Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第5回長野県総会 わが人間革命の勇気のドラマ

1994.8.8 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  一念が変われば、自分が、すべてが変わる
 総会、おめでとう。(拍手)
 合唱団(信濃混声合唱団)もありがとう。日本一の歌声です。(拍手)
 長野の皆さまは、この一年間、「聖教新聞の拡大」「座談会の推進」に、最高の戦いをなされた。婦人部の皆さまを最大の拍手でたたえたい。また各部の皆さまも本当にご苦労さまです。
 今年の夏も長期間、全国の最高幹部が、ここ長野研修道場で、お世話になった。心から感謝申し上げたい。
 とくに、役員の皆さまの尊い献身、また、陰で祈り、支えてくださった長野婦人部の方々の真心によって、創価学会は、二十一世紀へ完璧なる新出発をすることができた。長野の皆さまの真心に重ねて御礼申し上げたい。(拍手)
2  きょう八月六日は、広島の「原爆の日」である。
 昨年のこの日、私は、ここ長野研修道場で、小説『新・人間革命』の執筆を開始した。それから、ちょうど一年。この夏も、順調に執筆を進めることができた。長野の皆さまに、この点も感謝申し上げたい。
 「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」──これが、この小説の主題である。
 これは、仏法の「一念三千」の法理を、現代的に表現したものであるともいえる。
 わが一念の変革が、五陰世間の五陰を変え、衆生世間の衆生を、ひいては国土世間の国土をも変革していくのである。
 (世間とは差別〈違い〉の意味。五陰世間とは、身心を形成する五要素〈色・受・想・行・識〉の働き方に十界の異なりがあること。衆生世間は、五陰によって形成された衆生の生命に十界の違いがあること。国土世間は、衆生の住む国土に十界の違いがあること)
 つまり、一念の変革が、まず、わが生命を変えていく。健康で、力強く、無限の知恵を発揮していく。
 その、変革された生命は、周囲の人々をも幸福の方向へと導いていく。また悪を打ち倒していく。さらには、社会、自然をも変えていく。豊かで平和な楽土へと転換していくのである。
 これが「一念三千」の法理である。仏法の究極の大哲学である。大聖人の「立正安国」「王仏冥合」の大法戦が、その実践であられた。
3  大聖人は、ここ信濃にゆかりの四条金吾に、こう仰せである。
 「日蓮も又此の天を恃みたてまつり日本国にたてあひて数年なり、既に日蓮かちぬべき心地す
 ──日蓮もまた、この天(日天子)を頼みとして、日本国と戦って数年となる。すでに日蓮は「勝った」という気持ちである──。
 大聖人は、日天、月天を味方とし、大宇宙を味方とする大境涯で、ちっぽけな島国の日本を見みおろしながら、一人で一国と戦われた。そして、あらゆる大難を受けられながらも、「私は勝った」と大確信を述べられたのである。
 この大聖人の正統の門下として、今、世界を舞台に、広宣流布の大闘争を続けているのが、わが創価学会である。(拍手)
4  師匠を宣揚できた喜びは無上
 きょうは遠路はるばる、ブラジル婦人部の皆さまが参加しておられる。ブラジルから二十四時間以上もかけて、自発的に来てくださった。
 自発の心は美しい。自発の心に福運の因もある。人に言われて、いやいやするよりも、自発・能動で動けば、福徳は加速度をつけて増していく。
 ブラジルで最も美しい″文化都市″とうたわれるのがクリチバ市である。ブラジルの人が国内で「住んでみたい町」の第一位にあげる″環境先進都市″とも言われている。
 今、同市内に、「牧口常三郎公園」「戸田城聖通り」の設置が順調に進められている。(=初代会長の生誕百二十三周年にあたる一九九六年六月六日、「牧口常三郎公園」が開園した)
 ブラジルでは、公園や通りに、社会に貢献した著名な人物の名前を付ける伝統がある。
 地球の反対側の美しい街で、戸田先生、牧口先生の名を冠した場所が誕生するのである。
 私は「我が師匠を全世界に宣揚できた」という一点において、「我が人生は勝ちたり!」と申し上げておきたい。(拍手)
 また、きょうは、私の大好きなアメリカ文化本部の方々、それからインテレクト会(学術部の代表)も参加されている。皆、社会で活躍する″知性の闘士″の方々である。
 一人一人が「一念三千」の法理を見事に証明し、偉大なる「我が人間革命」の歴史をつづっていただきたい──このことを、私は祈る気持ちで申し上げたい。
5  本日は、この夏、サッカーで全世界をわかせたブラジルとイタリアの両方から代表が来られている(笑い、拍手)。この席を借りて、私はブラジルの優勝をお祝いするとともに、我が同志であるイタリアのバッジョ選手の健闘をたたえたい。(拍手)
 バッジョ選手とは本年六月、イタリアのミラノで再会した。昨年六月、日本で出会って以来である。私は、ワールドカップ出場のためにアメリカに出発する彼を激励した。
 「最後の一瞬まで戦って、戦いきることだ」
 彼は、この言葉を胸に、最後まで戦い抜いた。完全燃焼した。肉離れ。極度の疲労。満身創痍のような体で走りきった。その姿に世界が感動した。
 人生の闘争にあっても、最後まで戦いきった人が真実の勝利者である。
 途中で逃げた人は、心と生命を自分で傷つけている。最後には深い「満足」はありえない。「幸福」はない。
 いわんや仏法は勝負である。仏道修行すなわち学会活動を最後までやり通してこそ、一生成仏はある。戦い抜いた人が「王冠の人」であり、「栄冠の人」であり、「成仏の人」なのである。
6  創価高校野球部、甲子園出場おめでとう!(拍手)私は「優勝亭」で、その報を聞いた。
 (「優勝亭」は、長野研修道場にある洋風の四阿あずまや。長野県男子部の代表の手になるもので、一昨年、創価高校野球部の西東京大会優勝を記念して命名された)
 野球部のなかには、長野出身の二人の学園生もいる。
 そのうち一人とは十五年前の一九七九年、ここ長野研修道場でお会いした。彼はまだ三歳。病弱だった。私は彼を抱いて、「大きくなったら、創価大学にいらっしゃい」と語りかけた。そして、彼は創価学園に来てくれた。
 私は、小さな子供に対しても真剣勝負である。一瞬の出会いでも全力を込める。忘れないし、ずっと題目を送り続ける。
 とくに、若い人々の成長の姿はうれしい。若い人は、まっすぐである。期待できる。これからの人であり、未来を全部、託す人である。だから私は真剣である。
 青年も真剣に立ってもらいたい。本気にならなければ、師弟の道など歩めるはずがない。いつまでも私に甘えているだけでは、自分自身の建設もない。
7  「信教の自由」の先駆の婦人アン・ハッチンソン
 研修会で来られているアメリカ文化本部の一人の女性メンバーは、カーター元大統領の補佐官を務めた才媛である。現在、アメリカSGI(創価学会インターナショナル)の「ボストン二十一世紀センター」の所長として活躍されている。
 女史が届けてくださった書籍(デニス・B・フレイディン『アン・ハッチンソン──信教の自由の闘士』、エンズロウ出版)からお話ししたい。
8  今から三百六十年前(一六三四年)、一人の婦人が、夫と十人の子供たちとともに、信仰の自由を求め、イギリスからアメリカへ渡った。
 婦人の名はアン・ハッチンソン(一五九一〜一六四三年)。アメリカで、「信教の自由」の先駆者として尊敬されている。
 アメリカで「信教の自由」が宣言される、およそ百五十年前のことである。聖職者が絶対視された当時にあって、彼女は勇気をもって信教の自由を訴えた。
 「信仰が聖職者に縛られるのはおかしい。私たちには、内なる良心のままに、自由に信仰し、自由に語り、自由に行動する権利がある」と。
 アメリカに渡る船の中でも彼女は、人々を見下す傲慢な聖職者を、皆の前で厳しく叱りつけている。悪いものは悪いと言いきる勇気が彼女にはあった。
 またアメリカでは、彼女は自分の家に婦人たちを招き、信仰について語り合った。
 学会の座談会に通じる。その対話の輪に、やがて男性も加わるようになった。初めは六、七人だったが八十人が集まるまでに広がっていった。
9  一方、当然、彼女を妬み、迫害する人間も出てきた。「聖職者を批判した」という理由で、彼女は教会から破門される。ボストンの街からも追い出されてしまう。
 「悪魔の使い」と、ののしられ、住むところを追われても、彼女は「私は何も間違っていない」と、胸を張って生き抜いた。
 腹の決まった女性は強い。男性より、よっぽど堂々としている(笑い)。彼女は毅然としていた。
 ボストンを追われた彼女のもとに、ある日、三人の男がやってきて、「ボストン教会の者だ」と名乗った。男たちは彼女が許しを乞うだろうと思っていた。来てくれたことに感謝するだろうと思っていたかもしれない。
 しかし彼女は、ぴしゃりと答えた。
 「そんな教会など、私は知りません!」
 男たちは、今度は夫を取り込もうとした。しかし、夫もまた「私は教会よりも妻と固く結び付いています」と、きっぱりと言い放ったのである。
 夫人が強ければ、夫も強い。夫が立派な陰には、必ずと言ってよいほど夫人の力がある。
 夫人が信心が弱く、世間体や虚栄にとらわれている場合は、夫までダメにしてしまう。
 教会の権威をかさにきた男たちは、権威が通じない夫妻を前にして、すごすごと帰るしかなかった。まことに痛快な場面である。
10  社会貢献の強き信念の人に
 信念に生きる人は強い。その人は、たとえ、ひとたびは負けたように見えても、最後は人間としての勝利者と輝く。
 信念に生きる人は人格が光る。善悪を、きちっとみきわめることができる。まっすぐに軌道を進んでいける。
 そうした「強き信念」の人、「最高の信念」の人をつくるのが創価学会である。人間革命の運動なのである。
 「信念の人」を尊敬する社会がある。反対に「信念の人」を迫害して、人気や名声の人を軽薄に追いかける社会がある。かつて日本は、一番正しい日蓮大聖人を迫害し抜いた。そして亡国への原因をつくった。
 今、私どもは、大聖人の仰せのままに「宗教革命」を進めている。何ものにも紛動されず、この「無上道」を歩み通してまいりたい。
 結局、信念に生き抜いた人が勝ちである。偉いのである。
11  彼女は特別な地位や立場があったわけではない。一人の婦人として、また看護婦として、地道に、一生懸命に、人々に尽くしていった。それが誇りであった。
 彼女にとって信仰とは何であったか──。
 それは「聖職者に隷属すること」ではなく、「社会に貢献すること」だったのである。
 創価学会も仏法を基調として、社会に貢献している。平和・文化・教育を推進している。その真剣さと実績に今や、世界が絶賛の拍手を送っている。(拍手)
12  仏法即社会である。聖職者のための仏法ではない。人類のため、社会のための仏法である。
 僧侶のために仏法があるのではない。仏法のために僧侶がある。仏法の広宣流布のために、だれよりも不惜身命で働き、殉教の決意で信徒に尽くしてこそ僧侶である。
 そのまったく反対をやっているのが宗門である。仏法利用、信徒利用の堕落しきった姿は、極悪中の極悪である。断じて許してはならない。
 仏法は即社会、信心は即生活である。信心を根本に、人に尽くし、自身を磨き、現実の生活の中に、じっくりと「我が城」を築き上げていただきたい。
13  最後まで前へ、それが勝負
 この夏は記録的な猛暑が続いているが、そのなかで全国の学会員の皆さまは、一生懸命、広布のために行動しておられる。本当に尊きお姿である。
 ところで、インドは日本をはるかに上回る酷暑で、気温は四六度にもなるという。このインドに、今、青年文化訪問団が訪れている。
 八月三日には、一行はガンジー記念館で、パンディ副議長の温かい歓迎を受けた。
 ガンジーの直弟子であられるパンディ博士は、八十七歳。亡くなられたブラジルのアタイデ総裁とともに、私が世界で最も尊敬する方である。
 権力と真っ向から戦い、迫害され、投獄され、嵐のなかを生き抜いて、堂々と、巨大なる自分自身を築き上げられた。こうした″巨人″は、時代とともに出なくなってしまった。現代の、とくに日本人の生き方とは、根本的に違う。
14  パンディ博士は、訪問団に感動的なスピーチをしてくださった。そのなかで、気高きインドの魂を物語るエピソードを話されている。
 ──ある地方で、ガンジーの指導のもとに、非暴力の独立闘争がなされていた。
 民衆の「抗議の行進」に対して、権力側は″十分以内に解散せよ″と命令した。
 しかし民衆は従わない。屈しない。絶対に戦いをやめなかった。学会精神と同じである。
 やがて軍隊は、卑劣にも、武器を持たない民衆にいっせいに発砲した。人々は倒れた。次々と、じつに四百五十五人もの生命が奪われたという。
 ガンジーは、その知らせを聞いて、言った。
 「もしも、背中に銃弾を受けた死体が一つでもあるならば、私に見せてくれ」と。
 敵に背中を見せるような人間は一人もいないはずだ。最後まで前へ前へと進み続けたはずだ。私は信じている、我が同志を、我が民衆を──というのである。痛切な一言であった。
 事実、倒れた人は、すべて胸に銃弾を受けていた。
 「これこそが非暴力の真髄です」とパンディ博士は語っておられる。何ものも恐れぬ勇気をもって、人々は戦ったのである。独立と自由のために犠牲になることを誉れと信じて戦ったのである。
 状況がどうであろうと、敵に向かって、一歩も引かない。一瞬もひるまない。最後の最後まで、「撃つなら、撃て」「殺すなら、殺せ」と、ひたすら前へ進んだ。
 その「勇気」自体が、一時の勝ち負けを超えた、根本的な「勝利」であると私は思う。
 学会は、絶対に信頼できる同志と同志のスクラムで、「民衆の大行進」を続ける。「勇気」の二字で永遠に前へ進む。一歩も引かない。
 「勇気」にこそ、「慈悲」も「信念」も含まれている。「勇気」にこそ、学会精神の精髄もある。
15  「信心」より強いものなし
 ここ軽井沢は、戸田先生と最後に旅した思い出の天地である。
 戸田先生は言われた。
 「いかなることがあろうとも、信心の強い者には、だれも頭が上がらない」
 まったく、その通りである。どこまでいっても、「信心」である。「学会精神」である。これ以上に強く、永遠のものはない。世間の立場も財産も名誉も、それだけでは、幻にすぎない。
16  御書には、説かれている。人に生まれて、国王や大臣などの身となって、これほどの楽しみはないと思っても、それは、仏法の眼から見れば「夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり」──夢の中の栄えであり、永続性のない儚い、幻のような楽しみにすぎない──と。
 少しも偉大ではない、と。
 真実の幸福とは何か。この根本課題は「三世永遠」という次元から考えなければ、絶対に解けない。
 ゆえに、大聖人は、四条金吾に「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」──蔵に蓄えた財宝よりも、身の財(健康を基本に身につけた技能、資格など)がすぐれている。その身の財よりも、心の財が第一の財なのである。この手紙を御覧になってから以後は、心の財を積んでいきなさい──と仰せなのである。
 どんなに有名になろうと、権力を欲しいままにしようと、また、巨万の富を蓄えようとも、それだけでは、一番大切な「心の財」は積めない。積めないゆえに、時とともに福運を消していく。
 結論していえば、学会活動こそが、最高の「心の財」を積む行動なのである。
 その意味で、学会員の皆さまは、毎日毎日、三世にわたって消えない福徳の貯蓄をしているようなものである。
 「心の財」の大長者──その人こそ、人間としての帝王である。真の仏法者である。
17  長野の方々は、信頼できる。人格と文化性のある方々が多い。「長野さえ健在であれば学会は健在である」との確信で、これからも私とともに、朗らかに前進していただきたい。
 (長野研修道場)

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