Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第81回本部幹部会、第17回関西・SG… 「人間革命の真髄をつかめ」

1994.10.24 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

前後
1  釈尊門下の大闘争──青年は勝った、気迫の言論で
 初めに、「関西栄光大文化祭」(十月二十三日)の見事な成功、おめでとう。本当にご苦労さま。(拍手)
 新入会の皆さんの演技もまことに、さわやかであった。出演者、役員の方々、陰で支えてくださったすべての皆さんに、重ねて「おめでとう!」「ご苦労さま」と申し上げたい。
 また、関西の皆さまは、集ってこられた世界の同志の面倒を本当によくみてくださり、私からも謹んで御礼申し上げたい。
2  さて、古代インドのマガダ国での話である。(南傳大蔵経三巻参照)
 釈尊を慕って、立派な青年たちが、次から次へと集い来って仏法の実践を始めた。ところが、その姿に対して、世間から、さまざまな非難の声がわき起こった。
 ″釈尊という男は、子供や夫を奪う″とか″釈尊は、家庭を破壊する″といった悪口である。その背景には、発展を続ける釈尊の教団に対する旧勢力のいらだち、嫉妬が渦巻いていた。
 いつの時代も、方程式は同じである。
 ″釈尊の教団は邪悪な方法で青年を引き入れ、悪事を企んでいる″──こういう悪いイメージをつくり上げ、なんとか仏教を追放しようとしたのである。
 もちろん、釈尊の若き門下は、いわれのない誹謗を、黙って放置などしなかった。
 釈尊も門下に対し、堂々と切り返し、反論することを教えた。現実と闘争してこそ、青年たちの訓練にもなる。
 こうして釈尊門下は、勇み勇んで言論戦を展開した。今の私たちと同じように。
 ″私たちは、まったく正しい方法で、正しい哲学で、スクラムを組んでいるのです″──このありのままの真実を、明快に訴えていったのである。
 彼らは、悪意の攻撃には痛烈に言い返した。
 ″正義の智者に対して、いったい何を嫉妬しているのか″と。
 「一」言われたら「十」言い返す気迫──釈尊も、それを教えた。この叫びの繰り返しによって、人々も次第に真実を認識するようになり、やがて非難の声も消え去った──こういう歴史が残されている。
3  恩師の遺言「三類の強敵と戦え」──今がその時
 草創の関西にあっても、学会は「暴力宗教」と何度も書き立てられた。
 その時、私は関西の同志に呼びかけた。
 「『″暴力宗教″の座談会に一度いらっしゃいませんか?』──こう言って、友人や知人に声をかければいいんだよ」と。
 そうして、実際に座談会に誘われてきた人たちが、学会の真実の姿に触れ、″うわさとは、まったく正反対だ″と、次々と入会していったのである。(拍手)
 信心とは、何があっても大胆に、そして楽しく、愉快に生き抜いていく力である。恐れてはならない。悪と敢然と戦うなかに、信心の醍醐味、本当の楽しさがある。とくに、青年が本気で立ち上がり、「勇気」と「希望」に光る″信心の利剣″を抜く時、歴史は大きく回転していく。
 二十一世紀を眼前にした今、うれしくも「その時」が来たのである。(拍手)
4  ここ関西をはじめ日本全国、そして世界の各地で、座談会を軸に、歓喜と勇気の弘教が広がっている。
 我が創価学会には、勇気がある。我が学会には三世永遠の希望がある。ゆえに、どんなに圧迫を加えられても、学会は微動だにしない。金剛不壊の教団である。
 むしろ、難があればあるほど広宣流布の道を開いてきたのが学会の軌跡である。
 昭和三十一年五月、あの一万一千百十一世帯の不滅の金字塔(大阪支部の弘教)も、難を受けながら成し遂げた関西魂の偉業である。関西の皆さま、あの時もご苦労さま。(拍手)関西魂は今、全世界で炎と燃えている。今再び、関西が立ち上がってきた。(拍手)
5  日蓮大聖人は、仰せである。
 「五の巻には我が末世末法に入つて法華経の行者有るべし、其の時其の国に持戒・破戒等の無量無辺の僧等・集りて国主に讒言して流し失ふべしと説かれたり、しかるにかかる経文かたがた符合し候おわんぬ未来に仏に成り候はん事疑いなく覚え候
 ──法華経の第五の巻(勧持品)には、「(釈尊の仏法の)末世・末法に入って、必ず法華経の行者が現れるであろう。その時、その国に、戒を持った僧、戒を破った僧など、無量無辺の僧らが集まり国主(権力者)に讒言(悪意のでたらめな告げ口)をして、法華経の行者を流罪し、なきものにしようとする」と説かれています。
 ところが、こうした経文がことごとく(私=大聖人に)符合しました。ゆえに未来に仏になることも疑いないと確信しております──。
 学会に対する迫害の構図も、この御聖訓にピッタリと符合している。仏法はあまりにも厳しく、正確である。だからこそ、広布へ戦う学会員の「未来の大果報」も、この経文に照らして、絶対に間違いない。(拍手)
 現代に大聖人の仏法を行じているのは、我が学会しかない。「大聖人直結」の誇りを忘れてはならない。
6  ご存じのように、大阪で三十七年前(昭和三十二年七月)、私は無実の罪で投獄された。
 羽田空港から大阪へ向かう私に、戸田先生は一冊の本をくださった。その数日前にできたばかりの先生の小説『人間革命』であった。
 「いよいよ本が出たよ。大作、あとで読んでくれ」
 この戸田先生の『人間革命』を、私は大阪への飛行機の中で真剣に読んだ。そして牢獄での闘争に挑んだのである。
7  戸田先生は、この『人間革命』の末尾に、あとがきにかえて「人間革命の真髄」と題する文章を残されている。先生の「遺言」である。
 まず、″小説に描いたように、皆が家庭革命や経済的な成功を成し遂げるのは当然である″。
 戸田先生はこう望まれるとともに、あえて″そうした功徳のみを願う信心は、大聖人の仏法のわずかな一面にすぎない″とされた。
 (「会員諸氏の多くは(=小説に書かれた)八軒長屋の家庭革命と、巌理事長〈=主人公の〉の経済的な成功を見て、日夜そのような功徳を願っているわが身に気がつかれるであろう。しかし、それは大御本尊様の大利益の、僅かな一面にすぎない」)
 「真の人間革命はまだまだこれからである」と。
 そして、戸田先生は書かれた。
 「三類の強敵と闘い抜き、三障四魔を断破して、真の大利益・人間革命の真髄を把握されんことを希望する」
 これが結論であられた。
 三類の強敵と戦う信心。そこに仏になる近道がある。三障四魔を打ち破る信心。それが、偉大なる「人間革命の道」なのである。
 ゆえに、三障四魔の嵐が吹き荒れる時こそ、「宿命転換」のチャンスである。成仏という「永遠の幸福」を獲得するチャンスである──これが、戸田先生の大確信であった。
 「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」──(法難の時)師子王のような心をもつ人は必ず仏になる──と大聖人は仰せである。
 関西といえば、あの世界一の壮大なる甲子園文化祭(昭和四十一年九月十八日)を思い出すが、野球ならば、ピンチの時にホームランを″かっとばす″ようなものである。(笑い)
8  戸田先生は、続けて、こう述べられた。
 「創価学会に対する世間の注目は、一時は好奇心の上から紹介・批判・悪罵等が続けられていたが、今後は益々根強い陰険な迫害となって表われるであろう」と。
 そして、その時こそ「一日一時もゆるがせにすることなく闘い抜け」と我が門下生に託された。今、まさに、この戸田先生の「遺言」の通りになってきた。だから私は、いよいよ″歓喜″、いよいよ″雀躍″なのである。
 この恩師の厳たる「遺言」を敢然と実行してまいりたい。関西と世界の同志の皆さん、ともに戦いましょう!(拍手)
9  ガンジー「現実の問題を解決してこそ宗教」
 さて、インドのガンジー記念館館長のラダクリシュナン博士が一九九四年十月二十二日、大阪府立大学で講演をされた(「聖教新聞」十月二十三日付)。大変、感銘深い講演であったとうかがっている。
 博士によれば、ガンジーは人類の「七つの罪」を指摘していた。
 1、理念なき政治
 2、労働なき富
 3、良心なき娯楽
 4、人格なき知識
 5、道徳なき商業
 6、人間性なき科学
 7、献身なき祈り
 こうした悪との闘争を、ガンジーは訴えた。
 ガンジーの眼は、常に「現実」を見つめていた。「人間」を見つめていた。「苦しんでいる人々」に向けられていた。
 次のようなガンジーの言葉は、あまりにも有名である。
 「現実の問題を考慮に入れず、問題の解決に役立たない宗教は、宗教ではない」(『ガンディー 私にとっての宗教』竹内啓二他訳、新評論)
 宗教とは「現実」とかかわり、「現実」を向上させるためにある──これがガンジーの宗教観であった。
 また彼はこうも語っている。
 「私は民衆の意見を無視する支配者にはなじめない」(ルイス・フィッシャー『ガンジー』古賀勝郎訳、紀伊國屋書店)
 民衆の声を聞き、民衆とともに進み、喜んで民衆の犠牲になっていく──これが真の指導者である。
 ガンジーは、こうした「永遠の真理」を叫び、迫害された。それでも彼は叫び続けた。ゆえに、民衆の指導者となった。永遠の勝利者となったのである。
10  ガンジーがったものは何か──。それは″いばる人間″であった。傲慢な人間であった。
 ガンジーは語っている。
 「私は、バラモンたちが出生や獲得した知識によって自分たちの優越性を主張した場合には、彼らと闘ってきた。私は、どんな人であれ、同胞に対する優越性を主張することは卑怯なことであると考える。優越性を主張する者は、ただちに、人間と呼ばれることに対する己の権利を失う。これが私の考えである」(前掲『ガンディー 私にとっての宗教』)
 ガンジーはどこまでも平等の人であった。
 人間の価値を決めるのは、富や家柄ではない。学歴や肩書、まして身なり等ではない。それらは一切、幻である。人間の偉大さは人間自身によって決まる。
11  ガンジーは、語った。
 「良心に関しては多数決の原則は全く通用しない。……決定がいかなるものであれ、多数に従順なことは隷従を意味する」「民主主義とは人間が羊のように振舞うことを言うのではない」(前掲『ガンジー』)
 その通りである。
 ガンジーは、安易に多数に隷属する危険を見破っていた。
 ゆえに、一人一人を賢明にしようとした。権力の横暴を鋭く見抜き、戦う「獅子」を育てようとした。
 これは大聖人の御精神、また牧口先生、戸田先生の信念にも通ずる。
 私も、民衆一人一人を賢明に、強くすることに焦点をあててきた。
 私どもは、「獅子」を育て、真実の民主主義の時代を建設している。ゆえに(旧勢力から)迫害を受けるのは当然なのである。
 ラダクリシュナン博士は、こうした民主の運動を長年、観察されて、「SGI(創価学会インタナショナル)運動こそ二十一世紀の運動となる」と期待されている。(拍手)
 きょうは、世界五十一カ国・地域から四百三十九人のSGIのメンバーが集っておられる。尊き「地涌の菩薩」の方々を改めて大拍手で賛嘆したい。まことに尊く、不思議な方々である。(拍手)今や、われらSGIは、壮大なる「地球市民のスクラム」の行進を開始し始めた。
 大聖人が仰せのごとく、「わづかの小島のぬしら主等」の脅しなど、豆つぶのように小さい。
12  われわれには全宇宙の諸仏が味方
 子供を亡くした南条時光のお母さんを、大聖人は宇宙大の御境界で包まれ、次のように励ましておられる。大聖人は、どこまでも、苦しんでいる人、悩んでいる人、悲しんでいる人の味方であられた。
 学会は、この御精神をそのまま我が精神として行動している。だから偉大なのである。
 「そもそも此の法華経を開いて拝見仕り候へば「如来則ち為に衣を以て之を覆いたもう又他方現在の諸仏の護念する所と為らん」等云云、経文の心は東西南北・八方・並びに三千大千世界の外・四百万億那由佗の国土に十方の諸仏ぞくぞくと充満せさせ給う、天には星の如く・地には稲麻のやうに並居させ給ひ、法華経の行者を守護せさせ給ふ事、たとえば大王の太子を諸の臣下の守護するが如し
 ──この法華経を開いて拝見してみると、「如来(仏)は、この人(妙法を受持し、人々のために説く人)を衣で覆われ、守られるであろう。また、他方の世界にいる現在の諸仏も、こぞって、この人を護り、念じてくださるであろう」などとあります。この経文の心は、次のようなものです。
 すなわち、東西南北の四方、八方並びに三千大千世界(古代インドの宇宙観で、一つの広大な宇宙を指す)の外の四百万億那由佗という莫大な数の国土に、十方の諸仏が続々と集まり、充満されております。天には星のように、地には稲や麻のように、諸仏が無数に並んでおられて、法華経の行者のことを守護されるのです。それはたとえば、大王の王子のことを、諸々の臣下が(こぞって大切に)お守りするようなものです──。
 ″この大宇宙に遍満する無量無辺の仏が、あなたの亡くなったお子さんを、三世永遠にわたって守りに守ってくれます。だから、何も心配ありませんよ。安心しなさい″
 大聖人は、母の悲しみの心を癒し、宇宙を自由自在に遊戯するような大境涯へと導いてくださっている。これが、真実の仏法の世界である。一人の人を、どこまでも温かく包容する、大聖人の大慈大悲なのである。
13  私どもの妙法の陣列は、人類六十億のみにとどまらない。「四百万億那由佗の国土」という、果てしない大宇宙の彼方にまで連動している。
 「四百万億那由佗」──なんと壮大な数であろうか。
 きょうはインドの方もこられているが、この数の単位は、インドで生まれ、中国文化を経由して日本に伝わったものである。
 小さいほうから順にいうと、「一」「十」「百」「千」「万」「億」「兆」──ここまではご存じと思う。貯金通帳には、「千」か「万」までしかなくても(笑い)、一応、耳にしたことはあるはずである。
 さらにその先をいうと、「京」、「がい」「」「じょう」「こう」「かん」「せい」「さい」「ごく」となる。「極」とは、十の四十八乗。すなわち、零が四十八個、並ぶ数である。
 その次が、「恒河沙」、次に「阿僧祗」、そして「那由佗」。数の系列には他の説もあるが、この説によると「那由佗」とは、十の六十乗になる。なんと零が六十個もつく。
 その先は「不可思議」「無量大数」──。これらの単位は仏教の経典では見ることがあるかもしれないが、日常的には想像もしない数であろう。
 仏法は、これほどまでに壮大な世界なのである。それから見れば、少々の難など小さな小さな世界の動きである。
 仏法の法理によれば、法華経の行者は、これら無数の仏に守られる。
 反対に、法華経の行者を嘲笑したり、迫害した者は、無数の仏に叱られ、厳然たる報いを受ける。哀れというほかない。
14  どうか、SGIの皆さまは、大きな心で、広々とした境涯で、内外を問わず、友情を広げていただきたい。とくに、「良き人」との「良きつながり」を大切に結んでいただきたい。「仏縁」を結ぶことである。そこから広宣流布が始まるからだ。
 そのために、最も大切なことは何か。
 「誠実」である。結局、「誠実」しかない。「誠実」は強い。最高の武器である。最後は、「誠実」な人が信頼され、勝利する。
15  われらは「世界とスクラム」、愉快に、広々と!
 本日、この関西戸田記念講堂には、SGIの友とともに、愛する関西の千六百人の皆さまが集われている。(拍手)また、さきほど美しい歌声を聴かせてくださった「あけぼの合唱団」にも感謝申し上げたい。(拍手)
 全国的にも、各地でさまざまな記念の集いが行われている。
 その代表を紹介させていただきたい。
 また、本日より福島研修道場、香川の大川文化会館で、衛星中継が開始された。
 沖縄・多良間島の会場では音声中継が始まった。お世話になります。
 このように、あちらでも、こちらでも、日本中のあらゆる地域で、にぎやかに人々が集い、活発に行動を展開している。本当に素晴らしいことである。
 学会が、これほどの勢いで前進しているゆえに、嫉妬の動きも大きいのである。
 人生、何に命を賭けるか。そして、何に名を残しゆくか──。
 大聖人は、「命をば法華経に奉り名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべし」──命を法華経に捧げ、名前を全宇宙の諸仏の清浄な仏国土に流そう──と仰せである。
 小さな島国の日本に「名を流す」ことなど、ちっぽけなことである。「関西」よりも「日本」。「日本」よりも「世界」。そして「世界」をも、はるかに超えるのが仏法である。
 いわんや歴史上の有名人といっても、「歴史」は、往々にして、利害や感情や偏見によって歪められている。因果の理法だけが、厳然と「真実」を示すのである。
 広宣流布に励む皆さま方こそが、永遠にして不滅の「宇宙最高の賞」に輝く人間である。
 このことを、きょう私は、皆さまとともに確認しておきたい。(拍手)
 大聖人が、このお気持ちで皆さまをたたえておられる。守っておられる。無量無辺の諸仏が、皆さまを厳護しておられる。そう確信し、安心して、朗らかに、愉快な人生を歩んでいっていただきたい。
 たとえば、人を幸せにしたい熱意はあっても、すぐには弘教が実らないこともあろう。それでも、がっかりする必要はない。努力していること自体が尊いのである。仏の行なのである。また、仏縁を結んでおけば、いつか必ずその種は芽を出す時がくる。
 全員が健康で、長寿で、仲の良い、福運に満ちた、勝利の人生を送っていただきたい。私も真剣に祈りに祈っていく決意である。海外のメンバーも、また日本に来ていただきたい。皆さま方のご多幸、ご活躍を祈り、SGIの大発展をともどもに誓い合って、本日のスピーチとしたい。
 きょうは、本当にありがとう。サンキュー!
 (関西戸田記念講堂)

1
1