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日蓮大聖人・池田大作

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関西栄光総会 真の仏法者は「幸福」を創り「権威」と戦う

1993.11.27 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  ちょうど四十年前の昭和二十八年(一九五三年)六月十四日、第一回の大阪支部総会が開催された。約千人の草創の同志が集まった。場所は天王寺区の夕陽ケ丘会館。
 この折、戸田先生は、関西のけなげな同志に、こう語られた。
 「信心をする目的は、みんながほんとうに幸福になるためです」
 組織で威張ったり、威張られたりするための信心ではない。
 「われわれの生活は、悩みの生活です。貧乏なものは金持ちになり、病気の人は病気がなおる。一家団らんして、この世を幸福に暮らすことです。そしてまた、未来永劫に幸福になるために、信仰するのです」
 現実の人生は、悩みの連続である。娑婆世界とは、そうした苦悩を耐えていく世界という意味である。この「悩みの世界」にあって、すべての悩みを喜びに変え、一切を楽しみ、悠々と生き抜いていく──それが成仏という常楽我浄の境涯である。
 環境とともに変化する「相対的な幸福」ではなく、崩れざる「絶対的な幸福」をつかみなさいと戸田先生は教えられている。
 信心をやり通せば、そういう絶対の幸福が、今世だけでなく永遠に続いていく。だから今世を頑張りなさい、今世の信心で永遠の福運を積みなさいと、私は励ますのである。
3  先生は、「東京で、ほんとうに幸福だという人に会ったことがない。ほんとうに心から幸福だと確信している人が、はたして何人いるだろうか。信心するのは、みんながしあわせという道に流れていることです」と。
 また戸田先生はよく笑いながら、「今の日本は、電車に乗っても、福運のなさそうな顔、いじわるそうな顔、ヤキモチ焼きの顔ばかりで、困ったものだ」と言われていた。
 「私は本当に幸福だ」と言える人が何人いるか。これは人類始まって以来の重大問題である。一時的に幸福だと言えたとしても、それがいつまで続くか。願いが叶ったり、地位や財産を得ただけで永遠に幸福になれるなら、簡単である。しかし、そうはならない。無常である。必ず変化していく。
 それではどうするのか。この「幸福」という人類最大の課題に完ぺきに答えられ、全人類が平等に「永遠の幸福」をつかむ方途を説かれた方が日蓮大聖人なのである。
 大聖人は、幸福のための「正しき法」を説かれた。あとは、こちらに「正しき信心」があるかどうかである。それは創価学会以外に断じてない。
4  そして戸田先生は、「このような総会ができたことは、ひじょうに喜ばしいことです。私は、大石寺のために喜ぶのではありません。大阪支部員のために喜んでいるのです」と言われた。
 寺院のための仏法ではない。民衆のための仏法である。戸田先生は、大阪の市民がかわいい、大阪の庶民が信心して本当に幸せになっていくのがうれしい、と。大石寺のためでもなければ、僧侶のためでもない。大事なのは、関西の学会員なんだ──これが恩師の心であった。
 権威主義の宗門とは、大聖人の仏法のとらえ方が根本的に違っていた。今になって、初めて違ってきたのではない。草創の時から、学会だけが日蓮大聖人の「民衆のための仏法」の心を体現していたのである。
 奴隷のごとく権威に従う″寺信心″ではない。自分自身が幸福になり、人をも幸福にするための″大聖人直結の信心″である。戸田先生は、すでに第一回の大阪支部総会で、この心を宣言しておられる。
 ″人間の都″″庶民の都″である関西の大地に、冷たい「権威の伽藍」は必要ない。
 私たちの会館、個人会館、また御本尊の御安置された一軒一軒の家が、すべて「民衆の幸福の王宮」なのである。「宮殿」なのである。これが大聖人の教えである。皆、心から納得できる道理である。
 この「王宮」に悪人を入れてはならない。
 関西は、本当に仲がいい。「広宣流布の柱」「学会の柱」である。
 これからも、一人も残らず「健康」で、「福運」に包まれて、「和楽」の人生を生き抜いていただきたい。これが愛する関西への私のお願いである。
5  「御本尊も謗法の寺では御利益がない」
 昭和二十九年(一九五四年)十一月十八日、牧口先生の十一回忌の法要が行われた。
 場所は東京・池袋の常在寺。日昇上人が大導師をつとめてくださった。ここ関西文化会館の御本尊は、日昇上人がおしたためくださった御本尊である。
 また、法要には、細井尊師、のちの日達上人も参列され、牧口先生をしのばれて、席上、次のようにあいさつされた。これは当時の「聖教新聞」にも掲載されている。
 「牧口先生は現会長戸田先生と同じ様に青年を非常に大事にされた。私も昔は若かったので大変可愛がられた。
 遠くの方で牧口先生にお逢いしても『細井先生、細井先生』と呼び止められた。私は若いが牧口先生はおじいさんなので、きまりが悪かった。
 ある時、理境坊の前を通りかかった私を呼び止めて、こういうことをいわれた。
 『御本尊様は、絶対に御利益がある。どこにあっても御利益があるが、唯謗法の寺にあり、謗法の人がもっていると御利益がない。この事をあなたは若いのだから、良く覚えておいて頂きたい』。この言葉は今でも覚えています」と。
 大変に歴史的な証言である。
 ″どんなに利益のある御本尊であっても、謗法の寺にあり、謗法の人がもっていれば、利益はない。このことを、よく覚えておいてほしい″──牧口先生は、こう若き日の日達上人に語られた。
 牧口先生は、将来の大石寺の姿を予見されていたのかもしれない。偉大な先生であられた。
 そして、日達上人は、牧口先生のこの言葉を深く心にとどめられ、後世に伝えられたのである。
6  今、宗門は、ことごとく大謗法の寺となってしまった。大謗法の人間の集団と化した。牧口先生が言い遺され、日達上人が伝えられたように、謗法の寺には何の功徳もない。あるはずがない。
 日達上人も、また牧口先生も、どれほどお怒りであろうか。御本尊の限りない大利益を世界に証明できるのは、もはや創価学会しかない。私たちしかない。
 さらに、日達上人は、学会の第二十三回総会(昭和三十六年五月三日)で講演され、このようにお話を結ばれた。
 「わが創価学会の信仰こそ、仏智にかなった最高唯一の信仰であることを喜びとし、ますますご信心に励まれんことをお願いするしだいであります」と。
 関西の皆さまは、この大確信で、関西文化会館の御本尊にお認めのごとく、「大法興隆所願成就」の人生を、さらに力強く歩んでいただきたい。
7  戸田先生「学会の女性は、こよなく尊貴」
 戸田先生は、婦人部を心から大切にしておられた。ある時、先生は会合で、こうおっしゃった。
 「いったい世界のどこに、民衆のために憂え、二十一世紀から末法万年尽未来際じんみらいさい(永遠の未来)の世界を論じている女性がいるだろうか。
 それは、今、私とともにここにいるあなたたちだけでしょう。この事実をおろそかに考えてはいけない。あなたたちは、久遠の約束のもとに、選ばれてあるのです」
 先生のおっしゃる通りである。
 今は末法濁悪じょくあくの世界である。利己主義の世の中である。そのなかで、婦人部、女子部の皆さまは″民衆を幸福に″と祈り、行動しておられる。これほど尊い女性はいない。
 また、仏法には「久遠元初」とか「事の一念三千」「寿量文底」「教相・観心」など、深い哲学が説かれている。
 たとえ理解できなかったとしても、事実のうえで、そういう大哲学にのっとった生活になっているのが学会の女性なのである。だから、大切にしなければならない。おろそかに考えてはならない。
 とくに壮年は、婦人を大切にしていただきたい。アゴで使ったり、叱ったりする資格など絶対にない。うちでは奥さんに頭があがらないくせに、そのストレス解消で、人の奥さんに威張るなんて、もし、いたとしたら、とんでもない幹部である。
8  信心とは、これ以上はないという「最極の人生」「無上の人生」を生きるためにある。
 信心さえ確かならば、私たちの人生は、黄金の「人間革命の歴史」となる。何ひとつ無駄はない。すべてが生きてくる。すべてが価値となる。すべてが福徳となる。すべてが歓喜となる。
9  「どこにいても幸福」が信仰者
 たとえば、人事があった。場所が変わった。晴れやかな都会から、タヌキの出る丹波の山奥へ来てしまった。それで、がっかりする。華やかな舞台から去ったように感じて、自分はもうだめだと落胆する。また、文句を言う。それは本当の信心ではない。「本有常住」の妙法の実践者ではない。
 「あっちがいい」とか、「こっちはいやだ」というのでは、西方十万億土のかなたの極楽浄土を求める念仏のようなものである。弱々しく、環境に支配されている自分である。
 牧口先生は、地獄のような牢獄のなかでさえ、″心ひとつで寂光土である″と、悠然としておられた。戸田先生も、獄中で、あの偉大なる悟達を得られた。
 幸福を決めるのは、場所ではない。自分である。自分の信心である。信心さえ強く、不動であれば、どんな変化も、全部、よい方向へ、幸福の方向へと変えていける。ゆえに、信仰者にとって、根本的には「一切が功徳」なのである。
 このことを確信し、「我が人間革命」の黄金の日記を着実につづっていっていただきたい。
10  「悪人」とはどういう人間のことか。牧口先生は、具体的に次のように述べられた。
 「一身一家の私益しえきに目がくらみ、社会国家の公益こうえきを害するを悪人という」と。自分や家族の利益に目がくらんで、社会や国の公の利益に反する行動をするのが「悪人」である、と。
 一般論はさておき、仏法の世界でいえば、″公″とは広宣流布である。「広宣流布のために」尽くしていくのが善である。それを日顕一派は、「一身一家の私益に目が眩み」、広宣流布を破壊しようとしたのである。これほどの極悪人はいない。
 牧口先生は、悪人について「衆生の済度を目的として起った宗教を一宗一派の生存繁栄に利用する職業宗教家の如きはその最大でないか」と断じておられる。
 民衆を幸福にすることこそ、聖職者をはじめとする指導的立場の人間の使命である。
 聖職者が、その公益を忘れ、私益のために、民衆を苦しめる。宗教を利用する。信徒を搾取する。そういう″坊主″こそ最大の悪人である。その究極が日顕である。この「悪人」に連なれば、連なった人間もまた「悪人」となる。悪は責め抜かねばならない。
 大悪と戦うものは大善となり、極悪と戦うものは極善となる。悪と戦わなければ、悪を容認することになり、結局、悪人の味方となる。
11  牧口先生にとって「教育の目的」「信仰の目的」は何であったか──それは、「民衆の幸福」である。そして民衆が「幸福」になるために、民衆を「賢明」にすることであった。
 民衆が賢くなり、決して悪にだまされず、価値を創造していく。そうなるために、牧口先生は生涯を捧げられたのである。
 地位や肩書にだまされやすいのが人間である。それを転じて、民衆を賢明にし、民衆の幸福をつくるのが「創価革命」であり、「仏法革命」である。
12  また牧口先生は、「釈尊の三千年前の御予言たる『末法濁悪』の世が現実に証明されるのは、強盗殺人等の大悪よりも、(中略)高官高位に蟠踞ばんきょ(とぐろを巻いて動かないこと)して賢善有徳けんぜんうとくの相をしていながら、大善を怨嫉し軽蔑して大悪に迎合し加勢し、以てその(自分の)地位の擁護と現状の維持とに力を尽す高僧大徳智者学匠によるといわねばなるまい」と。
 仏法に説かれた「末法濁悪」の世──その実例とは、強盗、殺人といった罪よりも、むしろ高僧とか智者といった指導者たちのなかにある、とおっしゃられている。
 彼らは表向きは善人ぶって、尊そうな姿を見せているが、本当の「大善」の人を妬み、怨み、軽蔑している。
 反対に、「大悪」の者に対しては、へつらい、手助けをする。それも、自分の高い地位にしがみつき、のさばり、毒蛇のようにとぐろを巻くためである。
 これが牧口先生の厳然たる指摘であった。遺言であられた。
13  「大悪」起こり、世界広布の「大善」来る
 牧口先生が言われた通り、「末法濁悪」の何よりの証明は、僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまん(聖僧の姿で法華経の行者を迫害する敵人)である日顕宗の出現である。
 大聖人は、「大悪をこれば大善きたる」──大悪は大善の前兆である、と仰せである。
 大悪中の大悪である「日顕宗の出現」こそ、大善中の大善である「世界広宣流布の到来」を告げているのである。ゆえに、われわれは、今こそ戦わなければならない。妥協なき渾身の戦いで、世界広布の夜明けを開かねばならない。
14  日顕宗が、広宣流布の和合僧団・創価学会を破門したことは、広宣流布を御遺命とされた大聖人、日興上人への重大な違背である。先師違背の日顕宗こそ大聖人、日興上人から破門されているのである。
 先日、モンゴル国のエンフバイヤル文化大臣との会談(十一月十九日)の折、同国に伝わる歌謡を私は話題にした。その一つに
   地獄、地獄というが、
   地獄はどこから来るのかね?
   たてた誓いを破ったら
   地獄とはそれにちがいない
 誓いを破る人間、自分と人を裏切る人間。地獄とは、その人間の心の中にある。
15  戦時中、難を恐れ、保身を願い、軍部の命に従って神札を受けた宗門。一方、牧口先生は厳然とそれを拒み、大聖人の正義を守ったがゆえに憎まれ、登山停止となり、″宗門とは無関係″といわんばかりの仕打ちを受けた。
 投獄されても屈しなかったために、名誉の獄死を遂げられたのである。
 その結果はどうであったか。学会を切り捨てた宗門は、難を逃れ、弾圧を免れたが、終戦直前、大石寺は火災に見舞われ、神札容認の法主は焼死。戦後も、信心のうえからも、財政的にも、実質的には「滅亡」の姿となった。
 牧口先生は、「同じ小悪でも、地位の上るに従って次第に大悪となる。況や大悪に於てをや。極悪となり、その報として大罰を受けねばならぬ」と言われた。その言葉通りの宗門の姿であった。
 反対に、学会は、旭日のごとく大発展した。そして、そんな宗門に対しても、ただ広宣流布のため、民衆のために、外護の赤誠を尽くし、守り、供養してきた。
 そして、宗門は学会のおかげで豊かになったら、再び宗教の権威で、学会を弾圧した。しかし正当な理由がないものだから、ただ「法主に背けば謗法」と邪説を繰り返している。
 要するに、「私益」に目がくらんでいるだけなのである。「大善」の人が妬ましくて胸を黒く焦がしているだけなのである。
 一方、牧口先生以来の正道を行く私たちの未来は、いよいよ、これまで以上に燦然と輝いている。このことを確信していただきたい。
16  終わりに、関西の同志の真心に感謝して、和歌三首を贈り、スピーチの結びとしたい。
   大関西
    共に歴史を
      刻みけり
   おお常勝の
      君も私も
   師子王の
    心と心の
      スクラムは
   三世に悠然
      恐るものなし
   学会の
    柱と誇る
      関西は
   師弟の道をば
      厳と護らむ
17  明秋には関西国際空港も開港する。将来は、この関西を中心に、世界に行き、世界から帰ってきたい。その折には、お世話になることと思うが、よろしくお願いしたい。
 それでは、ごめんやす! おおきに!

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