Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「魂の独立記念日」祝賀の最高協議会 常に「大聖人と共にある」うれしさ

1993.11.7 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

前後
2  法華経が説かれて二千年以上。しかし、この経文の「閻浮提広宣流布」が現実になったのは今が初めてである。未曽有みぞう(いまだかつてないこと)の時なのである。ゆえに未曽有の「悪魔」「魔民」等が出現してくる。
 この時、魔軍を本気で打ち破った人が仏になる。今、本気で立ち上がらなければ、永遠に悔いを残す。これが大聖人の御教えである。
3  学会は隆々と発展、衰退する宗門
 二年前、私たちは黒い鉄鎖を断ち切って、晴れ晴れと世界広布の新時代へ出発した。そして今、学会による御本尊授与が行われて、全世界に喜びが広がっている。
 それに対して、宗門は、大慌てをしているようだ。御本尊を信徒を支配する手段としか考えていない彼らは、その最後の手段まで失ったことが、悔しくてならないのであろう。
 民衆の幸福など彼らには関係がない。否、民衆の幸福こそ、彼らが一番憎むものなのである。
 大御本尊を、日寛上人が御書写になった御本尊の御形木御本尊を、宗門は「ニセ本尊」だと誹謗している。何という日寛上人への冒涜であり、大御本尊への冒涜であろうか。
4  宗門は、最後のあがきとして、学会員のところへ、幼稚な内容のはがきを出して、いやがらせをしてきている。そのうち″寺院に信徒の登録をしないと除名する″と脅そうとしている、との話もある。
 それを聞いたある人が、「あれ、我々はまだ除名されていなかったのか」と驚いていた。「破門された」ということは、本来、「信徒を除名された」ことだからである。
 私は、すでに「破門」されたうえに「除名」(一九九二年七月四日)されている。続けて二度も切ったのである。
 今度は、会員の皆さんにも、同じことをしようと策謀しているのかもしれない。
 辞書で「破門」という言葉を引くと、「門人、または信徒を『除名』すること」等と、明確に定義されている。「破門」には「信徒から除名する」という意味が当然含まれている。
 宗門が、学会は「破門」にしたが、学会員は信徒から「除名」していない、と言ってきたことは、まったくの詭弁である。
 信徒を除名したというと、学会員が、まったく寺院にこなくなることを恐れ、寺へくれば信徒だからと葬儀や法事などを引き受ける口実にして、供養を貪るための、狡猾で卑劣なごまかしだったのである。
5  大聖人は、正法を誹謗する悪比丘の姿を説いた涅槃経の文について、「経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男・俗女の檀那をへつらいいつわりたぼらかすべしと説き給へり」──経文には、猟師が目を細めにして鹿をねらい、猫が爪を隠して鼠をねらうようにして、在家の男女の檀那にへつらい、いつわり、たぶらかすであろう、と説かれている──と述べられている。
 まさに、日顕ら悪比丘の姿そのものである。
6  たとえば、横暴な社長が、会社になくてはならない優秀な社員に「嫉妬」し、気にくわない、というだけでクビにしておいて、何年もたってから「お前は、解雇はしたが、クビにはしていない。もう一度、会社へ帰ってこないとクビにするぞ」と脅してくるようなものである。あまりのバカバカしさに、笑ってしまうだけであろう。
 また、そんなお粗末な社長は、社会から糾弾され、会社は間違いなくつぶれることだろう。宗門も同じである。日顕のおかげで、常識あるあらゆる人々から見放され、急速に衰亡している。
7  昭和十八年(一九四三年)六月、牧口先生・戸田先生は、神札を受けるように命じた「謗法の法主」に従わなかった。その後、信徒を除名されている。
 宗門は、やがて、法主が無残に焼死するという大罰を受け、滅亡にした。それを学会の外護によって蘇生できたのである。それを、また破門──。
 「大謗法の法主」による「破門」は、私たちが牧口先生・戸田先生の後継として、同じ「極善の道」「正義の道」を歩んでいる証明である。名誉の勲章なのである。
 牧口先生は、「愚人に憎まれたるは第一の光栄なり」と言われていた。
 そして「御書にも『愚人にほめられたるは第一のはぢなり』とあり、仏法者たる者は物事の根本、価値観を判断する際、あくまでも仏法で説く厳しき因果関係を基準にしなければならない。ひとの毀誉褒貶に左右されては、大善人とはなれない」と指導されている。
 だれに中傷されようと、御本仏におほめいただければ、それでいい。大聖人の御叱りこそ、恐れるべきである。それ以外に、私たちが恐れるものは何もない。
8  大聖人は仰せである。
 「持戒精進の大僧等・法華経を弘通するやうにて而も失うならば是を知つて責むべし」──持戒・精進の大僧等が、法華経を弘通するかのようにして、実は滅ぼそうとしているならば、これを知って責めるべきである──。
 日顕は持戒の僧でも精進の僧でもないが、正法を弘通する立場にありながら、実は滅ぼそうとしている「大僧」である。
 大聖人は「責むべし」と御命令である。責めねばならない。最後の最後まで責めねばならない。
 また、大切な会員が、邪宗・日顕宗の脅しや甘言にたぶらかされることがないように守っていただきたい。
9  日興上人は、大聖人御入滅の二年後、弘安七年(一二八四年)十月に、こう述べられている。
 「地頭の不法ならん時は我も住むまじきよし、御遺言にはうけたまわり候へども、不法の色も見えず候」(編年体御書1729㌻)──大聖人が「地頭・波木井(はきり)が法に背いたことをすれば、私も身延に住まない」と仰せになったことは、御遺言に承っているが、まだ地頭が不法をするようすもない──と。
 大聖人は、身延の地頭・波木井実長の信心のゆがみを鋭く見抜かれ、将来、謗法を犯すようなことがあれば、私は身延には住まない、と御遺言になっていたのである。
 この御手紙の翌年の弘安八年ごろ、民部日向みんぶにこうが身延へ来て、学頭に任じられた。すると波木井実長は、日向の軟風にかぶれていった。
 そして、釈迦像を造立して本尊とし、神社に参詣し、念仏の福士の塔へ寄進し、念仏道場を建立するという「四箇の謗法」を、日向が許したといって犯したのである。
 日亨上人が「四個の謗法の重点は、立像仏再興にある」と指摘されているように、波木井の四箇の謗法のうち、最も重大なのは、釈迦像を造立して本尊としたことである。
 五老僧が、釈迦如来を本尊と立て、大聖人の顕された御本尊を軽視して、死人とともに葬ったり、売却するなどし、多くの御本尊が失われたことは、日興上人の記録によって明らかである。(富士一跡門徒存知の事(御書1606㌻)など)
10  「法主絶対」は後世の邪義
 今、日顕宗は、法主の内証と御本尊は「一体不二の尊体」であるとし、御本尊を利用して「法主信仰」の邪義を立てている。
 日興上人は「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」と、明快に門下を誡めておられる。
 ゆえに「法主信仰」「法主絶対」など明らかに後世の邪義なのである。御本尊は自分と対等などという「御本尊視」は、五老僧や波木井にもまさる大増上慢であり、大謗法である。
 そもそも、日顕は、御本尊を、信徒を隷属させ、供養を貪るための道具として利用するだけで、御本尊への信心などまったくない。だから、こんな邪義が言えるのである。
 さらに、日顕は、希有の大学匠であられた日亨上人をしばしば批判し、自分の先師日達上人のご指南を否定し、違背するという、重大な師敵対を犯している。法主は絶対だとしながら自分が先師を否定している矛盾に気付かないほど増上慢であり、幼稚性がある。
 また、日顕は、日達上人の時代に造られた大化城、六壷、三門前の歩道橋を意味もなく壊し、流れの庭をつぶし、桜の木を切るなど、先師の業績を無残にも破壊したのである。
 御本尊を日蓮大聖人の御生命の当体と拝し、「御本尊根本」の信心を貫き、御本尊を命がけで守り、大切にしてきたのは、現代において、創価学会員しかいない。
 戸田先生は、「御本尊様は、即日蓮大聖人様、即わが生命である。御本尊様をじっくり拝みなさい」と教えられ、私たちは、その通りに実践してきた。だからこそ、学会員は御本尊に守られ、大功徳を受けることができた。学会のみが、御本尊を御本尊として尊んできたのである。
11  身延を離山し、ただ一人正義を継いだ日興上人
 波木井実長が、重大な謗法を犯し、師敵対したため、日興上人は、断腸の思いで、身延の地を捨てることを決断された。
 その御心境を、こう明かされている。
 「身延沢をまかり出で候事、面目めんもくなさ、本意ほいなさ申し尽し難く候へども、打還うちかえし案じ候へば、いづくにても聖人の御義を相継あいつまいらせて、世に立て候はん事こそせんにて候へ」(編年体御書1733㌻)
 ──身延の沢を立ち退くことの面目なさ、自分の本意ではないこと、私の胸中を言い尽くすことはできませんが、ひるがえって考えてみれば、いずこの地であっても、大聖人の正義を継いで、世に立て、弘めることこそ、もっとも大切だと思います──と。
 血涙したたる御言葉である。
 日亨上人は、「いまがいままで幾度拝読しても、胸は痛む、涙は乾くまがない」「いまこの文を拝して平然たるものは宗徒でないと愚僧はいおう」(富士日興上人詳伝)と述べられている。
12  日興上人は、続けて、「さりともと思い奉るに、御弟子ことごとく師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐ほんがいを遂げ奉り候べきじんに相当って覚え候へば、本意忘るること無く候」(同㌻)──そうとはいえ、(どうすべきかと)思っていましたところ、大聖人のお弟子はことごとく師敵対してしまいました。日興一人が本師・大聖人の正義を知って、師の本懐を遂げなければならない者に当たっていると自覚していますので、本意を決して忘れることはありません──と仰せになっている。
 今、宗門は完全に大聖人に師敵対して、信心と広宣流布を捨て、正法を食い物にする「食法餓鬼」の集団となっている。
 創価学会だけが、「本師・大聖人の正義」を守り、″遂げるべき本懐″すなわち世界広宣流布へ戦っている。戦い抜いている。
 「日興一人」と仰せのごとく、創価学会だけが、大聖人・日興上人の御本意を継承した唯一の、正統の教団なのである。
13  日寛上人「本門戒壇の本尊は一切衆生の本尊」
 日寛上人は「本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり」(「観心本尊抄文段」文段集502㌻)──本門戒壇の本尊は、まさに総体の本尊なのである。すなわち、一閻浮提の一切衆生の本尊だからである──と教えられている。
 大御本尊は、全人類に与えられた御本尊なのである。
 ところが、日顕は、自分を崇拝して、言うことを聞かなければ拝ませない、と大御本尊を完全に私物化している。それだけでも、御本仏の大慈大悲を踏みにじり、大御本尊の「一閻浮提総与」の意義を否定し、広布を妨害する「悪魔」等(法華経薬王品)の行為である。
 しかも、日顕は、仏意仏勅の創価学会を破門し、「広宣流布を断絶させよう」とした。仏敵・日顕が支配している大石寺は、大聖人の魂が住まわれていない身延のごとく、「謗法の地」と化してしまった。
 今、大石寺に参詣すれば、功徳があるどころか、大聖人の御叱りを受けて、罰を受けるだけである。
 一閻浮提総与の大御本尊が、信仰の根本であることは、少しも変わりはない。しかし、大御本尊に御目通りするために日顕に供養することは、日顕の謗法を容認することになる。謗法の僧を支えれば、同じ罪を得てしまう。「与同罪」といって、いわば「共犯者」になるのである。
 謗法に与同して、大御本尊に御目通りしても、″仏敵と戦わず、かえって供養するとは何ごとか″と、大聖人から厳しく叱責されることであろう。
14  法華経の薬王品に、「清涼しょうりょうの池の、く一切のもろもろ渇乏かつぼうの者に満つるが如く」──(この法華経は)清涼の池が、よくすべてのかっした者ののどを満たすようなものであり──と説かれている。
 法華経を「清く冷たい水をたたえた池」にたとえて、池の水が人々のかわいたのどをうるおすように、法華経は人々の生命をうるおし、煩悩の苦しみの熱を取り去ると。
 現在では、御本尊が「清涼池」に譬えられるであろう。
 ところが、今は、「清涼池」(大御本尊)の周りが、すっかり謗法の泥沼になってしまった。池へ行くためには、泥沼を通らなければならない。池が清らかなことに変わりはない。しかし、今、池に近づくと、周りの泥沼のために、かえって生命が汚れてしまう──このように譬える人もいる。
 この譬喩を使っていえば、池には直接行かなくても、我が家にある泉には、池から流れてきた清水が、こんこんとわいているので、少しも違いはないのである。
 日達上人は、「あなた方の各仏壇に安置するところの御本尊様が、大聖人様の御精魂である」(昭和三十七年九月七日、小田原教会で)と明確に指南されている。
15  日興上人″師僧も大聖人に背けば捨てよ″
 日興上人は、「日聖人に背きまいらする師共をば捨てぬがかえってとがにて候と申す法門なり」(編年体御書1734㌻)──日聖人に背いた師たちを捨てないことが、かえって罪になるという法門である──と仰せである。
 今の日顕は、大聖人に背いた極悪の法主であり、悪師である。日顕を捨て、その誤りを厳しく責めなければ、かえってこちらが罪になってしまう──これが大聖人の法門なのである。
 大聖人の御遺命は、広宣流布の実現である。日興上人が、謗法の寺(身延)を捨てられたのも、大聖人の御本意である広宣流布を「断絶」させないためであった。日興上人の門下への御遺誡の根本も、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」との誡めである。この御遺誡を、文字通り実践してきたのは、創価学会である。この「事実」を否定できる人間は、だれもいない。
 日達上人は、「令法久住のために死身弘法をもって、仏法を守護し、戒壇の大御本尊様を護持し、そして折伏をしておるのは学会であります。また、あらゆる謗法の難を破折し、六難九易を身をもって行ない、末法の広宣流布を実現しておるのも学会であります」と、称賛してくださった。
 御仏意に適(かな)った創価学会にこそ、大聖人の御魂が住まわれていることは間違いない。
 だからこそ、三類の強敵の「僣聖増上慢」日顕の策謀を打ち破って、世界広布の新時代を開くことができたのである。
16  御義口伝には「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿の者なり、傅大士ふだいしの釈に云く「朝朝ちょうちょう・仏と共に起き夕夕せきせき仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」と云云」──今、日蓮とその門下で南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「如来と共に宿する」者である。傅大士ふだいしの釈には「毎朝、仏とともに起き、毎晩、仏とともに眠る。時々に成道し、時々に本地を顕す」とある──と仰せである。
 大聖人は、どこにおられるのか。今、ここに、私たちの「広宣流布の人生」におられる。私たちの日々の「信心即生活」を見守ってくださっている。私たちは、常に大聖人とともにある。
 「魂の独立」から二年。学会は日本でも、いよいよ重要な存在となり、世界にも、いよいよ平和と幸福の光を広げている。この勝利の姿こそ、学会の正義の実証である。
 一方、宗門は衰亡の一途である。年とともに正邪はますます明らかになるであろう。いな、明らかにしていかねばならない。
 そのためにも、「今こそ『まことの時』」と自覚して、喜び勇んで、「大闘争」即「大功徳」の正道を歩んでいただきたい。
17  そして幹部は、仏敵にはどこまでも強く、同志には、どこまでも優しく、「大誠実」で接することである。
 誠実にかなうものはない。真剣ほど強いものはない。決して、いばらず、傲慢にならず、伸び伸びとした、朗らかな「人間宗教の世界」を広げていっていただきたい。
 そうお願いし、″魂の独立記念日″(十一月二十八日)に寄せての「祝賀スピーチ」としたい。

1
2