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日蓮大聖人・池田大作

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香港・関西合同総会 毎日が元気、毎日が久遠元初

1994.2.11 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

前後
2  日寛上人は、「観心本尊抄文段」(文段集四八八㌻)でこう述べられている。
 この本尊を受持する衆生は皆、″久遠元初の仏道″に入るので……すでに″久遠元初の仏道″に入った我ら衆生の凡夫の身は、まったくこれ″久遠元初の自受用身″なのである──と。
 自受用身とは、″(広大な法楽を)ほしいままに受け用いる身″(御義口伝、御書759㌻)のことであり、楽しく、自由自在の仏の大境界である。
 きょうは、お正月でもあり、教学上の難しい話は略させていただくが、大聖人の仏法を持った私どもは、常に「久遠元初」という宇宙の本源の大生命に立ち返り、そこから出発できるのである。そこには惰性はない。停滞もない。行き詰まりもない。過去の宿命的な因果の鎖にも縛られない。
3  関西と香港──大交流で″世界広布のシルコロード″を
 ″世界の人々が出会う″国際都市・香港。この地に一番最初に移り住んだ日本人はだれか。現在、記録に残る限り、それはじつは、関西出身の人であった。関西の庶民であった。
 一八四五年、今からおよそ百五十年前、漂流した四人の漁民がマカオから香港に渡った。その中の二人が関西(大阪)出身であった。他の二人は九州、中部の人だったという。香港に移住した彼らは、裁縫屋や、雑貨商を営むなど、この地に根を張りながら生涯をまっとうした。
 「ここで生き抜こう」「ここに根を張ろう」「ここで勝利しよう」──その信念こそ、本有常住を説く仏法の生き方である。関西の人は、どこへ行っても強い。たくましく道を開いていく。
 とともに、名もない日本の庶民を受け入れてくれたのも、心広々とした香港の庶民であった。
 香港の人も、関西の人も、大変に人柄が良い。気どらない。広く、開かれた心をもっている。何とも言えない人情味がある。形式主義や権威主義をう。いばったところがない。
 そうした共通点からも、香港と関西が大交流することは、まことに意義が大きい。
4  一方、関西の″世界の窓″といわれる神戸港。その開港の際(一八六七年)、準備に尽力してくださったのが、香港の地を含んだ広東カントン地方の人々であった。
 また、この人々は、神戸に「ガス灯」をもってきてくれた。″明るいあんどん″と、当時の人々を驚かせた。神戸の人たちは皆、「中国の人々は神戸に文化の光を運んでくれた」と大喜びだったという。関西の近代化への道を開いてくださった、この恩義を忘れてはならない。
 ともあれ、私は、縁深き香港と関西の交流が、実り豊かな「世界広宣流布のシルクロード」を開いていくと確信している。(拍手)
5  孫文「アジアには徳による王道の文化」
 先日(一月三十一日)、深圳しんせん大学での講演で孫文にふれた。言うまでもなく孫文は、近代中国の父であり、偉大な指導者である。彼は青春時代、ここ香港で学んだ。
 孫文は、ちょうど七十年前の一九二四年(大正十三年)十一月、関西の神戸を訪れ、遺言となったスピーチを残している。(翌年三月、北京で逝去)
 その中で、彼は、″アジアの文化は王道の文化である″という有名な、不滅の言葉を残した。
 すなわち、人を力で″圧迫″するのではなく、徳をもって自然に″感化″していく。人を″恐れさせる″のではなく、自然に″慕われて″いく。これが王道のいき方であり、アジアの文化である、と孫文は喝破したのである。
 それは日本の帝国主義に対する警告であった。この警告に背いて、日本はアジアを武力で圧迫する″覇道″に走ってしまった。この美しき香港の地も侵略した。
 孫文は祖国の改革に立ち上がった。ゆえに、茨の道を歩んだ。そして、日本が覇道をゆくなかにあって、日本の軍国主義と戦い、王道を貫いたのが、私どもの牧口先生、戸田先生である。
 創価学会は永遠に王道を歩む。これまでも歩んできたし、未来永遠に歩み続ける。(拍手)
 皆さまは、これからも「平和」と「文化」の金波、銀波を、香港から世界へ、関西から世界へ、さわやかに広げていただきたい。
 終わりに、重ねて提案したい。将来、関西に香港創価学会の由来の碑を、香港に関西創価学会の由来の碑を建ててはどうかと提案したい。(拍手)
 それでは、どうか、お体を大切に。多謝トーチェ(ありがとう)、多謝!
 (香港文化会館)

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