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日蓮大聖人・池田大作

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第七十一回本部幹部会 「栄え光る年」へ、すべてを楽しむ大確信で

1993.10.15 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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1  大聖人は「安住」なく「東西に御奔走」
 寒いところ、また遠いところ、ご苦労さまです。
 明年のテーマは、「創価ルネサンス・栄光の年」と決まった。おめでとう!
 どうか自分自身も「栄え光って」いただきたい。人生も、我が家も、福運に満ち「栄え光って」いただきたい。
 「我が栄光は、我が勝利による」──ナポレオンは、こう決めて戦った。彼の座右の銘であった。
 それはともあれ、″我が支部も、全員が勝利に栄えていこう。我が地区も、全員が幸福に光っていこう″″創価学会も、ますます栄え、光り輝いていこう″と決めて前進してまいりたい。
 日本を見ても、雲に覆われたような、先の見えない社会状況である。だからこそ、私たちは厳然と屹立し、希望に燃えて、栄え光っていく──こういう年にしてまいりたい。
 一方、極悪・日顕宗は、いよいよ衰亡の一途となることは間違いない。
2  全国の皆さまの題目に包まれて、北米の旅を大成功に終えることができた。心から感謝し、謹んで御礼申し上げたい。
 私たちは、少しの暇もなく戦っている。この「たゆみなき行動」にこそ、大聖人の真実の門下のあかしがある。
 御書には、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」──月々日々に、信心を奮い起こしていきなさい。少しでもたゆむ心があれば魔がたよりをして、おそってくるであろう──と仰せである。
3  日寛上人は、「立正安国論」の文段もんだんで、こう仰せである。
 「蓮祖れんそは只これ東西馳走ちそうして諸宗を折伏し、未だ塔寺に安住せず」(文段集25㌻)──大聖人は(立正安国論御執筆の当時)、ひたすらに東西を駆け回って、諸宗を折伏し、いまだ塔寺に安住されていない──。
 いわんや弟子が弘教に駆け回るのは当然である。この御心に違背して、宗門は、学会寄進の寺に、ぬくぬくと「安住」し、堕落してしまった。大聖人も、日寛上人も、どれほど、お怒りであろうか。
 私どもは「大聖人の門下」である。「大聖人の信者」である。大聖人と直結する信心である。日寛上人も、その信心を教えられたのである。大聖人と直結させず、途中に割り込んで、自分を敬えという聖職者は、すべてインチキである。
 皆さまは、本年もよく戦われた。これまで、すべてを、よく乗り越えられた。私どもは来年も、地域を舞台に、日本中を舞台に、そして全世界を舞台に、東へ西へと駆け、一日一日、最高に有意義に戦い、大いなる広宣の歴史をつくってまいりたい。
4  本日、この会場には、海外から、十一カ国の代表の方々が参加されている。遠いところ、大変にご苦労さま! ようこそ!
 また、本日の本部幹部会に合わせて、各地でさまざまな記念の会合が行われている。
 まず、「民主音楽協会創立三十周年」の意義を込めて、ここ創価国際友好会館に五十人の代表、また全国の同時中継会場に約十七万人の民音推進委員の皆さまが集われている。
 民音も、仏法を基調とした平和・文化・教育の推進のための機関である。長年にわたる皆さまの労苦に、心から感謝申し上げたい。
5  東京では、各区の集い、神奈川では凱旋<県>(西湘<県>)が記念の行事を開催している。
 ──凱旋とは素晴らしい名前である。私も、帰国した時、ある人から、「北米から凱旋されましたね」と声をかけられた。
 私も、また皆さまも、広布に生きる人生は忙しい。しかし、のんびりとボーッと生きるよりも、忙しいほうが張りがあり、充実がある。″人生の凱旋″への前進があるのではないだろうか。
 なお、栃木の小山文化会館、兵庫の西宮文化会館、熊本の菊池文化会館では本日から衛星中継が始まった。本当におめでとう!
6  日達上人″正本堂を建立は永久不滅の大功績″
 この十月で、私たちが正本堂を建立してより、二十一年の歳月を刻んだ。
 日達上人は、この正本堂の建立について、「宗門史上未曽有みぞうにしてつ永久不滅の大功績」と、私への「感謝状」に述べられた。(正本堂建立の発願主ほつがんしゅであり、建設委員長であった名誉会長への感謝状。昭和四十七年十月十二日)
 昭和四十七年(一九七二年)の十月七日。大御本尊を、奉安殿から正本堂に御遷座ごせんざ申し上げる折のことである。参列者一同が御遷座をお待ちしている時、私は、ただ一人、日達上人より呼ばれた。
 その際、日達上人から、次のようなお話があった。
 「実は、正本堂建立の功績を永遠に留めるために、大御本尊のお厨子ずしの中に、池田先生のお名前を刻みました。赤沢(当時、日蓮正宗仏師であった「赤沢朝陽」)に言って、らせました。日蓮正宗の外護げごと発展に尽くされた池田先生の大功労を、万年まで伝えます」との、お言葉であった。
7  日達上人が、直筆の文字を彫刻してくださったのは、大御本尊を直接納め奉る「宝筐ほうきょう」(宝の箱という意味)の裏側である。大御本尊に最も近い場所に、私の名前を刻まれたのである。
 このように記された。
 「正本堂建立之みぎり/戒壇之大御本尊奉御衣替おんころもがえしたてまつりあわせてうちの宝筐ならびにそとの宮殿くうでん(外側のお厨子のこと)奉新調しんちょうしたてまつる/寄進者 正本堂建設委員会/委員長池田大作/昭和四十七年十月一日/六十六世日達 花押かおう」と。(刻まれた文面は、彫刻にあたった「赤沢朝陽」の記録による)
 私は、この話を、これまで、あえて語らなかった。しかし、後世のために、きょう初めて、真実を、ありのままに残させていただく。
8  日顕は、この話を聞いたら、それこそ、また嫉妬に狂って文字を削るかもしれない。それはそれで、私は、かまわない。しかし、もし、そんなことをすれば、先師・日達上人への師敵対であり、反逆である。そして、大御本尊に対する冒涜である、と明確に宣言しておきたい。
9  なお、以前にも申し上げた通り(平成三年十二月八日、第四十九回本部幹部会)、正本堂の須弥壇しゅみだんの基底部、すなわち大御本尊の真下の埋納室まいのうしつには、「正本堂御供養者名簿」などが納められている。皆さま方、お一人お一人のお名前が、大御本尊の真下に厳然と留められているのである。
 (埋納室には、このほか「完成奉告大法要」<昭和四十七年十月十二日>での日達上人の「慶讃文」と名誉会長の「慶讃の辞」、「建立発願式」<四十二年十月十二日>での日達上人の「願文がんもん」と名誉会長の「発誓願文」、「定礎式」<四十四年>での日達上人の「表白文ひょうはくもん」、「躯体くたい完成式」<四十六年>での名誉会長の「表白」を収納。また、「建立発願式」の折の日達上人の法衣一式と名誉会長のモーニング<礼服>三つぞろい、並びに「正本堂落成慶讃大法要参列者署名簿」全二十七冊が納められている)
 この厳粛な「事実」は、だれびとが壊そうと思っても、壊せない。
 また、大御本尊への、これほどの御供養を申し上げた学会員が、「永久不滅の大福徳」に包まれゆくことは、絶対に間違いない。
 このことを、強く深く確信していただきたい。
10  さて、待望の「中部国際婦人会館」の構想が、いよいよ実現の段階に入った。
 計画によれば、中部文化会館にも近い、名古屋城を望む素晴らしき景観の地に建設される予定である。
 中部の皆さま、本当に、おめでとう!
 また、本日、本年のノーベル平和賞が南アフリカ共和国のデクラーク大統領とマンデラ氏に決定したと発表された。心からお祝い申し上げたい。
 (マンデラ氏とは一九九〇年十月、デクラーク大統領とは九二年六月、それぞれ聖教新聞社で会談している)
11  さて弘安元年(一二七八年)、この年は大雨、大風と自然災害が続いた。不作であり、飢饉や疫病も起こり、民衆の苦悩は深かった。
 そうした世相のなか、けなげに戦う門下の一人一人を、大聖人は抱きかかえるようにして、あたたかく励まされた。これが仏様である。これこそ指導者である。
 信徒を励ますどころか、ただ供養を貪り、遊蕩三昧──日顕宗は、この一点だけで、完全に大聖人の敵である。いわんや聖職者として、これほど卑劣なことはない。
12  真心の「因」には大福運の「果」が
 そういう大変ななか、なんとかやりくりをして、「麦」一駄いちだ(馬一頭に負わせる荷物の量。通常二俵)などを南条時光がお届けした。ある意味で、多い麦とはいえないかもしれない。しかし大聖人は心から喜ばれ、御手紙をくださった。
 一方、正本堂も、大客殿も、大講堂も、総坊も、すべて私たちの御供養である。寺院の寄進は三百五十六カ寺にのぼる。膨大な土地も寄進してきた。その他、限りなく供養して供養して供養しきった。
 ところが日顕は、大聖人と正反対に、もらうものさえもらえば、あとはバッサリ切り捨てた。そうしておいて、なにか言えば「謗法だ」と。それほどまでにおかしくなった日顕宗こそ、まさに「大謗法」の邪教団である。
13  大聖人は″大変な時にもかかわらず、このように自分を守ってくれて、うれしい。経論に照らして、そのことを少々、申し上げたい″──との御心で、こうつづられている。
 「迦葉尊者と申せし人は仏の御弟子の中には第一にたとき人なり、此の人の家をたづぬれば摩かだい竭提国の尼くりだ拘律陀長者の子なり、宅にたたみ千でうあり・一でうはあつさ七尺下品のたたみは金千両なり、からすき九百九十九・一のからすきは金千両、金三百四十石入れたるくら六十・かかる大長者なり
 ──迦葉尊者という人は、仏の弟子の中で第一の尊い人である。この人の家はどうかというと、マガダ国の尼拘律陀にくりだ長者の子である。家には畳が千畳もあり、その一畳の厚さは七尺もある。その中の下等の畳であっても、金千両であった。また唐鋤からすき(田畑を耕す農具)は九百九十九もあり、一つの唐鋤は金千両であった。さらに金が三百四十石も入った倉が六十もあった。こういう大長者である──。
 迦葉尊者といえば、皆さまも、よくご存じと思う。彼は、このような大長者の子であった。自分のうちと同じだという人もいるかもしれないが。
 一方、夫人は──。
 「は又身は金色にして十六里をてらす、日本国の衣通姫にもすぎ・漢土のりふじん李夫人にもこえたり
 ──また、その夫人は身は金色に輝き、十六里もの広さにわたって周囲を照らしたという。(その美しさは)日本の衣通姫よりも優れ、中国の李夫人(漢の武帝に愛された絶世の美人)をも超えていた──。
 衣通姫とは、″美しさが衣を通して輝いた″という姫である(『日本書紀』『古事記』などに見える)。
 夫人はそれ以上の美しさであったと。ちょうど、学会の女子部のようであったかもしれない。
 「此の夫婦道心を発して仏の御弟子となれり、法華経にては光明如来といはれさせ給う
 ──この夫婦は、求道心をおこして仏の御弟子となり、法華経では光明如来として、成仏の記別を与えられた──。
 それほどの″大長者″と″美人″。それであっても、遊び暮らすわけでもなく、真実の人生を求めた。「求道心」をおこして仏の弟子となった。
 お金や美貌のなかに本当の幸福があるのではない。最高の「幸福」、永遠不変の「安穏」は、仏法のなかにある。求道の人生にある。
14  「此の二人の人人の過去をたづねれば麦飯を辟支仏に供養せしゆへに迦葉尊者と生れ、金のぜに一枚を仏師にあつらへて毘婆尸仏の像の御はくにひきし貧人は此の人のとなれり
 ──この二人の人の過去を尋ねてみれば、夫のほうは麦のご飯を辟支仏(縁覚の聖者)に供養したために、その功徳で迦葉尊者として生まれたのである。
 また過去世に金の銭一枚を仏師(仏像などを作る人)に頼んで金箔にして、毘婆尸仏という仏の像の金色が欠けていた部分に供養した貧しい女性がいた。その人が、この迦葉尊者の(金色に輝く)夫人となったのである──。
 夫は大長者、妻は美しく輝く女性。どうして、そうなったのか。そこに厳たる「因果の理法」がある。これを信ずるのが「信心」である。
15  釈尊が、大聖人がウソをつかれるわけがない。絶対に御書の通りになるに決まっているのである。大聖人の仰せを信じきれず、他の悪人や愚人の言うことに紛動されることほど愚かなことはない。
 縁覚への供養でさえ、これほどの大功徳がある。いわんや私たちは、日蓮大聖人即御本尊に供養し、広宣流布のために、乏しい時間をさいて行動している。迦葉尊者やその夫人とは比べものにならない無量無辺の大功徳に包まれることは、御書に照らして絶対に間違いない。
 大切なのは「心」である。「ただ心こそ大切」である。真っすぐな、大確信の「心」で供養し動いて、大功徳が出ないわけがない。
16  社会が暗いなか、大聖人の御言葉は実に明るい。光あふれる譬えであり、御言葉である。
 こうやって大聖人は、いつも門下の心を大きく豊かに広げてくださっている。
 たいへんな時に、一人、「毅然たる心」で、だれが見ていようが見ていまいが、法のため、人のために行動していく。その人に、大長者の福徳が積まれないわけがない。重ねて、そう申し上げておきたい。
 釈尊の教団も、一人一人の、こうした尊き真心の積み重ねによって世界的な教団となった。学会も同じ方程式で、全世界へと広がっている。
17  広布の労苦は成仏への糧
 大聖人は、さらに南条時光に、こう仰せである。有名な御言葉である。
 「今日蓮は聖人にはあらざれども法華経に御名をたてり、国主ににくまれて我が身をせく上・弟子かよ通行う人をも・或はのり・或はうち・或は所領をとり・或はところをおふ
 ──今、日蓮は聖人ではないけれども、法華経に名前を立てた。そのために国主(権力者)に憎まれて、我が身を不自由にされたばかりでなく、弟子や通ってくる人までも、あるいは罵られ、あるいは打たれ、あるいは領地を取られ、あるいは住居を追われたりした──。
 皆さま方も、″法華経のゆえに″苦労しておられる。「悪口罵詈」と法華経にある通り、いろんな悪口も言われるかもしれない。
 しかし大聖人は「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」と。
 広布の苦労こそが「成仏できる条件」であり「成仏できる証拠」なのである。
18  時光への御返事はこう続けられている。
 「たとひやまひなくとも飢えて死なん事うたがひなかるべきに・麦の御とぶらい金にもすぎ珠にもこえたり
 ──(訪れる人がほとんどいないので)日蓮は、たとえ病気にならなくても、飢えて死ぬことは疑いないところに、麦を送ってくださったことは、金よりも優れ、宝の珠を超えて尊い──。
 自身が大変ななかの御供養に対する、大聖人の深き御心があふれる御言葉である。
 皆さま方は、広宣流布のため、法のために、人のために働いておられる。大聖人が、また三世十方の仏菩薩が守らないわけがない。
 それなのに、しょっちゅう疑ったり、いやになったり、また気を取り直したり。それを繰り返している人もいるようだ。これでは、頑張った分と疑った分とで″差し引きゼロ″──そうならないように、「心こそ大切」で進みましょう。
19  大聖人は、御手紙をこう結ばれる。
 「此の時光が麦何ぞ変じて法華経の文字とならざらん、此の法華経の文字は釈迦仏となり給い・時光が故親父の左右の御羽となりて霊山浄土へとび給へかけり給へ、かへりて時光が身をおほひ・はぐくみ給へ
 ──この時光の麦が、どうして法華経の文字に変化しないことがあろうか。この法華経の文字は釈迦仏となられ、そして時光の亡き父上の左右の翼となって、霊山浄土へ飛ばれますように。ゆかれますように。さらに帰ってきて、時光、あなたの身を覆い、(親鳥がひなを抱いて育てるように)翼で大切に守ってくださいますように(必ずそうなるであろう)──。
 何という美しい御言葉でありましょうか。そして深遠な生命論を教えてくださっている。
 信心の真心は、大宇宙の仏界に連なり、真っすぐに亡き親族のもとへも天翔あまがけていく。そして再び自身のもとへ福徳は帰ってくる。そうした交流と連動によって、自身も幸福になり、先祖、一家、さらに子孫までも功徳で包んでいけるのである。
20  ハーバード大学での講演で有名な言葉になってしまったが、「生も歓喜、死も歓喜」の大境涯となるのが信心である。これほどの「栄光の人生」はない。どんな名声も、地位も、生命の永遠性から見れば、はかないあぶくのようなものである。私たちは「一切が歓喜」の大境涯を永遠につかんでいく。
21  御書を削除し「御本仏への信心」を捨てた宗門
 さて宗門は戦前、それまでの御書を「発行禁止」にし、そのうえ、御書の十四カ所を「削除」した。
 (昭和十六年<一九四一年>、宗務院の院達「院第二一七七号」で御書の発行禁止を、宗務院教学部長名の通達「学第八号」で十四カ所の削除を通達)
 削除されたなかには、有名な「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」との御文も入っている。(一閻浮提は現在の全世界にあたる)
 この大聖人の大確信があられるからこそ、私たちは世界第一の仏法として信仰できる。素晴らしい御言葉である。
 宗門の先師日寛上人は、この御文を「日蓮大聖人が末法の御本仏であられる文証」の一つに挙げられている。
 その御文を削除したということは、宗門は、大聖人を御本仏と仰ぐ信心を否定したに等しい。
22  日寛上人は、次のように仰せである。
 「日蓮は一閻浮提の第一の聖人なり文。第一とは即ち大の字を顕すなり。(中略)あに自ら大聖人と称するにあらずや。およそ大聖人とは仏の別号なり。(中略)蓮祖れんそすでに自ら大聖人と称す。あに末法下種げしゅの仏に非ずや」
 ──(「聖人知三世事」に)大聖人は「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」と仰せである。この「第一」とは「大」の字を表すのである。(中略)まさに大聖人がみずから「大聖人」と名乗られているではないか。そもそも「大聖人」とは「仏」の別名である。(中略)宗祖日蓮大聖人はすでに「大聖人」と自称された。まさに大聖人は「末法下種の仏」ではないか──と。
 これは「蓮祖は末法下種の仏なるが故に自ら南無日蓮大聖人と称する事」の御文である。
 (ここで日寛上人は、「第一」が「大」の義を表すことについて、「此等の人人に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは・申すぞかし」の御文を、また「大聖人」が「仏」の別号であることについて、「慧日大聖尊」<方便品>、「仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す」等の御文を挙げられている)
 正宗の「信心」、すなわち日興上人の「信心」とは大聖人を末法の御本仏と信ずるのが根本である。
 宗門はこの「信心」を、権力を恐れて捨てた。完全に邪宗になったのである。しかも、そのことを未だに謝罪していない。
 この宗門転落の時に敢然と、正しき「信心」を貫き、伝えてこられたのが牧口先生、戸田先生である。
23  しかも日寛上人は、このあと、こう論じておられる。
 「他の門流は、日蓮大菩薩と称している。しかし、これは世間の権力者の命令によるのである。一方、大聖人を仏と仰ぐのは、出世間の法王(仏)の命令によるのである。(仏法者ならば、どちらに従うべきか明らかである)いわんや大菩薩は『僧宝』である。大聖人は『仏宝』であられる」
 「大聖人は『かかる日蓮を用いぬるともあしうやまはば国亡ぶべし』と仰せである。また『教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち』と。『仏宝』の大聖人を『僧宝』におとしめるのは、まさに『悪しく敬う』姿ではないか」と。
 (「他門流の如き皆日蓮大菩薩と号す。是れしかしなが勅命ちょくめいに由る故なり(中略)此は出世の法王の勅命に由る。いわんやまた大菩薩は是れ僧宝なり。大聖人は是れ仏宝なり」
 「かゝる日蓮を用ひぬるとも、あしくうやまはゞ国亡ぶべし等云云。既に教主釈尊より大事なる日なり。何ぞ下して僧宝となさんや。彼れは既に下して僧宝となす、豈悪布あしく敬ふに非ずや」(富要三巻))
 すなわち、大聖人が御本仏であることを否定して、どんなに尊敬した格好をしても、必ず国が滅ぶ──と。
 日寛上人は他門流の破折のため、こう書かれたのだが、末弟の宗門が、この大謗法を犯してしまった。
 宗門が御書を削除し、大聖人を御本仏と仰ぐ信心を捨てたのは、昭和十六年九月二十九日の「通達」。開戦の約七十日前のことであった。事実、日本は、戦争によって「国亡ぶ」そのものの姿を現じた。
24  学会の信力・行力こそが「御本尊=功徳聚」に感応
 今、日寛上人の御本尊に、宗門は″法主の允可いんか(許可)がなければ功徳はない″などと言っているが、そんなことが、御書のどこにあるのか。日寛上人の教えのどこにあるのか。
 反対に、大聖人は御本尊を「功徳聚」すなわち「功徳のあつまり」と仰せであり、「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と断言しておられる。
 そして、日寛上人は、功徳は、御本尊の仏力・法力と、信ずる人の信力・行力という「四力」によって決まると仰せである。
 (たとえば「観心本尊抄文段」には「信力・行力を励むときは仏力・法力にり、即ち観行かんぎょう成就じょうじゅ」<文段集455ページ>等とある)
 御本尊即御本仏への信力と行力によって、偉大な仏力・法力が顕れ、功徳を得ることができるのである。″法主力″が必要などとは、どこにも言われていない。
 しかも、その信力・行力は、戦前からすでに創価学会にこそある。今は、いよいよ創価学会にしかない。
 学会は、大聖人、日興上人、そして日寛上人の仰せ通り、正しき信心と、正しき行動を、厳然と貫いてきた唯一の団体である。ゆえに学会にのみ御本尊の功徳は燦然と輝いているのである。
25  人生、いろいろなことがある。いろいろあるからこそ、また楽しい。何も起こらなかったら、ネジがゆるんだみたいな人生であろう。それでは、何の喜びもわかない。成長もない。
 生き生きと、全部、大聖人におまかせし、全部、御書におまかせして戦うことである。
 「大聖人直結」「御書根本」の創価学会にまかせきって生き抜くことである。
 戸田先生は、こんなふうに言われていた。
 「人間、だれかにだまされる。学者にだまされるか、政治家にだまされるか、世間にだまされるか、結局は、だれかにだまされるのだ。私は日蓮大聖人様にだまされる。仏様にだまされるなら本望じゃないか。いな、仏すなわち大聖人は絶対にだまさない。安心して大聖人に南無していきましょう。これが戸田の大精神です」と。
26  これからも私は、日本の各地を回るつもりでいる。どうか皆さまも、お元気で、日々、御本尊に自身の健康を祈り、楽しき一日一日、朗らかな一日一日を生きていただきたい。
 恥知らず、恩知らずの先輩たちが、たまにいるけれども、こんな連中は相手にしないで、「ああ、またバカなことやってる」と、悠々と見下ろしていっていただきたい。濁りきった命は変わりようがないから。
 御本尊が、すべてを厳然と裁きます。
 御書に仰せのように、末法は悪人が集まった世界であり、ヤキモチ焼きの世界で、いつも善人がいじめられる。
 ゆえに「しょうがない」と笑い飛ばして、楽しく、晴れ晴れと生きたほうが得である。そのように聡明な「知恵」を輝かせていくのがまた、「創価ルネサンス・栄光の年」であろう。
 それでは、かぜをひかれませんように。お会いできなかった方々に、よろしくお伝えください。ありがとう!

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