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日蓮大聖人・池田大作

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関西広布功労者の第1回懇親会 「励まし」が人を変える、自分を変える

1993.11.28 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  政宗の少年時代──自身をもたせた一言が英雄を生んだ
 宮城県の青年部の皆さんが、戦国時代の武将・伊達政宗の幼少時代について調べてくださった。若き知性への御礼を込めて、一部を紹介させていただきたい。
 伊達政宗は言うまでもなく、戦国時代、東北を舞台に大国を築いた武将である。半面、和歌や茶道もたしなみ、教養も豊かであった。また、メキシコやスペイン、ローマとの交流を図るなどスケールの大きな人物としても知られる。
 しかし、幼少のころの政宗は、卑屈で内気な少年であったという。
 彼は幼い時に天然痘を患った。それが原因であろうか、右目が見えなくなってしまう。このため、のちに「独眼竜」と呼ばれた。
 また、病気の跡が顔に残ってしまった。そのことを気にするあまり、政宗少年は人前に出ることを嫌がり、次第に引っ込み思案の性格になっていった。
 そのため、家臣たちの中には、政宗のことを「大将の器量なし」と見限る者も多かった──こういう説がある。
3  一方、彼の弟は、容姿端麗で社交的、家臣との対応も堂々たるものであったという。
 多くの家臣たちは、むしろ、この弟の機嫌をうかがい、実の母親でさえも、弟のほうに、将来の期待をかけていたともいわれる。
 常に弟と比べられて、政宗少年は、ますます卑屈になっていく。
 ──子供は敏感である。他の子供と比較するのは、かわいそうである。また愚かである。
 桜は桜、梅は梅である。その子らしく伸びていけるように、慈愛の太陽の光を注いでいきたいものである。
4  そんな政宗少年を変えたものは何だったのか──。
 それは、乳母(育ての母)の厳しくも温かい励ましであったと伝えられている。
 乳母は、政宗が自信をなくして心を閉ざしていくのが、かわいそうでならなかった。″なんとかしてあげたい″──心を決めた彼女は、ある日、涙を浮かべて政宗に訴えた。
 「人間の偉さは、決して姿かたちで決まるものではありません。あなたのお顔は、むしろ万人を畏れさせ、敬わさせる英雄の顔です。むしろ、ご自身を祝福すべきなのです。臆病であってはなりません。自信をもってください」
 こうした真剣な真心の言葉に、政宗の目にも、いつしか大粒の涙があふれていた。
 「ありがとう。長い間、私を苦しめた悪夢を、あなたは今、覚ましてくれた。わたしは頑張る。どうか見ていてほしい」
 その日から政宗少年は変わった。堂々とした物腰、自信にあふれた言葉遣い、キラキラと輝く瞳──母親や家臣たちは、目を見張って見つめるばかりであった。
 政宗は、この乳母を生涯、心から大切にしたという。
5  心を込めた真剣な「励ましの一言」、温かな「愛情の一言」──それが子供を、どれほど勇気づけ、自信を与えていくか計り知れない。
 家庭教育といっても、根本は、子供を心から信頼していくことである。子供の心をわかってあげることである。そして、希望をもてる方向へ、向上できる方向へと励ましていくことである。
 学会の世界も、温かき同志愛の世界である。「大丈夫?」「元気?」「頑張ってね」と、常に励ましの言葉をかけ合っていきたい。
 「心」が通えば、「力」に変わる。「力」を出せば、必ず「道」は開けてくる。
 また人を励ますことは、自分自身をも勇気づける。「励まし」は人を変え、自分を変えるのである。
6  「自分らしく精一杯やることだ」「挑戦が価値を生むのだ」
 さて牧口先生(初代会長)が、東北出身の青年を励まされたエピソードがある。
 青森の若き教員が、東京で大勢の人に話をすることになった。牧口先生の指導を受けて実践した創価教育学の研究授業について、報告を求められたのである。
 しかし、彼は、自分の″なまり″が気になって、なかなか話せない。赤い顔で、もじもじしていた。
 すると、そばにいた牧口先生は、その状況を見てとり、代わって説明してくれた。牧口先生の応援で救われた教員は、心から感謝した。
 後日、彼が、牧口先生のお宅を訪ねた時、先生はこう激励された。
 「発音が悪く、なまりがあっても自分らしく精一杯やることが大事です。
 人はみな、素晴らしい可能性が備わっている。
 進んで発表する、不得意なものに挑戦する、そこに自分の価値が発揮される。それが『利』なのだ、それを発表して、他の先生方も『利』になり、児童の成長に役立って『善』の行動になっていくのですよ。
 利・善の価値意識をもち、価値創造を心がけることが創価教育学なんだよ」と。
 「価値創造」といっても、自分とかけ離れた世界にあるのではない。「革命」や「変革」といっても、身近なところから始まる。現実の生活で直面する課題を避けないことである。勇気をもって挑戦することである。そこに「価値」は生まれ、希望の波動は広がっていく。
 自分の身近なところから、勇気をもって「挑戦の一歩」をと、お願いしたい。
7  『母の日記』──太陽のような母の生き方
 今年は、戸田先生が、牧口先生とともに入獄されて、ちょうど五十年。獄中にあって、戸田先生は、奥さまへ、励ましのお手紙をいくつか書かれている。
 そのなかで戸田先生は、そのころ、刊行された『母の日記』という本を、奥さまに勧められた。
 「必ず読みなさい。信仰に生きた人の姿です」と。
 これは、キリスト教を信仰する亡き母の日記をひもときながら、息子さんが思い出をつづった本である。(菊池麟平氏著、昭和十八年、鶴書房)
 戸田先生は、文豪の作品以外に、こうした、民衆の実生活の記録にも着目しておられた。
8  主人公のお母さんの名前は菊池うたさん。町医者の妻であり、六人の子供の母であった。
 明治三十八年(一九〇五年)、夫が信州(長野)から中国大陸へ、医者としての新天地を求めて単身、旅立つ。彼女は、しゅうとや子供たちとともに残された。
 当時、三十代なかば。この本は、そのころの彼女の日記を中心に描かれている。
 彼女は、常に「太陽のように明るい人」であった。
 もちろん、夫と離れ、一人で家族を支えていくのは、大変なことだった。
 また、目や肩が悪く、手のしびれなどの持病もかかえていた。
 彼女は日記に、こう書いている。
 「誰とても家計の相談する人なく、ただ心中にて苦痛。さりとて子供等に少しの心痛をさとらせざる様に務む」
 彼女は強かった。だれにも頼らなかった。だから愚痴をこぼさなかった。人を頼るから愚痴が出る。
 子供たちは、のちに日記を見て初めて、お母さんにも悩みがあったことを知ったという。
 また、彼女は、「ありがたがり屋さん」と言われるほど、ささいなことにも感謝の心を忘れなかった。
 感謝の人は美しい。心にダイヤをもつ人は、他の人にもダイヤを見つける。
 筆者は、お母さんを振り返って、語っている。
 「太陽のような母を持つ子供にとっては、世の如何なる出来事も、その子供の将来に暗い蔭を与え得るものではない」
 婦人部の皆さまは、どんなにつらいときでもニッコリほほえんで、家庭に地域に、安らぎの光を送っておられる。″学会の太陽″婦人部の皆さまに心から敬意を表したい。
9  彼女は「賢き教育の人」でもあった。″口ではなく行動をもって教える″という教育方針で、みずから率先して学び、動き、働いて、六人の子供たちを立派に育て上げた。
 筆者は幼いころ、言葉を覚えるのが遅く、父親から、見込みがないと思われていた。
 しかし、お母さんは、「この子は、ただ少し知恵のまわりが遅いだけです」と、温かく見守り、自信を与えてくれた。その母のおかげで、著者は、やがて小学校で最優秀の成績を収めるようになったという。
 両親が、そろって子供を責めてはいけない。それでは子供は行き場がなくなってしまう。委縮してしまう。出せる力も出せなくなってしまう。何の価値もない。
 このお母さんは、「周りの人を大切にする人」であった。
 友人の幸福を祈り、友のいいニュースを聞くと、自分のことのように喜んだという。また、困ったことがあれば、親身になって相談にのってあげた。
 学会の婦人部の皆さまをほうふつさせる姿である。
10  家計は決して楽ではなかった。しかし、家を貸してあげた人が、貧しさのなか、やっと家賃を払いにくると、彼女は、受領書の中に、そっとお金をしのばせて渡してあげることもあった。
 また、近所の恵まれない子供たちに、服を作ってプレゼントしてあげたりもした。そうした彼女の心が多くの人を引きつけ、家庭は人の出入りで、いつもにぎやかだったという。
 ささやかな真心であったかもしれない。しかし、自分の生活も大変ななか、人に尽くすお母さんの美しい姿は、子供たちの心に焼きついた。
 子供にとって、「母は最初の教師」という。婦人部の皆さまは、人一倍、多忙である。「人のために」行動しておられる。その母の「心」が、子供たちに通じたならば、それは一生を支える宝となるにちがいない。母の「心」が伝わったならば、それは一生を導く光となるにちがいない。
 全関西の皆さまの「素晴らしき人生」を心からお祈りし、スピーチとしたい。お会いできなかった方に、くれぐれもよろしくお伝えしていただきたい。

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