Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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イタリア勤行会 強き信心は一切を功徳に変える

1994.6.1 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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2  このフィレンツェが育んだルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ヴィンチ──皆さま方への感謝を込めて、世界最古の大学ボローニャ大学で、彼に関して講演することになっている。
 彼は、「科学」「芸術」「人生」等、万般にわたって論じているが、「薬」にも言及している。すなわち、薬を適切に用いて、病人を癒すためには、「人間とは何か」「生命とは何か」「健康とは何か」について学ぶことが大切であるとしている。
 このレオナルドが、仏法の生命観が示す「変毒為薬(毒を変じて薬と為す)」の法理を知ったなら、深く賛同したにちがいない。
 この「変毒為薬」に関して、アメリカの聖教新聞特派員から、興味深い報告があったので、そのままご紹介したい。
 アメリカ心理学会で常に先駆的な研究で知られるマーチン・セリグマン博士(ペンシルベニア大学心理学部教授)にインタビューした内容である。
 そのなかで、仏法の「変毒為薬」の法理が話題となったという。
 教授は「毒を変じて薬となす」との法理は大変、興味深いものであるとシテ、こう言われた。
 「まず医学的に言って、薬とは本来、毒性を持つものである。その薬が体内に入って効果を表すのは、人間の体に『毒を変じて薬となす』機能が備わっているからである。具体的には″毒性のある″薬が体内に入り込むことによって、人体がその毒と闘う。その闘いの効力によって、以後、体内に侵入する毒に対して抵抗力ができ、病気の治癒へ向かう」(趣旨)──と。
3  「悩み」に勝て、その強さに「幸福」が
 そして人間の精神についてもまったく同じことが言える、と博士は指摘する。
 すなわち、人間に外部から苦悩や抑圧が与えられることによって、かえって、人間の生命の中から、新たな可能性が開発されていく。
 一般にも、何か悪いことが起き、ひとつの可能性が閉ざされても、それは必ず、他の新たな可能性を開くきっかけを、私たちに与えてくれると言われている。
 これを″毒の徳性″″悲劇の徳性″と表現してもよい、と博士は語っている。
 「人々は表面的な成功観、幸福観を脱することができません。だから、この(毒の)徳性がなかなか理解できないのです。成功というと、良い家を持つこととか、良い収入を得ることとかを思いがちです。しかし、真の労苦なくして得たものは『ガラスの城』のように、もろく崩れてしまいます。外圧に出あった時に、壊れてしまう。
 それは、国にしても文化にしても、まったく同じです。苦悩や悲劇に揺さぶられながら大地に深く根を張ったもののみが、永続的な価値を生むのです」
 「個人の人生を見ても、偉人といわれる人の多くが青少年時代に父や母を亡くしています。
 偉大な仕事は、青年期の困難やハングリー精神に磨かれてこそ、成就するものです。その意味で、アメリカや日本の青少年が、子供の時代に甘やかされて育てられていることに危惧を感じます。
 アメリカでは子供たちに自尊の心を育てようとして、逆に子供たちに自己喪失感、無力感を与えてしまいました。それは、子供たちに良い思いをさせ、困難に直面させないようにすることで自尊の心を育もうとしたからです。
 子供たちを困難から避けさせてしまうと、子供たちは困難から何のメッセージも受け取れないようになってしまう。そして、困難に挑戦しようとする心を閉じさせてしまう。ゆえに人生の真の充実感を味わえなくなってしまうのです」
 こうした経過を通して、子供たちは無力感、自己喪失感に陥ってしまう、というのである。
 「大人たちが今、深刻に理解しなければならないのは、『困難、悲劇を乗り越えるなかにこそ、真の人間の幸福がある』ということです。それなくしては人間の英知も開発されず、人格の深化もありえないということです。
 人類の未来のために、世の指導者たちは、そのことを正しく子供たちに伝えていくべきなのです」
4  悪と戦ってこそ生命は健康に
 さらに、博士は、一般に人間にとってのマイナスの価値、毒性とさえ思われがちな″怒り″の心こそ、人間を強くしていく薬であることを、強く主張されたという。
 すなわち怒りをもってこそ正義は発現される。怒りなき人生は、正義なき人生と同じである──と。
 「少し劇的な表現をすれば、『私たちが臆病であれば、悪魔が高らかに勝利を宣言する』ということです」
 同特派員は書いている。
 「悪魔の概念を心理学的に表現すると、無慈悲、冷淡、無神経に支配された人格──専門的にはサイコ・アパシー(心理的無感動)の異常人格者と、博士は定義されていました。日顕の性癖そのままであると驚きました」
 そして博士は「このような(悪の)存在がなければ、善人の高貴さが証明されないから、そうした悪の存在にも意味があります。
 しかし私たちは、そうした悪や独裁に対しては戦わなければなりません。
 多くの人は、そうした悪に接すると、無力感をもち、悲観的になって、悪の支配を許してしまいます。だから私たちは逆に、悪に対して常に楽観主義の心を堅持し、決して無気力に陥らず、戦い続けなければなりません。その戦いを支えていくものこそ″怒り″の心なのです」と結論されている。
5  レオナルド・ダ・ヴィンチも「障害は私を屈せしめない。あらゆる障害は奮励努力によって打破される」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)と書いている。
 信心の一念が弱ければ、″毒″は、ただの″毒″で終わってしまう。
 しかし信心の一念が強ければ、どんな″毒″でも″薬″に変えて生かしていける。
 ゆえに大確信をもっていただきたい。悩みが深ければ深いほど、幸福になれるのである。一番苦しんだ人が、一番幸せになれるのである。それが「妙法」である。すなわち「不可思議の法」の絶大の力用である。
6  人情の機微を大切に
 さて、今年は国連の「国際家族年」である。その意味からも、イタリア婦人部の皆さまが中心となり、″地球家族″という視点に立って、旧ユーゴ難民ヘの援助活動を積み重ねておられることを、私はたたえたい。(拍手)
 また、日本の婦人部も「わたしたち地球ファミリー展」を開催し、大きな反響を広げている。
 「家庭」「家族」という、これからの重大なテーマに、仏法の人間主義の英知は、ますます力強く蘇生の光を贈りゆくと私は信ずる。
7  本日は一点、身近なことを確認しておきたい。
 イギリスの「黄金の十九世紀」。そこに君臨したのは有名なヴィクトリア女王である。六十五年にも及ぶ治政であった。(在位一八三七〜一九〇一年。十八歳から八十二歳まで)
 夫君のアルバート公との仲の良さは有名であった。こんな話が伝わっている。
 あるとき、アルバート公と口論になった。公は怒って自分の部屋に閉じこもってしまった。
 女王も怒りたけって、激しく公の部屋をノックした。
 「だれだ?」と公の声。
 「女王です」
 ところが返事もなく、ドアも開かれなかった。
 もう一度、ノックした。
 「だれだ?」
 「女王です。開けてください」
 しかしドアは開かない。
 こうしたやりとりが何度か続いた。やがて女王はハッと気がついた。そして、「だれだ?」と聞かれて今度は「女王です」と言わず、「あなたの妻です」と答えた。するとドアはただちに開かれた。(ストレイチイ『ヴィクトリア女王』小川和夫訳、冨山房。参照)
8  史実かどうかはわからないが、こうしたエピソードが敬愛の念をもって語り伝えられている。
 人間の心の微妙な実相──さまざまな示唆を含んだ話と思う。
 SGI(創価学会インタナショナル)の組織でも、たとえば夫人のほうが役職が高い場合がある。しかし、いうまでもなく、役職は役職、夫婦は夫婦である。
 家庭に役職を持ち込むのもおかしいし、それらを混同することも愚かである。
 どちらが上とかということではなく、夫には夫の、妻には妻の務めがあると思う。相手の立場を十分、理解したうえで、家庭の中では家庭のルールに従うのが基本であろう。
 それは、ご主人が信仰されていない場合、夫人が信仰されていない場合も、同じである。
 また、周囲も、こまやかな配慮が必要である。メンバーの家族の方々への、誠意を込めた、尊敬と礼儀が大事である。こうした人情の機微を大切にしていくなかに、本当の「信心」がある。
9  功徳あふれる″仲良き″前進を
 最後に御書を拝したい。
 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
 ──総じて日蓮の弟子檀那らが、″自分は自分、他人は他人、あちらはあちら、こちらはこちら″と隔てる心がなく、水と魚のような(互いに離れない関係であるという)思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを、生死一大事の血脈というのである──。
 ″皆と仲良く前進しよう″″皆と一緒に戦おう″この思いで、ともに妙法を唱え、進むことがどれほど崇高なことか。
 そこに御本仏の真の「血脈」は通っている。人間の体を生きた血液が駆けめぐっているように、生き生きとした信心の組織に、妙法の血潮が脈打つのである。
 ゆえに、心を合わせて、皆の幸福のため、広宣流布のために祈り、動く、その人に「大功徳」がわかないはずがない。
10  どうか、世界の「栄光の天地」イタリアに、世界仲良く、明るく、希望みなぎる和楽のスクラムを築いていただきたい。
 皆さまの「幸せ」と「健康」と「長生き」を、私はくる日もくる日も祈っている。一生涯、祈り続けたい。(拍手)
 その思いをお伝えし、重ねて御礼を申し上げたい。グラッチェ・ミッレ(本当にありがとう)!
 (フィレンツェ・イタリア文化会館)

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