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日蓮大聖人・池田大作

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第十七回SGI総会 全民衆が幸せに暮らす二十一世紀へ

1993.10.22 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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1  どの国でも「心」は大聖人に通じる。ゆえに世界宗教
 きょうは、世界五十三カ国から四百五十八人のSGI(創価学会インタナショナル)の代表の皆さまが参加しておられる。遠いところ、本当にご苦労さま。心から歓迎し、感謝申し上げたい。ありがとう。
 円高で経済的にも大変ななか、このように、広宣流布のために集ってこられた。
 ただ広宣流布のために、わが使命を果たそうとする──その同志のつながりこそ世界一、尊いものである。
 とくに、皆さま方を送り出してくださったご家族の皆さま、地域の同志の皆さまに、お帰りになったら、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
2  建治元年(一二七五年)六月、日蓮大聖人は、佐渡の一人の婦人に、あたたかな御手紙を送られている。
 婦人の名前は国府尼こうあま。佐渡の地から、はるばる身延の大聖人のもとに夫を送り出し、自分は留守を守っていた。
 大聖人は、彼女の心を思いやられて、こう仰せである。
 「尼ごぜんの御すがたをば・みまいらせ候はねども心をば・これに・とどめをぼへ候へ、日蓮をこいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え、いつ何時となく日月にかげうかぶる身なり、又後生には霊山浄土に・まいりあひ・まひらせん
 ──尼御前(あなた)のお姿を拝見はいたしませんが、(あなたの)心は、ここにおられると感じます。日蓮を恋しく思われたなら、常に(朝に)出る太陽、夕べに出る月を拝まれるがよい。(日蓮は)いつであっても、太陽や月に影を浮かべる身なのです。また、死後には霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう──と。
 ″たとえ直接、会えなくても、私はいつも、あなたのそばにいますよ″″太陽や月に姿を浮かべて必ず見守っていますよ″″永遠に一緒ですよ″──これが御本仏の御心である。仏法の真髄である。
 御本仏・日蓮大聖人の御生命は宇宙大であられる。小さな寺院や本山にしか大聖人の御生命はないなどというのは、御本仏への冒涜であろう。御書の仰せは、その正反対である。
 いわんや皆さまは、大聖人の御生命の当体であられる御本尊を拝しておられる。世界のどこにあっても、その場で、御本仏の生命を拝することができることを確信していただきたい。
 国際宗教社会学会の会長を務めたイギリスのブライアン・ウィルソン博士は、「ある特定の場所に詣でなければならないというような宗教は、世界宗教にはなりえない」と述べ、だれもが、自分のいるその地で信仰できることを世界宗教の条件としている。
 大謗法の法主による破門だとか、登山会の停止で、広布を進める私たちと大聖人との久遠以来の生命の絆を切れるわけがない。
 日顕宗は、ただ自分たちのために、人々を無理やり自分のもとに集めたいだけなのである。大聖人の御精神とは正反対の無慈悲さである。人気取りの指導者たちも同様である。
3  「同心」のわれらはみな家族
 また大聖人は、この御手紙の中で、″妙法の同志は団結していきなさい″″仲良くしていきなさい″と仰せである。
 当時、佐渡の地には、信心に励む国府尼と千日尼という婦人がいた。今でいえば、支部婦人部長や地区担当員に当たるかもしれない。
 大聖人は、「同心なれば此の文を二人して人によませて・きこしめせ」──同心(同じ信心)の二人であるから、この手紙を二人して人に読ませて、それをお聞きなさい──と仰せである。
 人数の多い少ないではない。大聖人は、たった二人であっても、真心から激励されている。
 また、どちらかが上、どちらかが下とかではなく、二人は、同じ信心に励む同志である。家族である。二人して″仲良く仏法を語り合っていきなさい″″朗らかに心を合わせていきなさい″との大聖人の御心が拝される。
 どうせ信心するならば、楽しく、明るく信心したほうが得である。
 怨嫉や仲違い、一時の感情から傷つけ合うのでは、つまらない。幸福になるため、最高に楽しい人生を送るための信心である。
 たとえば、忙しくて少し会合に出られない人がいると、すぐ批判して、だめだと決め付ける。大きな心で包容し、励ましてあげるべきときにも、小さな感情にとらわれてしまう。それでは、お互いが不幸である。
 妙法の世界は、一番、清らかな人間性の世界である。世界で一番、仲の良い団体──これがSGIである。これほど麗しい世界はほかにはない。
4  とくに、壮年部は、婦人部の皆さまに、常に温かな励ましの声をかけてあげていただきたい。実情は、それどころか″壮年部さえいなければ″──これが、婦人部の日ごろの思いかもしれない。
 確かに、いつも先頭に立って動いているのは婦人部である。壮年部はいばっているだけ。婦人部がいなければ何もできない。こうだとすれば、情けない。
 壮年部の方々は、ナイト(騎士)の精神で″私がいれば大丈夫。婦人部を、女子部を、そして学会を守ってみせる″──こういう毅然たるリーダーであっていただきたい。
 そのうえで、朗らかで温かく、包容力があって親切。これが本当の壮年部である。
5  広布に働く人は即座に仏に
 また大聖人は、南条時光の母である上野尼御前にも、御慈愛あふれる御手紙を与えられている。青年・時光のお母さん──。学会の婦人部や指導部に当たるといえよう。
 大聖人は、もちろん、命がけで戦う男性の門下には真剣に激励をされた。そして、こよなく婦人を尊敬し、大切にされたのである。
 二十一世紀、二十二世紀は「女性の世紀」と予測されている。三世に通暁つうぎょう(くわしく知ること)された御本仏は、こうした時代の到来を見通されていたのかもしれない。
 大聖人は、仰せである。
 「一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説くかかる故に不定なり
 ──(法華経以外の)一切経の功徳は、先に善根を作って、後に仏になると説きます。このようですから、(成仏という根本の大事が)不確かな教えです──。
 同じ仏教でも、法華経以前の爾前経では、今世の善根によって来世に果報を得るとか、過去世の悪業で今世に苦しんでいるから、来世のために善根を積みなさいとか教える。
 しかし、今のスピード時代に、そんなことを言っても、待っていられない。「今、苦しいのをどうしてくれるのか」と言われても、答えようがない。現代人には、納得できないであろう。また過去世の業といっても、自分ではわからない。他の人にもわかるはずがない。
 そうではなく、大聖人の仏法は本因妙であり、現当二世の仏法である。
6  大聖人は仰せである。
 「法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり
 ──(それに対して)法華経というのは、手に取ればその手がただちに仏に成り、口に唱えればその口がそのまま仏となります──。
 法華経とは、いうまでもなく大聖人の法華経、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経のことである。皆さまが御本尊に手を合わせて題目を唱えれば、その手が仏である。題目を唱え、弘教に励めば、その口は仏である。さらに、教学を謙虚に学び、感激して人に教えていけば、頭に仏の力が宿る。頭脳が明晰にもなっていく。
 このように信心は即、我が身の上に、生活の上に、仕事の上に、厳然と顕れていく。そして、今世で直ちに成仏していけるのが大聖人の仏法なのである。
 (戸田第二代会長は「帰依きえして南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって、途中の因果がみな消えさって、(清浄なる)久遠の凡夫が出現するのであります」と述べている)
7  さらに大聖人は、譬えを引かれ、わかりやすく述べられている。
 「たとえば天月の東の山の端に出ずれば其の時即水に影の浮かぶが如く・音とひびきとの同時なるが如し
 ──たとえば天の月が東の山の端に出れば、その時、すぐに月影が水に浮かぶようなものであり、音と響きとが同時であるようなものです──。
 いつか成仏する、というのではない。口に妙法を唱え、五体を使って広布に動く人は、即座に仏に成るとの仰せである。
 この素晴らしい妙法を信受しながら、退転したり、謗法を犯して、自分で自分の功徳を消してしまう人がいる。本当に愚かなことである。
8  悪の人につけば不幸、善の人につけば幸福
 「故に経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し」云云、文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら・千人は千人ながら・一人もかけず仏に成ると申す文なり
 ──ゆえに法華経に「もし法を聞く者があるならば、一人として成仏しない者はいない」云々と説かれています。この経文の心は、この経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人も欠けず仏に成るということです──。
 法を聞くとは、法を受持しきるということである。御義口伝に『法華文句』を引かれて如是我聞にょぜがもんの「我聞とは能持のうじの人なり」と。能持の人は、全員が仏に成ると仰せである。
 百人いれば百人、千人いれば千人、全員が残らず成仏できる──これが、御本仏の絶対の御約束であられる。大聖人の仏法は、あらゆる人々に開かれた「世界宗教」である。
9  法主だけが″特別の人間″であるとか、法主の言うことなら謗法であっても従わなければならない、とは御書に書かれていない。皆さまは、聖職者のまやかしに絶対にだまされてはならない。
 どんなに性能のよい自動車でも、運転する「人」が正気を失っていれば、危なくて、とても同乗できない。それと同じように、「法」といっても、正しい行動の「人」が大事である。悪人についていけば、自分が不幸になるだけである。
 「皆が共に成仏」「皆が共に幸福」「皆が共に栄光」──こうした和楽の世界をつくるのが、仏法である。ゆえに世界平和の根幹となる。
 どうか二十一世紀に向かって、「仲良く」「朗らかに」「強く」、そして「健康」で「余裕」をもって、前進していただきたい。
10  そして、嫉妬に狂って学会を破壊しようとする大悪の日顕宗とは、断じて戦い抜いてまいりたい。
 リーダーの皆さまは、″大切な仏子を一人も残らず幸福にしてみせる″との断固たる精神で進んでいただきたい。創価学会、SGIを守ることが、一番、大聖人が喜ばれることである。
11  「悪侶を一掃し、世界に誇るべき宗教」を
 釈尊が最後に説いたとされる涅槃経に、次の有名な一節がある。
 「われ涅槃の後(中略)像法ぞうぼうの中においまさ比丘びく有るべし持律じりつ似像じぞうしてわずかに経を読誦どくじゅ飲食おんじき貪嗜とんしの身を長養ちょうようす、袈裟けさるといえどなお猟師りょうし細視徐行さいしじょこうするがごとねこねずみうかがうが如し」(大正十二巻)
 ──私(釈尊)が入滅した後(中略)像法時代において(次のような)比丘(僧)があるであろう。戒律を持つように見せて、少ししか経典を読誦せず、飲みものや食べものを貪り好んで、その身を養う。(中略)袈裟を着ているとはいえ、(布施をねらう様子は)猟師が細目に見てゆっくりと(獲物に)近づくようであり、猫がねずみをねらうのに似ている──と。
 大聖人の御書では、この経文が何度も引用されている。大聖人は、こうした貪欲な悪侶と徹底して戦われた。まさに「大宗教革命」の御生涯であられた。
12  戸田先生は、この経文を通し、こう語られている(開目抄講義)。
 「当今の様をみるのに、この経文にぴたりと、あらゆる僧侶、あらゆる宗教家があてはまっているのではないか。経はわずかより読まず、読むといっても意味は少しも知らない。葬式と法事と墓守を業としている」と。
 まさしく、今の日顕宗の姿そのものである。勤行も、ろくにやらない。御書も拝さない。広宣流布の大願などまったくそっちのけで、遊蕩(ゆうとう)また遊蕩の日々──堕落の極みである。そのうえ僧侶という立場を悪用して、尊い仏子をいじめ抜いてきた。貪欲なだけの僧よりも、もっと悪い。
 戸田先生は、日本の仏教界の堕落した僧侶を、厳しく弾呵されている。今から何十年も前のお言葉である(昭和三十二年、種種御振舞御書講義)。
 「実際にいまの日本の国でも僧侶くらい役に立たないものはありません。ほんとうに、彼らがいちばん日本の米をただで食っている」
 「寺などいりません。いまの寺などというのは全部、宿舎か寮にしてしまえばいいのです」と。
13  戸田先生は当時から、「坊主には絶対にだまされるな。日蓮正宗も同じだぞ。御本尊と御書以外は信じてはいけない」と、見抜いておられた。本当に鋭い、天才の先生であられた。
 それでも私は、正法興隆のため、宗門に誠心誠意、尽くしてきた。守り抜いてきた。私たちの赤誠を裏切った宗門の罪は、計り知れない。
 さらに戸田先生は、こう獅子吼されている。
 「速やかにかかる寺院、かかる僧侶が一掃せられて、真に世界に誇るべき宗教のあらわれんことを望むものである」(開目抄講義)と。
 大聖人直結の我が創価学会こそ、世界に誇る偉大な宗教である、との大確信であられた。私たちSGIは今、その先生のお心どおりに進んでいる。
14  恩師は叫んだ「世界の国を救おう、これが学会精神」
 ここで「佐渡御書」の有名な一節を拝したい。
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し
 ──悪い権力者が正法を破るのに、邪法の僧等が、それに味方して、智者を亡きものにしようとする時には、師子王のごとき心を持つ者が必ず仏になることができる。たとえば日蓮のようにである──と。
 「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」──正法を守るために、師子王の心を出す。その「時」は今である。その「人」が仏になる。
15  戸田先生は、この御文を拝し、指導された。(『戸田城聖全集』六巻)
 「学会精神というものは、日本の国、世界の国を救わんがためにやっているのです」「全民族が幸せに暮らせるようにするための広宣流布です」
 素晴らしい大理想である。私たちは着実に、この方向へ進んでいる。それを妬み、邪魔しているのが日顕である。
 戸田先生は「われわれは、師子王のごとく誇りをもっていいのです。そうしたら仏になれるそうです。『例せば日蓮が如し』です」と。
 私たちは「師子王の心」で生き抜く。猫やねずみではなく、堂々たる獅子として戦う。悪に対して黙っていてはいけない。沈黙は、悪に通じる。黙っていては、自分が弱くなる。それは即、敗北の姿である。
 「全世界の平和のため」「全人類の幸福のため」、創価学会は絶対に壊されてはならない。そのためにも、悪とは敢然と戦う以外にない。勇んで戦い、すべてに打ち勝っていく。これが「学会精神」である。そこに徹した人が仏になる──そのことを、御書を拝して、戸田先生は教えられたのである。
16  さて、本日の第十七回SGI総会にあわせて、各地でも記念の集いが行われている。各地の皆さま、本当におめでとう! ご苦労さま!
 なお、SGIメンバーのうち、二十カ国の代表の皆さまが参加して、あす(十月二十三日)から福井で「SGI親善交歓会」等が行われることも紹介しておきたい。どうか楽しく行ってらっしゃい。福井の皆さま、SGIの友をよろしくお願いします。
17  平和の拠点、文化の行事が次々と
 私たちSGIは、一年また一年、着実に進んでいる。
 来月には、タイに立派な新会館がオープンする。アフリカのザンビアでも会館の建設が始まった。
 ヨーロッパでは、来月、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクが合同で「ベネルクス文化祭」を開催する。心から祝福申し上げたい。
 また、次の第十八回SGI総会は、明年、イギリスの「タプロー・コート」で開催される予定である。そして、世界青年平和文化祭(第十二回)をイタリアのミラノで開きたい。あわせて、イタリアの「美の都」フィレンツェでの「日本美術の名宝展」も計画されていることをお伝えしておく。
18  また、明年は、オーストラリアで広布三十周年記念の大音楽祭、ニュージーランドでも記念の文化祭。スペインでは日本とスペイン合同の大音楽祭、フランスでは芸術祭が予定されている。さらに、香港、シンガポールに続き、明年、マレーシアに創価幼稚園が誕生する。おめでとう。すでに香港創価幼稚園は、香港で最高峰の幼稚園として評価されている。
 アメリカでは、ハワイに立派な新文化会館、またボストン二十一世紀センターがオープンする。そして日本からは、香港、ヨーロッパ、中国、ロシア等々、多くの国々への交流団の派遣が検討されている。私も全力で世界を巡る決心である。
19  明後一九九五年は、「世界広宣流布三十五周年」、そして「SGI発足二十周年」を迎える。その祝賀のSGI総会、ならびに世界青年平和文化祭を、世界広布への″第一歩の地″であるハワイで行いたい。さらに、記念すべき第二十回のSGI総会は、この年、南米で開催できればと願っている。
 南米といえば、私は、先日亡くなったブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁と、対談集発刊の準備を進めていた。その刊行はアタイデ総裁の願いであり、ぜひ成し遂げたいと願っている。
 アタイデ総裁は語っておられた。
 「今、世界で本当に平和のために尽くしている人が二人いる。一人はマンデラ氏(アフリカ民族会議議長、本年度のノーベル平和賞に決定)。もう一人は池田会長である」と。私のことで恐縮であるが、ありのままに残しておきたい。
20  また、この九五年には、オーストラリア文化会館が整備されるほか、フィリピンの青年文化センター、シカゴの文化会館、香港の青年文化センターなど各国の新センターが、また九六年にはアメリカ・フロリダの世界自然文化センターなど、各国の新センターが相次ぎオープンする予定である。本当におめでとう!
 さらに、インドの創価菩提樹園も、この年を目標に第一期の整備が進められている。本年のオープンに際して、インドの皆さまには本当にお世話になり、感謝申し上げたい。
 なお、九五年は「人類の議会」国連が誕生して五十周年。国連発祥の地・サンフランシスコで記念の「大文化祭」、国連本部のあるニューヨークでは「国連ルネサンス会議」が構想されている。
 フィラデルフィアでは、戸田先生の「地球民族主義」をふまえ、「世界民族文化展」が開催される。
 また、日本で(ユダヤ人大量虐殺の悲惨さと世界平和を訴える)「ホロコースト展」が行われる計画があることも紹介しておきたい。
21  「人道の時代」へ民衆が連帯
 今月十二日、牧口先生の『人生地理学』が発刊されてから、ちょうど九十周年を迎えた(一九〇三年<明治三十六年>発刊、当時三十二歳)。
 十月十二日──私たちにとって忘れられない日であり、不思議な日である。
 (大御本尊の御建立、正本堂の完成奉告大法要の日)
 一九〇三年といえば、今世紀の幕開けのころ。世界は混沌としていた。帝国主義・植民地主義の嵐が吹き荒れ、日本もまた、後の侵略戦争への道を歩み始めていた。
 (『人生地理学』発刊から約四カ月後の一九〇四年二月十日、日露戦争が勃発。同月二十三日には「日韓議定書」が結ばれ、日本は、韓国支配への足場を固めた)
 そのなかにあって、私たちの初代会長である牧口先生は、『人生地理学』を高く掲げ、小さな島国の日本など、はるかに見おろして、世界を、地球を、壮大なスケールでとらえておられた。そして、人間と自然、人間と人間、民族と民族の「共生」と「連帯」を高らかにうたわれたのである。
 ″一人一人の人類が、世界を我が家とし、世界を人生の舞台とする「世界市民」として、ともに生きる″──いわばこれが『人生地理学』の主題(テーマ)である。
 タイトルのごとく、「人間」(人生)と「世界」(地理)を結ぶ、偉大なる探究の書であった。
22  東京牧口記念会館には、この『人生地理学』を携えた、牧口先生の毅然たる像が置かれる予定であり、現在、制作が進められている。
 また同会館の敷地には、「ナポレオン広場」も設けられ、もうすぐ勇壮なナポレオンの像も除幕される。どうか楽しみにしていただきたい。
23  『人生地理学』の中で牧口先生は、人類の発展の段階を四つに分けて論じておられる。
 すなわち、まず(1)「軍事」の競争の時代から(2)「政治」の競争の時代へ、そして(3)「経済」の競争の時代へと移っていく、と。たしかにその通りである。
 牧口先生は、当時の世界を、この「経済」中心の時代であるとし、″物事がすべて利害関係によって決まっている″とみられた。
 しかし先生は、「経済」が人類の最終段階であるはずがない、と考えておられた。
 それでは「経済」の次にくる四番目は何か──。
 先生は、きっぱりと宣言されている。″それは「人道」の時代である″と。
 (「経済的争闘そうとう時代に代わって、次に来たるべきものは、人道的競争形式ならんとは、吾人ごじんの想像にかたからざるところなり」とある)
 「軍事」や「政治」「経済」の競争ではなく、「人道」の力こそが世界をリードする時代が必ず来ることを、牧口先生は展望されていたのである。本当に偉大な先生であられた。
24  ″武力″(軍事)や″権力″(政治)や″財力″(経済)ではなく、人間としての″人格″の力、″人間″の力をいかに強め、増していくか──ここに人類の希望の道がある。また仏法の大道がある。
 牧口先生の卓見の通り、今や「人間主義」の光が、全世界を照らし始めている。人類が進むべき道は「人間主義」以外にない。
 私たちは、仏法を基調とした「平和」「文化」「教育」の力で、「人道の世紀」を晴れ晴れと開いてまいりたい。
25  以上で記念のスピーチを結びたい。この会合のあとは、ゆっくり、聞いたことを全部忘れてもよいから、楽しく過ごしていただきたい。
 仏法は自由闊達なものである。決して窮屈な形式ではない。ゆえに仏法のリーダーは、形式にとらわれず、皆が楽になり、皆が喜び、皆が「きょうはうれしいな」と思えるよう、臨機応変に知恵を出し、細やかに配慮していくべきである。
 反対に日顕は、仏子を抑え付け、苦しめ、いやな思いをさせ続けた。最大に守り、たたえるべき学会員を見くだし、いじめ、だましてきた。最低最悪の反仏法の人間である。
 ゆえに責めねばならない。戦わねばならない。
 最後に、大切な、尊き皆さま方が、いつまでも健康で、ご長寿で、ご多幸であられることを祈りつつ
  壮大な
   理想に生きゆく
     わが友の
  幸を祈らむ
     三世のはてまで
 ──とんで、本日の総会を終わります。サンキュー! ありがとう!

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