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第74回本部幹部会、第28回婦人部幹部… きょうも生き生きと快活に前へ!

1994.1.22 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  ″母の恩を忘れることなかれ″
 本日は、本部幹部会とともに、第二十八回の婦人部幹部会──全国の婦人部の皆さま、おめでとうございます。ご苦労さまです。(拍手)
 この創価国際友好会館には、婦人部の首都圏の代表、白ゆり大学校、平和文化会議の皆さまが、元気に集われている。
 このほか、海外十七カ国のメンバー、この春に創価大学・創価女子短期大学を卒業する学生部・女子部学生局の代表、東京未来会の代表、さらに、「区の日」などを記念して、東京の港、中野、小金井、日野、町田、飾、千住(足立)、練馬の各区の代表も参加されている。おめでとう。
 東京は今、発展している。又、全国各地の記念の集いが開かれている。心からお祝い申し上げたい。(拍手)
2  ちょうど、きょう、エジプトのホスニ文化大臣とお会いした。そこで、エジプトの話を少々させていただきたい。
 今回、文化大臣は、古代エジプト文明の展覧会のオープニングに出席のため来日されたが、それはとくに女性に光をあてている。(国立カイロ博物館展「古代エジプト文明と女王──女神イシスからクレオパトラまで」が両国の江戸東京博物館で開催された)
 古代エジプトの墓の銘文や、書簡には、女性を賛嘆する言葉が多く残されている。
 その一つに、母をたたえたものがある。
 「汝は汝のために母がなせしことを忘るべからず。……母は全力をもって汝を生み、育てしなり」「母は汝を育て、汝が学校へのぼり、文字を学びしとき、パンとビールを家より師のもとに、日ごとに運びしなり(L・ロットレル『古代エジプト人』酒井傳六訳、法政大学出版局)
 ″母の恩を忘れることなかれ″。この古代エジプトの賢者のメッセージは、そのまま現代に通ずる。母が、どれほど偉大であるか──。
 壮年部、青年部の皆さんは、婦人部のほうへ向かって称賛の拍手をお送りいただきたい。(拍手)
3  皆で婦人部の帰宅時間の厳守を
 広布の活動にあっても、女性への配慮ができるリーダーであってほしい。皆を守るのが指導者である。
 たとえば、婦人部が、なるべく早く帰宅できるよう、中心者は価値的な判断をして、送り出してあげるべきである。男性の都合が中心であっては絶対にならない。婦人部がいちばん働いているのだから、婦人部を中心に考え、実行するのが当然である。男性の中心者には、その責任がある。
 場合によっては、ある時間になったら、婦人部は「時間ですので、お先に失礼します」と帰ることを提案したい。男性に合わせる義務もなければ、必要もない。リーダーも、それを喜んで理解し、送り出してあげてほしい。また、婦人部が遠慮せず、自然にそうできるよう、こちらから配慮してあげるべきである。これは婦人部同士の会合、打ち合わせでも同じである。
 時間をきちんと決めたほうが、だらだらと遅くまでやっているよりも、価値的な場合は、たくさんある。その分、充電もできるし、家庭も守れる。次への、はつらつたる生命力の源泉となっていく。
 長い、広宣流布の旅路である。この一点を、私の願い通りに、現実に実行していただきたい。そうでなければ長続きしない。世界への広宣流布という偉大な仕事は完成できない。
 このことを、私は本日、強く申し上げさせていただきたい。必ず″実行していただきたい。
4  古代エジプトでは、夫人と夫と、多くの点で同等の地位にあったといわれる。女性も王になっテイル。古代エジプトの言葉には、″夫人を大切に″と書かれたものもある。そこには、妻は「うるわしき野」であり、「妻が生きてあるかぎり、妻の心をたのしませよ」(前掲『古代エジプト人』)と。
 幾千年の歳月を超えた言葉である。″妻が生きているかぎり、その心を楽しませてあげなさい。あらゆる方法で。これが夫の役目である″と。
 壮年部は婦人部に、夫は妻に、この心を捧げ、実行していただきたい。(拍手)
5  さて初春を迎えた東京牧口記念会館では、梅のつぼみが、ずいぶんとふくらんできた。なかには、一輪、二輪と、ほころび始めた花もあるという。沖縄研修道場では桜が、早くも咲き始めた。
 ″春遠からじ″──全国の会館の「守る会」の方々が丹精込めて育ててくださった花が、次々に咲き香る季節が近づいた。この席をお借りし、「守る会」の方々に、心から御礼を申し上げたい。この一年も、よろしくお願いいたします。(拍手)
6  「春」が来る! 「大要の母」の心から
 弘安四年(一二八一年)の新春、日蓮大聖人は、南条時光のお母さん(上野尼御前)にこう書かれた。
 「春のはじめ御喜び花のごとくひらけ・月のごとくたせ給うべきよしうけ給わりおわんぬ」──春の初めにあたり、お喜びが、花のように開け、月のように満ちておられるとのこと、承りました──と。
 南条家の人々が、すがすがしい息吹で、新年の出発をしたことを、大聖人は、慈父のごとく見守っておられる。
7  当時、南条家には、試練の冬が続いていた。「熱原の法難」に際して矢おもてに立ち、大聖人の信徒である同志を、守りに守り切った一家である。
 そのため、不当な圧迫が繰り返された。経済的にも困窮した。時光には乗る馬もない。今でいえば車も買えない。時光の妻子は衣服も、こと欠く状況であった。
 法華経のための苦労であった。大聖人を支えるための苦労であった。
 また、この正月の四カ月前には、時光の弟・五郎が十六歳の若さで急死する。愛する息子を亡くすという最も深い悲しみのなかで、母は毅然と祈り、戦いをやめなかった。
 ″信心しているのに何だ″と、周りから言われたかもしれない。
 三障四魔との戦いである。なま身の人間ゆえに、倒れることもあろう。その人の宿命的な寿命もある。仮に倒れても、永遠の生命のうえから、必ず幸福のほうへ、成仏のほうへと、本人も一家も蘇生していく。これが妙法である。
8  時光の母の悲しみを、だれよりも深く理解され、同苦され、励ましてくださったのが、大聖人であられた。この慈愛の御振る舞いを、仏法の指導者は、よくよく拝さねばならない。その模範にならわなければならない。
 大聖人の御心に包まれながら、母は″厳寒の冬″に耐え、一家の、そして同志の「希望の花」となった。「喜びの花」を咲かせた。
 自分のことだけでなく、「希望」と「喜び」を人にも与えていこう、温かく包んでいこう、励ましていこう──ここに指導者としての根本の姿勢がある。
 逆境にあえばあうほど、お母さんは強い。お母さんが強ければ、一家は負けない。どんなに苦しくても、お母さんの笑顔は「太陽」のように明るい。
 ともあれ私は、男性に、「強い人」になってほしい。「心の広い人」であっていただきたい。そうなれば、婦人部にも女子部にも、だれに対しても、大きな心で包容できる。励まし合いができる。喜びを与えていけるからだ。
9  時光の一家のごとく、苦難のなかで開いた喜びは深い。
 順調で、何の苦労もなく手に入れた喜びは、あぶくのように、はかない。まぼろしのようなものだ。
 たとえば、人がわずかと思うようなお金でも、苦労して蓄えた人にとって、その価値は大きい。尊いお金である。「心」がこもっている。「心こそ大切」である。
 日顕宗は、自分で何ひとつ苦労もせず、感謝もなく、莫大な金を手にしたために、堕落してしまった。泡のような人生である。
 真実の信仰は、煩悩即菩提である。悩みがないのでもない。悩みに負けるのでもない。悩みを乗り越えて幸福をつかみ、境涯を開く。それが信心である。
 ゆえに、だれをうらやむ必要もない。だれをまねする理由もない。自分は自分らしく、精一杯に生き抜いて、「私は最高に幸せだ!」と言い切れる境涯を自分で開いていく。そのための仏法である。そうなるための信仰である。どうか全員が、そうあっていただきたい。(拍手)
10  日寛上人″正法の陽光をさえぎる悪知識と戦え″
 仏法では「善知識」「悪知識」と説く。「知識」とは友人・知人等の意味である。
 善友とともに生きれば幸福に向かう。悪友とともに生きれば不幸に向かう。悪知識に左右されることが、どんなに恐ろしいか。大聖人は何度も教えてくださっている。
 また、日寛上人は、法華経序品を論じられた「序品談義」の中で、梅や桜の木を譬えとして、大要、次のように論じておられる。
 梅や桜は、もともと開くべき花の性分を備えている。しかし、深い山奥の埋もれ木となって、大木や枯れ木に覆われ、日光にあたらなければ、結局、花は開くことができない。そればかりか、朽ち折れて、薪として焼かれてしまう。
 それと同じように、一切衆生も本来、皆、仏知見(仏の智慧)を備えている。仏になる性分がある。
 しかし、悪知識という大木、枯れ木に覆われて、善知識の日光にあたらなければ、その仏知見を開かないまま、一生を終えてしまう。そして最後は、地獄の苦しみに焼かれる身となる──と。
 「幸福への直道」を、悪知識に邪魔されてはならない。悪人を避けなさい。打ち破りなさい。そうでないと、大聖人の″太陽の光″を受け、歓喜と希望をもって、成仏の境涯の花を咲かせることができない。日寛上人は、こう教えられたのである。
11  「大聖人直結」の信心を否定し、また、日寛上人御書写の御本尊を否定する日顕宗。これほどの悪知識は、ほかにいない。まさしく″大悪知識″の存在である。
 人々の「幸福の花」を咲かせよう、咲かせようと努力するのが善知識である。それとは反対に、咲かせまい、咲かせまい、全部、切ってしまおうというのが日顕宗である。まさに地獄の使いである。
 和楽の花園を妬み、蹂躙しようとする者とは、断固、戦う以外にない。日寛上人の御言葉を拝し、強く申し上げておきたい。(拍手)
12  学会は「善知識」の集まりである。広宣流布を目指そう、信心を深めていこう、ともに幸福になっていこう──その温かい励まし合いの世界である。
 ゆえに、学会の幹部は、同志に尽くす「善知識」でなければならない。
 自分のために会員同志を利用したり、下に見たり、″子分″のように思って使ったり──それは「悪知識」である。正しい信心を見失わせてしまう。こういう人間に従う必要は、まったくないことを明確に申し上げておきたい。(拍手)
13  賢者ゲーテの楽観主義・行動主義
 ドイツの統合や、ヨーロッパ統合の前進とともに、文豪・ゲーテの「世界市民」としての側面が注目されている。
 それはともあれ、ゲーテの文学と人生の真髄は何か──。真髄、また真理とは、概して簡単なものである。
 仏教も、八万法蔵といわれる膨大な経典は、三大秘法の南無妙法蓮華経に帰する。そして御本尊への「信心」に含まれる。
 また、牧口先生、戸田先生は、難解な仏教を、わかりやすく説かれた。
 どんなに学者ぶっても「真髄」の知恵をつかまず、断片的な知識だけを振り回し、自分を飾っている人もいる。結局、自分もよくわかっていないから、聞いている人も何のことだかよくわからない。
 先日もある著名人が、「日顕法主の説法は、さっぱりわかりませんね」(笑い)と言われていた。そして、「あれほどの大権威をもった黒い心の法主に、学会は悠々と大勝利された。これは日本史上、仏法史上の壮挙です」と語られていた。(拍手)
14  ゲーテの真髄の一つは、「明るさ」であり、常に「生き生きと生きた」ことではないだろうか。
 この一点に、文豪の文学の、詩の、人生の究極があり、悟りがあったと私は思う。そう論じる学者もおられる。
 「生き生きとふるまえ」(『ファウスト』山下肇訳、『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
 「生きながらに自ら死んでしまう」(同前)ことのないように──と。
 会っても、にこりともしないで(笑い)、銅像みたいに(笑い)、生きているんだか、死んでいるのか、わからない。日本の壮年には、こういう人が多いようだ(笑い)。たまに表情が浮かぶと、怒った顔だったりする(大笑い)。これではつまらない。
 「生き生きと」──これがゲーテの一つの結論であった。
 仏法の真髄は「歓喜の中の大歓喜」である。弾むような勢いがなければならない。
15  「生きている間は、なにごとも延期するな、
 なんじの生は行為また行為であれ」
   (『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』登張正實訳、同全集8)
 たゆみなく実行していけ、すなわち実行また実行していけ。、と。これもゲーテの信条の一つであった。
 また、「三十分ぐらい大したことはないと思うよりも、世の中のいちばんつまらないことでも、それを実行するほうが、もっとましである」(同前)とも言っている。
16  ゲーテは、いつも、くよくよしないで愉快に進め! はつらつと生きていけ!──こう叫んだ。仏法の序分ともいえよう。
 「時を短くするものは?
  活動だ!
 堪えがたく時を長くするものは何ぞ
 怠惰」
   (「別の五つ」小牧健夫『西東詩集』所収、岩波文庫)
 不断の「実行」──これがゲーテその人であった。
 「そんないい気になって私がぬくぬくとベッドで寝そべるようなら、そのときこそ私はたちどころにくたばるがいい!」「一か所にとどまって動かなくなれば、もう私は奴隷だ」(前掲『ファウスト』)とも自戒している。
17  ある詩には、こうある。
 「お莫迦さん! 火事なら消すすんだ、
 焼けたら、もう一度立て直せ!」
   (『ゲーテ詩集』1,片山俊彦訳、岩波文庫)
18  真理は簡単である。しりごみしたり、悩んでいる間に、「実行」することである。そうすれば問題は解決していく。
 火がついたら、「どうしよう」などと言っている間に消せばいい。もう燃えつきていたら、嘆いているひまに、また建設すればいい。どしどし実行また実行である。
 このように、ゲーテは「楽観主義」であった。楽観主義といっても、行動もしないで、「何とかなる」と、ぼんやり空想しているのではない。現実を必ず「何とかする」「何とかしてみせる」という、行動する楽観主義であった。
 悲観して、めそめそしているひまがあるなら、何でもよいから実行したほうがいい。そのほうが開ける。何かが生まれる。こういう現実に根ざした楽観主義であった。何があっても、彼は「生き生き」と生きた。
19  「不機嫌が怠惰の一種」
 ゲーテが嫌ったもの。それは何だっただろうか?
 (名誉会長は前列にいた五人の青年部員に質問。「ネクラ」〈性格が暗いこと〉」「安逸と惰性」などの答えが返ってきた)
 きょうは優秀な人がそろったようだ(笑い)。そう、彼が嫌ったのは「不機嫌」である。「不機嫌は怠惰の一種」と論じている。
 すなわち、「不機嫌とはまさに怠惰と同様のものなのです。不機嫌は怠惰の一種ですよ。わたしたちの気持は、放っておけば自然にそちらへ流れてゆきます。けれども、ひとたび奮起する気になれば、仕事も気持よく捗り、仕事に真の喜びを見いだすようになります」(『若きヴェルターの悩み』神品芳夫訳、『ゲーテ全集』6所収、潮出版社)と。
 怠け者はすぐに不機嫌になる。すぐに「大変だ」「ああ、いやだ」と、文句を抱き、顔にも出る。
 本当に大変であれば、そのときこそ、自分が元気に立ち上がって、働き、皆をも勇気づければよい。それが反対に、自分のことだけ考えて、かえって皆に気をつかわせる。要するに無責任であり、傲慢であり、ずるい。
 「一流の人は、いつも上機嫌である」と言われる。その通りである。私の会った世界のリーダーの多くも、打てば響くような朗らかさがあった。生き生きと前進していた。不機嫌に沈むような、ひまもなければ、弱さもない。
 どうか、この一年、生き生きと、一日一日、為すべきことを為しながら、快活に生きていただきたい。
 「生き生きと」「上機嫌で」「たゆまず実行」──これが人生の歩み方の真髄である。私たちは、その模範になりましょう!(拍手)
20  「栄光にいたる門」「破滅にいたる門」
 ここで、釈尊が「栄光にいたる門」と「破滅にいたる門」について説いた言葉を紹介したい。釈尊は、「こういう人は栄える」「こういう人は破滅する」と、明快に述べている。これは、個人にも、団体にも、さらに、一国、世界にも通じる教えである。
 栄えるか、滅びるか。幸せになるか、不幸になるか。中間はない。どちらかしかない。仏法は勝負であり、人生は勝負である。
 釈尊は言う。
 「理法を愛する人は栄え、理法をう人は敗れる」(『ブッダのことば──スッタニパータ──』中村元訳、岩波文庫。以下、引用は同書から)と。
 「理法」とは「道理」であり、その究極は「妙法」である。また広くは、皆で決めたこと、規範、社会常識、約束、礼儀なども含まれよう──そういう「軌道」を大切にする人は、着実に栄えていく。わがままで自分本位の行動をする人は、一時はよいようでも必ず敗れる。まさに日顕宗がそうである。
 次に、「悪い人々を愛し、善い人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破滅への門である」と。
 日顕宗のように、悪い人々と付き合い、徒党を組む。そして、学会があまりにも厳格で清らかな「信心」を貫いているゆえに、自分たちの身勝手が通用せず、学会を憎む。こうした転倒が「破滅への門」なのである。
 また「奮励することなく、怠りなまけ、怒りっぽいので名だたる人がいる、──これは破滅への門である」と。
 ″自分は遊んでいて、人を怒ってばかりいるので有名な人″──「ああ、あの人のことだ」と思い当たる方もいらっしゃると思う(笑い)。
 ″遊蕩する法主″などは、それひとつで言語道断である。
 「自分が率先して働く」のが真の指導者である。「自分が努力して、皆を楽にさせてあげる」のが指導者である。
21  釈尊の言葉は続く。
 「修行する人を、嘘をついてだますならば、これは破滅への門である」
 仏道修行している人、広布のために戦っている人に対して、嘘をつき、だまそうとする──だれであれ、この人は「破滅」の人である。
 釈尊は「妄語うその人は地獄に堕ちる」と明言している。
 「おびただしい富があり、黄金があり、食物がある人が、一人でおいしいものを食べるならば、これは破滅への門である」
 ひとりでおいしいものを食べる(笑い)──釈尊時代にもこういう人がいたのであろう。
 日顕には、ありあまるほどの財産がある。ぜいたくの限りを尽くしている。それでいて、いつも自分一人の利益ばかり考えている。しかも、その「富」は、広布のために使うべき、私どもの「大聖人への供養」を盗用したようなものである。ゆえに、その罪は、一層、重大である。(拍手)
 「血統を誇り、財産を誇り、しかも自分の親族を軽蔑する人がいる、──これは破滅への門である」
 日顕は、「法主の子供」であるとの「血統」を自慢する。そして、親族どころか自分の「師匠」をも軽蔑し、その教えにことごとく背いている。また本来は広布の親族ともいうべき信徒を見下しきっている。
 これは広くは、自分の家族だけを大切にしたり、地位や財産、学歴を誇って会員を尊敬できない人のことも含まれよう。
22  最後に、女色にれ、遊女に交わり、酒にひたり、財を浪費する──このような人間に実権を託すならば、これは破滅への門である──と。
 釈尊が″このような男に実権を託してはいけない。破滅だ。早くやめさせろ″と言っているのである。私どもは、釈尊の指弾どおり、堕落の法主・日顕を追及しているのである。
 民衆が立ち上がる「時」である。社会のあらゆる分野についても同様である。「破滅への門」に向かっている者に、実権を渡してはならない。さもなければ、皆が不幸になる。とりかえしがつかない。
 天変、災害、戦争──世界には、経典に説かれる「三災七難」が尽きない。世界のどこであっても、不幸があれば、私の胸は痛む。私たちは、人類が「安穏」に暮らせる世界を築くために、今、極悪と戦っているのである。(拍手)
23  釈尊は、こう結論する。
 「世の中には、このような破滅があることを考察して、賢者・すぐれた人は真理を見て、幸福な世界を体得する」と。
 世界には「破滅への道」があることを、知らなくてはいけない。知って、それを避けなければいけない。戦わなければいけない。「敵」を知り、「悪」を見抜く賢者となってこそ、人も自分も「幸福の世界」に達する。
 釈尊の言葉は、ことごとく、学会が「破滅の宗門」から離れたことの正しさを証明している。
 創価学会は「栄えの道」を、まっすぐに歩んでいる。宗門は「破滅の道」をまっしぐらに進んでいる。このことを、明確に申し上げておきたい。(拍手)
24  大聖人は″邪僧よりも在家の座席を高く″と
 大聖人は、仰せである。
 「貴僧・高僧には依るべからず」──貴い僧とか高僧という立場によってはならない──。
 「今生身の如来の如くにみえたる極楽寺の良観房よりも此の経を信じたる男女は座席を高く居ることこそ候へ」──今、生きたままの仏のごとくに見える極楽寺の良観房よりも、この経を信じたる男女は座席を高くすえるべきである──と。
 極楽寺良観といえば、鎌倉幕府の中枢に取り入って権勢をふるい、″最高の僧″とされていた。自分を生き仏のように見せかけ、尊敬させていた。こんな僣聖増上慢の高僧よりも、妙法を信じ、広宣流布しゆく在家を、生身の如来のように敬い、下にも置かぬようにしなさい──これが大聖人の御心であった。
 広宣流布に走る学会員を、だれよりも大切にする。その「座席を高く居る」──これが大聖人の教えである。
25  かつて私は、日達上人のお住まいにうかがう機会があった。そのたびに日達上人は、私に上座に座るよう勧められ、自ら下座に座られようとした。
 私は「そういうわけにはいきません」と申し上げたが、「あなたが広宣流布をしてくださっているのです」「本山をここまでにしてくださったのはあなたです」と、いつも真心で迎えてくださった。傲り高ぶった日顕とは、まったく正反対である。
 「信徒の座席を高くして」──。学会の幹部も、「会員の席を高く」し、自分はどこまでも会員に尽くしていく心で奉仕していただきたい。
26  御書に「いよいよよ実なれば位いよいよよ下れり」と。
 大聖人は、天台の釈wお引かれて、教えが真実であればあるほど、より低い機根の衆生を救って行ける、即ち、その教えをうける人の位、衆生の気根は、いよいよ低くなる、と教えられている。
 どのような立場、機根の人であれ、民衆とともに進む人こそ、真実の法を弘める仏法の指導者である。ゆえに、幹部になり、信心が深まるほど、いよいよわが身を低くして、謙虚に、礼儀正しく同志を尊敬し、尽くしていくべきである。
 力のある人は謙虚であり、人を守る。力がない人は、いばっているだけで、人を守らない。守れない。──もちろん、あまりにも不自然な謙虚さは、かえって皆が面食らってしまうかもしれないが。(笑い)
 つくった、形だけの奉仕では、心に通じない。また不幸を打ち破っていくための信心の指導は、「確信」をもって毅然としていかねばならない。
 要するに、同志を大切にし、尊敬する「心」である。その「心」を、相手のために、率直に表現し、行動していくことである。
27  後輩を「自分以上の人材」に
 牧口先生、戸田先生は、「人材育成」に最も熱心であった。
 一切は「人」で決まる。「人材」で決まる。東京の広布の大発展も、新しい人材によって開かれた。「法」といっても「人」が大切である。「法」は「人」によって弘まり、「人」は「法」によって栄える。
 ゆえに幹部の皆さまは、人材の育成に全力で取り組んでいただきたい。
 後輩を自分の″部下″のように思ってはならない。「自分以上の人材なのだ」「自分以上に育てていくのだ」──この決心が人を育て、自分を育てる。
 「皆を幸福にしよう」「皆を偉くしよう」「皆の力を発揮させよう」──指導者は、ここに心をくだくべきである。
 ただ漫然と活動しているだけでは、人は育たない。意識して、祈り、育てなければならない。惰性の動きを繰り返しても、立体的な人材の「金の塔」を築くことはできない。
 牧口先生は、人材を育てることは、「砂の中から金を探すようなもの」と言われていた。まったく、その通りである。
 牧口先生は、学会の同志を次のように、たたえておられる。
 「諸君は真に『砂中の金』である。金は金でも初めからの金ではなかった。光ってはいなかった。泥まみれの石であった」「それが一度見出されてみると、立派な金として光っておられる」と。
 人はだれでも、その中に「黄金の輝き」をもっている。その黄金の光を、どのように輝かせてあげるか。このことを常に考え、実現するのが指導者である。
 大勢の人と会うことも大事、広く動くことも大事である。しかし、それは何のためか。
 結局は、「金の人材」を見つけ、育て、その「黄金の光」を輝き出させるためである。その″一点″を忘れてはならない。
 ゆえに戸田先生は、牧口先生のお心を継がれて獅子吼された。
 「学会は人材の城を築け!」と。
 「人材の城」──私どもの永遠の指針である。人材で戦い、人材で勝ち、人材で永遠に道を開く。これが学会のモットーである。私もまた、本年から一段と人材育成に力を入れていく決心である。
 組織の上にあぐらをかく″要領″の人間ではなく、「本当に戦う人材」「会員のために苦労できるリーダー」「世界に通用する指導者」を育てたい。動きながら訓練し、徹して育成してまいりたい。
28  戦う人の生命に書店は宿る
 大聖人は、高橋六郎入道にあてたと推測される御手紙の中で、次のように仰せである。これまでも拝してきた、有名な御文である。
 大聖人のもとへ人を送り、御供養したことへの御礼を述べられている。
 「かかる今時分人をこれまでつかはし給う事うれしさ申すばかりなし、釈迦仏・地涌の菩薩・御身に入りかはらせ給うか
 ──今このような時に人をこちらまで遣わされたことのうれしさは、言いようがありません。釈迦仏、地涌の菩薩が、あなたの御身に入り替わっておられるのでしょうか──。
 ″あなたの中に釈尊や地涌の菩薩が入っているのだろうか″との御言葉である。
 生命には、さまざまなものが入る。食べ物も、空気も、ばい菌も、みな体に入る。仏法的にも、悪鬼も入れば諸天も入る。「悪鬼入其身(悪鬼が其の身に入る)」とも説かれている。宇宙の悪鬼との感応である。
 その人の生命に何が入っているか──。それを見抜くのが「仏眼」である。
 求道心あつき大聖人直系の門下には、釈尊が、地涌の菩薩が、その″生命の宿″に入るのである。ゆえに私どもは、何ものにも負けない。何の心配もない。「地涌の菩薩」が不幸になるはずがない、勝利しないはずがないからだ。(拍手)
29  もちろん仏道修行の途上には、「三障四魔」や「三類の強敵」が必ず出現する。出現しなければ、御書の通りに信心していないことになる。
 それらに打ち勝って成仏はある。戦いのなかに幸福は築かれる。安逸ばかり続く人生は、幸福のように見えて実は不幸である。
 「ああ、学会活動をしないで毎日寝てばかりいられたら」(笑い)と思うときもあるかもしれない。しかし、病床についている人から見れば、「早く起きたい。働きたい」との思いでいっぱいであろう。要は、何があっても、はつらつと戦い、勝っていける「強き自分」をつくっていくことである。
30  地域の発展の「柱」たれ、「導師」たれ
 大聖人は、続けてこう述べられている。
 「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし」──その国の仏法流布は、あなたにお任せします。仏種は縁によって起こるものです。このゆえに、法華一乗の法を説くのです──と。
 ″貴辺にお任せします″──と。ここでは″寺に任せる″とも、″僧侶に任せる″とも書かれていない(笑い)。大聖人は「在家」の門下に、その地域の広宣流布を託されたのである。
 我が学会こそ、大聖人から「広宣流布」の勅命を受けた誉れの教団である。(拍手)
 大聖人は、佐渡の阿仏房に対しても、「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし」──阿仏房、あなたは、しかしながら北国の導師ともいうべきでしょう──と讃えられている。
 かつて宗門は、勤行の″導師″という言葉は僧侶だけに使うものだ、学会幹部には使ってはならないと言い張り強制した。御書を読んでいないのか(笑い)、一事が万事で、仏法の本義とは何の関係もない、言いがかりを続けたのである。
 大聖人は、信徒である阿仏房を「導師」と呼ばれ、称賛されている。この一点だけでも、宗門がいかに大聖人の御心に背いてきたかが明白である。
31  これからも、人生も社会も、いろいろなことがあるにちがいない。しかし、いろいろなことがあるから強くなれる。いろいろな変化があるから楽しみもわく。
 どうか皆さまは、幾重にも工夫を重ね、広布の縁を広げていただきたい。そして、「私がいるから、この地域は心配ありません!」と言い切れる指導者であっていただきたい。
32  私は本年も、世界を舞台に行動していく予定である。皆さまのお題目を、よろしくお願い申し上げます。(拍手)
 本日は長時間、ご苦労さま。また全国の皆さん、お体を大切に。ありがとう!
 (創価国際友好会館)

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