Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三回ドイツ最高会議 「仏法」とは「人生の法」

1994.5.26 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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2  偉大なる仏教が、インドで、どうして滅んだのだろうか。この点について興味深い観点がある。
 ネルー首相は、仏教滅亡の理由が、ずっと疑問であり、考え続けてきたという。アンドレ・マルロー氏に会ったとき、ネルー首相は、思索の結論を氏に語った。
 マルロー氏とは私も二度、対談したが、仏教に深い関心を寄せておられた。ヨーロッパに将来、仏教を基盤とする文明が生まれる可能性を否定できないとも語っておられた。
 ネルー首相の考察は次のようであった。
 「仏陀の天才は、あくまでも仏陀が人間であるという事実にもとづいていた。人類の生んだもっとも深遠なる思想のひとつ、剛毅な精神、このうえなく崇高な惻隠(=慈愛)の情。さらには、神々にたいしてまっこうからこれと向きあった告訴者の態度」「しかし仏陀の神格化が行なわれたとたん、仏陀その人はこの神々と同列にくわえられ、姿を没してしまった」(アンドレ・マルロー『反回想録』竹本忠雄訳、新潮社)
 釈尊は、あくまで「人間」として生き、神々にも強く訴えた。
 日蓮大聖人も、諸天善神である八幡大菩薩を諫られている。神にすがるのではなく、″妙なる法″を持つ「人間」として、神を動かされたのである。
3  人間が″いかに生きるか″を示す
 本来、仏教は″人間の生き方″を説いたものであった。釈尊は「このように生きよ」「人生をこう生きよ」と、我が身で教えた。そこには師弟の道があった。
 しかし、いつしか「人間・釈尊」は権威化され、人間を超えた神になっていった。
 今でもインドの多くの人々は、釈尊を尊敬してはいるものの、ヒンズー教の神々のひとりのように、あがめているようである。
 「仏」とは、ありがたく礼拝する対象であっても、″その生き方に続く″存在ではなくなった。師弟の道も見えなくなった。
 仏教が″人間の生き方″でなくなったとき、インドでは、仏教は死んでしまった。──これがネルー首相の結論であった。
 今、宗門にも、″人間の生き方″としての仏教は、まったくない。彼らは、大聖人の仏法を、「人間はこのように生きよ」という教えではなく、自分たちを権威づけるための飾りにしてしまった。自分たちの堕落を正当化するための手段にした。仏法の滅亡の姿である。
4  そもそも日蓮大聖人の戦いも、ある面から言えば、″仏教を人間化する″戦いであられたと拝される。人間の実生活から遊離していた仏教を、人間の手に取り戻し、現実の生活法として教えられた。
 「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」
 こう叫ばれた。
 当時、日本でも、阿弥陀仏とか、大日如来とか、「仏」を遠い、超越的なものとして説く仏教が流行していた。また法華経での仏も、一般には、人間とはかけ離れた存在としてとらえられていた。それらを大聖人は逆転された。
 「日蓮本仏論」の思想的な意義も、ひとつには″仏教の人間化″にあったと拝される。
 諸法実相抄には、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」──凡夫は本体としての三身であり、本仏である。仏は、(本体の)働きとしての三身であり、迹仏である──と仰せである。
 くわしくは論じないが、大聖人の重要な法門である「観心の本尊」も、「名字究竟」も、「等覚一転名字妙覚」も、「凡夫即極」も、″仏教の人間化″という観点から見るとき、その深義に、より迫れるかもしれない。
 妙法を信じ、行じる「人間」こそが、「仏」だということである。妙法の「信心」にこそ「仏界」はあるということである。
5  ″私はこう生きた″との奇跡を社会に
 それでは、どのような「人間」が「仏」なのか。どういう生き方が「仏」としての生き方なのか。
 日蓮大聖人が教えられたのは、「社会のなかで三障四魔と戦い、打ち勝っていく」人生である。妙法のため、人間のために、広宣流布に生き抜く人生である。
 そして大聖人自ら、その模範を示されたのである。その道に続いているのがSGI(創価学会インターナショナル)であり、皆さまお一人お一人である。皆さまこそ「仏」と輝く方々なのである。
 創価学会は、大聖人の御精神どおり、仏法を生活のなかで、人間の生き方として実践してきた。大聖人が仏教の原点に返られたように、創価学会が大聖人の仏法の信心の原点に返ったのである。出発点である「人間」に帰ったのである。
 あるとき、戸田先生は、ひとこと、我々の信心は「人間宗」と言われた。徹底した「人間主義」こそが、大聖人の仏法なのである。組織においても、リーダーが、自分自身の″人間としての生き方″を常に問いかけ、向上していこう、成長していこうという息吹があるかどうかである。
 その求道心がリーダーにあれば、全体が躍動していく。自分が成長せずして、人を動かそうとすると、無理が生じ、そこから抑えつけたり、いばったりする幹部が出てくる。
6  マルロー氏に、ネルー首相は、こうも言った。
 「ガンジーの言った意味は、ほぼ、『神は個の人間にあらず、神は法なり』ということです。ガンジーはまた、不変の法とも言っています」(前掲『反回想録』)
 敬うべき対象は、人間とかけはなれた神ではなく、「不変の法」である、と。マルロー氏の答えは、鋭かった。
 「してみると、やはりそれはアインシュタインの断言したこととおなじですね。『もっとも驚嘆すべきことは、この世界が明らかにある意味を持っているということである』とアインシュタインは言っている」(同前)
 この世界、この宇宙は、でたらめの無秩序なものではなく、厳然たる法則にのっとっているとアインシュタインは考えたのである。ガンジーとアインシュタインを結ぶもの。宗教と科学を結ぶもの──それは「法」であると考えられる。
 トインビー博士も常々、「宇宙の背後にある究極の精神的実在」について論じられたが、私と対談した折、その″究極の実在″とは、人格神でなく、「法」であると思うと結論された。
 その「究極の法」に生きているのが、私どもである。人類文明の最先端にいることを自覚していただきたい。
 「神」は人間から超絶しているが、「法」は人間も含めた万物に普遍的なものである。正しき「法」にのっとって生きれば、平等にだれもが「仏」になり、「幸福」になる。
 妙法に生きる人が「仏」にならないはずがない。「絶対の幸福」を築けないはずがないのである。
7  「信心」が燃えれば「太陽」が昇る
 ヨーロッパの五月は美しい。ある詩人は「うるわしの五月」と歌った。花の祭りが行われるところも多い。五月の太陽は美しい。五月の太陽は優しく、温かく、希望に満ちている。
 大聖人は四条金吾の夫人に、こう書かれている。
 「大闇をば日輪やぶる女人の心は大闇のごとし法華経は日輪のごとし
 ──大きな闇を日輪は破る。女性の心は(悩みが絶えず)大きな闇のようである。法華経は日輪のようである──。
 真っ暗の闇夜も、ひとたび太陽が昇れば晴れわたる。妙法を唱え、妙法の信心を燃やせば、いかなる心の闇も消え去る。ゆえに、胸中に「信心の太陽」を昇らせることである。人生は信心の「心」で決まる。幸福もその「心」ひとつで決まる。
8  この御手紙は、佐渡で書かれている(文永九年四月)。御自身の大難のさなかに大聖人は、名もない在家の女性を、渾身の力で激励されたのである。そして「この手紙は、(同志である)藤四郎さんの奥さんといつも寄り合って、読みなさい」と、団結を教えておられる。
 「一人の門下も、不幸にさせたくない」との大慈悲が迫ってくる御言葉である。学会の婦人部も、御書の通り、「常に寄り合って」進んでいる。
 これほどの乱世のなか、婦人の身で、真剣に信仰を貫いている。その姿を大聖人は、″ただごとではない″と仰せである。決して、当たり前のことではない。本当に不思議な、深い深い意味のあることなのである。
 「おのおの・わずかの御身と生れて鎌倉にゐながら人目をも・はばからず命をも・おしまず法華経を御信用ある事ただ事とも・おぼえず
 ──あなた方は、身分も低く生まれ、しかも(迫害の強い)鎌倉に住みながら、人目をもはばからず、命をも惜しまず、法華経の信心をされていることは、ただごととも思えません──。
 「釈迦仏・普賢菩薩・薬王菩薩・宿王華菩薩等の各各の御心中に入り給へるか、法華経の文に閻浮提えんぶだいに此の経を信ぜん人は普賢菩薩の御力なりと申す是なるべし
 ──釈迦仏が、また普賢菩薩(英知の力をもつ)が、薬王菩薩(病苦を治す力をもち、法華弘通を誓った)が、宿王華菩薩(神通力で法華経を守護する)等が、あなた方の生命の中に入られたのでしょうか。法華経の経文に「世界で人々がこの経を信じるとき、それは普賢菩薩のお力である」とあるのは、このことでしょう──。
 大聖人は、けなげに戦う婦人門下の生命の中に釈迦仏を拝しておられた。普賢菩薩の力、薬王菩薩の力、宿王華菩薩の働きを、はっきり、御覧になっていた。
 何と尊いことかと、称嘆なされていた。婦人の懸命な戦いを当たり前のように思っては、この大聖人の御心に反する。御心に反すれば、罪となる。
 私は常に「婦人部を尊敬し、婦人部を大切に」と申し上げている。「広布に戦う学会員を尊敬し、学会員を大切にする」──これこそが、御書に示された大聖人の御心の実践である。
 また生命に釈迦仏が入って働いている、その人が幸福にならないはずがない。″普く賢い″働きの普賢菩薩が生命に入っていて、賢くならないはずがない。薬王菩薩が入っていて、健康にならないはずがない。
 宿王華菩薩の「守護の力」もまた、広布に生きる女性の生命を包んでいることを確信していただきたい。
9  広布に働く「心」が我が身を飾る
 「ただ心こそ大切」である。
 たとえば、会館を花で飾ってくださる。その「心」が我が身を飾り、生々世々、花に包まれるような境涯になっていく。会館を大切にする人は、広宣流布を大切にする人だからである。
 また陰で、広宣流布のために汗を流し、地道な労作業をしていく。その「心」が、我が身を「健康」にし、我が生命を「頑健」にしていく。そのように「心」を見るのが仏法の眼である。
 広布のために、勇んで働けば働くほど、我が生命に福運が充満してくる。仏法に絶対にムダはない。
 どうか「よき人生」を送っていただきたい。SGIとともに、楽しく、価値ある一生を生きていただきたい。皆さまの栄光輝く人生をお祈りし、記念のスピーチを結びたい。ドイツには、また何度もまいります。
 (ドイツ・フランクフルト近郊)

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