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日蓮大聖人・池田大作

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第79回本部幹部会、第6回東北総会 新世紀へ「黄金の鐘」よ鳴れ!

1994.8.30 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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2  東北は、本当によく頑張られた。立派に戦われた。(拍手)会友の拡大も″日本一″。機関紙の拡大も″日本一″。皆さまの健闘は、よく存じ上げている。(拍手)
 また、東北全県のすみずみで、さまざまな平和・文化の展示を開催し、「友情」と「対話」の広場を、あの地にも、この地にも広げ、根づかせてこられた。
 開催は、この十二年間で、じつに五百十会場。これは、東北の全市町村の数(約四百)をはるかに上回っている。展示を見学した人の延べ人数は、内外を問わず東北に住んでいる方々の全世帯の七割に及ぶという。(拍手)
 地道な活動である。しかし、確実に「偉大な道」をつくっておられる。
 粘り強い努力。たゆまぬ実行。これしかない。これが盤石な建設への道である。
 格好だけ派手でも、その場をよく見せ、自分をよく見せようとしているだけでは、幻のようなものである。本当の広宣流布の戦いではない。
 東北の模範の前進を、私はたたえたい。
 また諸天善神、三世十方の仏・菩薩が見守っておられる。日蓮大聖人が、すべて御照覧であられる。皆さま方の″胸中の御本尊″が照覧されている。(拍手)
3  二〇〇一年五月三日へ生き抜き勝ち抜き
 昭和二十六年(一九五一年)五月三日。戸田先生が第二代会長に就任された時、真っ先に立ち上がり、日本全国へ、広宣流布の波動を起こしたのは、どこか。
 それは、ここ東北の仙台支部であった。(拍手)(就任から五日後の五月八日、全国初の地方支部として結成された)
 ゆえに、戸田先生は、この東北の同志が、ことのほか、かわいくてならなかった。そばにいた私は、よく知っている。
 先生は、いちはやく仙台を訪れ、全力で「東北の人材城」の建設を開始された。その「人材城」が今、見事に出来上がった。(拍手)
 (戸田第二代会長は、会長就任の翌年(昭和二十七年)、第一回、第二回の仙台支部総会に続けて出席。池田名誉会長も、早くも昭和二十六年七月、二十三歳の青年部の班長として来仙し、座談会や御書講義を行っている)
4  この縁も深き東北が、広布五十周年を晴れ晴れと迎えるのは、奇しくも二〇〇一年五月。
 「第二の『七つの鐘』」のスタートの時である。
 今ふたたび、この東北の美しき天地から、「二十一世紀の希望の暁鐘」を、全世界へ打ち鳴らしていただきたい。(拍手)
 全同志で、新世紀の「夜明けの鐘」を高らかに鳴らしましょう!(拍手)
 (学会は七年ごとの不思議なリズムで歴史を刻んできた。これを「七つの鐘」と呼ぶ。
 戸田会長の逝去(昭和三十三年四月二日)直後の五月三日、池田参謀室長が「七つの鐘」の展望を発表。将来に不安を抱いていた全学会員は、目の前が明るく、洋々と開ける思いがした。
 「第一の鐘」 一九三〇年(昭和五年)の創立から、三七年〈昭和十二年、発会式〉までの七年。
 「第二の鐘」 牧口会長の獄中の逝去までの七年。
 「第三の鐘」 戸田会長就任までの七年。
 「第四の鐘」 戸田会長の逝去までの七年。
 「第五の鐘」 池田会長の指揮のもと、あらゆる面で大発展した七年。
 「第六の鐘」 正本堂建立までの七年。この間、七百五十万世帯を達成。
 「第七の鐘」 広布第二章が開幕。池田会長の名誉会長就任までの七年。
 これに対し、新世紀から始まる「第二の『七つの鐘』」は、六六年〈昭和四十一年〉五月三日、池田会長が指針として発表。
 さらに、二十一世紀までの前進は「五年ごと」に区切って七八年(昭和五十三年)に発表された。
 五字七字の妙法──妙法流布の仏勅の教団は、五年・七年のリズムで進む。これらの構想は八四年〈昭和五十九年〉の「島根県記念幹部会」でも確認された)
 昨年(一九九三年)十月、日寛上人御書写の御本尊の授与が始まった。
 以来この一年、我が東北の同志は、御本尊の流布を堂々と、勇んで成し遂げてこられた。
 しばれる厳寒の真っただなか、吹雪の大地を舞台としながら、新たな「拡大」の大闘争を開始された。(拍手)
 大聖人も、また日寛上人も、こよなく喜んでおられ、賛嘆しておられると確信する。(拍手)
5  世界広布の時に「天魔」が出現
 大聖人は、婦人の門下・妙法比丘尼に、こんなお手紙を送られている。
 「法華経の中に仏説かせ給はく我が滅度の後・後の五百歳・二千二百余年すぎて此の経閻浮提えんぶだいに流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし、其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし
 ──法華経の中で仏(釈尊)が説かれるには、私(釈尊)の入滅ののち、後の五百歳、すなわち二千二百余年を過ぎて、この経が全世界に流布しようとする時、天魔が人の身に入りかわって、この経を弘めさせまいとして、たまたま信ずるものがあれば、あるいは罵り、暴力をふるい、追放し、あるいは殺したりするであろう。その時、まず先駆けをする人は、三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を必ず得ることができる──。
 法華経を信じる人は三類の敵人(法華経の行者を迫害する三種類の敵人)に「悪口罵詈」(「勧持品」開結四四一㌻)等をされる。
 しかし、「世界広宣流布の時」に立ち上がり、先駆を切る人は、全宇宙におられる過去・現在・未来の一切の仏を供養するのと同じ功徳がある。
 これこそ我らの大闘争である。福徳は計り知れない。(拍手)
6  さらに、こうおしたためである。
 「我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う」──私(釈尊)もまた、自らの難行・苦行の修行の功徳を、(その先駆けの人に)譲るであろうと説かれた──。
 先駆して世界広布に戦う人の功徳がどれほどすごいか。
 反対に、その人を迫害したりすれば、「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」──はじめは何事もないようであるが、必ず最後には滅亡の悲運に堕ちないものはない──と仰せのように、最後には必ず滅びる。
 ゆえに、彼らの脅しや悪口など歯牙にもかける必要はない。本当の仏法者ならば、勇者ならば、賢者ならば、偉大な人ならば──。
 大聖人御自身が、この烈々たる気迫で戦われた。そして、大聖人の御心を心として、ともに戦う広宣流布の先駆者を最大に励まされたのである。
7  信心強ければ大悪も大善に変わる
 大聖人は、仰せである。
 「大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか
 ──大悪が起これば必ず大善がくる。すでに大謗法が国にある。(ゆえに)大正法が必ず弘まるであろう。あなた方は何を嘆かれることがあろうか。迦葉尊者でなくとも(喜んで)舞でも舞うべきところである。舎利弗でなくとも、立って踊るべきところである。上行菩薩が大地から涌出された時には、踊りながら出られたではないか──。
 「大悪」は「大善」の前兆である。ゆえに、何かあればあるほど、「好機到来!」と喜び勇んでいくのが「信心」である。その「信心」の力が、大悪を大善に変えるのである。
 難がくれば、「やー、来たか!」と喜んでダンスをする(爆笑)。そういう勇気で戦う。日顕宗という「大謗法」が国にあるから「正法流布」もまちがいない──そう喜んで、軽やかにステップを踏む(爆笑)。そういう歓喜で戦っていく。
 それが法華経である。地涌の菩薩の生命力なのである。
 宇宙は広い。生命は永遠である。
 仏法は宇宙大であり、永遠の法である。仏法の境涯から見れば、小さな人間の嫉妬や策動など豆粒以下である。
 上行菩薩は、苦悩の渦巻く、この娑婆世界に、踊りながら出現された。
 「さあ、行こう!」「さあ、戦おう!」──私どもも、この決心で、広宣流布の「痛快なドラマ」をつづりたい。(拍手)
8  ところで、この夏は甲子園出場の創価高校への熱烈な応援、ありがとう!(拍手)
 何ごとも、勝負を分けるのは結局、実力である。相手を上回る真剣さ、努力で勝てる。だれよりも一生懸命の練習、だれよりも一生懸命の苦労で初めて勝てる。
 人生も同じである。その上で、この努力、実力を最大限に生かすのが「一念」の力であり、その究極が、「信心」なのである。
9  これからの話を、後世への遺言として語っておきたい。日蓮大聖人は仰せである。
 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」──一生を空しく過ごして、万年にわたって悔いることがあってはならない──。
 私どもの永久の指針である。
 この御言葉を、私はとくに、二十一世紀に生きゆく青年に贈りたい。それは諸君が指揮をとる時代である。
 ロシアの有名な作家は言った。
 「人間にあって最も貴重なもの──それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。あてもなくすぎた年月だったと胸をいためることのないように、いやしい、そしてくだらない過去だったという恥に身をやくことのないように、この生命を生きぬかなければならない」(N・オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』金子幸彦訳、岩波文庫)
 その通りである。″いったい何のための人生だったのか″──そんな後悔をかみしめることほど不幸なこともない。
 「死にのぞんで、全生涯が、そしてすべての力が世界でもっとも美しいこと──すなわち人類の解放のためのたたかいにささげられたと言いうるように生きなければならない」(同前)
 晩秋を迎えると、宮城の松島、青森なら奥入瀬の樹々が、赤や黄に美しく染まる。荘厳な夕日が、我が身を真っ赤に燃やしながら十方に光を放つ。そのように輝いて終えたい。私どもの人生も。
 そういう死を迎えられるかどうか──それは「人類解放のための闘争」を、やりきったか否かで決まる。
 真実の「人類解放の闘争」は、広宣流布である。仏法を基調にした平和と文化と教育の推進である。国境を超えた人間主義の拡大である。
 その闘争こそが「生」を光らせ、「死」をも輝かせる。
10  ナチスに屈しなかったレジスタンスの英雄たち
 フランスのレジスタンス(第二次大戦における市民の対占領軍抵抗運動)──。ナチスと勇敢に戦った無数の殉難者がいた。
 キリスト教でも、他の思想でも、人類史はどれほど多くの「信念の勇者」で飾られていることか。皆、命をかけた。皆、敢然と戦った。
 ナチスの連中は言ったという。(ルイ・アラゴン『愛と死の肖像─フランス殉難者の記録─』淡徳三郎編、青銅社。以下、引用は同書から)
 「文化ということばをきくと、俺はピストルをぶっぱなしたくなる」
 ──彼らは「文化」、すなわち「人間」が嫌いであった。この点、「『歓喜の歌』(ベートーヴェン作曲)を歌うな」という日顕と似ている(爆笑)。
 他国の文化も理解しない偏狭な指導者に率いられ、いばられ、果ては奴隷のように搾取されたあげく踏みにじられる──これほどのあわれはない。
 宗門と別れたことは、大聖人の御仏意であったと確信する。(拍手)
11  「フランスの偉大さが彼ら(=ナチス)の癪にさわるのだ」
 フランスの偉大さ──それは文化にある。軍靴を響かせ、自由を抑圧するナチス。世界の尊敬を集めるフランス文化とは、あまりに違う。
 「しゃくにさわる」栄光のフランスを、ナチスは倒したかった。
 学会も文化主義である。民衆が自由に楽しく行進している。ゆえに、嫉妬の宗門は学会がいちばんしゃくにさわる。同じ方程式である。
 そうしたなか、ナチスと手を結び、祖国を売る売国奴がいた。青年の怒りは燃えた。──ここに物語は始まる。
 ナチスに抵抗する多くの青年が逮捕された。
 なかには、″同志に売られた″者もいた。敵に情報を与え、自分だけ、いい子になって、金を得る。どこの世界にも、そういう卑しい人間がいる。
 つかまったフランスの青年たちは、残酷な拷問を受けた。牢に入れられる。なぐられる。水をかけられる。爪をがされる。背骨を折られた者もいる。──生き残った者も、半死半生であった。
 しかし、どんなに拷問されても、彼らは耐えた。同志に背かなかった。
 「同志を裏切るくらいならば、死んだほうがましだ!」
 この信念、この勇気、この不敵さ──私は尊敬する。涙をもって。
 いわんや「信心」とは最高の「信念」である。にもかかわらず、牢に入るわけでもないのに退転し、同志を裏切る──最低中の最低の人間であろう。
 「難こそ誉れ」である。それを忘れてはならない。
 いつも私が矢面に立って一身に嵐を受け、皆を包容しているのである。そのことに甘えてはならない。
 幹部が、学会の強さ、自由さ、大きさに甘え、学会員の人のよさを甘く見て、わがままになり、堕落したならば、大変な過ちである。皆を苦しめ、自分自身の人生も失敗である。それでは何のための信仰か。
12  拷問を受ける一方で──。
 「我々に協力すれば、裕福な暮らしを約束する」と、ナチスの甘い誘いを受けた者もあった。
 しかし、そんな誘惑は笑いとばされた。
 何を言うか! ばかにするな!──だれもが誇り高く、気迫に満ちていた。申し出を断れば、「銃殺」が待っていることを百も承知していながら。
13  彼らは言い放った。
 「私の望みは──真のフランス人が、どんなに立派に死んでいくか、それをナチスの首切人どもに見せてやることだ!」
 切るなら切れ! 殺すなら殺せ! 喜んで死んでみせよう。首切人、裏切り者、残虐な権力者。彼らに我々の死に方が、どんなに立派であるか、見せつけてやる!──こういう心の叫びであった。
14  「私は幸福だ! 戦い抜いたから」
 これは、ほんの数十年前の真実の歴史である。
 一九四一年十月二十日、レジスタンスの逮捕者の収容所にナチスの将校の一人がやってきた。この日、別の場所でナチスの一将校が殺された。その復讐のために、事件と何の関係もない収容者の中から、見せしめを選んで殺そうというのである。将校が来たのは、そのためであった。
 この報を聞いた瞬間、だれもが死を決意した。
 ついに、二十七人の名前が呼ばれた。なかには、まだかわいらしい十七歳の少年も入っていた。皆、レジスタンスの闘士であった。(選別に当たってはコミュニズムへの敵視があずかっていたとされる)
 だれもが皆、泰然自若としていた。
 「私を代わりに連れていけ!」「私を連れていけ!」──同志たちは、それほどまでに潔かった。
 草創期の学会のような姿である。
15  私の胸に、一つの言葉がわく。
 戦時中、牧口先生と戸田先生は、軍部の弾圧で投獄された。軍部は、ナチスと同盟を結んでいたファシストたちであった。
 同志が次々と退転し、牧口先生を恨む声があふれた。そんななかで、戸田先生だけが最後まで裏切らなかった。
 それどころか、先生は「あなた(=牧口先生)の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」(『戸田城聖全集』第三巻)と語られ、師匠に感謝を捧げられた。
 この至誠の叫び。崇高なる師弟。こんな言葉を、だれが言えよう。今、だれがこの決心で戦っているのか──。
16  「死刑!」──言い渡されたとき、彼らは顔色ひとつ変えなかった。眉ひとつ動かさなかった。微笑を浮かべさえした。
 卑しい首切人どもを、にらみつけてやろう! 軽蔑を示してやるのだ!
 あまりにも堂々としていた。処刑者たちのほうが、どうしてよいかわからず、うろたえるほどであった。
 皆、顔面蒼白になって、泣き叫び、命乞いをし、我々の前に這いつくばるはずではないのか? どうして、こいつらは、こんなにも自信に満ちているのか?
17  「僕の希望までは殺せない!」
 二十七人が処刑場へ連行される時が来た(十月二十二日)。
 連行するトラックが到着した。別れの時──その時である。
 英雄たちのいる収容所のバラックから歌声が起こった。だれかが、革命の歌「ラ・マルセイエーズ」を歌っていた。皆が歌っていた。
 歌声は広がっていく。バラックからバラックへ。友から友へ。わき上がるように、収容所全体をおおっていった。
 歌いながら、同志はバラックの床板を踏み鳴らした。バン! バン! ババン!
 その音で知らせた。言葉にならぬ胸のうちを。
 歌はやまない。どんなにやめろと言われても、ますます大きな声となり、歌の輪は広がっていった。だれもさえぎれなかった。
 ──歌は叫びである。だれに止められようか。民衆の叫び、民衆の歌声を抑えつけようとする権力者は、縛ろうとすればするほど、やがて自分がだれからも相手にされなくなり、不自由になっていくにちがいない。(拍手)
 この秋、徳島では多数の人々が「歓喜の歌」を合唱する。徳島は、日本で初めて「第九(交響曲)」が演奏された地とされる。第一次大戦で、捕虜となったドイツ兵が収容所で演奏した。
18  わき起こった「ラ・マルセイエーズ」。フランスの国歌であり、人を鼓舞する魂の歌である。
 二十七人は手錠をはめられ、トラックに乗せられた。まだ歌を歌っていた。
 ガタン。車が動き出した。とうとう、たまりかねてバラックから全員が飛び出してきた。「こんなところにいられるか!」──。
 四百人が、ひとつになって歌い出した。歌い、歌い、歌いながら、トラックを見送る。
 かたや「生」。かたや「死」。峻厳な分かれ道であった。
 生と死に分かれても──同志の心は、ひとつだった。
 一幅の絵である。創価学会の「同志の心」も同じである。
19  連行された二十七人は、「目隠しもいらない」「手を縛る必要もない」と望んで、悠々と処刑に臨んだ。
 銃口も恐れない彼らは、死刑執行人たちを驚かせた。
 最後の瞬間まで歌いながら、「フランス万歳!」と叫び、倒れていった。
 「僕を殺しても、僕の希望まで殺すことはできないぞ!」(レジスタンスの一英雄の遺書から)と。(拍手)
 二十七人は遺書を残した。(連行の直前、紙に一枚ずつ書いた)
 その遺書と証言に基づき、彼らの最期を記録した文書は、こっそりと写され、また写され、回し読まれて、またたくまにフランス中に広がった。外国でも読まれた。
 これが占領下のフランス人に「勇気」を与え、ナチスを倒す抵抗運動の炎となっていったのである。
 史上、有名な文書『殉難者たち』(ルイ・アラゴン編。当時は匿名)である。
20  「最後の手紙」から──「思想は永遠に死なない」
 彼らに限らず、総じて、レジスタンスの殉難者の「最後の手紙」は、驚くほど平静である。達観がある。その一部──。
 「われわれの子供たちの未来のため、すべての働く人民の未来のため、進歩のため、私は誠実に働き、かつ野蛮と奴隷的圧制に抗してたたかったことを自覚しつつ、私は死んでゆく」(前掲『愛と死の肖像』。以下、引用は同書から)
 進歩のために誠実に働いた──私どももそうである。働いて、働き抜いている。そして、信徒を奴隷にしようとする野蛮な圧制は断じて許さない。(拍手)
 「勝利を確信せよ、それはもうすぐまぢかに迫っているのだ」
 「私は人類が幸福になることを欲した。未来をじっと正視してごらんなさい。それは燦然と光を放っています」
 「私は若くして、非常に若くして死んでゆきます。だが、私のうちには永久に死なぬものがあります。それは私の思想です」
 ″永久に死なぬもの″が胸中にある──私どもにとって、それは仏法であり、信心である。(拍手)
21  「時計の針はグングン進み、死刑までわずかにあと三時間です」
 「私が勇敢に死に突き進みうるのは、私は死ぬのではなく永久に生きるのだということを知っているからです。
 私の名前は葬式の鐘の音ではなく、希望の鐘の音としてひびきわたるでしょう」
 私は死ぬのではない。永久に生きるのだ。私の死を告げる鐘は、未来への希望の鐘だ──。
 死の三時間前に、この確信。このプライド。これくらいの矜持で生きねばならない。青年ならば──。仏法では「方便現涅槃(方便として涅槃<死>を現ず)」と説く。
 死して、死せず。生命は永遠である。「永遠の法」に殉じた人生は、「永遠の希望の鐘」となって響き渡る。
 「勇気と希望、これこそわれわれのスローガンでした。そしてこれがあなた方のスローガンともなるように」
 若き日から、いつも私は言ってきた。「大切なのは、勇気と希望だよ」と。「皆に、勇気と希望を与えるんだ」と。
22  「もう一度生きても同じ殉難の道を」
 「私はもう一度自分自身をかえりみてみた。私の良心は平静である。私がもう一度人生をやりなおすとしても、やはり同じ途をあゆんだであろうということをみんなに伝えてほしい」
 もう一度、生きても、再び「死刑への道」を行く、と。何の後悔もない。最高の誉れの人生だ、と。何という立派な信念であろう。皆さまも生きていただきたい。「もう一度、生きるならば、また同じ道を行くだろう」と誇れる人生を。(拍手)
23  「僕は、いってみれば、よい土壌を作るために木から落ちる木の葉のようなものです。土壌のよしあしは、木の葉のよしあしによります。僕はフランスの青年たちのことをいいたいと思ったのです。青年たちにこそ僕はいっさいの希望をささげています」
 自分は肥やしになる。犠牲になる。青年たちよ、だから自分の分まで、立派に伸びておくれ、立派に戦っておくれ。彼らは、こういう信念に殉じて、誇り高く一生を終わった。嘆きに沈むどころか、大きな「感謝」をもって──。
24  「おかげで私の生涯が、むだな生涯でなく終われるのだ」
 「私は理想もなく死んでゆくもの、またわれわれが持っているような理想にたいするゆるぎない確信をももたずに死んでゆく者を、ただ気の毒に思うだけだ」
 短くとも不朽の人生がある。長くとも空しい、″生きながら朽ちていく″人生もある。
 法のため、人のために尽くしきった五十年と、人を批判するだけで自分は何もしなかった五十年と。天地雲泥であろう。
 我が人生を、「何のため」に生きるか。自分で求め、自分で発見し、自分で決めなければならない。自分で「誇り」をもてるよう生きねばならない。
25  彼らは、自分たちを敵に売った裏切り者の名前を書き残した。遺された同志は、この裏切り者を、草の根を分けて捜し抜き、捜し出した。つかまえた。
 絶対に許さなかった。容赦しなかった。罪科を数え上げ、満天下に公表した。断罪し、たたきのめすまで戦った。
 その決心があったからこそ、あそこまで戦えたのである。ナチスを倒せたのである。「最後の勝利」をつかんだのである。なまやさしい気持ちで、極悪の権力に勝てるはずがない。
26  日興上人も、峻厳であられた。「弟子分帳(弟子分本尊目録)」に、師匠を裏切った人間を、実名を挙げて「背き了ぬ」「背き了ぬ」と、厳然と記し、後世に残されている。
 (「但し今は背き了ぬ」「但し聖人(=大聖人)御滅後に背き了ぬ」等と、一人一人、書き連ねておられる)
27  私どももまた、二〇〇一年五月三日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい。
 学会本部に壮年・婦人・青年の代表が厳粛に集い、その時の会長を中心に、宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい。
 このことを私は、きょう宣言しておく。(拍手)
 レジスタンスの英雄は、みずからの死をもって、全民衆を蘇生させた。
 その精神の崇高な炎は、今なお多くの人々の胸に燃えている。
 いわんや、妙法の広宣流布は、その何億倍もの人類解放の大事業である。これ以上の人生はない。青春はない。中途半端に生きて、悔いを残しては絶対にならない。こう私は叫んでおきたい。(拍手)
28  ともどもに「世界の果てまで大白法を」
 昭和二十六年(一九五一年)七月十一日、男子青年部の結成式。激しい雨の日であった。西神田の旧学会本部に約百八十人の青年が集った。
 この時、戸田先生は、すでにこう言われていた。
 「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。
 必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。そのかたに、心からお祝いを申しあげておきたいのであります」
 十九歳で戸田先生とお会いした時から、私の人生は決まっていた。先生も分かっておられた。
 私も分かっていた。これが仏法の不可思議である。
 戸田先生は続けられた。
 「広宣流布は、私の絶対にやりとげねばならぬ使命であります。
 青年部の諸君も、各自がその尊い地位にあることを、よくよく自覚してもらいたいのです。
 近くは明治の革命をみても、その原動力となったのは当時の青年であり、はるか日蓮大聖人御在世の時も、活躍した御弟子のかたがたは、みな青年であった。
 つねに青年が時代を動かし、新しい時代を創っているのです。
 どうか、諸君の手で、この尊い大使命を必ず達成していただきたいのが、私の唯一の念願であります。
 われわれの目的は、日本一国を目標とするような小さなものではなく、日蓮大聖人は、朝鮮、中国、遠くインドにとどまることなく、全世界の果てまで、この大白法を伝えよ、との御命令であります」
 この言葉の通りに、私は走った。世界に妙法を弘めた。日蓮大聖人が、また戸田先生が、おっしゃった通りに行動している。
 これが学会精神の真髄である。他のどこにもない、日蓮大聖人直結の大精神である。(拍手)
 「なぜかならば、大聖人様の五字七字は、じつに宇宙に遍満し、宇宙をも動かす大生命哲学であるからであります。
 きょうは、この席から、次の会長たるべきかたにご挨拶申しあげ、男子部隊の結成を心からお祝い申しあげる」
 戸田先生は、こう語られて深々と頭を下げられた。
 上とか下とかではない、師弟の「不二」の姿を示してくださったのである。
29  恩師の遺言「三代会長を支えれば広宣流布はできる」
 戸田先生は、その翌年、「第一回男女合同青年部研究発表会」(昭和二十七年二月十七日)の折にも、「地球民族主義」の理念を発表された後、こう言われた。
 「三代会長は、青年部に渡す。牧口門下には渡しません。何故かといえば、老人だからです。
 譲る会長は一人でありますが、そのときに分裂があってはなりませんぞ。今の牧口門下が私を支えるように、三代会長を戸田門下が支えていきなさい」(『戸田城聖全集』第三巻)
 戸田先生の遺言である。
 「私は戸田先生の弟子である」と言いながら、この厳然たる遺言に背いた人間もいる。彼らは、真っ向から、師を裏切ったのである。
 「私は広宣流布のために、身を捨てます。
 その屍が、品川の沖に、またどこにさらされようとも、三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」(同前)
 その通りだったことは世界が知っている。(拍手)
 私は、これからも今までの何倍も行動する決心である。(拍手)
30  最後に、重ねて「東北頑張れ!」と申し上げたい。
 二〇〇一年の「その日」を目指し、素晴らしい新スローガン「新しき東北世界の東北」のごとく、素晴らしい東北を建設してもらいたい。私は、これからも何度も応援したい。(拍手)
 小説『新・人間革命』の第二巻も、今回、東北で書き終わった。東北のことも多く書いた。(拍手)
 まだまだ暑い。全国の同志の方々も、くれぐれもお体をお大事に。健康で長生きして、強く、朗らかに、そして楽しい前進をお願いしたい。
 ありがとう!
 (東北講堂)

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