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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄県40周年記念総会 「民衆こそ尊貴」その証明の闘争を

1994.2.18 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  大聖人は庶民の為、庶民として御誕生
 ハイサイ(こんにちは)! ハイサイ!(拍手)
 遠いところ、皆さま、ご苦労さまです。(拍手)
 アジア歴訪から帰国し、役員の方々をはじめ沖縄の皆さまには、大変お世話になっており、心から御礼申し上げたい。(拍手)
 合唱団の皆さんも、ありがとう。本当に見事でした。(拍手)
 (青年部約二百人の「海風合唱団」が、伝統の衣装と楽器で、「沖縄健児の歌」のあと、オリジナル曲「幻蝶ハピル」を披露した。
 ぬちぬ詩や 海をわたてぃ/魂ぬハピル 風に舞ゆ
 (平和への「魂のうた」は海を渡る。文化の詩人「魂の蝶」は 風の中を舞い進む)──)
 「幻蝶」──まことに勇壮であり、「天の舞」がある。心の奥まで、勝利と歓喜の響きが伝わる。大波、小波、「波の華」を咲かせながら、人生と信仰の凱歌を立派に舞われた。
 これほどの創価芸術が沖縄に生まれたことを、私は誇りに思う(拍手)。また、私は「沖縄健児の歌」が大好きである。好きな歌をあげると、五本の指に入ると思う。(拍手)
2  きょう二月十六日はご存じの通り、日蓮大聖人の御聖誕の日である。今から七百七十二年前の、一二二二年二月十六日の御誕生であられる。この意義深き日を、沖縄の同志の皆さまとともに、晴れ晴れと迎えることができ、私はうれしい。(拍手)
3  学会は三類の強敵と戦い広布を推進
 大聖人は、御自身の御誕生について、「開目抄」で、こう仰せである。
 「世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賤げせん・其の上貧道ひんどうの身なり」──世がすでに末法の時代に入って二百年余りが過ぎた。この時に日蓮は、(都から離れた)辺ぴな場所に生まれ、その上、社会的な身分は低く卑しく、しかも貧しい身の上である──。
 日寛上人は、文段でこの御文を次のように解釈されている。
 「問う、吾が祖、何ぞ下賎の家に生まれたまうや。
 答う、凡そ末法下種の法華経の行者は、三類の強敵を招くを以て、用いてその義を顕す。吾が祖若し貴姓の豪家に生まれたまうならば、仮使折伏修行を励むと雖も、三類の強敵の競い起るべきこと難からん。若し爾らば、何を以てか法華経の行者なることを顕さんや。況やまた悲門は下を妙と為す、即ちこれ慈悲の極なり」(「開目抄愚記」分段集一一四㌻)
 ──問う。我が宗祖日蓮大聖人は、なぜ卑しく身分の低い家にお生まれになったのか。
 答えていわく、およそ末法下種の法華経の行者は、三類の強敵を招くことによって、自身が法華経の行者であることを明らかにする。
 大聖人がもしも高貴で勢力、富のある家にお生まれになったならば、たとえ折伏修行に励んだとしても、三類の強敵が競い起こることは難しいであろう。もしそうであったならば、どのようにして法華経の行者であることを明らかにできるであろうか。いわんや仏の慈悲の門は身分低く生まれ、大勢の人々を救うことを「妙」とする。すなわち、これは、慈悲の極みである──と。
 王子として生まれた釈尊に対し、大聖人が、卑しく身分の低い家にお生まれになったのはなぜか──。それは三類の強敵を招き寄せ、三類の強敵と戦い、御自身が末法の法華経の行者であることを証明するためである。
4  今また、創価学会も、庶民の真っただ中にあって、庶民とともに生き、前進している。三類の強敵と勇敢に戦い、広宣流布を進めている。まさにこの事実こそ、学会が、大聖人直結の唯一の教団である証なのである。(拍手)
 日寛上人は「悲門は下を妙と為す」と。地位が低い。家が貧しい。学歴もない──しかしそうした人こそ、かえって多くの人々を救える。
 反対に、地位や財産や学歴を得た人ほど、体裁や外見にとらわれて、本気の仏道修行ができない場合も多い。また、仏法を利用する人間も多い。折伏のための「衣」を着けながら、特権階級のように遊蕩にふける日顕宗の僧など、御本仏と正反対の存在である。魔物である。
 日寛上人はさらに仰せである。
 「身はこれ下賎の者なれども、内証はこれ尊極なり」(文段集一一六㌻)──(大聖人は)身分は下賎の者であるが、その御内証は尊極である──。
 「これを論ずれば日本第一なり」(同㌻)──これを論ずるならば、(御内証は)日本第一である──と。
 この大聖人の仏法を世界に弘めゆく創価学会もまた、日本第世界第一の尊極の団体である。とともに、大聖人の真の門下である学会員は、限りなく尊貴な存在なのである。
5  人柄の良い沖縄の皆さまが、社会から信頼を得ながら、仲良く前進されていることを、大聖人はことのほか喜んでくださっているにちがいない。
 大聖人が、そして諸天善神、十方の仏菩薩が、皆さまを厳然と守られることは間違いない。安心して生き抜いていただきたい。
 そのうえで必要なのは「勇気」である。大聖人は「あへて臆病にては叶うべからず」と仰せである。臆病であっては、祈りもかなわない。勝利も栄光も「勇気」から生まれる。
 勇気の団体・創価学会とともに、堂々と戦い抜く人生であっていただきたい。(拍手)
6  沖縄を「世界平和のキーステーション」に
 さて、香港から到着した翌日の二月十三日より、私は、この美しき「平和の要塞」(沖縄研修道場)で、小説『新・人間革命』の第二巻の執筆を始めた。(拍手)
 第一巻では、初めての「世界への旅」すなわち、アメリカ、カナダ、ブラジルの九都市歴訪を記した。第二巻では、一転、舞台を日本に移して、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の会長就任から、全国を東奔西走する日々を書きつづっていく予定である。
 小説『人間革命』も、ここ沖縄から書き始めた(一九六四年〈昭和三十九年〉十二月二日)。そして今、再び、沖縄から、私は挑戦を始めた。(拍手)
7  このたびのアジア歴訪の旅は、皆さまの真心の題目のおかげで、順調に、大成功で終えることができた。全国の同志の皆さまに、心から感謝申し上げたい。(拍手)
 ご存じの通り、今回、訪問した深圳しんせんは、二十年前(一九七四年〈昭和四十九年〉五月)、中国への第一歩の歴史をしるした地である。
 この「第一次訪中」を前にした同年二月、沖縄の八重山、宮古島を私は初めて訪れた。
 私は、沖縄から平和旅を進めた。沖縄こそ東南アジア、さらに世界の「平和の港」「平和のキーステーション」になることを願い、信じていた。
 私は、沖縄を完ぺきに仕上げたい。世界の″平和の要塞″にしたい。(拍手)
 一九六〇年十月、世界への旅を開始した折も、その前に、私は、沖縄の大地を踏みしめた。初訪問の一九六〇年七月十六日である。
 この日は、大聖人が「立正安国論」を上呈されてから、ちょうど七百年の記念の日であった。私は、一つ一つ意味を考えて行動してきた。
 今回、訪問したタイと琉球も、いにしえより人と文化の交流を結んできた。私は、これからも沖縄からアジアへ、そして世界へ広宣流布の旅を続ける決心である。(拍手)
8  英雄・林則徐りんそくじょ″われは立つ、わが民のために″
 訪れた深圳は、中国の「経済特区」として大発展を遂げていた。私は本当にうれしかった。
 その深圳の街並みを見守るかのように、一人の英雄の銅像が小高い山に建っている。近代アジアの英雄・林則徐りんそくじょ(一七八五〜一八五〇年)である。中国で人気がある歴史上の人物としては、五指に数えられるという。とりわけ深圳、香港をはじめ広東カントン地方の人々の敬愛の念は深い。
 有名であっても偉大ではない人もいる。偉大であっても、無名の人もいる。こうした矛盾が人間の世界の実相である。
 彼は「人間としても」偉大であった。ここに人気の理由もあろう。
9  林則徐は、十九世紀前半、中国の清の時代、多くの国の侵略に対して真正面から戦った指導者である。真の指導者は、逃げず、臆せず、真正面に立って戦う。それでこそ、人はついてくる。
 当時の清は最盛期の華やかさは衰え、官僚の腐敗や為政者の堕落が横行していた。
 林則徐は、そうした風潮には断じて与しなかった。染まらなかった。彼は庶民の苦しみを知っていた。貧乏で子だくさん、三男八女の家庭に次男として生まれ育った。
 お金がなかったがゆえに苦学を重ねた。官僚となり、出世しても、庶民の苦悩に人一倍、敏感であった。苦労を重ねた人でなければ人の心はわからない。慈愛の心は、わいてこない。
 林則徐は記している。
 「『欲ばかりで信念のない人間』『外見は立派そうで、内実は臆病な人間』『人前では立派そうな意見を言っても、陰では大した志もない浅ましい人間』──。
 私はこういった汚職を働き、利益を貪る官僚にはならない。時流に翻弄されず、信念をもってただ国家・民族を守り抜きたい」
10  彼はどこへ行っても公平に、誠実に、民衆のために働いた。それこそが自分の最高の勲章であると信じていたかのように──。
 赴任した地で、彼は、「今、ここでは何が必要か」「人々は何を望んでいるのか」──その急所をはずさなかった。林則徐は、潅漑施設の建設、汚職の取り締まりなど、具体的に手を打っていった。自分がいるその地、その場を豊かにし、発展させていった。
 自分の今いる場所を大切にしていく。その場で何か結果を出していく。これこそ「よき人生」であり、「価値の人生」である。
11  彼は各地で要職を歴任していった。それぞれの地で「林公(=林則徐)が来られたから、もう大丈夫だ」という歌が流行したと伝えられている。
 広布のリーダーの皆さまも、「あの人が来たから大丈夫だ」と言われる人であっていただきたい。
 林則徐は、その公明正大な人格から、人々に「林青天」と呼ばれた。さわやかな青空のようだと慕われた。
 反対に、いつも不機で、「曇天」のような人もいるが(爆笑)、沖縄には「青き空」「青き海」がある。沖縄の人々も、そのように、さわやかである。(拍手)
12  アヘン根絶への妥協なき闘争
 当時の清は、帝国主義諸国の横暴な圧力に苦しめられていた。
 その一つがアヘンであった。中国から茶を輸入していたイギリスが、代わりの輸出品として売り付けたものであった。
 政府は一七九六年に輸入を禁じたが、密輸された。
 アヘンの害毒は、人々の心身を荒廃させた。また、その代金の支払いは経済に大打撃を与えた。
 堕落した政治家たちは賄賂を受け取り、密輸を黙認していたため、いくら取り締まっても効果がなかった。彼らにとって民衆が愚かなほうが好ましかった。アヘン漬けにして、金を巻き上げるほうがいいとさえ考えていた。
 悪の権力者は、民衆が利口になることを恐れる。善の指導者は、民衆を賢明にして、民衆を救おうとする。利口にならねばならない。権力者に利用される歴史を断じて繰り返してはならない。
 しかし、そうした愚民政策は長続きしなかった。皇帝は名声の高い林則徐に、アヘン撲滅を命じた。アヘン代金の支払いのため、銀が大量に流出して、国の財政が行き詰まった。役人は賄賂で潤ったが、皇帝は貧しくなっていったからである。
 それは困難な、命がけの仕事であった。しかし、林則徐は戦いにおもむいた。ただ民衆のために。民衆を救うために。
 今、皆さま方は、日顕宗という″邪教のアヘン″と戦っておられる。大聖人が「戦え」と命じておられるのである。(拍手)
 また、私が会見した尊敬するコロンビアの若き指導者・ガビリア大統領も、麻薬と敢然と戦っておられる。
13  林則徐は、欽差きんさ(特命を受け全権を与えられた)大臣として広東カントンに赴任した。すぐさま、烈々たる気迫で行動を開始する。
 彼は言った。
 「もし、アヘンが根絶しなければ、私はずっと、ここにとどまる。結果がでるまで、アヘンと戦うことを誓う。アヘンは断固中止すべきだ」
 当初、外国の商人たちは、林則徐も、これまでの連中と同じく、お金で買収できると見込んでいた。しかし、彼は、つけ入るスキを、いささかたりとも与えなかった。
 そうした毅然たる態度は、敵である外国人にさえ、忘れ得ぬ感銘を残したようである。
 彼は、緻密な計画を立て、民衆の心をつかみながら、現実的な手を一つ一つ打っていった。
 ただ厳しく処分するだけでは、アヘンはなくならない。アヘンをやめさせるための薬を配ってもみた。
 彼の政策は、短期間のうちに大きな成果を上げた。多くの女性や年配者からも「おかげさまで、夫や息子がアヘンを断つことができました」と、感謝の声が寄せられた。
 しかし、やがてそうした断固たる処置を口実として、イギリスが立ち上がった。兵を送ることを決定し、アヘン戦争の火ぶたは切られた。一八四〇年のことであった。
 これが戦争の背景の一つであった。かつてトインビー博士も、アヘン戦争に対するイギリスの責任を厳しく語っておられる。
14  「強くあれ」「清くあれ」「勇気で進め」
 武力による攻撃を予測し、林則徐は、周到な準備をしていた。厳然と広東の地を守り、敵を寄せつけなかった。
 ──敵というものは、弱いところをねらう。仏法の世界も同じである。「信心が弱く」「勇気がなく」「真剣の人が少なく」「団結がない」──そこに魔がつけ入る。強いところには、いかない。ゆえに、徹して「強き信心」であらねばならない。
 先の大戦でアメリカ軍は沖縄を侵攻した。あまりにも残酷な、あまりにも尊き犠牲であった。
 日本を守ったのは、沖縄の皆さまであられる。そのことを私は、声を大にして叫び、後世に残しておきたい。(拍手)
 イギリスは、広東が攻めにくいと知ると、北上して他の地域に襲いかかった。広東の防備は、林則徐によって、どの地方よりも堅固にされていたからである。
 私は、関西をそのようにした。難攻不落にした。常勝・関西──関西さえ盤石であれば、日本の広宣流布は盤石である。他がどうであろうと、関西が立ち上がれば勝つ。新たな波を起こしていける。そのように、手づくりで築き上げた。
 私は、将来、沖縄をそうしたい。この研修道場にも、日本はもとより、さらに多くのアジアの友が訪れよう。沖縄を東南アジア大発展の″急所″に──本日、互いに誓い合いたい。(拍手)
15  アヘン戦争当時、″七つの海″を股にかけていたイギリス軍。その圧倒的な武力を前に、中国側の戦局は悪化。すると、皇帝の周辺では、戦争の責任を林則徐一人に押しつけ、″敵と妥協しよう″とする動きが出てきた。
 いずこにも、必ずそうした邪悪な人間がいる。ずるい人間がいる。策略を鋭く見抜く聡明さをもたねばならない。
 すべては林則徐の活躍への妬み、ジェラシー、やっかみであった。今、学会の世界的な平和と文化の運動に圧迫があるのも、まったく同じ方程式であり、その本質は「嫉妬」なのである。
 狡猾な彼らは皇帝に吹き込んだ。林則徐の妥協なき態度がイギリスを怒らせたのだと。
 「すべては、林則徐が勝手にやったことです。彼をやめさせれば、敵もこれ以上、攻めてこないでしょう」
 皇帝は、こうした愚かな進言に乗り、林則徐の解任を決定する。
 これに対して、彼はきっぱりと主張した。
 「こちらが一歩、後退すれば、敵は必ずそれにつけ込み、一歩、攻め込んできます。ゆえに絶対に敵と妥協してはなりません」
 その通りである。引いてはならない。妥協してはならない。
 しかし、彼の正論は聞き入れられなかった。彼の意見を聞かずに安易な妥協をはかった。それが、かえって大きな敗北の原因を作ってしまった。
16  中国の降伏で一八四二年、アヘン戦争は終結。この時、香港はイギリスに割譲された。香港の返還期限が九七年に迫っているのも、ご存じの通りである。
 中国はその後、ほぼ一世紀にわたって受難の歴史が続く。日本軍も侵略した。
 ある意味では、指導者の一時の妥協が、歴史の進路を大きく変えてしまったともいえる。そのために苦しむのは民衆──この構図は、いつも同じである。
17  「人に尽くした人」が勝利者
 ところで、解任された林則徐は、アヘン戦争の責任を問われて、当時の辺境の地である新疆に左遷された。彼には何の落ち度もなかった。その実績を考えれば、むしろ正反対の決定であり、不当きわまる処分であった。
 (宗門も名誉会長に総講頭罷免をはじめ、不当きわまる処分を続けてきた。何の正当な理由もなかった。大功労者に対する、まったく理不尽な処分であった)
 しかし、どこへ行っても、彼はくさらなかった。今度は、左遷されたその地で立ち上がった。
 これこそ真の男である。真実の人間である。真実の人生である。
 いわんや、大聖人の仏法は「本有常住・常寂光土」と説く。
 どんな場所へ行き、どんな立場になっても、「わかりました」「結構です」「私は喜んで戦います」と言い切れる人には、だれびともかなわない。その人こそ「栄光の人」「勝利の人」である。
 反対に、「自分をやめさせた」とか、「あの人を偉くした」などと文句ばかり言うのは、小さな小さな心である。それでは敗北の人生である。自分自身の破壊を意味する。
18  林則徐は、新たな新疆の天地で、開墾事業や多くの民族の融和に努めた。
 彼のいた三年間で、広大な原野が肥沃な耕地に生まれ変わった。彼が作ったとされる多くの水路は、今もなお新疆の人々に豊かな潤いを贈っている。偉大な功績である。
 なお、新疆といえばシルクロードのロマンの大地であるが、私は先日、この新疆ウイグル自治区博物館から、同館初の「名誉教授」、また新疆文物考古研究所から研究所初の「名誉研究員」の称号をいただいた。(拍手)
 ともかく彼は、どこへ行っても、民衆に尽くした。だから、民衆に愛された。
 幹部も、学会員に一生懸命に尽くせば皆から愛される。皆から「嫌な人だな」──こう思われたら負けである。
 林則徐は、教育にも熱心であった。自分の家に子供たちを招き、作文などを教えた。貧しい子供には、援助を惜しまなかった。
 余談になるが、子供に対しては、本当にささいなことが教育になる。子供を無視しないで、ちょっとしたことでも、ありのままに話してあげることである。一人の大人に対するように──。そのときはわからなくても、いつか芽を吹いてくる。
 林則徐の詩に、「教師(私)も友(子供たち)も意欲をもって集まってくるのだから。(どうか子供たちよ)多くの本があるけれども、学んだことを生かしておくれ!」──と。
 私どもが離島などの多くの小中学校に図書贈呈を続けてきたのも、同じ願いを込めたものである。(=一九九八年末現在、日本全国の学校九百五十六校、四十二万五千冊の贈呈)
19  林則徐が朝廷から許され、最後に総督として赴任したのは雲南。三年後、その地を離れる時には、別れを惜しむ数万の群衆が集まり、彼の乗る馬は遅々として進まなかったという。
 さらに、その死を多くの民衆が悲しみ、連日、数千人の人々が弔問に駆け付けた。
 彼は、いわば庶民の英雄であった。迫害され、左遷され、さらに復活を果たすなど苦難の連続であったが、「民衆に愛された」、この一点で勝利者であった。ただ上の人にへつらい、上からほめられようとするだけの生き方は、色あせた敗北の人生である。
 真実の人生の価値は、どこにあるか。
 懸命に、民衆の中で「同じように苦しんであげよう」「守ってあげよう」「身を粉にして、励ましていこう」「奉仕しよう」──その行動の積み重ねに、人間としての「栄光」があり、「勝利」がある。これこそが、学会の高貴なる伝統なのである。(拍手)
 (主に堀川哲男『林則徐』〈『中国人物叢書』11所収〉人物往来社、『激動の近代中国』〈『人物 中国の歴史』9所収〉集英社、陳舜臣『実話 アヘン戦争』中公新書を参照した)
20  世界に誇る模範の城を
 さて、なぜ、林則徐の話を、ここ沖縄でさせていただいたか。
 実は彼もまた、沖縄の人々に深い信頼を寄せていたことがうかがえるからである。
 今から百五十五年前の正月。先ほども申し上げたが、彼はアヘンを廃絶するために広州に着任した。その翌日、彼は留守宅への手紙を、福州にある琉球館(領事館のような存在)の琉球人に託して送り届けてもらっている。
 中国の地にあって、沖縄の人々が、どれほどエネルギッシュに活躍していたか。そして、どれほど中国の人々から信頼されていたか、その一端を推察できる。
 また、そのほかにも、沖縄を訪れたヨーロッパ人たちが、琉球の人々の温かな人間性、礼節、平和を愛する心に感嘆したエピソードが、数多く伝えられていることも、申し添えておきたい。
21  その意味で、来るべき「アジア太平洋の世紀」は、この沖縄の「文化」と「自然」と「人間」が、ますます燦然と輝く世紀となるであろうと、私は確信している。(拍手)
 また沖縄は、日本一の長寿県。素晴らしい理想郷である。アジアの「健康都市」にとの期待も高い。多くの世界の友が、さわやかに、そしてにぎやかに往来し、健康で長生きをしながら、素晴らしい妙法の人生を、沖縄の人々から学んでいくようでありたい。
 ″琉球王国″を栄えさせ、″世界の模範の城″をつくりましょう、一緒に!(ハイ! と賛同の返事の拍手)
22  本日の総会には、この沖縄本島以外からも、二十四の島々、百五十人の同志がはるばると参加しておられる。
 宮古島、石垣島、西表島、小浜島、竹富島、北大東島、南大東島、波照間島、与国島、伊良部島、多良間島、渡嘉敷島、座間味島、浜比嘉島、久米島、津堅島、伊江島、水納島、伊是名島。そして九州・鹿児島の奄美大島、与論島、徳之島、沖永良部島、喜界島の皆さまである。遠いところ、本当にご苦労さまです。(拍手)
 また、国際支部と命名された元マーシー支部(沖縄在住の海外メンバーの組織)の皆さまも、代表の方が元気に参加されている。
 きょうは「世界に誇る沖縄」で、このように楽しい総会を開くことができ、心から感謝申し上げたい。本当におめでとう! ありがとう!
 (沖縄平和会館)

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