Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回タイ総会 永遠に自在の境涯を開こう

1994.2.8 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  「ダイヤモンドの信心」で「ダイヤモンドの幸福」を
 サワディークラップ(こんにちは)! コップクンクラップ(ありがとう)!(拍手)
 「大好きなタイ」「愛するタイ」を訪問できて、私はうれしい。きょうは楽しい家族懇談会にしましょう。黄金の一日にしてまいりましょう!(拍手)
2  この、新しい文化会館も本当に素晴らしい。
 タイの著名な詩人シット・ブンラタットは、タイの人々の「力強さ」「知恵の鋭さ」「忍耐強さ」をたたえ、「タイ人の心はダイヤモンドのようだ」と謳った。
 この新会館は、皆さまお一人お一人の「ダイヤモンドの信心」の結晶である。皆さまの「育ちゆく福徳」の象徴である。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「功徳は、目に見えないうちに大きくなってくる。いったん植えた仏の種は必ず大木になる。その時には、″功徳はいらない″といっても、どんどん出てくる」と。
 そのためには「ただ心こそ大切」である。
 たとえば今、代表への表彰があった。表彰されなかった方も、実は御本尊から表彰されているのである。それなのに、「何だ、あの人だけ」(笑い)、「本当は私のほうが」(笑い)などと怨嫉すれば、その分、福運を消してしまう。
 心から喜び、たたえていけば、その心が原因となって、生々世々、表彰される自分になっていく。
 また、きょうは遠くからこられた方々もいる。遠ければ遠いほど、それを乗り越えてやってこられた信心が、近くの人よりも、何十倍もの功徳を積んでいる。「妙法」とは「不可思議の法」である。人間の小さな頭では思議できない。考えられない働きがある。ゆえに「信心」の心が大切なのである。
3  「最高の人生」のために「最高の法」を
 さて、「人生、いかに生きていくか」「どうすれば、一番いい人生が生きられるか」──これこそ万人にとっての根本問題である。生まれてきた以上、この課題を避けられない。
 これを追究したのが多くの哲学であり、思想であり、宗教である。また、政治や経済、科学なども、根底は、この課題と切り離せない。全部、人間が一番幸福に生きるための手段のはずである。しかし、これらのすべてが、「何が最高の人生か」に答えられない。明確な結論がない。だれ人も納得できる道理のうえでの答えがない。
 これに、明快に答えたのが仏教である。釈尊であり、天台大師であり、日蓮大聖人であられる。
 釈尊の結論と、大聖人の結論は、まったく同じなのである。
 そのうえで、日蓮大聖人は、その結論に基づいて、万人が幸福になるための具体的な″機械″を残してくださった。戸田先生が「幸福製造機」とたとえられた御本尊を、全世界の民衆に与えてくださったのである。
4  人間、何が幸せか。
 タイのことわざに、こうある。
 「偽物の幸福は人を図に乗らせ、醜く高慢にしてしまう。真実の幸福は人を歓喜させ、知恵と慈悲で満たしていく」
 お金があるから幸福といえるか──。お金のために人生を狂わしていく人もあまりに多い。情けないことに宗門は、お金を持ちすぎて″醜く高慢″になってしまった。
 皆さま方、仏子の清らかな真心を踏みにじった罪は、御書に照らし、経文に照らして、限りなく重い。その報いは彼ら自身が受けることになる。
 戸田先生は、「相対的幸福」に対して、「絶対的幸福」を説かれた。
 人と比較してどうとか、また時とともに消え去るような、はかない幻の幸福ではない。どんな時でも、「生きていること自体が楽しい」という境涯を開いていく──そのために信心するのだと教えられたのである。
 そうなれば、「真実の幸福は人を歓喜させ、知恵と慈悲で満たしていく」とあるように、最高の歓喜と知恵と慈悲がわいてくる。
 御書には「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」──自他ともに「智慧」と「慈悲」があるのを「喜」(喜び)というのである──と仰せである。
 自分も人も「絶対的幸福」をつかんでいくための信心であり、広布の組織なのである。
5  信心こそ生きぬくためのエンジン
 人生、いろいろなことがある。悲しみがあり、苦しみがある。毎日、いやなこともある。夫婦げんかもあれば、離婚して不幸になる場合もある。仲が良くても、子供が病気になることもある。自分が病むこともある。ありとあらゆる悩みがある。生きていくことが、どれほど大変なことか──。
 その人生を「生きて生き抜く」ためのエンジンが信仰である。
 生き生きと、ロケットのように、悩みの雲を突き抜けて、ぐんぐん上昇していく。限りなく向上していく。幸福の大空を遊戯していく。そのための噴射力が信心である。
 南無妙法蓮華経と唱えれば、「生き抜く力」がわいてくる。「希望」がわいてくる。
 煩悩即菩提で、悩みを喜びに、苦しみを楽しみに、不安を希望に、心配を安心に、マイナスをプラスに、すべて変えながら生き抜いていける。絶対に行き詰まりがない。
 大聖人は「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」──妙とは蘇生の義である。蘇生とは蘇るということである──と仰せである。
 個人も、団体も、社会・国家も、すべてに「生きゆく活力」を与え、みずみずしく蘇生させていく。それが妙法の偉大なる力である。
6  人間には、宿命もある。
 「自分は、もっとお金持ちの家に生まれたかった」──しかし生まれてこなかった。
 「自分は、もっと美人に生まれてきたかった」──しかし……もちろん、タイの人は皆、美しい。これは、よその国の話である。(笑い)
 その他、宿命的な、いろいろな課題がある。これは根本的には、三世という生命観から見なければ、わからない。厳然と前世があり、因果がある。
 前世に、地球にいたとも限らない。天文学でも今や、宇宙には、莫大な数の星に、人間のような知的生物がいると考えられている。
 そして今、私どもは、ここに、現実に生まれてきた。これは厳粛な事実である。この自分自身をどうするか。どう宿命を転換し、素晴らしき最高の人生を創っていくか。
 結論して言えば、信心こそが、すべての宿命を転換できる。自分のいる、その場を、そのまま幸福の寂光土にしていける。
 そして「現当二世」と仰せのように、常に、今から未来へ、今から未来へと、どんどん人生を開いていける。来世も、また次の来世も、無限に開ききっていける。無量の「宝」を我が身に開き、我が身に満たして輝いていける。これが私どもの「信心」である。
7  大宇宙の「宝」は我が身
 ゆえに、どんな嵐にも信仰者は負けない。
 日蓮大聖人の御生涯は難の連続であられた。全部、私ども世界の民衆のためであられた。
 とくに、一二七一年(文永八年)の竜の口の法難は、最大の難であられた。しかし、何があろうと、大聖人は毅然としておられた。
 まさに頸を切られるというとき、涙を流して悲しむ門下の四条金吾に向かって、大聖人は、言われた。
 「これほどの悦びをば・わらへかし」──これほどの喜びはなと、笑っていきなさい──と。
 いかなる困難にも揺るがぬ信念、タイのチャオプラヤーの大河のごとき悠々たる境涯。それを築くのが「信心」である。
 妙法は大宇宙の根源の法である。その法を久遠元初以来、悟り、所持されているのが日蓮大聖人であられる。人法一箇の妙法であり、御本尊にも「南無妙法蓮華経 日蓮」とおしたためである。
 この御本尊を信じ、日蓮大聖人直結の信行を貫くとき、小宇宙である私どもの生命が、大宇宙の根本のリズム、妙法のリズムと合致し、宇宙を自在に遊戯する境涯となっていく。
 大聖人は「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり」と仰せであり、この身が妙法蓮華経の五字の当体であると教えられている。
 日蓮大聖人の説かれた「妙法蓮華経」とは、大宇宙の法であり、同時に、小宇宙である我が身の法である。
 そして「南無」とは「帰命」の意味で、この大宇宙と小宇宙が一体となっていくことである。「帰」とは大宇宙に帰して一体となり、「命」とは、その無限の力に「命いて」生き生きと、常楽我浄で生きぬいていくことである。
8  大聖人は、人体に即して、私どもが小宇宙であることを教えてくださっている。
 聞いたこともある人もおられると思うが、「総勘文抄」に、妙楽が天台の『摩訶止観』を注釈した弘決の一節を引かれ、頭が丸いのは天が丸いことにかたどり、腹が温かいのは春夏に、背中が硬く冷たいのは秋冬にのっとる。体に天地があり、四季がある、と述べられている。
 さらに大きな関節は十二。十二カ月を表す。小さな関節は三百六十。三百六十日を表す。
 息は風である。静かな風のときもあるし、夫婦げんかのときは台風となる(爆笑)。両眼は太陽と月。髪は星。眉は北斗七星。血流は川。脳溢血は川の氾濫といえようか。
 肉は大地、皮膚は地面、毛は草木や林。また二つの肺の間に心臓があり、胸の蓮華を表す──とも説かれている。
 我が身が即、大宇宙である。それが生命の根本の法理である。そして、妙法を信じ、行じるとき、事実のうえで、大宇宙の宝を、小宇宙の我が身の上に、自由自在に引き出し、使っていける。そこに「幸福」という結果が生まれる。
 反対に、妙法に逆らえば、宇宙のリズムと狂って、「不幸」という現象が現れる。
 ゆえに、信心があれば、この世で「最極の人生」が生きられる。これ以上はないという、素晴らしき「絶対的幸福」の自分自身となる。
 これが、釈尊の結論であり、日蓮大聖人の教えられた精髄である。
 「信心」こそが大切なのである。御書においても、結局は、この大聖人直結の正しき「信心」を教えられているのである。
9  持続こそ力、異体同心の前進を
 戸田先生は、よく言われていた。
 「我々には、過去遠々劫といって、無限の昔から積んできた罪業がある。だから、汚れたホースのようなもので、そこに信心によって仏界という清らかな水を流しても、はじめのうちは、これまでの汚れが押し出されてくる。ゆえに宿命との戦いがある。
 しかし、信心を続けていけば、必ず、清らかな功徳が、どんどん出てくるようになる。『一生成仏』といって、今世で必ず宿命を転換できる。御本尊は、それだけの、すごい力のある大良薬であり、幸福への尊極の機械であられる」と。
 だから今世の信心が大切である。どんなに苦しくても、今世を広宣流布に生き抜いて、一生成仏することである。そうすれば、必ず「所願満足」の自分自身となる。未来永遠にわたって、「自在」の自分となる。
 だから今世を、ともに励ましあって、ともに幸福になっていこう、人をも幸福にしていこうというのが創価学会の組織なのである。
 ゆえに、信心は「持続」が大事である。
 多くの名著を残したタイの文筆家ウィチット・ワタカーン氏の言葉にも、「持続こそ力なり」とある。
 これは他の万般にも通じる。タイと日本との文化交流を続けゆく私の信条も、また「持続こそ力なり」である。
 持続の中に、友情が深まり、持続の中に、信義が光る。持続の中に、未来が広がっていく。「交流」へのこの情熱のバトンを、信頼するタイ青年部の皆さまに、私は託したい。
10  「持続」のためにも「良き同志」が大事である。
 大聖人は「よき人にむつぶもの・なにとなけれども心も・ふるまひ振舞も・言も・なをしくなるなり」──良き人と親しむ者は、自然のうちに、心も振る舞いも言葉遣いも正されてくる──と仰せである。
 今、どういう人とつながっているのか。どういう人の中にいるのか。それで人生の多くの部分が方向づけられていく。
 タイの皆さまは、本当に仲良く、うるわしい団結でお互いを磨き合っておられる。それ自体、偉大なる勝利の姿である。そこに、次の大発展への因も積まれている。
 皆さまの異体同心の前進を、私はたたえたい。
11  「真剣」の人を諸天も「真剣」に守る
 御本尊には、釈迦・多宝の二仏、諸菩薩、諸天善神らが示されている。病気を治したり、智慧を与えたり、さまざまな力、さまざまな働きの諸尊が含まれている。
 私どもが、御本尊のため、広宣流布のために働くとき、これら全宇宙の諸仏・諸菩薩・諸天が全部、私どもを守りに守られる。
 大聖人は仰せである。
 「たえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ・かたにかけせなかふべきぞ」──(難があっても)耐えて、妙法を弘める人を、釈迦仏は必ず衣でおおって守られるのである。諸天は必ず、その人を供養するのである。その人を肩にかけ、背中に負って守るのである──と。
 そういう約束になっている。約束を守らなければ、諸天・諸菩薩が、大聖人に叱られるのである。
 ゆえに私どもは、大いばりで(笑い)、諸天を動かしていけばよい。いわば、家来のようなものである。守られないはずがない。幸福にならないはずがない。
 もちろん広宣流布のために働きもしないで、いばっていてもダメである。(笑い)
 社員だって、社長が一生懸命、働いているのを見るからこそ、″よし頑張ろう″となる。
 男性が社会でしっかり働いて帰ってきてこそ、奥さんもニコニコと出迎えてくれる(笑い)。子供も喜んで飛びついてくる。
 ろくに働きもしないで、「ビールを出せ!」といばっても(爆笑)、奥さんも不機、自分も不機、たちまち不和と離婚であろう。(爆笑)
 奥さんのほうも、これは同じである。家事も身だしなみも、だらしなくて、大事にしてほしいといっても無理がある。
 運動会でも、一生懸命、走っている子には、頑張れ、頑張れと声援が飛ぶ。だらりだらり(笑い)としていれば、だれも応援しないであろう。
 諸天善神も同じである。「真剣」の人を「真剣」に守る。「行動」の人を、諸天も「行動」して守ってくれる。仏法は「道理」である。
12  ゆえに、大聖人は「いさぎよい信心」をしなさいと強く教えておられる。
 御書にも「みなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはめるがごとし」等──(水が澄めば月はきれいに映るように)人々の心は水のようなものであり、信心が弱いのは水が濁っているようなものです。詩人が立派なのは、水が澄んでいるようなものなのです──と述べられている。
 すっきりと、勇んで行動する信心が、功徳をわかせていく。臆病や、怨嫉、文句、策の信心では、諸天も動かない。
 その意味で、御本尊は「鏡」であられる。
 御本尊に向かう信心の姿勢が、そのまま御本尊に映り、結果として、生活に映し出される。
 信心の「心」が強く、清らかであれば、御本尊の鏡に映し出されて、その「心」のままに、諸天は動き、人生は幸福になっていく。「心」が弱く、また濁っていれば、鏡に映るのも、そのような心である。その通りに、人生が動いていってしまう。
 どこまでも「心こそ大切」なのである。
13  生死ともに「永遠に自在」「永遠に歓喜」
 「いかに生きるか」という問題とともに、「いかに死するか」という課題がある。
 人間は必ず死ぬ。
 ユゴーは「人はみな不定期の猶予つきで死刑に処せられている」(『死刑囚最後の日』豊島与志雄訳、岩波文庫)と言った。
 臨終──すなわち死のときの姿によって、来世も決まっていく。その姿は、人によって千差万別である。
 二度と人間に生まれない場合もある。幸せそうに見えても、苦しみきって死ぬ人も多い。
 本当に安らかに、苦しみもなく、満足しきって、「大歓喜の死」を迎える──これは妙法以外には絶対にできない。
 しかも、その歓喜が次の世でも、次の世でも続き、繰り返し、「所願満足」の境涯となっていく。
 ゆえに今世で信心を貫きなさいと教えるのである。
14  皆さま方の偉大な事業として、「法華経」がタイ語に翻訳されることになった。
 法華経(法師品)には「生ぜんと欲する所に自在」(妙法を受持する人は、生まれたいと欲する場所に自在に生まれることができる)と説かれている。生々世々、自ら願った通りの国土に躍り出て、人々を救っていけるのである。
 タイという国名には、「自由」という意義も含まれている。まことに誇り高き響きである。
 そして仏法こそ、真の「永遠の自由」を勝ち取れる大法である。生命は永遠であり、永遠に楽しみきって生きていける境涯になるのが、この信心なのである。
 タイの国は、一年中、花々が咲き香っている。今もジャスミンをはじめ、多くの花がかぐわしい香りを漂わせている。しかし、それ以上に美しいのは、皆さまの「心」の薫りである。
 釈尊は語っている。
 「どんなに香りの良い花があっても、その香りは、風に逆らっては進まない。しかし、徳のある人の薫りは、風に逆らってでも進んでいく。徳のある人は、すべての方向に薫る」
 気高き「人格」の人は、どんな非難や策略の逆風が吹こうとも、その人間性の薫りを人々に伝えていく。
 皆さまの生命からも、高貴なる菩薩界の薫り、仏界の薫りが、あらゆる方向に広がっている。
 これからも、我が周囲に、さらにさらに信頼を広げながら、美しき「人華」の芳香を、いやまして薫らせていただきたい。
15  尊き今世を、悔いなく、無事故で
 終わりに、「交通事故を起こしてはならない」と、注意を呼びかけておきたい。
 自分も苦しみ、人をも苦しめ、周囲も悲しむ。こんな不幸なことはない。こんな愚かなこともない。
 タイも近年、交通量が激増している。くれぐれも注意していただきたい。
 「絶対無事故」を日々、真剣に祈り、細心の注意をしていただきたい。同志の無事故も祈りあっていきたい。注意しあっていきたい。
 また、疲れをためると、不注意や居眠り運転になる危険がある。
 疲れをためないことは「健康」の一番の薬でもある。とくに、年配の方は決して無理をせず、自身の体調を賢明にととのえていただきたい。そして、元気で長生きしていただきたい。
 私も、皆さまの「健康」と「長寿」と「幸福」を、毎日、真剣に祈っている。題目を送っている。
 苦しくても題目、楽しくても題目である。大聖人は「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経」と唱題を勧めておられる。
 どうか朗らかに、「最高に楽しい人生」を送ってください。家族は仲良く、同志は仲良く、生き生きと生きてください。
 これで本日の「家族懇談会」を終わります。長時間、ご苦労さま。また、お会いしましょう!
 (バンコク・タイ文化会館)

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