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日蓮大聖人・池田大作

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第75回本部幹部会、全国青年部幹部会、… 民衆を守れ、民衆と生きよ、それが王者

1994.3.7 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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2  全国各地でも記念の集いが開かれている。そして沖縄研修道場には、台湾の友人が、元気に集われている。ご苦労さまです。(拍手)
 きょうから衛星中継が始まったのは京都の伏見文化会館。また福島の双葉会館、愛知の名古屋港会館、石川の加賀会館、岡山の玉島会館、鹿児島の志布志会館である。おめでとうございます(拍手)。衛星中継についても今後、ますます拡充していくであろう。
 末法は万年である。広宣流布の舞台は世界である。未来へ、じっくりと足元を固めつつ、「大いなる理想」に生きていきたい。
 青年部が元気であれば、次の学会は心配ない。世界の舞台でも足りなければ、火星かどこかに行くくらいの勢いがあってもいい(爆笑)。要は、青年らしく、大きな「夢」を持つことである。(拍手)
 また、音声中継も各地で始まった。
 まず、本州最北端の″飛行支部″(大間支部)の個人会場である。
 (一九九二年夏、北海道指導に向かう名誉会長を乗せた飛行機が下北半島の上空を飛んだ。その時、大間支部の友が大間岬で特大の三色旗を振り、エールを送った。名誉会長は、支部の友に「三色旗 津軽の大地に ひるがえる 我は応えむ 飛行雲にて」との和歌を贈った)
 ″飛行支部″──ロマンあふれる愛称である。きょうは、本当におめでとう!
 さらに、青森から長崎まで十一会場で音声中継が始まった。本当にありがとうございます。(拍手)
3  「強き人は幸福」「強き人は自在」
 「幸福な人」とは、どういう人か。結論的に言えば、それは「強い人」である。
 「不幸な人」とは、だれか。それは「弱い人」である。
 強い人は、何でも楽しめる。何かあればあるほど、ますます強くなっていく。
 日蓮大聖人は「兄弟抄」に「石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる」──石は焼けば灰となる。金は焼いて精錬すれば、いよいよ素晴らしい金となる──と仰せである。これが道理である。人間も同じである。
 苦しみ、悩みという″火″に焼かれたとき、弱き″石の人″は、負けて灰となる。強き″金の人″は、勝って真金となる。
 弱き人生は、愚痴と裏切りと臆病の転落の人生となってしまう。反逆者も皆、結局は「弱き人間」であった。
 「強き人」は、苦労に勝ち、戦いに勝ち、あらゆる迫害に勝って、いよいよ強くなる。一切の苦しみ、苦労を、全部、自分の栄養にできる。
 「煩悩即菩提」と、大聖人は仰せである。ゆえに、幸福になるために、喜んで苦難に立ち向かう。勇んで立ち上がり、迫害に挑戦する──そこに煩悩即菩提で、本当の強い幸福が生まれ、固まっていく。これが、仏法の真髄の生き方である。
4  『神曲』で有名なダンテが師匠と仰いだ詩人ヴェルギリウスは言う。
 「逆転に、決してたじろぐことなかれ、むしろ運命打ちこえて、より大胆に進むべし」(『アエネーイス』泉井久之助訳、『世界古典文学全集』21所収、筑摩書房)
 そうすれば不幸は、反対に逃げていく──と。
 不幸に屈してはならない。悪人に屈してはならない。魔とか、卑怯者は、こちらが怖がれば、つけこんでくる。強く出れば逃げていく。こうした経験は、大なり小なり、皆さまにもあるかもしれない。
 ロマン・ロランの小説の主人公ジャン・クリストフは叫ぶ。
 「強いことは何といいだろう! 強いときには、悩み苦しむことも何といいだろう!」(『ロマン・ロラン全集』1,片山俊彦弥訳、みすず書房)
 「ぼくを悩ますがいい!……悩むこと、それもやっぱり生きることなのだ!」(同全集2)
 生命力にあふれた「強い人」は、苦しみや悲しみをも、″幸福の要素″にしてしまう。いわんや仏法上の労苦は、「永遠の生命」に「永遠の幸福」を刻みゆく。
5  苦労が栄養、苦労が財産
 悩みのない人生はない。活動においても、仕事においても、生きることは、ある意味で、悩みの連続である。それらを全部、幸福の要素、幸福の原因に変えられる不思議の法が「妙法」である。
 商法、刑法、民法など多くの法がある。それらは人間が作ったものである。これに対し、妙法は宇宙と生命の「永遠不滅の法」である。この法に「幸福の秘術」がある。
 ゆえに、うんと苦労することである。悲しみは避けられない。苦しみは避けられない。戦いは避けられない。避けずに進む以外に、「幸福」は開けない。
 「弱いということは、哀れなことだ、あえて事を行うにしろ、事を忍ぶにしろ!」(平井正穂訳、岩波文庫)と、ミルトンは『失楽園』に書いた。
 弱き人は不幸である。自分も堂々と生きられず、周りも苦しめ、卑劣な敗北の人生になってしまう。
 信仰とは「強く」、さらに「強く」なるためのものである。
6  また、画家セザンヌは手紙に書いた。
 「自分の強さを実感している人は謙虚になる」と。
 強い人は、いばらない。いばるのは、臆病だからである。権威とか権力の陰に隠れ、それらを使って人を脅そうとする。それは、実は臆病なのだと見破れば、何も恐れる必要はない。
 ある人は、言っていた。日本人がすぐにいばるのは、弱さ、臆病さ、自信のなさの証明ではないか、と。
 それでは、真に「強き人」とは、いったいだれか。それは「信念に殉ずる人」である。これが一つの結論である。
 そして「信心」こそが最も高く、最も強き「信念」である。
 あるいは権力者が″強い人間″のように見えるかもしれない。しかし、それは錯覚である。
 吉川英治氏は、権力の魔力について述べている。
 ひとたび権力の蜜をなめた人間は、猫が油をなめたときのように、味をしめてしまう──と。
 権力の美酒は恐ろしい。人を酔わせ、人を狂わせてしまう。その魔性を打ち破るのは、強き「信心」しかない。
 悪き権力者は、もてる権力を盾にして、自分は後ろに隠れ、″うまくやろう″とする。一人の「人間」としての自分自身の力で勝負できない。それほど臆病なのである。
7  「権力者」と「信念の人」と──。この二人を比べた有名な言葉がある。
 「暴君が死ぬと、統治は終わる。殉教者は、死んで、その統治が始まる」(キルケゴール)
 権力者は、権力を失えば″ただの人″である。むしろ″ふつうの人以下″になり、より悪人になる場合が多いともいわれる。
 ひとたび権力の蜜をなめた彼らは、それを手放したくない。永遠に、いばり続けたい。楽をしながら、うまくやりたいのであると、ある作家が語っている。
 そんな人間にだまされてはならない。恐れてもならない。
 一方、「殉教者」「信念の人」は、時とともに、その影響を広げていく。牧口先生、戸田先生がそうであられた。キリストも殉教者であった。死後、その影響は広がった。
 暴君とは反対に「死んで、その統治が始まる」。「信念の人」の輝きは永遠である。
 諸君にも、いろいろな苦労があるにちがいない。
 よく戸田先生は言われた。苦労したほうがいい。苦労したほうが幸せである。全部、自分のためになる。苦労しない人は、鍛えられず、必ず最後は「弱き人」になり、不幸に堕ちる、と。
 ともあれ一切が「自分を強くしていけるチャンス」である。″全部、自分のためだ″″もっと苦労しよう″″なんでも来い!″──このように生き生きと、闊達に生きていける青年になってほしいと私は願う。(拍手)
8  「弘通の人」を軽んじるのは「妙法」を軽んじる謗法
 「妙法を守り、大切にする」とは、具体的にはどういうことか──。改めて述べておきたい。
 それは、「妙法を弘める人を守り、大切にする」ことである。このことを大聖人は繰り返し教えておられる。
 「一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんやとこそ釈して御坐おわし候へ、されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり
 ──一切の仏法もまた人によって弘まるのである。(中略)ゆえに、受持している法が第一の法であれば、受持している人も、それにしたがって第一の人となる。したがって、その「人」をそしることは、その「法」をそしることである──。
 「持妙法華問答抄」の有名な一節である。
 大聖人が仰せのごとく、私どもは「第一の人」の誇りと責任感をもって、堂々と生き抜きたい。
9  同抄では、こうも仰せである。日顕宗を破折された御言葉となっている。
 「法華経をよみ・たもたん者を見てかろしめ・いやしみ・にくみ・そねみ・うらみを・むすばん其の人は命をはりて阿鼻大城に入らん
 ──法華経を読み、信受する人を見て、軽んじ、卑しめ、憎み、妬み、恨みを抱く。その人は、死後、阿鼻地獄に入るであろう──。
 御本尊を信じ弘める人、すなわち広宣流布に励む人をバカにし、憎み、妬み、恨む者は、最後は必ず地獄に堕ちると、大聖人が断言しておられる。
 「死後に阿鼻地獄」とは、これ以上はないという最大の苦悩が、いつまでも、いつまでも続くということである。現世で罰を受けるのとは比較にならない苦しみである。
 反対に、妙法を広宣流布している学会員を尊敬し、愛し、守り、大切にする──その人こそ「妙法を大切にする」人であり、その信心ゆえに「成仏」は間違いない。「幸福」は間違いない。(拍手)
10  君よ「広宣流布の闘士」たれ!
 さて、クラーク博士(一八二六〜八六年)といえば、「青年よ、大志を抱け」の言葉で有名である。博士は、札幌農学校(現・北海道大学)で、人材を育てた。内村鑑三、新渡戸稲造、有島武郎らにも感化を与えたとされる。
 博士は、多くの人材を輩出したが、日本にいたのはわずか十カ月。教べんをとった時間は限られていた。長く接したから、人が育つわけではない。私も、青年部の諸君に対しては、いちいち指導して甘やかしたくない。すでに原理原則は全部、教えてある。あとは諸君が自分で何をするかである。
11  クラーク博士は、どうやって、人を育てたのか。有名なエピソードがある。(大島正健『クラーク先生と弟子達』新池書房などを参照)
 農学校の開校に際し、「校則」を決めることになった。参考の案が持ち寄られ、第一条何々、第二条何々……と、延々と事務当局者によって読み上げられた。
 聞き終わったクラーク博士は、「そんなことで、人間がつくれるものではない」と、真っ向から反対した。
 「この学校には、規則は、一つあればよい。それは、『ビー・ジェントルマン(紳士たれ)』。ただ、この一語につきる」
 「ジェントルマンは厳格に規則を守るが、それは規則に縛られてやるのではない。自分の良心に従って行動するのである」
 私どもでいえば、自分自身の「信心」によって行動することである。
 ″「規則に従って」人間ができるのではない。「自分の良心に従って」人間ができるのだ″″多くの規則で縛るのは、かえってマイナスだ″──これがクラーク博士の信念であった。
 博士の言葉を聞き、学生たちは、「信頼を裏切るわけにはいかない」と発奮したという。
 ″我々を縛るのではなく、自由にまかせると。この信頼に応えよう″──こうして、自分で自分を律する気風ができていった。
12  ただ一言、「ジェントルマンたれ」と教えた、その中に人材育成の「無量の種子」が入っていたのである。
 今、私も、ただ一言、言いのこしておきたい。
 「広宣流布の闘士たれ」と。(拍手)
13  「民衆と一体」で「王道」を進め
 「創価学会は宗教界の王者である」──。「3・16」に永遠に刻まれた、戸田先生の獅子吼である。この「王者」の誇りを決して失ってはならない。
 では、「王」とは何か。
 中国の歴史書『史記』には、「王者は民人を以て天と為す」(王者は民衆を天のごとく敬う)とある。
 王者とは、民衆を「天のごとく」最も大切にできる人間である。
 御書にも、「王は民を親とし」と仰せである。
 民衆が王を大切にするのではない。王が民衆を敬い、最大に大切にしていくのである。これが道理であり、また仏法のとらえ方である。
 ここを間違えてはならない。大切なのは、つくられた虚像ではない。永遠に変わらぬ人生と宇宙の「法則」である。その法則のうえから一切を見ていくことである。
 創価学会は、庶民を根本としている。庶民をだれよりも大切にしている。そして庶民と一緒に進んでいる。これが真の「王者」のいき方である。(拍手)
 私どもは、だれが何と言おうとも″我が道″を行く。学会は、どこまでも庶民の中で、苦しんでいる人、悲しんでいる人、不幸な人の味方となってきた。だからこそ、学会は「王者」となった。このことを、私は強く訴えておきたい。(拍手)
14  諸君は若き「王者」である。「王子」であり「王女」である。ゆえに王道に生き抜いていただきたい。
 ″会員がすべて″″会員が大切″″民衆がすべて″″民衆が大切″──永遠にこの精神で進んでいただきたい。この道こそ、「王者の道」である。「幸福の道」である。「勝利の道」である。こう申し上げて、本日の私の話を終わりたい。
 遠いところ、本当にご苦労さま!
 (創価国際友好会館)

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