Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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関西最高協議会 指導者は「私が働く」「私が動く」と

1994.1.27 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

前後
2  宗門のうそが、次々に暴かれている。
 (この年〈平成六年〉の年頭に、名誉会長の法華講総講頭罷免を始め、創価学会の破壊・離間を密議したC〈カット〉作戦の謀略メモが発覚。日顕を首謀者とする広布破壊の陰謀が改めて白日のもとにさらされた)
 「うそ」と謀略──これが宗門の体質である。そして大聖人は、これこそが提婆達多の本性であると断破されている。
 「提婆が虚言」(「撰時抄」)
 「提婆が虚誑罪」(「開目抄」)
 「提婆達多が大妄語」(「光日房御書」)
 「提婆達多と申せし人・いかんがして此の事をやぶらんと・おもひしに・すべて・たより便なかりしかば・とかうはかりしほどに」(「上野殿御返事」)
 その他、「うそ」と「謀」が提婆の体質であることを、繰り返し教えてくださっている。
3  日興上人とともに書かれた「滝泉寺申状」には、ずばり、こう仰せである。
 「悪行猶以て飽き足らず為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・あに在世の調達に非ずや
 ──(大聖人門下を迫害している悪僧の行智は)悪行に飽き足りないで、法華経の行者の善行を隠し、「謀略の案」を考えて、種々の「うそ」を言い立てた。これはまさに釈尊在世の提婆達多ではないか──。
 日顕宗の「謀案」と「不実」は、提婆の証明なのである。
 そのうえ、提婆達多の「目的」が破和合僧であり、「動機」が嫉妬であった。この点もそっくりである。
 提婆達多が法主の衣を着ているのである。衣は法主の衣でも、中身は提婆である。宗門の内外に、その事実がはっきりした。必ずや
 その偽りの衣をはぎ取らねばならない。
 御書には、法華の清流を継ぐべき地位にありながら邪法に染まった、当時の天台座主等の高僧は″提婆達多が釈尊の御袈裟を着ているようなものである″と断じ、「此の袈裟をかへし給わざるは第一の大科なり」──(法華経の行者を守ると誓った八幡大菩薩が)この袈裟をはいで取り戻されないことは、第一の大罪である──と厳しく教えられている。
4  宗門は迫害するほど「うそ」が露見
 宗門は、広宣流布の行者を迫害すればするほど、自分たちの「うそ」が露見している。
 この原理を御書では、こう仰せである。
 「心にはあだめども・うへそしらば・いかんがと・をもひて・事にかづけて人をあだむほどに・かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ
 ──(北条時宗の家臣たちは、法華経を)心では憎んでいるけれども、(公式に)上訴するのもどうだろうと思って、別のことにかこつけて(大聖人門下の)人を迫害した。すると、かえって自分たちの前の「うそ」が露見してしまったのです──。
 これは熱原の法難の際、勝手に「虚御教書」(公文書に見せかけた、でっちあげの命令書)をつくって弾圧したところ、かえって、大聖人の佐渡御流罪においても「にせの御教書」を使ったことが、はっきりしてしまった──そのことを言われている。
 迫害者は何の裏づけもない文書を三度も使って、大聖人を亡きものにしようとした。その「大うそ」が、熱原の弾圧での「うそ」によって、改めて露見してしまった。
5  日顕宗もまた、学会を心では妬み、憎んでいても、弾圧する大義名分が何ひとつない。ゆえに、別のことにかこつけて迫害してきた。まったく同じである。
 (本部幹部会における名誉会長のスピーチを、故意に改ざんしたうえで、法主を批判したとかの言いがかりをつけてきた)
 本当は「はじめに結論ありき」で、″学会から取るだけ取ったから弾圧しよう″と決めていたのである。それから、もっともらしい理由をさがした。その事実が改めて、はっきりした。
 これは何を意味するか。一つは「宗門から見ても、学会には何ひとつ間違いがなかった」ことを表す。正当な理由がどうしても見つからないからこそ、別のことにかこつける必要があったのである。
 また、根本が「うそ」であり、「謀略」であるゆえに、その後の解散勧告も破門通告も信徒除名も、すべて「うそをつき通すためのうそ」であり、「謀略を実現するための謀略」であることが明らかになった。
 いわば、すべて″虚御教書″であり、法主らがでっち上げた虚構である。彼らは、この幻によって、宗内の僧侶や法華講員をも、だましていたのである。
6  大聖人は、こういう人間を、次のように厳しく断罪しておられる。
 「木のしたなるむしの木をくらひたうし・師子の中のむしの師子を食らいうしなふやうに守殿の御をんにて・すぐる人人が守殿の御威をかりて一切の人人ををどし・なやまし・わづらはし候うへ、上の仰せとて法華経を失いて国もやぶれ主をも失うて返つて各各が身をほろぼさんあさましさよ
 ──木の下にいる虫が(木のおかげで生きているにもかかわらず)木を食い倒し、獅子の中の虫が(獅子のおかげで生きているにもかかわらず)獅子の内部を食い荒らし滅ぼしてしまう。そのように、北条時宗殿の御恩を受けて生きている者が、その威光を借りて、一切の人々をおどし、悩まし、わずらわせたうえ、時宗殿の仰せだと(「うそ」をついて)法華経を滅ぼし、国も滅ぼし、主人をも失い、かえって自分たちの身を滅ぼすとは、何とあさましいことであろうか──。
 まさに日顕宗の姿そのものである。その極重罪は言葉で言い尽くせない。
 大聖人は、「法華経のかたをあだむ人人は・剣をのみ火を手ににぎるなるべし」──法華経の味方を迫害する人々は、剣を飲み込み、火を手に握るようなものです──と、その恐ろしさを説かれている。
 彼らは、自分でその恐ろしさがわからないのである。大聖人の御言葉を信じていないからである。
7  最後に、こうした「うそ」が飛びかう乱世の中、まっすぐに大聖人を信じていた在家の婦人の窪尼を、こうたたえて、御手紙は結ばれている。
 「これにつけても・いよいよ御信用のまさらせ給う事、たうとく候ぞたうとく候ぞ」──これにつけても、あなたが、いよいよ信心を増しておられることは、尊いことです。尊いことです──。
 仏法は厳しい。時とともに賞罰は必ず明らかになる。
 今後も、責めれば責めるほど、彼らの「うそ」や「謀略」が、いよいよ露見していくにちがいない。そして私どもの赤誠の「真実」は、限りない「功徳」となって咲き薫るにちがいない。
8  動き、語れば「護法の大功徳」が
 異常気象や災害について、「四十九院申状」に、次のように仰せである。
 「愚癡の輩・短才の族・経経顕然の正説を伺わずいたずらに師資相伝の口決を信じ秘密の法力を行ずと雖も真実の験証けんしょう無し、天地之が為に妖蘗ようげつを示し国土之が為に災難多し、是れしかしながら仏法の邪正を糺さず僧侶の賢愚を撰ばざる故なり
 ──愚かな人々、才が足らぬ人々は、諸経に明らかな正しい教えを知ろうともせず、いたずらに、師から受けたと称する相伝の口伝を信じ、また秘密の法力と称する邪な祈祷をしている。しかし、真実の現証は何も出ない。(それどころか)天地は、このために妖しい災いの芽(凶兆)を示し、国土には、このために災難が多い。これは、ひとえに仏法の「邪」と「正」をたださず、「賢僧」(大聖人)と「愚僧」を区別しないからである──。
 仏法という根本の次元で「正邪」を決してこそ、国土も民衆も安穏になる。
9  在家の身として、最も努めるべきことは何か。在家が成仏する根本の道は何か──。
 大聖人は仰せである。
 「在家の諸人別の智行無しと雖も謗法の者を対治たいじする功徳に依つて生死を離る可きなり」──在家の人々は、特別の知恵や修行がなくとも、謗法の者を対治する功徳によって、生死の苦しみを離れる(成仏する)ことができる──と。
 大聖人は、この「謗法の者」とは、「破戒の諸の悪比丘(=悪僧)」であると、明確に示されている。
 また、悪侶たちは「一旦の欲心に依つて」、仏が定められた「広宣流布」の予言を破壊するのだ、と。
 文字通り、日顕宗のことである。ゆえに今、彼らと戦えば戦うほど、彼らを「対治」すればするほど、在家の学会には「護法の大功徳」がわく。
 これが御書に示された成仏への「在家の修行」なのである。今、私どもは、この仰せ通りに進んでいる。動くべき時に動く。語るべき時に語る。その人が大功徳を受ける。
10  さて今、学会は、新しき人材の育成をはじめ、あらゆる面で、みずみずしい「刷新」を行っている。
 アメリカの宗教学の権威、タフツ大学のハンター博士は、こう述べておられる。
 「大切なのは、その宗団が内部に自己浄化の機能をもっているかどうかということです」(「聖教新聞」一九九三年七月七日付)
 組織に生じがちな「官僚主義」や「権威主義」「要領主義」と、常に戦い、乗り越えていくエネルギーがあるかどうか──それが大切だ、と。それがなくなれば、濁り、滅んでいくしかない。
 そして、ハンター博士はそのために必要なものとして、「健全な自己浄化の機能をもつ集団、個人は対話を好む」(同前)と指摘しておられる。(博士は続けて「その模範がSGI会長です」と述べている)
 内外のあらゆる人々と、どんどん「対話」し、交流していく。そこに「刷新」のエネルギーが、渦巻いていく。風通しのよい、開かれた組織、開かれた人格ができていく。
 「対話」を拒否し、ゆえに「自己浄化」の作用もゼロの集団が宗門である。
 宗教改革、社会の改革、そして組織の改革。それらに取り組むことは、とりもなおさず、自分自身の生命の刷新となり、改革となる。
 悪と戦ってこそ、自分の生命は善になる。濁りと戦ってこそ、生命は「自己浄化」される。
 ゆえに「心を師」としてはならない。「心の師」とならなければならない。そのために絶対に必要なのが「師弟の道」である。ここに根本的な「自己浄化の道」がある。
11  「油断」「傲慢」「人まかせ」が指導者の敵
 地域の勝利のために、フレッシュな前進のために、リーダーに一番大切なものは何か。
 もちろん、さまざまな角度から論じられるが、根本は「真剣さ」ではないだろうか。リーダーとは「だれよりも真剣な人」の異名である。
 どんな地域でも、運動でも、リーダーが「必死」でなくなったとき、停滞が始まる。そうであっては、真剣に働いている人に対し、申し訳ない。また、あまりにも無慈悲である。
 自分が真剣にやらずして、″だれかにやらせよう″というのは卑怯である。官僚主義である。
 自分が本気にやらずして、″何とかなるだろう″という気持ちがあれば、それだけで、すでに敗北である。
 リーダーが「だれよりも真剣」でなければ、どんな名作戦があっても、小手先の策になってしまう。全部、指導者で決まる。人まかせでなく、自分が働くことである。自分が動くことである。
12  中国の戦国時代(約二千三百年前)、趙の国に趙奢ちょうしゃという将軍がいた。他の人が「不可能」と言った勝利をも実現した名将であった。
 彼の息子・趙括ちょうかつは、頭も良く、兵法も広く学んでいた。
 あるとき、親子で兵法を論じ、息子の論に父は勝てなかった。しかし、なぜか父は息子を、ほめなかった。
 妻(趙括の母)が、そのわけをきくと、将軍は『兵は死地なり』として、こう答えた。
 すなわち、「いくさ(戦争)というものは命がけの場だ。それを、あいつは理屈だけで軽く考えている。あのままでは、いつか国を滅ぼしてしまうだろう」と。
13  父の死後、彼は強国・秦との戦いに、将軍として出陣した。
 彼は、自分の勝手な考えで、今までの軍のやり方を、全部無視し、変えてしまった。その結果は、数十万の兵士を失う大敗北。祖先が営々として築いてきた趙の国を大きく傾けてしまった。父の心配が、不幸にも的中してしまったのである(『史記』、『中国古典文学大系』11所収、平凡社。参照)。
 頭のきれる、この青年は、一流大学出身の秀才のようなものであったろうか。頭は良いが、自分が捨て身にならないで、一番大変なことは人にやらせようという「ずるさ」と「傲慢」があったのかもしれない。また、苦労知らずのゆえに、ものごとを軽く考える浮薄さがあったのであろう。
 学問は大事。知識も大事である。しかし、それにとらわれて、根本の「必死の一念」を薄れさせたら、大失敗となる。
 自分の知識や立場に、心が高ぶって、体当たりの「誠実の行動」がなくなれば、空転するだけである。かえって、皆に迷惑をかける有害の存在となってしまう。
14  勝ってこそ成仏、勝ってこそ功徳
 「油断」は大敵である。油断は、せっかく積み上げてきた勝利を一瞬で崩してしまう場合がある。
 油断は、″何とかなるだろう″という無責任、″もう、このくらいでよいだろう″という安易さ、″もう勝負はついたようなものだ″と思う慢心、″現場の声を聞かない″傲慢から生まれる。
 「仏法は勝負」である。勝ってこそ成仏はある。勝ってこそ真の功徳はある。
 ゆえに指導者の責任は重い。学会の指導者は、皆の宝の生命をあずかっている。皆を断じて幸福にする使命がある。
 ゆえに、同志に偉大なる功徳の道を開きゆくために、全知全能を発揮して、断じて勝つ名指導者であっていただきたい。
 明日(一月二十六日)から、アジア訪問の旅に出発します。留守中は、秋谷会長ならびに各方面・県の責任者を中心に、日本のことを万事、よろしくお願い申し上げます。
 (大阪市内)

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