Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ヨーロッパ・アジア交流会議 「母の心」をわれは崇めん

1994.6.6 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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2  この像は現在、ミラノのスフォルチェスコ城にある。ナポレオンが一七九六年、ミラノを占領したとき、使った城である。
 ピエタ像は、ローマで作られたものだが、ロンダニーニ宮に所蔵されたあと、一九五二年にこの城の博物館に置かれた。
 ミケランジェロの作品はすべて、肉体的な美が極限まで表現されている。しかし、この像には、まったく、それがない。純粋に精神そのものが表現されているかのようである。
 たとえば、母と子は、かつて一つだったように、もう一度、溶けて一つになっているかに見える。
 母が子の上にかがみ、抱いているのだが、子が母を背負っているようにも見える。
 死が二人を引き離したのだが、死が二人を結びつけたかのように見える。
 子の体は地に倒れようとしているのだが、母のいる上方へ引き上げられているかにも見える。
 ミケランジェロは、この作品で、自分自身の″魂を彫った″のだと私は思う。
3  ミケランジェロ「僧侶が世の中をめちゃくちゃにした」
 ミケランジェロには「信仰はあったが、聖職者への尊敬はまったくなかった」と伝えられている。
 彼は巡礼に行こうという甥に、そんなことはやめるよう手紙を書いている。(一五四八年四月七日)
 「坊様に金を持って行けば、彼らがそれで何をするかは神様がご承知だから」(コンディヴィ『ミケランジェロ伝』高田博厚訳、岩崎美術社)
 また、ある人が寺院に一僧侶の像を描こうとしたとき、彼は、そうすれば絵の全体がだめになると考えて言った。
 「僧侶というものはこんな大きな世の中でさえめちゃめちゃにしてしまったのだから、この小さな礼拝堂をめちゃめちゃにするからといって驚くにはあたらないだろう」(ロマン・ロラン『ミケランジェロの生涯』蛯原徳夫訳、『ロマン・ロラン全集』13所収、みすず書房)
 また法王パウロ四世が、彼の絵を修正させようとしたときも、言い放った。
 ″絵を直すことなど、わけもないことだ。法王は世の中を正しく直してみせてみよ″
 彼は、長い付き合いで、聖職者のウソと腐敗を、裏の裏まで知りつくしていた。何が聖職者だと、腹に怒りを貯めこんでいた。
 そんな彼が、最後に、だれから依頼されたのでもなく、自分自身のために作ろうとしたのが、この母子像だったのである。
 ミケランジェロは終生、「人間」の精髄を求め、「人間」の醜悪を、とことん味わいつくしながら、なおも「人間」の至高の美を究めんとした。母子像は、そんな彼の生涯の集約であり、到達点でもあった。
4  ミケランジェロは生まれてまもなく、里子に出され、父母から離れている。また、実の母は、彼が六歳の時、死んでしまった。彼には母親についての思い出はなかった。
 この点は、レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二年〜一五一九年)も同じである。レオナルドは庶子であり、生みの母とは生後すぐに別れ、父の結婚相手とも離れて暮らした。
 ミケランジェロが母親について、どんな感情をもっていたかはわからない。しかし人一倍、母性や母の愛というものに敏感であったことは、確かなようだ。あるいは彼にとって、″母″とは、自分を現世に送り出してくれた″大宇宙″のシンボルだったかもしれない。
 そう見るとき、臨終を前にした彼は、死によって「母なる宇宙」に融合する願いを、この像にこめたのかもしれない。
5  「悲母の恩を報ずる」ために
 日蓮大聖人は仰せである。
 「父母の御恩は今初めて事あらたに申すべきには候はねども・母の御恩の事ことに心肝に染みて貴くをぼへ候、飛鳥の子をやしなひ地を走る獣の子にせめられ候事・目もあてられず魂もきえぬべくをぼへ候、其につきても母の御恩忘れがたし
 ──父母のご恩が大きいことは、今、初めて、あらたに言うようなことではありませんが、母のご恩のことは、とくに心肝に染めて、尊く思っております。飛ぶ鳥が子供を養う姿、地を走る動物が、子供に(えさをくれるよう)せめられている姿──それらは(哀れで)見ることもつらく、魂も消えるような気持ちがします。それにつけても、母のご恩は忘れられません──。
 大聖人御自身が、一人の子供として、「母の御恩」をしのばれている。
 私どもも、母の恩を、そして″広布の母″婦人部の皆さまの大恩を忘れてはならないと、私は思う。
6  大聖人はまた仰せである。
 「但法華経計りこそ女人成仏・悲母の恩を報ずる実の報恩経にて候へと見候いしかば・悲母の恩を報ぜんために此の経の題目を一切の女人に唱えさせんと願す
 ──ただ法華経だけが女人成仏の経であり、悲母の恩を報じる真実の「報恩の経」であると見きわめましたので、悲母の恩を報じるために、この経の題目を一切の女人に唱えさせようと願ったのです──。
 弘教といい、広宣流布といっても、その根底が、「お母さんへの恩を返したい」という人間としての心情から出発していたと仰せなのである。
 仏法は、どこまでも人間主義である。
7  善の「根」を養え、悪の「根」を断て
 ミラノのスフォルツァ城の博物館には、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた天井画の部屋もある。
 壁面には果樹の幹。上に向かって、枝を茂らせ、天井で枝とツタがからみ合っている。
 私が感心したのは、レオナルドが、樹木の「根」まで描いていることである。ここに天才の透徹した眼力を感じた。ものの奥の奥まで″究めつくす″レオナルドの眼である。
 彼は人体を正確に描くために、人体の解剖にも熱心に立ち会ったといわれている。
 壁面に描かれた「根」は、長い間、知られていなかったが、後年、部屋を修復した際に発見されたという。
 「根」は見えない。しかし全体を支えている。
 人間にも「根」がある。組織・団体にも「根」がある。社会にも、文明にも、宗教にも「根」がある。「根」が深ければ、「枝」は茂る。天に向かって、大きく伸びていける。
 多くの人々は、目に見える部分にしか注目しない。しかし、私どもは、何ごとも、どこに「根」があるかに着目し、よき「根」を養い、育てることに全力を尽くさねばならない。
 ──今、宗門は「信心」をまったく失い、「根」を失ってしまった。時とともに枯れていくことは必然である。もう未来は決まっている。
 宗門にあるのは悪の「根」だけである。その「一凶」を断ち切らなければ、悪の雑草はいつまでも生え続ける。
8  レオナルド・ダ・ヴィンチについては、ボローニャ大学で講演した(六月一日)。
 ボローニャ大学は、多くの「ルネサンスの人材」を生んだ。その一人が詩人ペトラルカ(一三〇四年〜七四年)である。
 彼は『老年書簡集』の中で、ボローニャででの青春時代を懐かしく振り返っている。
 「ボローニャほど楽しく自由なところは世界中どこにもなかったと思われます」(近藤恒一『ペトラルカ研究』創文社)
 ボローニャ大学の旗には、ラテン語で「リベルタス(自由)」とある。
 同大学の九百年祭の折に誕生した「大学憲章」は、この「自由」の精神を現代にさらに輝かせるものであった。憲章には、日本の代表の一校として創価大学も署名した。
9  ペトラルカは、当時の聖職者の腐敗を繰り返し批判している。
 「ところかまわぬ横行闊歩の群れ。粗食節制のかわりに、享楽の酒宴。敬虔な巡礼の旅のかわりに、非道淫靡な無為安逸」(「教皇庁批判」近藤恒一編訳、『ルネサンス書簡集』所収、岩波文庫)
 「まもなく信徒大衆は、魚のうろこを剥ぎとるようにはだかにされ、苦悶の炎と災いの炭火で焼かれて、貪欲な底なしの胃袋をみたすことになりましょう」(同前)
 こうした「怒り」が、ルネサンスを生んだのである。
 ペトラルカは″ヒューマニズム(人間主義)の父″とうたわれている。
10  日淳上人「牧口先生は遣使還告の地涌の菩薩」
 六月六日は、牧口先生(初代会長)の生誕百二十三周年に当たる。
 牧口先生は、軍部ファシズムの弾圧にも決然と「精神の自由」を守り、獄死された。「創価ルネサンスの父」である。
 日淳上人は、こうたたえておられる。
 「法華経に、遣使還告の薩埵さったということがありますが、仏の道を教育に於て実践された、此れが先生の面目であると私は深く考えておるのであります」(一九四七年<昭和二十二年>十月、創価学会第二回総会。『日淳上人全集』)
 「従来、仏法に於て価値という考え方は、なかったかと私は思いますが、ここに先生の一歩進んだ仏法があったのではないか、今の世に一切の人々を導く尤も適宜な行き方を示されたのではないかと思うのであります」(同前)
 「遣使還告の薩埵さった」とは、末法においては妙法を弘通する地涌の菩薩をさしている。
 「観心本尊抄」にも「地涌千界末法の始に必ず出現す可し今の遣使還告は地涌なり」と示されている。
 牧口先生は、御本仏のお使いとして、広布の先駆をきられた「地涌の菩薩」である、と言われているのである。
 また価値論について、現代人を導くのにふさわしい行き方であったと評価されている。「一歩進んだ仏法」である、と。
 私どもは、この偉大なる牧口先生、そして戸田先生と「不二」の心で生き抜きたい。
 師弟の道を行くかぎり、いずこの社会であろうと、いかなる課題があろうと、必ず勝利できる。必ず幸福になる。必ず発展する。必ず、広々と栄光への道が開けるからである。
 (イタリア・ミラノ市内)

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