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日蓮大聖人・池田大作

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第77回本部幹部会、「聖教新聞」配達員… 今、民衆は進歩する、求道の人が輝く

1994.4.25 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

前後
2  シェークスピアは、ある劇(『ヘンリー六世』)の中で、フランスを救った乙女ジャンヌ・ダルクを生き生きと描いている。
 イギリスとの戦いに敗れ、逃げることばかりを考えている、王子とその臣下たち。そこに、さっそうと、十七歳のジャンヌ・ダルクが現れる。女子部のような、凛々しき姿である。
 ジャンヌは、あくまで戦うよう説得するが、王子は心を決めかねた。臣下たちも、乙女を見下して、″そんな少女の言うことなど聞かずに、城を捨てて逃げましょう″と、王子に弱腰の訴えを繰り返す。
 城を守り、人々を守るべき王子たちが、いざという時に情けない臆病の姿をさらけ出してしまった。臆病者は、最後は悲惨である。
 日蓮大聖人は、「あへて臆病にては叶うべからず候」と述べられている。決して臆病であってはならない。臆病であっては願いもかなわない。たとえば、剣を持っていても、剣を抜いて戦わなくては切ることができないのと同じである。
 王子たちの臆病の心を断ち切るように、ジャンヌは叫ぶ。
 ″私たちの城を断じて守るのです。皆、何という弱虫ばかりでしょうか!″と。
 「創価学会を守るのです!」──と叫ぶ女性の方々のようである。彼女は、王子たちの″心″を変えた。
 根本は″心″である。人数でも、財力でも、建物でも、軍勢の力でもない。所詮は、″心″が勝負を決する。
 大聖人は、「ただ心こそ大切なれ」と仰せである。これが大聖人、また釈尊の仏法の結論である。
 ある方が、この東京牧口記念会館に隣接するナポレオン広場にあるナポレオン像の台座の言葉を読まれ、「本当に感銘しました」と語っておられた。そこには、「最後は『精神』が必ず『剣』に打ち勝つ」(ナポレオンの言葉)とある。
3  口では立派なことばかり言って、いざとなると逃げ腰になる弱虫を、ジャンヌは叱咤した。そして、男性たちに向かって、こう言い放つ。
 「息が続く限り戦うのです。私がついています」(『ヘンリー六世』小津次郎・喜志哲雄訳、『世界古典文学全集』43所収、筑摩書房)
 この勇気の声に、王子は立ち上がった。
 ″そうだ! 自分たちの城だ。自分たちで守らなくてはいけない″──。ここから、状況が一変していった。この痛快な場面は、あまりにも有名である。
 ″命ある限り、戦い続けよ″″命ある限り、希望を捨てるな″──シェークスピアは、ジャンヌの言葉を借りて、こう訴えた。
4  ″古き文明は一掃された!″″今、建設の時!″
 また、別の有名な作品(『アントニーとクレオパトラ』)でも、彼はこう記している。
 「人間の心というものは、活動がとまってしまうと、雑草が生える」(小津次郎訳、同全集46所収)
 その通りである。川の水も、流れが止まれば、濁ってしまう。
 信心を失い、広布の活動を避ける人間は、生命が濁る。そういう人を信用できるはずがない。
 皆さまは、広宣流布の舞台で、さわやかに動ききって一生を飾っていただきたい。大聖人の仰せに間違いはない。大聖人が、また釈尊が断言されているゆえに、私は申し上げるのである。
 広宣流布のロマンは、人生の最高の歴史となる。どうか、心豊かに、心強く、「美しき人生」「素晴らしき人生」「後悔なき人生」を歩んでいただきたい。(拍手)
 フランスの文豪ユゴーは、シェークスピアを賛嘆してやまなかった。
 その偉業を論じた著作の中で、ユゴーは、シェークスピアを、イタリアのダンテらと並び称えて、彼らに「人間の思想の大道」(『シエクスピーヤ』本間武彦訳、ユーゴー全集刊行会編『ユーゴー全集 再版十二巻』所収、以下、引用は同じ)はあると記している。
 人間が進むべき大いなる道を彼らは示した。それよりさらに深く、さらに偉大な道は、妙法の大道であり、広宣流布の大道である。
5  またユゴーは、″今こそ建設の時である″と呼び掛けている。
 「行く手を遮ぎる旧時の文明は、我ら等が祖父の力で悉く一掃されて居る」
 進歩を妨げる古い文明は、今や一掃された。さあ、建設を始めよう──と。
 ユゴーは、つづっている。
6  三つの問題がここにある──
 何を建設するか。
 何処に建設するか。
 如何に建設するか。
 我れ等は答える──
 民衆を建設するのである。
 進歩のうちに建設するのである。
 光明に依って建設するのである。
 創価学会も、この精神で進んできた。これからも力を合わせて、栄光の歴史を、ともどもに建設してまいりたい。(拍手)
7  牧口先生「命がけで信心せよ、最高の善がわかる」
 あるとき、一人の青年が、牧口先生に質問した。ちょうど六十年前の話である。
 まだ信心していなかったその青年は、こうたずねたという。
 高い次元における善悪を、どうすれば凡人が判断できるのでしょうか?
 「善」とは何か。「悪」とは何か。善悪をどう判断していけばよいのか──まことに大きな課題である。今の時代も、多くの人がみんな迷っている。
 青年らしい鋭い問いかけを、牧口先生は真正面から受け止められる。先生の偉大な人格をほうふつさせるエピソードである。
 牧口先生は、厳しい表情で答えられた。
 「それは観念ではわからない。実行だ! 今の社会思想、道徳論、倫理観などでは解明できない。大物の宗教家でさえ、あいまいである。彼らは葬式屋だから判別の道さえ、わかっていないのだ」
 低次元の宗教屋には、何が善であり悪であるかさえわからない──と。自分が自分でわからない。混乱している。
8  それでは、どうすればよいのか。牧口先生は、きっぱりと結論された。
 「世界最高の宗教を命がけで修行する、その努力と勇気があれば、わかるようになる。若者は実行と決意だ。やれば必ずできる」命がけで実践すればわかる。しなければわからない──これが先生の主張である。
 牧口先生ご自身が、広宣流布のために、文字通り″命がけ″で仏法を実践された。だから、善悪の判断が明快であった。皆を正しく指導できたのである。
 その後、大聖人の仏法を一番守るべき宗門が堕落し、神札を受けるという謗法にまみれた時も、牧口先生は、その極悪の姿を正しく見抜かれた。そして、断固として戦われた。
 私も広布のために命をかけて戦っている。だから善も悪も、はっきりとわかる。
 善と悪、仏と魔は常に一緒に現れる。気をつけないと、見分けがつかなくなる。魔ほど恐ろしいものはない。
 その魔を見きわめるのが仏法である。魔と戦い、勝つための仏法である。見極める力、勝つ力は命がけの信心からしか生まれない。
 魔を見きわめなければ、本当の戦いはできない。
 真剣なる闘争を貫いた人──結局、その人が一番の幸福者である。栄光の人である。勝利者である。最高の善の世界を、晴れ晴れと生き抜ける人である。
9  牧口先生は、青年をこう励まされた。
 「勇猛精進したまえ。実行だよ。精進だよ。老人にはなったが、私も実践しています」と。
 時に牧口先生は六十三歳。偉大なる″求道の言葉″である。私の胸に深く突きささっている。
 みずみずしい求道心──そこに仏法の源流があり、信心の原点がある。また創価学会の大道がある。
 「求道の人」は、いつも若々しい。喜びをもっている。すがすがしい。謙虚に自分を見つめ、謙虚に自分をつくりあげている。だから、偉大な自分ができあがる。
 いつまでも生き生きと、どこまでも求道の人生を進んでいく──この人が本物の仏法者であり、創価学会の同志である。(拍手)
10  「人を救う文字」を広げる大功徳
 本日の第七十七回本部幹部会は、創刊四十三周年を記念する″全国配達員大会″の意義を込め、二十一万六千人の無冠の友が、各会館に集っておられる。毎日、本当にご苦労さまと感謝申し上げたい。(拍手)
 この会場にも、三十年、二十年、十年という永年の配達員の代表が参加されている。
 二、三日でも大変なのに、何と尊いことであろうか。その功徳は、計り知れないことを確信していただきたい。(拍手)
 婦人部の皆さまを中心に、聖教新聞の購読推進を、よく頑張っていただいている。″創価婦人学会″というべきか(爆笑)、常に婦人部の皆さまが広布を支えてくださっている。(拍手)
11  大聖人は仰せである。
 「文字は是れ三世諸仏の気命いのちなり」──(経文の)文字は、三世諸仏の命である(と天台は言っている)──。
 妙法を根底にした「聖教新聞」にも通ずる御言葉と拝される。
 「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり」──仏は文字によって民衆を救われるのである──とも仰せである。
 仏法の世界の「文字」には人を救う力がある。人を救う文字であり、新聞なのである。
 さらに御書では、涅槃経を引かれている。
 「願わくは諸の衆生ことごとく皆出世の文字を受持せよ」──願わくば、もろもろの衆生よ、ことごとく、みな、出世間(仏法の世界)の文字を受持せよ──。
 戸田先生が、「『聖教新聞』を日本中、世界中の人に読ませたい」と言われたのも、このお心からであった。
 「人を救う文字」を広める。配達する──その方は、立派な弘法をされていることに通じる。
 功徳も生々世々に続き、また家族にも及んでいく。仏法の世界は役職で功徳が決まるのではない。行動で決まるのである。信心で決まるのである。
12  大聖人は、窪尼くぼのあまという婦人の信徒に、次のように書かれている。
 「三千大千世界に七日ふる雨のかずは・かずへつくしてん、十方世界の大地のちりは知る人もありなん、法華経の一字供養の功徳は知りがたしとこそ仏は・とかせ給いて候へ」──三千大千世界(という一つの宇宙)に七日間、降り注ぐ雨の数は、数え尽くせるかもしれない。また十方の世界にある大地の塵の数は、知っている人もあるかもしれない。しかし法華経の一文字を供養する功徳は計り知れない、と釈尊は説いておられます──。
 これが妙法の素晴らしさである。日々、妙法を弘め、広布を拡大しておられる皆さまの福運は言い尽くせない。
 この大聖人の仰せを確信して、楽しく、自分自身で喜びをつくりながらの毎日であっていただきたい。その人が最も尊く、幸福な人である。
 「三世諸仏の気命いのち」を広げる人、配る人は必ず生命力が強くなる。健康になっていく。これが不可思議なる仏法の因果の理法である。
13  「人間性の花」咲く庭に人は集う
 先日、開園した牧口記念庭園には、万花が美しく咲き香っている。
 共栄グループ(守る会)をはじめ、真心で荘厳してくださっている皆さま方に、心から感謝申し上げたい。(拍手)
 ここでは桃や李の花も満開である。今、「現代中国巨匠書画展」が開催されているが、古来、中国では、桃や李は優れた人格の象徴とされた。
 唐代の詩人・李賀りがの詩にも、次のような一節がある。立場が変わり、境遇が変化した人への励ましの言葉であった。
 「自ら是れ 桃李の樹
 何ぞ畏れむ 蹊を成さざるを」
 ──あなたは桃李(=桃や李)の木の如きもので花が爛漫とうるわしく咲いている、だまっていても人が寄ってきて、下には自然と小路こみちができるというものだ。(『李長吉歌詩集』鈴木虎雄注釈、岩波文庫)
 たとえ一本でも、美しく咲き香る木があれば、あたり一面がなごみ、華やぐ。組織も同じである。「真剣な一人」がいれば、全体が大きく変わっていく。「一人」が立てばよいのである。
 仏法の世界とは、こうした「人間性の花」を咲かせながら、あの地にも、この地にもうるわしい友情を広げていくものである。組織の論理だけで押し切っていくということがあってはならない。
 「ああ、あの人は素晴らしいな」「あの心、あの生き方に感動する」──そのように人格を慕われて、おのずから広布の道ができていくのである。
14  本日より、次の各会館で衛星中継が始まった。東京の武蔵村山文化会館、北海道の札幌西文化会館、群馬の東前橋文化会館、静岡の焼津平和会館、岐阜の可児文化会館である。本当におめでとう!(拍手)
 また、東京・北区の総会には、このように代表千六百人以上が集われている。盛大な総会、おめでとう。(拍手)
 四国の代表の方々、また海外十一カ国のSGIメンバーも参加されている。遠いところ、本当にご苦労さまです。(拍手)
 全国各地でも、記念の集いが行われている。
 沖縄研修道場では台湾の研修メンバーが参加されている。心からたたえたい。
15  東北といえば、秋田婦人部の皆さまが、明るく前進されている。そこで提案したい。秋田の愛称を今後、「安喜多あきた」としてはどうだろうか(賛同の拍手)。
 「名は体を表す」といわれる。また「聖人理を観じて万物に名を付くる時」──聖人が道理を観じて、その理にふさわしい名を万物につけた時──と御書には仰せである。名前が大切なのである。その意味で、″安心と喜び多き秋田″″皆が安心し、喜びの多い秋田″として進んではどうだろうか。(拍手)
 また本日、集われている北区の愛称も″喜多きた区″である。秋田県と北区で姉妹交流をしてはどうか(賛同の拍手)。さっそく、婦人部の方々から価値的な交流を始めてはいかがだろうか。(拍手)
 全国の皆さまの戦いで、壮大なる大勝利の「五月三日」を、晴れ晴れと迎えることができる。心から感謝申し上げたい。(拍手)
 皆さま方の無事故、健康、長寿、裕福、だれよりも幸福な人生を、私は一生懸命、祈っている。その心をお伝えし、きょうのスピーチとしたい。ありがとう!
 (東京牧口記念会館)

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