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日蓮大聖人・池田大作

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春季彼岸勤行大法会、第76回本部幹部会… 妙法は生死を照らす「金色の太陽」

1994.3.23 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  「忍難弘通の人」を諸天は供養
 遠いところ、ご苦労さま。大切な全学会員、ならびにSGI(創価学会インタナショナル)の同志の皆さま方のことを、私は毎日、朝晩、祈り、またねんごろに追善をさせていただいている。どうか、ご安心いただきたい。(拍手)
 きょうは、北陸広宣流布の四十周年、おめでとう。(拍手)
 日蓮大聖人は御書の中で、厳しい寒さのたとえとして、「越中のたて山のかへし北風加賀の白山のれい」と表現されている。越中は今の富山、加賀は今の石川である。北陸の冬の厳しさを、大聖人は、よく知っておられた。
 厳寒の冬、根深い旧習、悪侶の策謀、策略──幾多の試練の″北風″にも、我が北陸の皆さまは、堂々と胸を張って戦い、勝ってこられた。ありがとう!(拍手)
2  けなげな北陸の「広宣流布の闘士」を、大聖人は、どれほど賛嘆しておられることであろうか。
 御書(「諸法実相抄」)には、仰せである。
 「たえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ・かたにかけせなかふべきぞ・大善根の者にてあるぞ・一切衆生のためには大導師にてあるべし
 ──(三類の強敵という大難に)耐えて、妙法を弘める人を釈迦仏は必ずや慈悲の衣で覆い守ってくださるであろう。諸天は必ず、その人に供養するであろう。また肩にかけ、背中に負って守るであろう。その人こそ大善根の人である。一切衆生のためには大導師なのである──と。
 これは大聖人が御自身のことを述べられた大確信の御言葉である。
 そのうえで、大聖人の仰せ通り、大難と戦い広宣流布に進む門下も、ここに連なるであろう。すなわち、今で言えば「学会員」である。
 広宣流布の闘士を、必ず仏が大慈悲で守ってくださる。また、諸天が、その人を供養する。あらゆる方法を使って守るとの仰せである。
 諸天が″僧侶を供養する″とは言われていない。″大難に耐えて妙法を弘める人を供養する″と仰せである。むしろ、広宣流布へ戦う人を守るのが僧侶の役目ではないだろうか。(拍手)
 また、かつて宗門は在家について「導師」という言葉を使ってはならないと言ったが、大聖人は在家の阿仏房に対して「北国の導師」と讃えられている。宗門では御書を拝していないのだろうか。(爆笑、大拍手)
 冬が厳しい分、北陸の春は、まことに美しい。東京の春など比較にならない。
 それと同じように皆さまに、永遠の生命のうえから、厳然と「福徳の春」がやってくることは間違いない。
 「幸福の春」を満喫できるのは、まさに皆さま方である。(拍手)
3  全生命を照らす妙法の「大光明」
 さて、大聖人門下の曽谷教信殿と大田乗明殿は、ともに北陸にゆかりの人であった。越中に領地があったとされている。北陸の皆さまの中には、何らかの関係がある方も、おられるかもしれない。
 大聖人は、この二人に対して、越中にある仏典を収集するよう依頼されている。
 この曽谷殿に、大聖人は経文を引かれ、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と仰せである。
 自分の心を師とするのは、自己中心主義である。反逆者、背信者、偽善者は、結局、「心を師と」した、自己中心の人間である。
 心を師とする──胸の中では、自分が一番偉いと思っている。悪侶がそうである。また政治家、学者、医師、有名人に、こういう傾向があると言われる。そして、うまく自分を尊敬させながら、人々を操り、利用する。そのような輩に、絶対にだまされてはならない。
 彼らには、自分を超えた崇高なもの、偉大なものを求めて、「心の師」とする気持ちがない。また、庶民のため、困っている人のために、身をなげうって尽くそうという誠意がない。
4  また曽谷殿は、亡くなった父の追善のため、毎朝、(法華経寿量品の)自我偈を読誦していた。大聖人は、このことをたたえられ、その意義を、わかりやすく次のように仰せになっている。
 「法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放つて大地をつきとをし三悪道さんあくどう・無間大城を照し乃至東西南北・上方に向つては非想・非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん
 ──法法師(曽谷殿)は毎朝、口から金色の文字を出しているのです。この(自我偈の)文字の数は五百十字です。一つ一つの文字は変じて太陽となり、太陽は変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地を突き通し、三悪道や無間地獄の世界をも照らし、さらに、東西南北を照らし、上に向かっては非想非非想天(三界の最上部)へも昇り、いかなる所であっても、亡き聖霊(亡くなった父君)のおられる所まで、たずねて行かれて、その聖霊に語られることでしょう──。
 自我偈は「金色の文字」であり、一つ一つの文字が太陽となり、仏となり、大光明を放って、全宇宙を照らす。題目の大光明は言うまでもない。その光によって、亡くなった家族とも、いわば生命の″無線″のように通じていく。ここに大聖人の仏法の偉大さがある。題目の力は絶大である。
5  「我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息・法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそ・ねんごろに語らせ給うらめ、其の時・過去聖霊は我が子息・法蓮は子にはあらず善知識なりとて娑婆世界に向つておがませ給うらん、是こそ実の孝養にては候なれ
 ──「私をだれだと思われますか。私はあなたの子息の法(曽谷殿)が、毎朝、読誦している法華経の自我偈の文字です。この文字は、あなたの目となるでしょう。耳となるでしょう。足となるでしょう。手となるでしょう」と、懇切に語られるでしょう。その時、亡き聖霊(父君)は「我が息子の法蓮は、子供ではありません。(むしろ、成仏に導いてくれる)善知識です」と、(曽谷殿のおられる)娑婆世界に向かって拝まれることでしょう。これこそ真実の親孝行なのです──。
 妙法に照らされれば、「父子一体の成仏」、親子一体の成仏となる。
 私どもの日々の勤行・唱題が、どれほど素晴らしい追善回向となっていることか。
 妙法の音声は、すべて、赫々たる太陽となる。
 亡き父も母も、家族も先祖も、すべて福運の光で照らし、包み、守っていける──この生死不二の希望の大道こそが、広宣流布へ歩みゆく私どもの軌道なのである。
 これが、大聖人の仰せである。学会のみが、この大聖人の教え通りに進んでいる。
6  「生も仏」「死も仏」「生死ともに仏」
 さて南条時光のお父さんが亡くなった時、夫人である時光の母に、大聖人は激励のお便りを送られた。
 御手紙の最後には、「此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ」──この手紙には、日蓮の秘蔵の法門を記しておきました──と書いておられる。大変、大切な内容を記された御書である。
 まず、次のように仰せである。
 「上野殿死去の後は・をとづれ音信冥途より候やらん・かまほしくをぼへ候、ただしあるべしとも・をぼへず、もし夢にあらずんば・すがた姿をみる事よもあらじ、まぼろしにあらずんば・みえ給う事いかが候はん、さだめて霊山浄土にてさば娑婆の事をば・ちうや昼夜にきき御覧じ候らむ、妻子等は肉眼なればさせ・かせ給う事なし・ついには一所とをぼしめせ
 ──(あなたのご主人の)上野殿が亡くなった後、冥途から音信があったでしょうか。もしあれば、聞いてみたいものです。しかし音信があるとも思われません。夢でなければ、姿を見ることは、よもやないでしょうし、幻でもなければ、現れてこられるということがどうしてあるでしょう。(上野殿は)きっと霊山浄土で、この娑婆世界のことを、昼も夜も見聞きしておられることでしょう。妻子等は肉眼なので、(その姿を)見たり聞いたりできないのです。しかし、ついには同じ場所で、また会えるとお思われることです──。
 信心の深き心で結ばれた人、愛情の強き絆で結ばれた同志──その家族、眷属は、必ずまた一緒になれるのである。
7  大聖人は、このように、故人を恋い慕う遺族の心情を思いやられて、温かく包容されている。そのうえで、次のように仰せである。
 「きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云
 ──(ご主人は)生きておられた時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏です。即身成仏という大事な法門が、これです。法華経の第四の巻(の宝塔品)には、説かれています。「もし(この法華経を)よく持つ人は、すなわち仏身を持つのである」と──。
 日蓮大聖人の仏法では、「死んで仏になる」のではない。これが最も大事な点である。
 「生きているうちに仏になる」。その「一生成仏」のための信心なのである。″死後の幸福″を強調する念仏などとは、根本的に違う。
 「生きているうちに」絶対の幸福境涯を築き、固める。今世で最高に素晴らしい人生を満喫する。そのための仏道修行なのである。
 第一″死後に幸福になる″などと言われても、本当かどうか、だれもわからない(爆笑)。証明もできない。生きているうちに幸福の現証が現れてこそ、死後の幸福も信じられる。これが道理である。
 結局、「死んで仏になる」とだけ説くのは、人を救う力も確信もない悪侶たちの弁解なのである。欺瞞であり、策略なのである。だまされてはならない。
8  胸中に常楽の「浄土」を
 大聖人の御法門は、通常の仏教を大きく打ち破るものであられた。
 「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり
 ──そもそも浄土というのも地獄というのも、どこか外にあるわけではありません。ただ私たちの胸の中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟るのは法華経です──と。
 「浄土も地獄も胸中にある」「他のどこにあるのでもない」「どこかにあると思うのは迷いである」──これが大聖人の教えである。
 ゆえに胸中に、信心で「浄土」を開き、壮麗に築き上げることである。その人は「生の仏」である。また、その人は、そのまま死後も「死の仏」であり、「生死ともに仏」と輝いていく。
 反対に、胸中に、妬みの″炎の世界″、冷たい裏切りの″氷の世界″、人を傷つける刃をもった″暴力の世界″をもつ人。その人の胸中には地獄がある。
 また真剣な行動もなく、怠惰に流されながら、うわべだけをとりつくろう偽善の指導者──その胸中にも、すでに地獄の因果があるといえよう。
9  それでは、「生きているうちに仏になる」とは、どういうことか。
 大聖人は「法華経を、よく持つ人は、仏身を持つ」と仰せである。
 大事なのは「よく持つ」ことである。すなわち、何があっても御本尊をはなさない。まっすぐに「広宣流布」の世界に生き抜く。戦い続ける。自行と化他の両方に励んでいく。そこに信心の「心」が固まっていく。その鍛え上げられた「信心」にこそ、「仏界」はある。
 法華経(法師品)にも「深固幽遠」と。この文字を取って言うならば、大事なのは、信心を「深く固める」ことである。
 鍛えられていない人、慢心の人は、何かあると、すぐに心が揺れ動く。紛動される。「心」が定まらない──それでは、一生成仏という、幸福の軌道をまっすぐに進むことはできない。
10  このあと、御手紙の中で大聖人は、″妙法を信ずる人は、地獄も即寂光土となる″ことを教えられている。
 人生には病気の時もある。行き詰まる時もある。さまざまな苦悩がある。しかし、妙法を信じ、唱え抜き、広宣流布へと向かっていく人は、悩みを、より大きな幸福へと変えていける。苦しみを幸福への糧にしていける。ゆえに、その人のいるところは、何があっても「寂光土」なのである。
 また、皆さまは、日ごろから、大勢の人の面倒をみておられる。あの人が病気だ、この人が悩んでいる──そのたびに一緒に悩み、祈り、励ましておられる。大変といえば、こんな大変なことはない。
 しかし、「友のために悩む」ことそれ自体が、すでに菩薩界の悩みであり、仏界の悩みなのである。そこに寂光土はある。ゆえに、いかなることがあろうとも、毅然として、すべてを喜びに変え、晴れやかな希望の明日をつくりゆくリーダーであっていただきたい。
11  大聖人は在家に「あなた自身が追善」を
 最後に大聖人は、真の「追善」の心を教えられて、御手紙を結ばれる。
 「方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、世間のならひとして三世常恒の相なれば・なげくべきにあらず・をどろくべきにあらず
 ──法華経方便品には、″この法(迷いの九界)は法性の真如の位に住して世間の相が常住である″とあります。(生死の二法は)世間の習いとして、三世にわたり不変常住であるから、死も嘆くべきではありません。驚くべきではありません──。
 特別な姿になるのではなく、人間としてのありのままの姿で、生死、生死を繰り返しながら、永遠に「常楽」の境涯が続いていく。それが、成仏の人の旅路である。ゆえに死は本来、恐れるべきでもなければ、嘆くべきでもない。
 「故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし、さのみなげき給うべからず、又なげき給うべきが凡夫のことわりなり、ただし聖人の上にも・これあるなり、釈迦仏・御入滅のとき諸大弟子等のさとりのなげき・凡夫のふるま振舞ひを示し給うかいかにも・いかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし
 ──故聖霊(亡くなったご主人)は、法華経の行者であられたので、即身成仏は疑いありません。それほど嘆かれることはないのです。しかしまた、嘆かれるのが凡夫として当然でしょう。ただし、これは凡夫だけでなく、聖人にもあることです。釈尊が御入滅された時、悟りを得ている高弟らが嘆かれたことは、凡夫の振る舞いを示されたのでしょうか。なればこそ追善供養を、心がおよぶかぎり、励まれることです──。
 永遠の生命から見て、″死をさほど嘆かれることはないですよ″と仰せの一方で、″凡夫の心情にとっては、嘆かれるのも当然かもしれません″と温かく包まれる──両面を兼ねそなえた、慈愛あふれる御本仏の御指導である。
 私どもも、こまやかな心の機微に通じたリーダーに成長してまいりたい。
 自分の心が及ぶかぎり、気のすむまで、心豊かに唱題していく──それが、御書の仰せにかなった、最高の追善なのである。形式ではない。大切なのは正しき信心であり、真心である。
12  御書に照らせば「僧侶が葬儀をし、追善しなければ成仏できない」などという、日顕宗の主張は、論ずるまでもなく、明らかな邪義である。宗門をはじめ、日本の葬式仏教の悪は、故人の冥福を祈る民衆の心情につけ込み、仏法への無知につけ込んで、ただ金をもうけてきたのである。
 大聖人は、このとき、時光の母に対して「僧に追善をしてもらいなさい」とは、ひとことも言われていない。当時、大聖人は身延におられ、そこには、たくさんの僧もいた。しかし、大聖人は、在家の婦人に「あなた自身が追善をなさりなさい」と教えられている。
 曽谷殿に対しても「あなたの自我偈が、お父さんを救うのです」と。
 学会は、この御書の仰せの通りに実行している。(拍手)
13  広布の人生が最高の回向に
 大聖人は「秘蔵の法門」と仰せである。「即身成仏」「生死ともに仏」とも言われている。まことに、ありがたい法門である。
 大聖人の仏法こそ、本当の「人間のための宗教」である。学会は、その正統の教団として、生きている人々を救い、死んだ人々をも救い、「生死ともに」無量に救っている。学会がどれほど尊貴な存在であるか、計り知れない。(拍手)
 その反対が「儀式のための宗教」「死を食いものにする葬儀仏教」である。日顕宗は、大聖人の大切な「秘蔵の法門」に背く大謗法の教団なのである。
14  広宣流布に生き抜く人生──。「生の仏」、すなわち「現世の成仏」は、ここにしかない。
 その功徳を無量の先祖、無量の子孫、眷属に回し向けていく。自身が仏道修行で得た福徳を、力を、勤行・唱題の金色の光を回し向けていく。これが回向の本義である。あくまでも功徳を回し転じて振り向けていくことが大事なのである。
 僧がチーンとけいをたたくのが回向なのではない(爆笑)。
 したがって、現実的に言えば、学会活動のなかにこそ「無上の追善」「自他ともの最高の幸福」が全部、備わっている。それが御書に照らしての結論である。
15  きょう、この会場には、各地の友が集っておられる。
 まず、北陸の皆さん! 遠いところ、ご苦労さまです。北陸は本当によく頑張られた。(拍手)
 沖縄の皆さん、先日はお世話になりました。
 さらに東北、山梨の代表。区の日を記念して東京の江東(婦人部)、北、小松川(江戸川)の皆さま。そして池田学校(人材グループ)の卒業生、白樺会の代表、さらに十一カ国・地域のSGIメンバーの方々。皆さんのお元気な姿を拝見して、本当にうれしい。きょうは、ご苦労さま! ありがとう!
 (東京牧口記念会館)

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