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日蓮大聖人・池田大作

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第1回青森県総会 広宣流布は「幸福の開拓」闘争

1994.8.26 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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1  勝つための人生、勝つための信心
 家族の座談会のような気持ちで始めましょう。(拍手)
 小説『新・人間革命』は、今、ちょうど東北のことを執筆している(拍手)。掲載は十一月下旬の予定であり、楽しみにお待ちいただきたい。
 十五年ぶりの青森──皆さん、お元気でうれしい。懐かしい。感無量である。
 我が同志が元気ならば、これ以上の強さはない。幸福はない。
 青森は、よく頑張られた。
 宗祖に背いた悪侶とも戦っている。何ごとも、戦う限りは負けてはならない。
 「仏法は勝負」であり、人生も「勝負」である。健康も勝負──体内では白血球と病原菌が戦っている。草木が伸びるのも勝負──戦い、勝ったから青々と伸びられる。
 一切法が「勝負」である。勝てば幸福、負ければ不幸である。勝つための人生であり、勝つための信心なのである。
 きょうの第一回青森県総会は、県下十三会場に音声中継される。
 また、四カ所の個人会場では、お世話になります。(拍手)
 また、守る会の皆さまが、どれほど苦労して研修道場を荘厳してくださったか、私はいつも涙する思いで拝見している。無量の功徳で我が身が飾られることを確信していただきたい。
 きょう、いらっしゃってない方々にも、この心を伝えてくだされば幸いである。(拍手)
2  堂々と戦え、「王者のドラマ」を
 今年(一九九四年)の六月、私は五百五十年の伝統を誇る英国の名門グラスゴー大学の招聘をいただき、スコットランドを初訪問した。
 ここ十和田湖を思わせる美しいローモンド湖のほとりでメンバーと初めて出会った。その情景を私は忘れない。今、青森の友と二重写しになっている。
 グラスゴーの緯度は北緯五五度。北緯四〇度の十和田よりさらに北に位置する。
 寒いところは、草木も、空気もきれいに感じる。人の心もきれいなようだ。
 グラスゴー大学では、名誉博士号授与の儀式が厳粛に行われた。
 その折、マンロー評議会議長は、式典会場に凛々と響く声で、私を名誉博士に推す「推挙の辞」を述べてくださった。
 その中で議長は「池田氏のダイナミックな活力と創価学会の力は、日本の社会の発展に貢献され、貢献の度合いは、どんどん大きくなっております。また、そのエネルギーは世界に広がっております」と。
 最高峰の知性が集った荘厳な儀式の場で、マンロー議長は、「創価学会」「創価学会」と何度も何度も語っておられた。称賛を込めて。客観的に見つめ、評価して──。これが世界の第一級の知性の「目」であり、「声」である。
 初めから悪意の意図や予断をもった、低級な論調とは全然ちがう。
 日蓮大聖人は、「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」と仰せである。
 そして牧口先生は言われた。「愚人に憎まれたるは第一の光栄なり」と。
 世界の良識が私どもの味方なのである。(拍手)
3  「推挙の辞」の結びに、マンロー議長は、私の一詩を力強く朗読してくださった。
 それはなんと、私がここ奥入瀬の滝に寄せた詩であった。この道場の碑にも刻まれている。
  滝の如く 激しく
  滝の如く 弛まず
  滝の如く 恐れず
  滝の如く 朗らかに
  滝の如く 堂々と
  男は
  王者の風格をもて
 詩の朗読を聞きながら私は思った。この栄誉を、全世界の学会員、なかんずく、この十五年間、懸命に戦ってこられた青森の同志と分かち合いたい、と。(拍手)
 どうかこれからも、私とともに「王者の誇り」をもって生きていただきたい。広宣流布を進める私どもは、どんな権力者よりも、富豪よりも、有名人よりも「偉大な人生」なのである。(拍手)
4  学会活動は最高に有意義な行動
 私は、重ねて青森の皆さまをたたえたい。本当によく頑張ってこられた。
 聖教新聞の拡大も見事です。(拍手)
 また青森では、二カ寺(弘前市の法典院、五所川原市の東漸寺)が日顕宗から離脱。東北では、六カ寺を数える。日蓮大聖人、日興上人が、また、この東北で弘教を進められた日目上人が、こよなく喜んでおられると確信する。(拍手)
5  学会活動はありがたい。福運を積むことはもちろん、歩けば健康にもなる。
 家でテレビばかり見ていれば、目を悪くする(笑い)。運動不足で病気になる場合もある。学会活動は、生命力を強めるし、最高の健康法である。
 今は″放逸の時代″だから、何も軌道がなければ、つい遊びの方向へ流れていってしまう。
 それを人生の「向上」の方向へ、「充実」の方向へと向けてくれるのが広布の組織であり、学会活動である。
 信心の行動には、何ひとつ無駄がない。あらゆる点で、いちばん有意義な行動になっている。
 忙しい時は、「活動さえなければ、どんなにいいか」(爆笑)、そう思うかもしれない。しかし、実際に、会合も出られない、同志にも会えないとなると、寂しくてしかたがなくなる──そういう実例は、いっぱいある。
6  また、青春時代に戦いきった人は強い。
 「土台」ができている。安心である。一生、得をする。
 多くの人々の幸福のために、みずから辛労を尽くしていく──これほど崇高な人生はない。
 その活躍の陰には、ご家族の協力がある。ともに賛嘆申し上げたい。(拍手)
7  奥入瀬の渓流は美しい。何とも言えない品格、風格、優美がある。
 釈尊は教えた。
 「つねに流れる水の流れは柔かではあっても、時とともに、石の表面に孔をあける。精進によって得がたきものは何もない。それゆえに、重荷を捨てずに忍耐せよ」(原始仏典第十巻『ブッダチャリタ』梶山雄一他訳、講談社)
 信心根本の「粘り強い人生」「戦う人生」は、流れる水のように、いかなる障害の岩をも打ち砕く。だから重荷を捨ててはならない。
 ある意味で、役職も重荷である。責任、使命──これも重荷である。しかし、その荷を背負って歩き通した人が、その分、大境涯を開くのである。
 水のごとく強く。水のごとく退せず。「人生もかくあれ」と私は申し上げたい。
8  信心の「心」強きを「幸福」という
 釈尊はこうも語る。
 「心を城廓のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)
 魔と戦わねばならない。心を「戦う城」として。知恵を「戦う武器」として。
 築き上げた福徳をくずされてはならない。
 四条金吾は、主君の信用を勝ち取り、所領も三倍になるという勝利の実証を示した。その金吾に対しても、大聖人は、こう仰せである。
 「いよいよ道心堅固にして今度・仏になり給へ」──仏道を求める心を、いよいよ強固にして、この人生で仏におなりなさい──。
 心で決まる。「心こそ大切」である。成仏すなわち絶対の幸福境涯は、ただ「信心」の強さで決まる。
 ゆえに「心」を揺らさないことである。妬みや臆病に侵されないことである。
 強く、広々とした信心の「心」──そこに「幸福」はある。モノにあるのでも、財産や地位にあるのでもない。
9  「心」は見えない。しかし「一念」は全世界、全宇宙に通じている。「一念」が豊かであれば、自身も、周囲も、国土も、すべて豊かになっていく。
 もちろん、生きている限り、心配ごとや悩みはある。それは太陽の前に雲がかかるようなものである。表面はどうであろうと、雨の日にも、風の日にも、太陽は厳然と昇る。
 胸中に「信心」の太陽が輝く限り、「幸福」も輝く。
 戸田先生は指導された。
 「尊い御本尊様が私達の肉団におわすのである。即ち、私達の五体そのものが、南無妙法蓮華経の当体なのだから、あせらずに唯御本尊様を信じ切って信心を続けるならば、必ず幸福になれる。だから一生懸命に信心しなさいというのだよ」(「日女御前御返事」の講義。「聖教新聞」昭和三十二年三月十七日付)
 胸の中に御本尊がおわします。その御力を引き出すための縁となる対境が、私どもが拝んでいる御本尊である。
 「信心」強き人は、我が身が御本尊の当体と輝くゆえに、不幸になることは絶対にない。
10  新渡戸伝の不屈の開拓──不毛の大地が米どころに
 今年の夏は、我が青森も気候に恵まれ、豊作の見込みとうかがった。おめでとう!(拍手)
 先日、十和田湖へ行ったが、周辺の稲穂が素晴らしかった。
 緑に包まれて生きる──それだけでも、東京や大阪のような大都会に住むより、どれだけ幸福かわからない。
 三本木原台地に広がる十和田は、県下でも有数の米どころである。しかし、かつては水も乏しく、「樹木一本も見えず」と酷評された。まったくの不毛の大地であったことは有名である。
 三本木原台地のことは、以前、書いたことがある。(昭和四十六年の十和田湖訪問の後、随筆「十和田開発に賭けた新渡戸にとべつとうの不屈の闘志」を執筆〈本全集第19巻収録〉)
 また、皆さまもよくご存じのことであるが、きょうは、青森の″宣伝部長″として(笑い)、世界に宣揚するために話しておきたい。(拍手)
 三本木原を十万石の米がとれる豊かな大地に変えてみせる!──この理想に燃えて、開拓に挑んだのが、南部藩士の新渡戸伝(一七九三〜一八七一年)である。
 彼の孫が、牧口先生と親交のあった新渡戸稲造である。岩手・盛岡の出身である。
 私は昨年の十月、稲造が没したカナダのバンクーバーを訪問した。その際、ブリティッシュ・コロンビア大学にある「新渡戸記念庭園」を、学長の案内で訪れた。この美しい庭園のすぐそばが、私の「自然との対話」写真展の会場であった。
11  江戸時代の末期(一八五五年)、稲造の祖父・新渡戸伝は、″奥入瀬川から水を引き入れる″壮大な挑戦を開始する。その時、彼はすでに六十三歳(数え年)であった。
 六十三歳から出発──人生は常に″これから″である。
 奥入瀬川と三本木原の高低差は約三十メートル。水を引き上げるのは、大変に難しい工事だった。ノミと鉄のツチだけで、何千メートルものトンネルを掘らなければならなかった。また、途中で(奥入瀬川から水を引く)上水が壊れ、工事をもう一度、やり直したこともあった。
 「失敗もあるだろう。しかし、俺はやる!」
 偉い人は、最後までやり通す。途中でやめてしまえば、何にもならない。
 偉人と凡人、成功者と挫折者の違いも、この一点にある。正しき道で、やり通すか否かである。これが、平凡なようで、根本の分かれ道なのである。
 信心も、やり通してこそ成仏はある。境涯の開拓を途中でやめれば、本当の幸福はない。貫いた人が勝つ。不屈の人が勝つ。
12  「そんなやり方では、うまくいくわけがない」「不可能だ」──彼が立てた工事の計画は、さんざん非難された。開拓に反対する脅しも何度もあった。
 しかし、彼は決して妥協しなかった。粘り強く、また、粘り強く、我が道を最後まで歩み通した。あきらめなかった。
 ここに偉さがある。私も絶対に妥協しない。″このくらいでいいだろう″という中途半端は、それ自体、敗北である。
 数限りない困難の末、四年九カ月後に、上水が完成した。奥入瀬の清流をたたえた見事な水田が、ついに開けた。
 翌年(一八六〇年)の秋には、十和田で初めて四十五俵の米が実った。
 孫の稲造は一八六二年生まれ。稲造の「稲」は″米が初めて取れた″ことからつけられたといわれる。(当初は「稲之助」。後に改名した)
 そして、およそ百年後に、伝の″十万石″の夢は、それをはるかに超える規模で実現した。まさに″百年先を考えた″開拓事業であった。
 我々が見つめているのは「末法万年」である。
 少なくとも二百年、三百年の先を考えて、私は着々と手を打っているつもりである。近視眼でもなく、遠視眼でもなく──。
13  伝は「大地という土壌」を開拓した。それは、そのまま「精神の土壌」の開拓であった。
 我らも開拓したい。我が命に「福徳の田園」を。
 稲造は、小さいころから祖父の開拓の姿をじっと見ていた。
 子供は鋭敏である。利口である。大人の生きる姿勢を全部、見抜いている。そのまま感じ取っていく。
 ″おじいちゃんに負けないぞ″──稲造は「太平洋の架け橋」になろうと大志を抱いた。後に、国際連盟の事務局次長ともなり、活躍した。
 これが東北の「精神の大地」に育まれた素晴らしい歴史である。
 東北の人は信頼できる。都会人には、要領と、人を利用するずるさが多い。そんなインチキに迎合する必要はない。
 東北は東北らしく、地道に、大誠実でいけばよい。最後は、その人が勝つであろう。
14  「今の労苦」は「永遠の栄光」、ゆえに勇んで
 開拓者の精神とは何か──稲造は語っている。
 「開拓者はあとから従いて行くものではない」「人の前に立って行く者だ」(『人生雑感』講談社学術文庫。以下、引用は同書から)
 私どもも開拓者である。常に皆の先頭に立ち、率先して道を開く。皆に代わって、襲いかかる嵐を一身に受けて立つ──これが開拓者である。
 ずるがしこく苦難を避けて立ち回っていて、「開拓」ができるはずがない。
15  稲造は開拓の労苦について、こう語っている。
 「かれこれ難くせをつけるものであるから、それらの非難を顧みないで、ただ自分の信じたとおりをウンとやればよい」
 その通りである。勝てば、非難の声は称賛の声に変わる。
 非難は、開拓者の証なのである。誉れなのである。
 いわんや、私どもは、広宣流布という最高に崇高な「生命の開拓闘争」をしている。
 「幸福の開拓闘争」をしている。
 「難こそ誉れ」「難こそ安楽」である。
 キリスト教でも、無数の殉教者がいる。自分の信念のために入獄した人も数知れない。そうした迫害に比べれば、悪口など、ものの数ではない。
 稲造は「開拓者には当座の利益、当座の名誉、当座の安楽の三つは禁物である」とも言う。目先にとらわれて大事業はできない。
 皆さまは輝く「永遠に栄光」の開拓者であられる。諸天善神が、三世の諸仏が、日蓮大聖人が、皆さまを守られないわけがない。(拍手)
 ともに健康で、長生きして、素晴らしい人生を一緒に生き抜きましょう!
 きょうは本当におめでとう!
 (東北研修道場)

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