Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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四国最高会議 「会員第一」の四国たれ

1993.12.1 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  組織に役職があるのは、幹部がいばるためではない。成仏という絶対の幸福へと、一人ももれなく、まっしぐらに前進するためである。皆が安心し、希望をもち、伸び伸びと信心し、成長していくためである。強い団結をもって、民衆の幸福を妨げる魔との戦いに、ことごとく勝利するためである。その意味で、妙法を教えて「人を幸福にする」ことこそ目的であり、組織や役職は、そのための手段といえる。ゆえに、いばる幹部は、断じて学会の本当の幹部ではない。
3  リーダーの要件として、第二に、「祈りを根本に」と申し上げたい。
 大聖人は、在家の婦人(富木常忍の夫人)が病気と聞いて、こう励まされた。
 「尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり
 ──尼御前のご病気のことは、わが身一身の上のことと思っておりますので、昼も夜も(夫人の健康を)天に向かって祈っております──。
 「一人の人を大切にする」といっても、根本は、その人のことを祈っていくことである。祈りもなく、真心もなくして、口先だけの指導などで、人を救えるはずがない。誠実しかない。策ではない。根底に相手を思う一念があり、祈りがあれば、最後は全部、一番良い方向へいく。
 大聖人は、一婦人の病気を、″私自身の一身のことである″と言われて祈ってくださった。大聖人は、本当の仏様であられた。この大慈悲を拝して、万分の一でも、友のため、悩める人のために祈り、行動していく。その人が真の大聖人門下である。学会のリーダーである。
4  学会の組織には無駄はない。苦労すべき責任が大きくなればなるほど、大きな功徳を受ける。
 戸田先生は「自分が幸福になるぐらいは、なんでもない。かんたんなことです。他人まで幸福にしていこうというのが信心の根底です」と言われた。
 大事なのは「信心」である。自分だけでなく、何十人、何百人、何千人もの人を幸福にするのだ、功徳を受けさせるのだ、人材に育てるのだという一念で、題目を唱え、行動することである。それだけの、信力、行力があれば、その分、偉大なる仏力、法力が、我が身に顕れないはずがない。
5  リーダーは「自分が成長を」「たがいに仲良く」
 戸田先生は、権威主義が大嫌いであった。官僚主義が大嫌いであられた。
 学会の組織は、政治性の組織でも、利害のための組織でもない。事務的な機構のみの世界でもない。生命と生命、人格と人格の関係の世界である。信頼と同志愛、互いの尊敬と啓発の世界である。学会は人間主義の団体なのである。
 一般に、官僚主義の欠点とされるのは、次のようなことである。
 「上にはへつらい、下にはいばる」「地位や肩書で人を見る」「自分中心で保身を第一とし、責任感がない」「独善的で、差別的で、秘密主義である」「石頭で、子定規。視野が狭い」「前例に強くこだわり、新しいものや、創造的なものをう」「思いやりや人間味に欠ける」
 こんな幹部は、四国には少ないと思うが、要するに「民衆第一」の反対であり、「価値創造(創価)」の反対である。
 自分も硬直し、人をも抑えつける。みずみずしい感動がない。和合がない。
 学会のリーダーは、絶対に官僚主義になってはならない。命令主義、組織主義であってはならない。リーダーが、細かいところまで「気を配り」「心を配り」、かゆいところに手が届くくらいの真剣さで皆のことを大切にしていくとき、初めて温かい、血の通った組織ができてくる。
 それは自分自身の惰性との、たゆまぬ戦いである。「官僚主義に挑戦せよ」「惰性や権威主義を打ち壊せ」と申し上げておきたい。
6  戸田先生はまた、「指導である以上、相手に納得のいくようにしてやらなくてはならぬ」と。
 人間、心から納得すれば、自分からすすんで行動する。自発の行動には喜びがある。喜びの「心」が功徳を生み、結果を生む。一方的な指導や、自分にしかわからない理屈、裏づけのない話で、人の心をつかめるはずがない。
 戸田先生は「要するに、御本尊を信ずる力と、慈悲とに満ちて、友として指導するものこそ、指導者の自覚を得たものというべきではないか」と。
 「友として」と言われている。命令主義ではない。対話主義であり、″ともに目標に進もうではないか″と希望を「指さし」「導く」指導主義である。
7  佐渡御流罪中、大聖人は、門下一同に、「かかる濁世には互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」──このような濁った世には、互いに常に話し合って、いつも来世(までもの永遠の幸福)を願っていきなさい──と励ましておられる。
 「たがいに常に話し合って」と仰せである。私たちは「善知識」である。善知識とは「善き友」という意味である。互いの信心を強くしていく間柄なのである。その意味で、皆の意見を公平によく聞くことである。知恵は第一線にある。
 戸田先生は「建設的な反対意見を出す者がなければ、その組織は発展しない」と言われた。大きな心で、皆の良き意見を採用してあげる度量が必要である。
8  次に「指導者は仲良く」と申し上げておきたい。
 どんな立派なことを言っても、また、どんなに力があったとしても、リーダー同士の仲が悪かったならば、だれも納得しないし、どんな努力も結実しない。皆が、かわいそうである。
 リーダー同士の異体同心。その「信心根本の団結」にこそ、仏界の力は脈動する。どんなことがあっても、仲良く、お互いの意見に耳を傾け、尊敬しあっていくべきである。
 近くにいると、人の欠点が目につき、いろいろと指摘したくなるものだ。しかし、互いに欠点を指摘しあっても、きりがない。凡夫であるから、必ず欠点がある。要は、互いに補い合い、長所を生かしきっていくことである。
 だれが上で、だれが下とか、「あの人がこうだから」とか、「この人がこうしてくれたら」とか、そういうことよりも、自分自身が一人、決然と立ち上がり、奮迅の戦いを開始することだ。自分が「一人立つ」──そこに本当の団結も生まれる。
9  リーダーは「人に好かれよ」「大誠実と責任感で」
 また「指導者は人に好かれよ」と言っておきたい。
 戸田先生もよく、「指導といっても、皆に嫌われたら、おしまいだ。通じるはずがない」と言われていた。とくに女性は、好きか嫌いかが、すべて、という傾向があるといわれる。「好かれよ」といっても、人気とりや、へつらいではない。皆の幸せを思う「大誠実」、皆のために陰で苦労していく「責任感」に対して、自然に生まれる信頼感である。
10  戸田先生は、あるとき「指導者の根本姿勢」を指導された。
 それは皆が「支部長は会長を守り」「地区部長は支部長を守り」云々と言っているのを受けられての言葉である。
 「しからば、私がきみたちに守ってもらっているか。支部長に守ってもらっているか。けっして守られていない。それより(私が)支部長をかばってあげている。支部長にかばってもらってきていない。支部長に守ってきてもらっていない。あまり迷惑をかけないようにしてもらいたいといいたい。
 いま、支部長で、地区部長に守られているようなものは出ていきなさい。支部長は、地区部長を守ってあげるのです。これを支部長に命令します。
 また、地区部長は班長に守られるようではいけない(班長を守るべきである)。
 すると(こう言うと)、ある班長が、うちの地区部長は(自分を)守ってくれないと言う。もしそんな班長がいたら、きょうかぎりやめなさい。
 守られなくてもいいではないか。班長は組長を、組長は組員を守りなさい。これが学会の精神です」(昭和二十九年=一九五四年五月、本部幹部会)
 一つの目的に向かって進んでいるのだから、″中心者を守る″のは当然であろう。しかし、それだけを強調すると、下にはいばり、上にはへつらう者も出てくる。
 リーダーが、人に何かやってもらうことを当たり前のように考え、甘えたり、傲慢になる。そこで戸田先生は、「リーダーが皆を守る」のが学会精神だ、と教えられたのである。
 私も、いつも人を守ってきた。守りすぎるくらい守った、と言えるかもしれない。人に何かやらせよう、利用しようというのではなく、自分が苦労して皆を守ってあげる。この厳然たる精神に、人間としての王道がある。また、自他ともに功徳を受け、栄えゆく道がある。
11  学会が大発展したのはなぜか。「極善」の妙法を根本に、「極悪」と戦ってきたからである。そして「会員第一」できたからである。
 私は会員の皆さまを幸福にするために生きている。それ以外に何もない。会員の皆さまの屋根となって、一身に難を受け、守りに守ってきた。これからも、この決心で生き抜いていく。
12  婦人も戦ったアメリカ独立革命
 さて、四国と海外各国との交流が広がっているが、二百年ほど前のアメリカの女性について、少々、お話しさせていただきたい。世界一の、我が学会婦人部の皆さまと二重写しにしながら、この勇敢な婦人を紹介したい。
 アメリカ独立革命の時の話である。その人はモリー・ピッチャーと呼ばれていた。彼女は、大砲を撃つ砲手であった夫とともに従軍し、戦場に臨んだ。
 兵士たちのために料理や水汲み、また負傷者の看護など、一人で何役もこなしながら、自分らしく精いっぱい、独立の戦いに汗を流した。
 モリー・ピッチャーの「ピッチャー」とは水を運ぶ″水差し″のことである。いつも、我が身をいとわず、貴重な飲み水を運んでくれる彼女に、兵士たちが感謝を込めてつけた愛称であった。
 陰の人が偉いのである。表舞台の人ばかりでは戦いは進まない。いわんや口がうまいだけの指導者など、陰の人の足元にも及ばない。
 ここまで学会が発展を遂げるには、陰の陰で、地道に働き、戦ってこられた方がたくさんいる。十年、二十年、三十年と戦ってきながら、今でもとくに幹部にはなっていない方もたくさんおられる。苦労もせず、トントン拍子に偉くなった指導者よりも、その方々は何百倍も何千倍も尊い。そういう人を大切にしてあげていただきたい。
13  一七七八年の夏──六月二十八日。モンマス(ニュージャージー州)の地で大激戦があった。
 うだるような暑さであった。そのなかで戦う兵士のために、彼女はその日も、近くの泉から水を運んできては飲ませてあげていた。
 ところがこの日、砲兵であった夫が敵弾によって負傷してしまった。日射病という説もある。
 大砲を撃つ人間が一人でも倒れると、損失は、まことに大きい──。
 「よし! 夫が戦えないなら私が戦おう。夫のかたきは私が討つ!」
 彼女は決めた。そして逡巡することなく行動に移した。
 勇敢にも夫に代わって大砲を撃ち始めたのである。
 大砲は敵の標的にもなりやすく、危険きわまりない持ち場である。しかし彼女は、恐れることなく、矢面に立ち、敵陣めがけて大砲を撃ち続けた。
 その凛々たる勇気が、味方の兵士をどれほど奮い立たせたことか。その気高い姿は、一幅の名画のごとく、今に伝えられている。
 こうした民衆の勇気が結集して、アメリカの独立は勝ち取られたのである。
 民衆ほど強いものはない。我が学会員の「真剣」と「誠実」と「熱意」ほど強いものはない。この「真剣」「誠実」「熱意」こそが、人々の心を変え、時代を変え、世界を変える最大の力である。
14  「信心の王国」四国は「智慧の王国」「希望の王国」
 ともあれ、「信心」ほど偉大なものはない。これが一切の結論である。
 大聖人は仰せである。
 「信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし」──(完全な器、水を漏らさぬ堤防のように)信心の心に欠点がなければ、一切の人を平等に利益する仏の広大な智慧の水は、決して乾くことがない──と。
 仏の智慧は、あらゆる人々を、平等に絶対の幸福へと導く智慧である。
 その智慧の水を、我が生命の宝器に満々とたたえていくために必要なのは、ただ「信心」なのである。「信心」の器が壊れていたり、汚れていたり、閉じていたり、不純物がまじっていたり──それでは清らかな「智水」は得られない。ゆえに信心なき日顕に仏の智水などあるわけがない。あるのは、ただ仏法を利用し、信徒を食いものにしようという魔性だけである。
 「信心」は、我が創価学会にある。ゆえに御本仏の平等大慧の「智水」は乾くことなく、私たちを潤してくださる。ゆえに学会は行き詰まらない。無限に広布の道を、無限に幸福の道を、無限に人類の希望の緑野を広げていけるのである。四国もそうあっていただきたい。「信心の王国」四国は、即「智慧の王国」であり「希望の王国」なのである。
15  本日は全国、世界の皆さまに贈る意味も含めて、何点か、リーダーの在り方を語らせていただいた。指導者が成長しない組織は、皆が苦しむ。道路で前の車が止まっていては、後の車は進めない。リーダー自身が成長し、境涯を開く。そこに一切のカギがある。まばゆき「栄光」へと進む根本のバネがある。こう重ねて申し上げ、記念のスピーチとしたい。

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