は、こう感想を語っておられた。
 「私は世界中の有名な宮殿を見てまいりました。宝を保存するのが宮殿とすれば、本当の『人類の精神的価値』を有する牧口記念会館こそ″究極の宮殿″です。本日、訪問させていただき、初めて、真の″宮殿″を見た思いです」と。(拍手)
 本日の晴れやかな会合を、だれよりも牧口先生が喜んでくださっていると私は確信する。(拍手)
7  牧口先生は、こう語られた。
 「信は組織の中核にして、誠は組織の推進力である」
 「信」を中核とする学会の組織──それは、何があろうと絶対に崩れない「信心」の組織である。我が道を堂々と闊歩しゆく「信念」の組織である。そして悠々と仲良く進む「信頼」の組織である。
 また組織の推進力──それは、権威でもなければ命令でもない。要領でもない。友を尊敬し、友に感謝し、目的に向かって私利私欲を捨てて戦う「誠実」の力である。
 この牧口先生の精神のままに、戸田先生は実践された。私も同じ心で進んできた。私どもは、厳然と創価学会を守り、学会が中核となって、壮大なる二十一世紀の勝利へ、民衆の「良識の連帯」を、さらにさらに広げてまいりたい。(拍手)
8  戸田先生「弘教の人は御本仏の使い。諸天は加護し、魔は近寄れぬ」
 だれが学会を支えてくれているのか。だれが広布を進めてくれているのか。戸田先生は明快に言われた。
 「世間の地位とか、入信の前後とかを問わず、折伏に精進する者は、学会の重鎮であり、大黒柱である。会長たりとも、各部長たりとも、折伏行に精進する者に出会わば、大聖人より『善哉、善哉』と、おほめにあずかっているみ仏の使いとして、立って、これをお迎えしなくてはならない」と。
 広布の第一線の組織で戦っておられる方々がいちばん偉大である。いちばん大変ななかで奮闘されている。大聖人は、すべて見通されている。そのことを戸田先生は論じられたのである。
 折伏をしている人、学会活動、組織活動をしている人。この最も尊き同志を、最も尊敬し、最も感謝し、最も大切にしていきなさい──これが戸田先生の遺言である。(拍手)
9  戸田先生は、こうも言われた。
 「折伏の行をなす者は、仏の使いとして御本仏からつかわされた者であり、御本仏の行を、その代理として行ずる者であるから、その人の日常は御本仏に感応して偉大な生命力を涌出して、いかなる困難にも打ち勝ち、その顔は生き生きとし、からだは元気にみちる」と。
 確かにそうである。「諸法実相」と法華経にはある。生命の真実は、現実の姿に表れる。
 戦っている人は元気である。福運もつく。要領を使って戦いを避ける人は、表情もどことなく陰険で、目に輝きがない。号令をかけるだけで、自分は苦労を避ける幹部も同じである。生命は沈滞し、濁り、やがて、清浄な学会にいられなくなってしまう。
 大聖人・日興上人の当時、直接に訓育された少数の門下でさえ、退転者、反逆者が次々と去っていった。いわんや一千万人のなかから、おかしな人間が出るのは、やむをえない。(拍手)
 たとえば、ご飯に腐ったものが入れば食べられない。清らかな世界に、腐ったものがあれば、全体まで影響を受ける。その意味で、腐ってしまったものは、いないほうがよいのである。(拍手)
 日興上人は(「弟子分帳」に反逆者を)「背き畢ぬ」「背き了ぬ」等と記され、後世に残されている。このように厳格に、妥協なく、清流を守ろうとされたのである。
10  戸田先生は、また折伏を行ずる人は「御本仏の代理であるから、諸天は加護するし、魔および鬼神は近よれない」(同前)と断言された。病魔も近よらない。信心を壊そうとする変な人間も近よれない。このことを明快におっしゃっている。
 ともかく私は、尊い、仏さまの使いである学会員の皆さまが、功徳を無量に受けられるように、祈りに祈っている。
 皆さまの「無事故」「健康」「長寿」を、そして皆さまが「幸福」で「裕福」で、永遠に、限りない希望に包まれゆく人生であられるよう、日夜、祈っている。(拍手)
11  妬まれるのは偉大さの証明
 「聖教新聞」の拡大、弘教の推進と、全国の同志の皆さまのご健闘は素晴らしい。この佳き日に、私は心から感謝し、たたえ、ねぎらって差し上げたい気持ちでいっぱいである。(拍手)
 三類の強敵が競い起ころうとも、悠々と笑いながらの見事な実証──すごい学会である。これほどの世界は、ほかにない。だれもつくれない。
 だから妬まれる。だから倒そう、破壊しようとされる。これ自体、学会が、ほかのどんな団体にも絶対にまねできない偉大な団体である証明なのである。(拍手)
 なかでも、最も戦ってくださっているのは婦人部の方々である。婦人部がいなかったら、学会は崩壊するであろう(爆笑)。
 壮年部、男子部の″紳士の皆さま″は、婦人部、女子部の方々を大切にし、最大に尊敬すべきであると申し上げておきたい。(拍手)
12  大聖人は、流罪の地・佐渡からの御手紙の中で、四条金吾の夫人をはじめ女性門下を励ましておられる。
 当時はどんな状況であったか──。
 「無量無辺の邪法の四衆等・無量無辺の口を以て一時にそしるべし」──無量無辺の邪法の僧や尼、在家の男女らが、無量無辺の口でいっせいに悪口を言うであろう──。
 「国主は謗法の僧等が方人として日蓮を怨み或は頸を刎ね或は流罪に行ふべし」──国主(権力者)は謗法の僧らの味方として日を憎み、首をはねるか、流罪にするであろう──。
 大聖人は、こうなることを予期し、望まれ、大難を呼び起こして、今、予期通りになったと仰せである。今も、この御文の様相のごとくなってきた。
13  婦人は強い。婦人は偉大である。大聖人は仰せである。
 「前後もわきまへざる女人なんどの各仏法を見ほどかせ給わぬが何程か日蓮に付いてくやしと・おぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して日蓮よりも強盛の御志どもありと聞へ候はひとえに只事にあらず、教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば感涙押え難し
 ──物事の前後もわきまえない(と、当時されていた)女性など仏法を理解されていない方々が、日蓮につき従ったことを、どれほど後悔されているかと思うと心苦しかったのです。しかし、予想に反して、日蓮よりも強盛な信心のお志があるとの話です。これは、まったく、ただごとではありません。教主釈尊があなた方のお心に入り代わられたのかと思うと、感涙を押さえがたいのです──。
 「日蓮よりも強い信心に驚きました」──と。何とありがたい励ましの御言葉であろうか。
14  当時、悪いことが起きると、何でも大聖人門下のせいにされた。鎌倉で火事があれば、「日蓮の弟子が放火した」と言われた。
 「種種御振舞御書」には「鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと」とある。また「火をつくる等は持斎念仏者が計事なり」とも断言されている。
 今も、本質は少しも変わっていない。
 そんななかで、「日蓮よりも強盛な信心」と称賛された門下がいた。今でいえば学会の婦人部であると私は確信する。(拍手)本当に女性は強い。
 一般に、社会的地位があるほど、虚栄心が強く、心の中は、いつもビクビクしている場合が多い。いざという時に、何もできない。それでいて庶民を見くだす。そんな人間は最低である。少しも偉くない。
 信心をもった人に、かなうものはない。信心をもった人がいちばん強い。いちばん偉い。いちばん高貴なのである。これだけ波乱万丈の人生を生き、生死の断崖を超えてきた私には、人間の真価がどこにあるか、はっきりと見える。
15  極楽百年の修行より大きい功徳
 我が学会の堂々たる大前進──だれよりもいちばん日蓮大聖人が御照覧され、賛嘆してくださっていると私は確信する。(拍手)
 御書に「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」と。
 広宣流布に戦う、皆さま方こそ仏である。仏になる資格を得た人である。
 この大闘争に連なることができた人は幸福である。今、戦わない人は不幸である。永遠に悔いを残してしまう。
 大聖人は、「極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず」──極楽での百年の修行の功徳は、汚れた、この国土での一日の修行の功徳に及ばない──と仰せである。
 苦労のない安楽と安穏のなかで長く修行するよりも、三類の強敵が充満する、この現実社会で一日でも戦うほうが功徳が大きいのである。
 いわんや、何の修行もなく、朝もゆっくり寝て(笑い)、好きなように食べ、テレビを見、何の苦労もない。人のためには何もしない。そんな勝手気ままなエゴの生き方は、幸福のように見えて、幻に過ぎない。内実は空虚である。
 お金がある。いい服を着ている。いい家に住んでいる。──それらも、ただそれだけのことである。空しく、はかない。死んだら、何も持っていけない(爆笑)。
 それに対し、法のため、人のために行動した福徳は三世永遠に自分のものである。全宇宙の宝を我が生命にもつことができる。(拍手)
 学会は広宣流布の闘士の集いである。革命児の集い、勇者の集いである。ゆえに人生の長者、王者の集いとなる。きょうは、互いの健闘をたたえ合うとともに、とくに婦人部の皆さまに最大の感謝を込めて拍手を送りたい(賛同の拍手)。女性を、婦人を大切にすることである。口先でなく、心からたたえ、報いていくことである。どれほどそれが大事か、学生部の諸君も、結婚した後にわかると思う(爆笑)。
16  この誇り「学会には大目的がある」
 学会の誇りとは何か──。
 戸田先生は、四十年前、女子部の総会の席で、明確に語られた。きょう(十一月十二日)の「女子部の日」を記念し、紹介したい。(昭和二十九年〈一九五四年〉十二月十九日、第二回女子青年部総会。『戸田城聖全集』第四巻。以下、引用は同書から)
 「あらゆる宗教団体は、日本国には数多くある。そのなかで、誇りをもって宗教活動をつづけるものは、わが創価学会であります。なにを誇りとなすものか。それは、目的観がはっきりしている」
 「数かぎりなくある宗教のなかで、目的観のはっきりしたものはない。いずれも、自分の宗派のために、自分のいうていることを種にして、営業するためにやっている」
 戸田先生は鋭く喝破された。常に、一切の本質を見破っておられた。
 「しかるに、わが創価学会は、目的観がはっきりしている」「日蓮大聖人様の御出現以来、広宣流布ということが大目的となっている」
 「戸田城聖のためでもなければ、幹部のためでもなく、学会のためでもなく、ただ御本尊様のために、東洋広宣流布のために、いな世界のために、日本民衆に幸福を与えんとする大目的が、創価学会にあるのです」
 「学会は(中略)世界最高の哲学を基礎として、民衆に幸福を与えるのであります」
 民衆救済という「大目的」。それ以外、学会にはない。それこそ学会の誇りである。(拍手)
 この戸田先生の獅子吼のとおり、学会には大目的がある。大哲学がある。この二つが微動だにしない。ゆえに、他の追随を許さない大発展を続けているのである。
 社会は、天気が変わるように、常に変化に次ぐ変化である。渦巻く利害、虚栄、中傷。そんなものは悠々と見おろしながら、私どもは「民衆のため」「世界のため」「人類のため」に、新たなる時代を開いてまいりたい。「創価の大道」を堂々と進んでいただきたい。(拍手)
 きょうの会合には、ブラジル、韓国、台湾など、海外からも多数の方々が参加されている。(創価国際友好会館で衛星中継)
 遠いところ、ご苦労さま。心から感謝申し上げたい。韓国の皆さまをはじめ、海外の友は、本当によく頑張っておられる。見事な発展を、私は最大にたたえたい。
 また、この会場の八王子の方々も、目覚ましい躍進ぶりである。東京一の実証を、これからもよろしくお願い申し上げたい。(拍手)
 韓国が目覚ましい成長を遂げているのはなぜか。
 結果には必ず原因がある。病気など悪いことにも、勝利など良いことにも、すべて原因がある。「原因は何か」を追求する──この姿勢が大事である。
 韓国発展の原因は、一人一人の屹立した戦いがあるからである。韓国の友は、日顕宗の悪侶にいじめられたり、ありとあらゆる苦労をしてこられた。
 そこから、「人を頼りにしない」「人に左右されない」、この覚悟の信心で進んでこられた。その信心に、無量の福徳が積まれてきたのである。
17  韓民族独立運動の父「自分自身が人材になればよい」
 「韓(朝鮮)民族独立運動の父」とたたえられる安昌浩アンチャンホ(一八七八年〜一九三八年)。牧口先生とほぼ同年代を生きた彼は、日本の卑劣な侵略と戦い抜いた偉大なる闘士である。
 彼は、何度も何度も投獄された。何があろうと″中途半端な寛容は無責任である″と、妥協することなく、悪との闘争を貫いた。
 悪との闘争に中途半端はない。途中でやめるのでは遊びである。倒すか倒されるか──悪を倒し切るまで、徹底して戦う以外に勝利はない。
 彼の戦いを思う時、私にはいつも、軍国主義に対して一歩も退かず戦い抜き、獄死された牧口先生の姿が、二重写しになる。
18  彼について、こんなエピソードがある。
 日本の暴虐との闘争また闘争。そうしたなか、「なぜ私たちには人物がいないのか?」との声があがった。
 ″もっと優秀な人物がいれば勝てるのに″と、皆が悩みに悩んでいたのであろう。しかし、彼はきっぱりと語った。
 「私たちの中に人物がいないのは、人物になろうと決心して努力する人がいないからである。人物がいないと慨嘆するその人自身が、なぜ人物になろうと勉強・修養をしないのか」(李光洙著、興士団出版部編『至誠、天を動かす 大韓民族独立運動の父 島山安昌浩の思想と生涯』具末謨訳、現代書林)
 環境ではない。自分である。人に頼ってばかりでは何もできない。自分が戦っていけばよい。自分の心が揺るがなければよい。
 自分自身が厳然としている限り、希望があり、向上があり、勝利がある。そして、その人の後には、一人また一人、二人そして三人と続いていく。
 状況の変化に一喜一憂して、愚痴をこぼす──これは″常勝将軍″の生き方ではない。
 私は、何があろうと「愉快」である。
 何が起ころうと左右されないし、何も恐れない。永遠に行き詰まらない。必ず、そこから勝利の道を開いてみせる。
 信心とは無量の智慧であるからだ。
19  また、フランスの同志も、意気軒高に活躍されている。そのフランスのヴィクトル・ユゴー文学記念館では、「ユゴーと人権」展が大きな反響を広げている。
 「人権の闘士」ユゴー(一八〇二年〜八五年)が独裁権力と戦い、追放されたことは皆さまもご存じの通りである。追放は、じつに十九年にわたった。(一八五一年〜七〇年)
 しかしユゴーは、この追放を、未来を見つめる格好の機会とした。そして、未来への壮大なビジョンをペンに託して、戦った。
 一方、彼を迫害した権力者たちは、目先の保身に汲々とし、何のビジョンももてない。彼らは虚勢を張りながら、内心では、ユゴーの影におびえていた。
 追い詰められているはずのユゴーのほうが、実は余裕しゃくしゃくと、人類史のはるか彼方を展望していた。境涯がまったく違ったのである。
 戸田先生も、二年間、牢獄に入られた。しかし、その最低の環境のなかで、法華経を読み切られ、地涌の菩薩の使命を悟達された。
 偉大な人物は、その場その場を、すべて″黄金の場所″に変える。これが人生の生き方の真髄である。
20  ユゴーは、亡命の地にあっても、世界の情勢をつぶさに把握し、至るところに新たな歴史の光明を見いだした。それらの動きは、ユゴーの眼には、新時代の黎明として、はっきり映った。そして叫んだ。
 「政界の近眼者流は目して火災と云ふ、余は黎明と云ふ!」(『追放』神津道一訳、『ユーゴー全集』9所収、ユーゴー全集刊行会)
 ″政界の「近視眼」の連中には、黎明を告げる事件も、単なる「火事」としか見えないであろう″と。
 「正義」を信ずる人は、常に「未来」を確信できる。そして「未来」を確信する人は、「自由」と「解放」の心をもつことができる──これが、ユゴーの揺るぎない自信であった。
 ゆえに、彼に悲観は無縁であった。彼は言う。
 「逆境に在っては当に斯く叫ばねばならぬ、『希望! 希望! 又希望!』と」(同前)
 いわんや大聖人の「太陽の仏法」を掲げる私どもは、希望に満ち満ちている。「太陽の仏法」で末法万年尽未来際を照らしゆかんとしている。
 私は、入信当時から「創価学会の前途に、無限・永遠の希望を開かせたまえ」と祈ってきた。
 今、二十一世紀の黎明は燦然と輝き始めた。
 いよいよ希望に胸を張り、「楽観主義」の大行進をにぎやかに始めましょう! 陰険な悪を打ち破り、愉快に、また愉快に戦いましょう!(拍手)
21  栄光の11・18「創立六十四周年」記念の本部幹部会を、全世界の同志、全日本の同志の皆さまとともに、重ねて喜び合いたい。本当におめでとう。(拍手)
 各地の会館でも、各部・各種グループの祝賀の集いが開催されており、お祝い申し上げたい。
 また、牧口先生、戸田先生のご親族の方々も、創価国際友好会館に、お元気な姿を見せてくださり、心から感謝申し上げたい。
 終わりに、もう一度、韓国・台湾・ブラジルの研修メンバーなど十二カ国の同志の方々に最大の敬意を表し、本日のスピーチを結びたい。ありがとう!
 (東京牧口記念会館)

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