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日蓮大聖人・池田大作

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各部協議会での語らい 民衆を賢明に、知恵で幸福に

1993.12.8 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  牧口先生は「民衆を利口にする」ために立たれた
 牧口先生が、一生を通じて追求されたものは何か。私どもの初代会長は、何を為そうとされていたのか。
 それは「民衆を利口にすること」であった。民衆が、自分自身の知恵を開発し、その知恵で幸福になることを目指された。そのために「教育革命(教育改造)」を唱えられ、やがて、根本的には「宗教革命」が必要だと悟られた。その道を、まっしぐらに進まれ、そして殉教──。
 牧口先生が一貫して改善しようとされたのは、「権威に従順な民衆の卑屈さ」であった。そして、民衆の卑屈と無知を改善するどころか、それを助長し、利用し、つけこむ「指導者の利己主義」を憎まれ、戦われた。
 また、人間の実際生活に根差さない空理空論を、常に批判された。
 『創価教育学体系』には、こうある。
 「従来学者ならざる一般人は、自分の頭脳では、とても六ヶ敷むつかしい理窟は考えられないから、考える事の上手な人、即ち学者として尊敬する人の考えを、無条件に承認し、これに服従するのが、生活上に間違いない方法であると、断念して生活している」(『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明者。新かなづかいは編集部、以下同じ)
2  学者を僧侶に置き換えても同じである。
 ″自分で考えない″″人まかせにする″″黙って権威に従う″──これが昔からの民衆の態度であったと、牧口先生は言われるのである。
 一方、こういう従順さにつけこみ、指導者のほうは民衆を見くびって、″我々の言うことを黙って聞いていればよいのだ″と、ますます権威主義になる。
 「汝等の低い頭脳では、とても覚れる筈はない。(中略)無益の煩悶をしているよりは、寧ろ自分等の云うことには間違いないとして信頼するのが、最善の方法であると説く」
 こうして民衆は、指導者に盲従させられる。これが今までの日本の歴史であった。まさに「知らしむべからず、依らしむべし」の権威主義である。
 ゆえに「生活に学問なく、学問に生活なく」、生活も学問も、ともに貧しい。これが日本社会のゆがみであった。
 牧口先生は、これを変えようとなされた。「もはや、そんな時代ではない」と。
 「どんな偉い人の言うことでも、軽々しく信じない。同時に、どんなに地位のない無名の人の言うことでも、それが自分の経験に合致しているか、実験で証明されたものについては、自分にとっての善し悪し、損得がどうであろうと、だれもが素直に認め、従うべき時代となった。これはまた、理性に照らして当然のことである」(同前、現代語訳)
 権威が何だ、地位が何だ、有名人が何だ、学歴主義が何だ。そんなものよりも民衆が大事だ。真理を知り、価値を生んで民衆を幸せにすることが大事だ。そうではないか。
 そのための学問であり、そのための指導者であり、そのための教育であり、宗教ではないのか。そうわかれば、これまでの不幸な状態は即刻、改善すべきではないか。
 牧口先生の大音声は、今もなお切実に社会に轟く。
3  価値創造の能力を開発──そこに教育の本義
 牧口先生の出発点は、どこにあったのか。
 それは、教育者として、子どもたち全員を幸福にしたいという悲願であった。
 「そもそも国民教育の目的は何か。私は、教育学者流に、哲学などの理論から入って、七面倒な解釈をするよりは、(教師である)あなたの膝もとに預る、かわいい子どもたちを『どうすれば将来、一番幸福な生涯を送らせることができるか』という問題から入っていくほうが、今はふさわしいと感じるものである」(『地理教授の方法及内容の研究』同全集第四巻、現代語訳)
 目の前の子どもたちを、一人も残らず「最も幸福な人間」に育てたい。そのためには、何が必要か。この慈愛から牧口先生の学問は出発していた。
 それぞれに個性をもち、境遇も違う、生きた人間が相手である。切実に悩み、何とか自分を伸ばそうとしている生身の人間が対象である。
 頭の中だけでこしらえた空理空論など入る余地はなかった。いわんや、外国から輸入しただけの新学説を紹介して得意になっている学者など、眼中になかった。
 牧口先生は、この種の″理論派″の学問が、実際の役に立たないことを、「二階から目薬」と表現された。「役に立たない」とは、「価値を生まない」ということである。子どもたちを幸福にできない、ということである。
 一方、牧口先生は、現場の″経験派″の教師が、自分たちの貴重な経験を十分に生かしていないことを嘆かれた。
 実地の経験の成果を分析し、総合して、効果のある教育の原理、「教育上の宝典」をつくり上げるべきであるのに、ただ″理論派″の権威に盲従している。二階から目薬を差すほうも差すほうなら(理論派)、黙ってそれを見ているほうも見ているほうである(経験派)。不幸なのは、子どもたちである。これを救えと牧口先生は叫び、戦われたのである。
4  「創価教育」とは、言い換えれば「子どもたちを幸せにするための教育」である。昭和五年(一九三〇年)、『創価教育学体系』を出版されるに当たり、牧口先生は心境をこう書いておられる。
 「入学難、試験地獄、就職難等で一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いでいる現代の悩みを、次代に持越させたくないと思うと、心は狂せんばかりで、区々たる毀誉褒貶(=あれこれほめられたり、けなされたりすること)の如きは余(=私)の眼中にはない」(同全集第五巻)
 子どもたちの悩める姿を思うと「心は狂せんばかり」──ここに牧口先生の魂があった。その生涯を貫く、崇高なる光源があった。
5  そして「子どもが生涯幸せになっていくための教育とは、子どもたちの直観力や感覚を養い、『価値創造の能力を開発』するところにその本義がある」と。
 どんなことが起ころうと、へこたれず、自分自身の力で考え、学び、幸福すなわち価値創造の道を開いていく。自分自身の知恵と力を、限りなく開きゆくカギをもっている。そういう人間を牧口先生は育てようとされた。
 「私は劣等生を優等生にしてみせる。いわゆる劣等生とは、みんなが勝手に言っているにすぎない。子どもたちに、『考える基本』をしっかり教えたうえで、その能力を発揮させれば優等生になるのだ」
6  知恵の宝庫を開くカギを万人に
 「どんな劣等生も優等生にしてみせる」。そのための牧口先生の主眼は「考え方の基本」を教えることであった。「自分で考える力」を引き出すことにあった。
 ゆえに知識を詰め込むだけの「注入主義」の教育を批判された。大切なのは「考え(知識)よりも考え方(知恵)」である、と。
 「知識の切売や注入ではない。自分の力で知識する(=学習する)ことの出来る方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ。労せずして他人の見出したる心的財産(=知的財産)を横取りさせることではなく、発見発明の過程を踏ませることだ」(『創価教育学体系』、同全集第六巻)
 今も日本は、″独創なき知的風土″と批判され、深刻な問題になっている。
 牧口先生自身が独創的学者であり、創造的人間そのものであったが、先生は、すべての子どもの胸中にある「知恵」と「創造」の宝の箱を開けようと奮闘されたのである。
 仏法でいう「開示悟入」に通じる。
7  じつは、「注入主義」は、日本の社会の病巣というべき「権威主義」と裏腹であった。
 民衆は″偉い人″の言うことを黙って聞けばよいという考え方の裏と表であった。
 「かようにして日本人の頭脳の大部分は、その間違った教育法の病弊のために頑固となり、学問と生活とが全く隔離してしまい、二元的のものに吾々の生活は分裂したのである」(「教育態度論」同全集第九巻)
 生活と知識がバラバラに分裂している、と。
 だから学校で身につけたはずの知識が、実生活で役に立たない。幸福の創造に関係がない。
 一方、学問は民衆の現実生活に根差していないので、多くは″人まね″であり、自分自身の血肉ではなかった。ゆえに民衆を見下しながら、根底では自信がなく、自信がないから、ことさらに虚勢を張って権威的になるという悪循環に陥っていた。
 これに対し、牧口先生は″学問のない生活は暗中模索であり、生活から遊離した学問は空虚である。学問は生活のなかから出て、生活に帰るべきものである。生活は学問に導かれて高められていく。そこに、より大きな幸福が切り開かれていく″とされ、実行された。
 牧口先生は、日本のゆがんだ精神風土を嘆かれ「生活と学問の一体化」を唱えられた。
 牧口先生自身が、小学校という現場の生活を離れることなく、その経験に基づいた大教育学を創られた。
 生活に根差した知識。経験に即した学問の創造。これは輸入と模倣に明け暮れていた日本の「知の世界」では完全に異端であり、″権威ある専門家″からは黙殺された。
8  すべての民衆に「いちばん幸福な人生」を
 同じことが牧口先生の入信後に起こった。ここが大事なところである。
 「民衆を幸福にする」知恵の究極として、牧口先生は、日蓮大聖人の仏法を大歓喜をもって受持された。
 ところが、大聖人の仏法を伝える日蓮正宗でも、「信仰」と「生活」はバラバラであった。
 僧侶は実生活と無縁の、受け売りだけの説法をし、きわめて権威主義的であった。一方、信徒は僧に服従し、信徒の生活に信仰はまったく躍動していなかった。
 学問の世界で「学問と生活の一体化」を目指されたのと同じく、牧口先生は「信仰と生活の一体化」のために立たれた。
 「大善生活」の「実験証明」を展開されたのである。そして「経済学者が必ずしも金持ちでないように、法華経の『学者』必ずしも幸福ではない」(「大善生活実証録」同全集第十巻)と指摘し、生活の中に法華経を行じる「行者」でなければならない、と宗門を批判された。
 最後は正しき「行者」として、宗門が迎合した軍部権力に弾圧され、殉教なされたのである──。
 このように牧口先生の人生は、「知恵を広く民衆に開くこと」「民衆を高い知恵へと導くこと」にささげられた。
 「知恵の民衆化」「民衆の知恵化」──それも全部、「すべての子ども、すべての人々を幸福にしたい」との祈りから生まれた目標であった。本当に偉大な先生であられた。
 その、あまりにも「民主的」な思想は、死後半世紀の今になって、ようやく理解されつつある。
 (一例として、岩波講座『宗教と科学』シリーズの第五巻『宗教と社会科学』〈一九九二年十二月刊〉では、東京大学の島薗進氏が「生活知と近代宗教運動──牧口常三郎の教育思想と信仰──」と題して執筆している。そこでは、牧口会長の「生活に根差した知」は、今なお重要な課題であるとされ、民衆自身が学びあい、高めあい、自立していく「市民の学校」の運動が、創価学会によって発展していくことに期待が寄せられている)
9  「知恵を民衆の手に取り戻せ!」「信仰を民衆の胸に取り戻せ!」
 牧口先生の叫びは、日蓮大聖人が戦われた「宗教革命」の御精神と合致していた。そして「創価ルネサンス」の今、この願いは、いよいよ本格的に花開こうとしている。
 「愚かな民衆」が指導者に盲従するのではなく、指導者が「賢明な民衆」に奉仕していく。民衆が奉仕させていく。そこにしか、人類の幸福はない。
 学問も教育も宗教も政治も経済も、すべてを「民衆の幸福」のために再編成していく。この逆転劇が「創価革命」である。
10  思えば、牧口先生が最後を過ごされたのは、板の間と合わせて三畳ほどの独房であった。しかも畳は硬く不潔であった。寒さは高齢の身に厳しく、長年、ひざの冷える持病をもたれた体には、とくにこたえた。指なども凍傷にかかった。
 食事も、戦局が厳しくなるにつれて、麦飯に大豆や、アワ、トウモロコシ、コウリャンがまじったものになり、それに塩湯のようなミソ汁。おかずは″茶がら″の時もあった。しかも不規則であった。
 こうしたなか、牧口先生は、泰然と朝夕、勤行され、御書を拝読され、広宣流布と会員の幸福を祈り続けて、一九四四年十一月十八日に亡くなられた。
 その小さな、しかし崇高な「独房」から、五十回忌の今年、壮麗な「東京牧口記念会館」が誕生したのである。また日本、世界の各会館が生まれ、会館に集う幸福の仏子が陸続と生まれたのである。
 「仏法は勝負」である。今、小さなことのように見えても、師弟の道に連なり、時に適った信心を実践すれば、必ず、時とともに大きな歴史を生む。自他ともに、大いなる福徳あふれゆく境涯になっていく。
 この信心の不思議さ、「妙」なる「法」の素晴らしさを強調し、きょうの語らいとしたい。
 (東京・新宿区内)

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