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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄・九州合同協議会での語らい 「法主絶対論」はまったくの邪義

1994.2.21 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  日興上人はご命令「謗法の法主は捨てよ」
 きょうは、幹部の皆さま方と懇談的に話をさせていただきたい。いろいろ思っていることを、お互いに、心から納得できるように話し合うのが、正しい語らいなのである。
 その意味から、近年、残念なことに宗門問題が始まり、大聖人の正義を逸脱した日顕宗に、皆さま方を苦しめてきた。その邪義について語りたい。
 とくに最近、「法主絶対論」の誤りについて、いくつか質問、声があったので、文証と史実の上から、簡潔に述べておきたい。
 日顕宗が主張している「法主絶対論」は、日蓮大聖人と日興上人が明確に否定されている「邪義」である。前にも紹介したが、日興上人の仰せを、六世日時上人は、こう記録されている。
 「予が老耄して念仏など申さば相構えて諫むべきなり、其れも叶はずんば捨つべきなり」(「大石記」)──私が耄碌して、念仏などを口にしたなら、必ず諫めなさい。それでも(私が)言うことを聞かなければ、(私を)捨てなさい──。
 たとえ日興上人であろうと、法に背いた場合には、強く諫めて、聞かない時には捨てよ、と。いわんや、日興上人門下の法主については当然であろう。法主が絶対でないことを、御自身を例に教えられていると拝される。
 また遺誡置文の中で、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」──時の貫首(法主)であっても、仏法に背いて、勝手な自説を立てた場合には、これを用いてはならない──と厳しく誡めておられる。
 日興上人は、「破法の法主」が出現することを危惧され、その場合には絶対に従ってはならないと命じられたのである。法主が絶対であり、誤りがないならば、そもそも、このような条目は必要ないはずである。
 さらに日興上人は、「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯ようはん有りと雖も衆いたずらに差置く可き事
 ──先師・大聖人のように、私(日興上人)の(門下の)化儀も聖僧であるべきである。ただし、(将来において)時の貫首、あるいは習学中の僧などが、一時的に、女犯にょぼんをしたとしても、(破門せずに)衆徒(下位の僧、平僧)にしてとどめておくべきである──と誡められている。
 貫首(法主)であっても、女性で問題を起こした場合には、本来なら「破門」すべきなのだが、平僧に止めておくように、と教示されているのである。
 法主であっても「破門」されるような重大な過ちを犯す場合があることを想定され、日興上人は、この条目を定められているわけである。
 この一点からも、富士門流で、法主が絶対ではないことは明白である。
2  誤れる法主が批判封じの「権威づけ」
 では、なぜ、法主絶対論が唱えられるのだろうか。
 ある研究者は、「信奉するに価しない法主」「おかしな法主」が出現した時などに、ことさら法主を権威化し、人々の批判を封ずるために、法主絶対論が唱えられる──と指摘している。
 (「どの教団も、普通、代を重ねるにしたがって、信奉に価しない法主、あるいは法主批判が現れるのは避けられない。そこで法主の交代に左右されない、法主の立場に不変不動の権威化を教義的に与える必要が生じてくるのである」
 「特に宗祖本仏論に立つ大石寺にあっては、宗祖本仏論を悪用した形で法主の権威化が図られてきたことを見過ごしてはならない。その最たるものが、今回の宗門の法主絶対論なのである」〈小林正博氏の「法主絶対論の形成とその批判」、「東洋学術研究」第三十二巻第二号所収〉)
 たしかに信・行・学に優れ、だれからも尊敬される立派な法主であれば、法主絶対論などで権威づける必要は、まったくないであろう。
 日亨上人は、中興の祖と仰がれた日寛上人について、「日寛上人は、学問(教学)というよりは、日ごろの実践の姿や、きまじめなお人柄が、人々から尊敬されていたので、上人の信仰が一般の人に、しみ渡っているのじゃないですか」(趣意)と話された。
3  宗門で、文献上、最初に法主絶対論が主張されているのは、十二世日鎮上人を後見した、左京阿闍梨日教の書だとされる。
 日鎮上人が、法を継いだのは十四歳の時である。
 (「稚児貫首」と呼ばれる年少の法主には、ほかに、十三世日院上人が十歳で貫首になっている例などがある。〈『富士年表』による。年齢は数え年>)
 当時、そのような風潮が一般にもあったとも言われるが、わずか十四歳である。日鎮上人に対して、若年のため、あるいは法義の理解のうえなどで、周囲の不安があったことは、当然、考えられる。
 その日鎮上人を支えたのが、日教であった。日教の法主絶対論によって、日鎮上人は権威づけられ、宗内からの批判も封じられたと推測されている。
 (日教は、時の法主は大聖人と変わりがないとして、法主を絶対化しているが、その根拠は何も示していない。「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して」〈「類聚翰集私」富要二巻〉──今の時代の法主の所に本尊の体があるのである。この法主にお会いすることは〈日蓮〉聖人が生まれ代わって世に出られたので、生身の聖人にお会いし縁を結んで──等と述べている)
4  十九世日舜にっしゅん上人の時にも、法主絶対論が唱えられている。
 日舜上人の伝記(「続家中抄」の日舜伝)には、こう記されている。
 「日精にっせい師(大石寺十七世)が、ある大檀那(敬台院)と仲違いして大石寺を退去し、江戸の常在寺へ移ってしまった。これによって、大石寺は住職不在になり、(三年後に)廃されかける危機になった」
 「その後、この大檀那と仲直りをした日精師が登山したので、日舜師が相承を受けて、(大石寺の十九世として)法を継いだ」(趣意、「宗史部」富要五巻)と。
 (日舜伝の記述と『富士年表』を照合すると、寛永十五年(一六三八年)から大石寺は「法主」がいなかったようである。また、日舜上人は、法主(住職)として大石寺に入ってから約四年間、「血脈相承」を受けていなかったことになる。〈十八世はすでに存命でなかった〉)
 こうした異常な経過によって法主になった日舜上人に対して、上人が若かったせいもあり、批判が集まることが予想されたのだろうか。日舜上人を大檀那に対して推薦し、法主に就かせた日感にちかんは、主な檀徒に、こんな書状を送っている。
 「どのような僧が貫主になったとしても、相承を伝受した上は、生身の釈迦仏・日蓮であるとすることが、開山(日興上人)の御本意であり、門徒の肝要である」(「日舜伝」に引用された「日感より檀那頭への書状」の要旨)と。
 どのような者でも、相承を受けさえすれば「生身の大聖人」であるというのである。
 このように法主の絶対的な権威を強調すれば、信徒の批判は封じられ、無条件で従属させられることになろう。ここに、今も変わらぬ「法主絶対論」の目的がある。このカラクリを絶対に見逃してはならない。
5  大石寺″失格法主″の系譜
 法主の座を途中で放棄した日精法主について、日亨上人はこう記述されている。
 「日昌にっしょう(十五世)より日啓にっけい(二十三世)まで、大石寺の九代の山主(法主)は京の要法寺の出身であり……多少の新儀(新しい化儀)を輸入した。
 ことに、日精などは、自分の権威の及ぶ範囲の末寺に、仏像を造立して、富士大石寺の古来の化儀を破壊した」(趣意、「史料類聚2」富要九巻)と。
 日精法主は、江戸に大石寺の末寺を増やしたが、そこには釈尊の仏像を造立したというのである。
 (京の要法寺は、日興上人の弟子・日尊にちぞんの開いた上行院が発展したもので、富士門流の寺だったが、釈尊の仏像を本尊とし、法華経二十八品を読誦するという邪義に染まっていた。こういう寺の出身者から、九代、約百年間も続けて法主を出さなければならないほど、大石寺は衰え、正しい信心を失っていたのである)
 法主が、仏像を造立し、法華経二十八品を読誦するという「大謗法」をおかした。日興上人が御遺誡された、「仏法に相違して己義を構える」法主が出現したのである。「御本尊根本」の正義が、要法寺の邪義によって、濁ってしまっていた。
 そこで日寛上人は、「御本尊根本」「御書根本」の正義を明示されるとともに、邪義で濁っていた宗門を浄化し、蘇生された。
 たとえば、「末法相応抄」では、上巻の冒頭で「二十八品読誦」の誤りを、下巻の冒頭で「仏像造立」の誤りを厳しく破折されている。
 しかし今、「法主絶対論」に毒された人々は、日顕宗の大謗法を責めようとしない。このように「法主絶対論」は「謗法の法主」をも正当化し、正法を破壊する、危険きわまる邪義なのである。まさに魔物の教義である。
6  明治以後にも、身延派など日蓮宗各派の管長たちとともに読経・唱題するという″謗法と同座″の法主(日正にっしょう)がいた。
 時の法主(日柱にっちゅう)を追い落とす策謀をめぐらした高僧らのことも伝えられている。
 もしも法主が絶対だとしたら、法主を無理やりに追い落とすことは、大謗法のはずである。しかし当時の僧侶の多くは、そうは思っていなかったことが、はっきりとわかる。
 つまり宗門の「法主絶対論」など、その時の都合によって、勝手に言っているだけの邪義なのである。
 日淳にちじゅん上人は、創価学会が「流通広布の時代」を開くまでの宗門の歴史を、「護持の時代」とされた。
 七百年間、かろうじて大御本尊を「護持」してきた歴史であった。しかも、その間に、宗門を濁らせた法主が何人も出現している。法主絶対論は、過去も今も「謗法の法主」が出現している厳然たる″事実″によって、完全に否定されているのである。
 戦争に協力し、謗法を容認し、学会に神札を受けるよう指示させ、拒絶した牧口先生・戸田先生を苦しめた法主(日恭にっきょう。後に焼死)さえいた。
7  大聖人は、「師堕つれば弟子堕つ弟子堕つれば檀那堕つ」──師が地獄に堕ちれば弟子も堕ちる。弟子が地獄に堕ちれば檀那も堕ちる──と。
 いわゆる仏法で説く″悪鬼が身に入った僧″に従う僧侶と檀徒は、悪鬼の眷属となり、ともに無間地獄へ堕ちる。大聖人が、そう仰せなのである。
 これが仏法の方程式であり、法則なのである。
 また大聖人は、天台法華宗を密教化して堕落させた比叡山延暦寺の座主・慈覚に対して、六十編を超す御書で、二百ヶ所以上にわたって厳しく呵責されている。
 ″正宗″を邪宗に転落させた者の罪業は、慈覚とさえ比較にならないほど重い。
 ゆえに、責め抜かねばならない。それが御本仏・日蓮大聖人の仰せだからである。
 「もう、このくらいでいいだろう」とか「ほどほどにしておこう」という心があれば、その心が「信心」を破り、三世にわたる「福徳」を破ってしまう。
8  今、宗教革命の時
 戸田先生は、教えられた。
 「行学に励み、御書を心肝にそめ、大聖人の仏法に通達して迷いなく、今はいかなる時かを凝視して、大聖人のみ心を心とし、日興上人のご遺誡をわが命として、努むべきである」(「青年訓」、『戸田城聖全集』第一巻)と。
 時を知らねばならない。今は「いかなる時」か。宗教革命の時である。極悪を、断じて「追放すべき時」である。
 戸田先生は、逝去の直前、悪侶に対して「追撃の手をゆるめるな」と遺命された。この大精神を、絶対に忘れてはならない。
9  沖縄は発展している。これからも何回も訪問し、ともに「平和の要塞」を総仕上げしていきたい。(拍手)
 九州は「先駆の九州」である。宗教革命でも先駆であっていただきたい。
 勝利のためには、「知恵」と「真剣」の両方が必要である。真剣であっても知恵がなければ勝てない。知恵があっても真剣でなければ勝てない。
 沖縄と九州の連帯と触発で、ともに新たな「黄金時代」を築いていただきたい。
 とくに、今回、沖縄の皆さまには、大変お世話になり、深く感謝申し上げたい。おかげさまで『新・人間革命』第二巻の執筆も進んだ。
 お会いできなかった方に、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。ありがとう。また来ます!
 (沖縄研修道場)

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