Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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岡山の勤行会 断じて負けるな、幸福勝ち取れ

1993.11.30 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  戸田先生は、また、ある時は、こう語られた。
 「ここに、ひとつの覚悟をもって会長になった以上には、つらいも悲しいもあるものか。私のからだは皆さまの前に投げ出して、広宣流布の大闘士として、私は戦います」
 「あなた方に、広宣流布をしてくれということは、戸田は頼みません。広宣流布は私がいたします。あなた方は、ご自分のしあわせのために折伏しなさい。あなた方は、御本尊様を拝んで折伏する以外には、幸福になる道はないのです。こうなったら、あきらめて折伏しなさい。
 これは、私のためでもなければ、日蓮正宗のためでもなければ、御国のためでもない。あなた方のためにやることが、結局は広宣流布のためであり、御国のためになるのである。だから、皆さんの信心の努力の大半を自分自身の幸福のために使って、その残りを広宣流布のためにこっちへよこしなさい。豆腐のカス(おから)みたいなものをこっちによこして、自分がしあわせになって、そうして、そのカスで広宣流布をやるのだから、楽なものです」(昭和三十年一月二十三日、西日本三支部連合総会)
3  戸田先生は、「広宣流布は私がやるのだ」と言われ、一日一日、文字どおり身命を削られた。
 「広布のため」と「会員のため」以外には、何もない先生であられた。私も同じである。この心を私は、皆に継いでもらいたい。
 大聖人は、次のように仰せになっている。
 「人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、譬へば人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし
 ──人に物を施せば(それがかえって)我が身を助けることになる。たとえば、人のために灯をともせば、(その人の前を明るくすると同時に)自分の前も明るくなるようなものである──と仰せになっている。
 人のために尽くせば、善根となり、自分に戻ってくる。反対に人に非道をなし、苦しめた場合には、いつか同じことを自らが受けなければならない。これが因果の理法である。なかんずく、人々を最高の正法へ導いた功徳は、どれほど大きいことか。
 反対に、日顕は、仏意仏勅の創価学会の破壊を謀り、失敗して、学会を破門した。ゆえに還著於本人げんじゃくおほんにん(還って本人に著きなん)で、自滅の道をたどっている。醜い嫉妬の心から、人の家に火を付けようとして、我が身に火が付いてしまい、火ダルマになっているようなものである。
4  仏勅の学会をだれえ人にも壊せぬ
 戸田先生は指導されている。
 「広宣流布をなすのは、学会以外にない。これにそむけば五逆罪になる。学会を離れてしあわせなものはいない。功徳のあるわけがない」「仏法に五逆罪ということがある。父母を殺す。これは逆罪である」
 「次に殺阿羅漢。これは世の指導者、師匠を殺すのが、殺阿羅漢という。次に出仏身血すいぶっしんけつ(仏の身から血を出す)。御本尊を破るのはこれで、そまつにすることは五逆罪の一つになる。
 次に和合僧を破る。心の和合を破壊し、仏の道を破壊することである。僧というとへんだと思うかもしらぬが、坊さんだけのことではないのです。
 わが学会は、和合して、広布へ、日蓮大聖人様の教えを、日蓮大聖人様の指導通りにやろうというのであるから、これを破ろうとするものは、かならず仏法の大きな罰をうける。
 もし破ろうとするものあるならば、やってみたまえ。内から外からやってみたまえ。絶対にできぬ」(昭和二十九年二月二十七日、本部幹部会)と。
 「僧」とは、本来、「和合僧」のことであり、仏法で尊ぶべき真の和合僧とは、現代では創価学会である。「破和合僧」は五逆罪なのである。
5  大聖人は、「無間地獄」あるいは「大阿鼻地獄」について、「此の地獄に堕ちたる者・これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり、業因を云わば五逆罪を造る人・此の地獄に堕つべし」──この地獄に堕ちた者は、これほど久しい間(一中劫の間)、無間地獄に住して、大苦悩を受けるのである。無間地獄に堕ちる業因をいえば、五逆罪を犯す人が、この地獄に堕ちるのである──と記されている。
 日顕自身がこうなることは、自業自得である。しかし、民衆が彼にたぶらかされてしまえば、この大罪と「与同罪」になってしまう。それが、かわいそうである。断じて破折し、謗法の酔いをさませて、救ってあげなければならない。
 戸田先生のご確信のように、内からであれ、外からであれ、だれびとの策謀であっても、絶対に学会を破ることはできない。
 仏の身を、「金剛身」という。金剛石(ダイヤモンド)のように堅固で、いかなる煩悩や迷いにも壊れないからである。創価学会も、いかなる障魔や難にも壊れない「金剛不壊の教団」である。今回の宗門の問題によって、改めてそれが証明されたのである。この尊い学会を、皆さまは断じて守り抜いていただきたい。
6  「わが闘争に悔いなし」と今世を
 大聖人は「生死一大事血脈抄」にこう仰せである。
 「金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺あに真金に非ずや・法華経の金を持つ故か
 ──金は大火にも焼けず大水にも漂(ただよ)わず、また朽ちることもない。鉄は水にも火にも、ともに耐えることができない。賢人は金のようであり、愚人は鉄のようである。あなた(最蓮房)は、まさに真金(真実の金)ではないか。それは、法華経の金を持つゆえであろうか──。
 人生というのは、いろいろなことがある。「大水」が押し寄せる高い波の時もある。低い波の時もある。また″なぎ″の時もある。苦悩の「大火」に焼かれる思いの時もあろう。
 大事なことは、たとえ、どういう時でも、「自分はこれだけやりきった」と納得できる生き方、悔いのない生き方を貫くことである。その人こそ、賢人である。勝者であり、幸福者であろう。
 人がどう言おうと、また、どう見ようと、それはそれである。あくまでも、自分の信念を貫くことである。亡くなった松下幸之助さんとも、よく語り合った。二人の語らいの結論も「自分はこういう人生を生き抜いた」「自分の人生はこうだった」と言い切れるかどうかということであった。
 現代は、だれも確固たる哲学をもっていない。明快なる判断の基準がなくなってしまっている。その意味では、不幸な社会である。かわいそうな時代である。責任がある立場の人ほど悩みは深い。そのことを考えるとき、私たちには、三世永遠の哲学がある。向上への確固たる軌道がある。実は、これほどの幸福はないのである。
7  大聖人は、教えておられる。
 「一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず
 ──一人の心であっても、二つの心があれば、その心が争って、なにごとも成就することはない。(これに対して)たとえ百人や千人であっても″一つの心″であれば、必ずものごとを成就できるのである──と。
 心の定まらない「二心」「三心」であっては結局、何もできない。あちらを見、こちらを見、いつも迷いながら生きるよりも、自分の決めた正義の道を、まっすぐに進みたい。そしていよいよ「真金の信念」を輝かせ、「金剛の団結」を輝かせて、社会を照らしてまいりたい。
8  ロマンの岡山に不滅の満月城
 短い滞在であり、代表の方にしか、お目にかかれなかったが、私は、岡山と中国の全同志の皆さまの「最高に幸せな人生」を、いつも願っている。祈っている。
 その心を込めて、新しい出発のお祝いに、和歌をお贈りしたい。
  永遠に
   興隆燦たる
     満月城
  その名は岡山
     不滅の城かな
  負けるなと
   断じて負けるな
     師の声に
  幸福勝ちとれ
     三世の命を
  あまりにも
   ロマンの多き
     岡山に
  地涌の友らの
     福徳かがやけ
 これから私は四国に行ってまいります。お会いできなかった方に、くれぐれもよろしくお伝えください。岡山、頑張れ!

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