Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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創価学会精霊追善勤行法要 広布の大功徳は一切衆生を救う

1994.7.16 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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2  大聖人は、四条金吾に、こう仰せである。
 「かかる日蓮が弟子檀那となり給う人人・ことに今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なりいかでか餓鬼道におち給うべきや、定めて釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん、是こそ四条金吾殿の母よ母よと同心に頭をなで悦びほめ給うらめ、あはれ・いみじき子を我はもちたりと釈迦仏と・かたらせ給うらん
 ──このような日蓮の弟子檀那となられた人々、とくに今月(七月)十二日が命日にあたる妙法聖霊(四条金吾のお母さん)は、法華経の行者です。日蓮の檀那です。どうして餓鬼道に堕ちられることがありましょうか。きっと、(お母さまは)釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏の御宝前にいらっしゃることでしょう。(その仏がたは)「これこそ四条金吾殿のお母さんですよ、お母さんですよ」と、皆、同じ心で、お母さまの頭をなで、喜び、ほめておられるでしょう。お母さまは、「ああ、私は、なんと素晴らしい子供を持ったことでしょう」と、釈迦仏と語っておられることでしょう──。
 これこそ、日蓮大聖人の仰せ通りに妙法を持ち、行じ、弘めている門下の大功徳である。今、大聖人の仰せ通りに「勇猛精進」しているのは、創価学会だけである。
3  間断なく広布に進む凡夫が仏に
 「精進」の「精」とは「無雑」すなわち清らかで、まじりけがないという意義である。「進」とは「無間」、すなわち間断なく進む意義である。
 来る日も来る日も、私どもは広宣流布に戦っている。それが大聖人の仰せだからである。止まらずに進め、勇んで行動し、成仏の大境涯を開いていけ、「仏に成る」以上の幸福はない、仏道修行以上の価値ある努力はない──これが大聖人の御教えである。
 これを確信し、喜んで動いた分だけ功徳がわく。ぶつぶつ文句を言った分だけ(笑い)、功徳を消す。
 「凡夫」が、広宣流布へ間断なく進む姿に「仏」はある。″凡夫即極″″諸法実相の仏″が大聖人の仰せであり、これ以外に特別な姿の仏などないのである。
 また皆さまが広布に生き、「幸福」に輝いていくとき、その姿がそのまま先祖が成仏されている証明である。
4  もともと、「お盆」すなわち「盂蘭盆」という言葉は、どういう意味か。
 諸説あるが、伝統的には、サンスクリット語からの音訳であり、餓鬼道における倒懸とうけん(逆さ吊りの苦しみ)を救うための行事とされる。
 ところが、いつしか、貪欲な餓鬼道の僧が、私腹を肥やすための行事となってしまった。ここに、皮肉な転倒の歴史がある。
 聖職者に都合のよいように形式化された追善供養の本義を再生してくださったのが、大聖人であられる。大聖人が、追善を人間の手に、民衆の手に取り戻してくださったのである。その御精神のままに行動しているのが創価学会である。
5  御書にはお盆の際に、″僧侶を呼んで、お経をあげてもらえ″とか、″塔婆を立てて供養せよ″などとは、どこにも書かれていない。
 この四条金吾への御手紙(『盂蘭盆由来御書』)の中でも、名聞名利にとらわれた僧のことを、大聖人は、「食法餓鬼」と弾劾しておられる。
 そして有名な「盂蘭盆御書」には、こう仰せである。
 「いまの僧等の二百五十戒は名計りにて事をかいによせて人をたぼらかし一分の神通もなし、大石の天にのぼらんと・せんがごとし、智慧は牛にるいし羊にことならず、設い千万人を・あつめたりとも父母の一苦すくうべし
 ──今の僧たちは、二百五十戒とは名ばかりで、持戒ということに、ことよせて、人をたぶらかし、一分の神通力もありません。大石が天に昇ろうとしてもできないようなものです。(それらの僧の)智慧が劣っていることは、牛や羊のようであり、たとえ千万人を集めたとしても、父母の一つの苦しみをも救うことができるでしょうか。否、できはしません──と。
 なさけないことに、この通りの姿を現じているのが、宗門である。食法餓鬼である悪僧たちは、「お盆」などの機会を利用して、庶民の心情につけこみ、取れるだけ取ろうとする。
 しかし、大聖人が示された、まことの追善回向とは、一切衆生に妙法の福徳を送りゆかんとする、最も崇高なる心の発露なのである。
6  ″仏勅の同志″の唱題こそ真の回向
 きょうは、遠く地球の反対側のアルゼンチン、またブラジルからも、代表の青年リーダーが参加されている。
 大聖人が示される追善は、一家、一族に閉ざされたものではない。世界へ、人類へ、そして宇宙へ、三世永遠へ、尽未来際へと、限りなく開かれている。
 「盂蘭盆御書」には、仰せである。
 「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし、目蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生・三悪道さんあくどうはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ、故に法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云
 ──悪の中の大悪は、その罪の報いの苦しみを、我が身に受けるだけでなく、子と孫と子孫七代までもかかるのです。善の中の大善もまた同じです。目連尊者が法華経を信じられた大善は、目連尊者自身が仏になっただけでなく、目連尊者の父母も仏になられたのです。また上七代、下七代、上無量生、下無量生の父母たちまでも思いがけなく成仏されたのです。
 さらには、子息、夫妻、家来、檀那、無量の衆生が三悪道を離れただけでなく、皆、ことごとく(菩薩の修行で不退の位である)初住の位に昇り、また(極果である)妙覚の仏となったのです。
 ですから、法華経の第三の巻に、「願わくは、この功徳をもって広く一切衆生に及ぼし、我らと衆生と、皆、共に仏道を完成させたい」等と説かれているのです──。
 本日は、全国の会館で「勤行法要」が行われているが、学会の法要こそが、大聖人のお心にかなった追善である。
 また、「常盆」「常彼岸」といわれるように、年に数回だけでなく、皆さまの毎日の勤行・唱題、そして日々の学会活動こそが、何よりの追善となっている。
 大聖人は、若き南条時光に対し、大難の時に、いよいよ強盛に信心を貫くことが、そのまま、亡き父の成仏につながっていくことを教えてくださっている。
 「難即悟り」である。難に耐えて広布を進めてこそ大功徳があり、「仏」という大幸福境涯が開かれる。学会の福徳が、加速度的に倍加してきたのも、このためである。
 反対に、迫害する人間は「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」──はじめは何もないように見えて、最後には滅びない者はいない──と大聖人が仰せのように、必ず滅亡していく。迫害に屈さぬ正義の人は必ず最後には勝つ。
7  末法の功徳は「冥益」が基本である。樹木が年ごとに大きく育つように、そして一定の条件が整えば一斉に開花するように、必ず福徳に満ちあふれた「永遠の勝利者」となっていく。
 そのために日々の仏道修行の「努力」がある。努力する人は進歩する。努力する人は人間革命していく。ゆえに、努力するリーダーの周囲は幸せである。
 この群馬の出身であられる日寛上人は、御書(「妙法曼陀羅供養事」1305㌻)の文段もんだんで、妙法こそ、生死の旅路を照らす「大燈明」であり、霊山浄土へと速やかに導く「良馬」である、と述べられている。この妙法を高く掲げて、生死ともに、悠々と、楽しみきっていけるのが、創価の世界なのである。
8  戸田先生「宗教は幸福な社会の根本原理」
 ここ群馬は、戸田先生が戦後、広布拡大の戦闘を開始された天地である。
 戸田先生は、「われわれが真に幸福になり、平和で幸福な社会を建設するために根本的な原理となり規準となるものが、宗教でなくてはならない。すなわち葬式とか法事などの形式は宗教ではないのである」(「生活指導原理としての価値論」、『戸田城聖全集』第三巻)と喝破しておられた。
 この宗教革命の大道を、さらに朗らかに前進してまいりたい。日本一の「模範の群馬」を築いていただきたい。
 そして、だれよりも楽しく、素晴らしい人生であり、ご家族であっていただきたいと念願し、記念のあいさつとしたい。
 (群馬・渋川平和会館)

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