Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

10・2「世界平和の日」カナダ代表者会… 理想に生きよ、目標をつくれ

1993.10.2 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

前後
1  言葉づかいと礼儀に人格は表れる
 滞在中、カナダの皆さまには本当にお世話になり、日本のSGI(創価学会インタナショナル)派遣団を代表して、謹んで御礼申し上げたい。香港の交流団も、はるばる、ご苦労さまでした。多謝トーチェ多謝。
 カナダが、堅実に発展していることを拝見し、本当にうれしい。イズミ議長を中心に、一段と仲良く、着実な前進をお願いしたい。
2  広布の健全な進展のために、何点か語っておきたい。
 一点目は「言葉遣い」である。組織においても、言葉遣いが乱暴になってはいけない。
 カナダの皆さまは、皆、品格が良いから、そのようなことはないと思うが、これは日本のメンバーのために話すのである。
 言葉は人格の表れである。
3  二点目に「礼儀」である。
 同志の家を訪問する際も、家に入る時、帰る時のあいさつをはじめ、きちんと礼儀をわきまえるべきである。
 また、メンバーと話をするときには、役職の上下に関係なく、互いに同志として尊敬し、丁寧に応対するべきである。
 「常識豊かに」「礼儀正しく」、人格の光る振る舞いこそ、信仰者のあかしであることを忘れてはならない。
 三点目に「会員を疲れさせてはならない」。
 幹部が、会員を自分の″子分″のように考え、朝早くから呼びつけたり、夜遅くまで残らせるなど、かりにそういうことがあれば、大変な誤りである。
 こうした横暴な幹部と付き合って、心身ともに疲れ切ってしまう人も、日本の組織にはいるようだ。そこには、当然、信心の歓喜はない。
 本当の指導者は、会員に喜びを与える。喜びをもった活動は疲れない。友を疲れさせないよう、あらゆる配慮を重ねるのが、リーダーの使命である。
4  四点目に「目標をつくれ」。
 目標がなく、何でも行き当たりばったりでいくのは、動物的である。
 何に対しても、目標をもつことは大切である。弘教や会友運動など、広布の活動を推進するうえでの目標もあれば、子供たちが成績の目標をもったり、家庭で貯金の目標をもつ場合もあろう。
 目標を決め、それに一歩一歩近づいていくところに「進歩」がある。
5  五点目に「理想に生きよ」ということである。
 人間だけが理想をもてる。現実の苦しい戦いだけでは、希望がない。
 理想──家を建てよう。いい結婚をしよう。これも理想であろう。人生には、理想がなければならない。そのなかで、広宣流布こそ、「最高の理想」である。この理想に生ききる人が、「最高の人生」となる。皆さまこそ、その方々であられる。
6  観心の本尊に意義から見れば権威の聖職者は無用
 さて、十月二日から日本では日寛上人御書写の御本尊の授与が始まった。そこで一点、関連して述べておきたい。
 先日(九月二十二日)、私はボストンのタフツ大学を訪問した。(宗教学部から特別顕彰を受けた)
 宗教学部長のハンター教授は、世界的宗教学者であり、来日のさい、学術部のヒューマンクラブ講演会で、最後に、こう述べておられる。
 「『現代世界における聖職者制度』を考えた私の講演をしめくくるには、『御本尊』という『礼拝の中心的対象』についての池田会長の凛然たる指導が、一番ふさわしいと思います。
 池田会長は、再三再四、強調しています。すなわち″御本尊も『観心の本尊』『信心の本尊』であられる。その功徳は、私たちの『信心』によって決まる″と。
 この刮目すべき表現は、世界のあらゆる他の人道思想の潮流などとも合致します。つまり、池田会長は『御本尊を受け止めることができる真実かつ唯一の究極の場とは、人の心の一念の中である』ことを見事に表現しているのです。
 そして、日蓮大聖人の次のような教えを引用しています。
 『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり
 ここには『自己変革を体験する瞬間の法楽』ともいうべきものが表現されています。その本質について日寛上人は、こう説明しています。
 『我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり』(文段集548㌻)と」
 大聖人も日寛上人も、御本尊は妙法を行ずる我が身、我が心におわしますと仰せなのである。
 御本尊は「功徳聚くどくじゅ」すなわち、あらゆる功徳の集まりであられる。我が心、我が「信心」に、全宇宙の功徳が集まっている。「信心」以上に偉大なものはない。
 この一点を、大聖人、日寛上人は繰り返し、教えられたのである。
7  そしてハンター博士は結論されている。
 「最も大切なのは、人間の心であります。『自己を知る』すなわち『完全に自分を知った』個人(自分が仏であると悟った人)が『仏』であるし、そう知るのも、ほかならぬ自分自身の『心』の働きなのです。
 もし、そうであるならば、聖職者としての役割──すなわち一人一人が『自分を知り』、人生を生き抜いていけるよう『意欲(希望)』の深い源泉を示すこと──を、どうして赤の他人(の僧侶)に委ねるなどということができるでしょうか?」
 少々、表現が難しいかもしれないが、ここで言われているのは、こういうことである。
 「究極の存在は『心』にある。その存在を悟るのもまた『心』である。すなわち、自分の″内なる本尊″を開くのも、自分であり、自分の心である。赤の他人の僧侶などに、その大切な仕事を任せてはならない」と。
8  博士はまた、講演の中で、マルチン・ルター、エマソン、ソロー等の例を通し、こう論じられている。
 「精神が成長していく方向は、聖職者の役割と各個人の責任の『内在化』の方向である。
 『自分の外にある、個人または聖職者の集団への服従』から脱却するということです」と。
 僧侶に服従しているのは、精神的に未開人だというのである。
 ゆえに、学会の宗教改革は、人類の「精神の進歩」と完全に合致すると。
 自分自身が仏であると感得するための御本尊なのである。そこに「観心の本尊」の本義がある。
 この本義に立つ時、″外なる権威″としての僧侶は、まったく不要なのである。必要なのは一人一人が「自分を知り」「希望をもって生きていく」ための善知識である。日蓮大聖人直結の我がSGIにこそ、その働きがある。
9  ナポレオンの母の波瀾万丈の生涯
 十月九日から、いよいよ「大ナポレオン展」(東京富士美術館)が開幕する。
 ナポレオン(一七六九〜一八二一年)については、さまざまな見方があるが、きょうは、角度を変えて、彼のお母さんについて、思いつくまま語っておきたい。
10  ナポレオンは、一代で大帝国をつくった。大変な事業であった。その彼は言った。
 「私の幸運は、そして私のなしえたすべては、一人の女性のおかげだ」
 その女性とはだれか。それは彼の母であった。
 「私(ナポレオン)の考えでは、ある子どもの立派な行為にせよ、よこしまな行為にせよ、全面的に母親で決まる」「私の運命は、母による育て方のおかげだ」
 こう言ってナポレオンは、生涯、母を尊敬し続けた。
11  ナポレオンの母は、どんな女性だったのか。名前はレティチアといった。「喜び」とか「歓喜」の意味である。
 彼女は、父親を幼くして亡くした。しかし、名前の通り、快活な少女に育った。
 ナポレオンの父と結婚したのは、わずか十四歳の時。夫は十八歳だった。だから彼女は十分な教育も受けていない。
 コルシカ(イタリアの南の島)育ちで、コルシカ語(イタリア語の方言)しか話せなかった。
 のちに「フランス皇帝の母」となってからも、「コルシカなまり」が抜けず、ひそかに彼女を笑う人もあった。
 しかし、教育がなくても、彼女は子供たちに「生きる原則」を叩き込んだ。魂に「背骨」を与えた。(彼女は十三人の子供を産み、五人が早く亡くなり、五男三女の八人を育てた)
 母はナポレオンに教えた。
 「どんなことがあっても、名誉と約束だけは重んじるのだよ。一門と家族の伝統だけは傷つけないようにしておくれ」
 コルシカはとくに「名誉」を大切にする気風があった。それは、別に「出世する」ということではなく、人間として「恥ずべきことはしない」ということである。とくに、「裏切り」は、恥の中の恥とされた。殺されても当然と考えられたという。名誉のためなら、命も惜しまないという伝統があったのである。
12  それはそれとして、御書には仰せである。
 「一生はゆめの上・明日をせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」──一生は夢のようなもの。明日のことを思いわずらうことなく、たとえ、どんな乞食になろうとも法華経に傷をつけてはなりません──
 今でいえば、何があろうと、自分の「信心」に傷をつけてはならない、学会員としての「誇り」をもち、「襟度」をもって、立派に生きよ、理想に生きよ、広宣流布に生きよ、ということになろう。
 母親が、そうした「根本」を身をもって教えることが、子供の生命に、邪道にそれないための「防波堤」をつくることになる。
 この世で、だれが一番偉いのか、どんな人生が偉大なのか──すなわち有名人でも権力者でも富豪でもない、人類のために妙法流布をしている人こそ一番偉いのだと教えていく。その母の哲学が、魂が、人生を見る眼が、子供の生涯を根底から支えるのである。
13  「母は私(ナポレオン)が幼いころから、厳しい愛情を注いで、私が偉大なことしか考えないように気を配ってくれた」
 「母は常に、くだらないことよりも、大きなことを重んじた」
 ナポレオンに「理想に生きよ」「偉大なる目標を目指せ」と教えたのである。
 うそをついたり、人の目をこそこそ盗むような卑しいまねをすれば、ナポレオンは容赦なく罰を与えられたという。
 「……今でも、子どものころ母から受けた『誇り』の教育が記憶によみがえる。その教訓こそ一生涯、私に働きかけた。
 母は、この上もなく大きな、さまざまな出来事で鍛えられた強固な魂のもち主であった」(ナポレオン晩年の回想)
14  逆境にも誇りを失わず、順境にも自分を失わず
 ナポレオンが言う通り、彼女の人生は波乱万丈であった。
 「苦労」の重荷が人間を押しつぶし、だめにしてしまう場合もある。しかし彼女の場合、「苦労」が良い方向に働いた。それは彼女が強かったからである。
 彼女について、ある人は言った。
 「彼女は逆境にあっても誇りを失わなかった。そして順境にあっても、おのれを失わなかった。実に、聡明な魂をもっていた」
 彼女は「世の中は変化する」ことを、体験から知っていた。
 そして「権力の地位など、有頂天になるほどのものではない」と悟っていた。
 若き日からコルシカの独立戦争に駆(か)け回り、女性の身ながら、ナポレオンがおなかにいる時も、戦っていたという。母体のためには決して良いことではなかったが、ともかく彼女は勇敢だったようだ。
 夫の浪費や裁判ざたにも苦しみ、やがて三十六歳の若さで未亡人に──。
 女手ひとつで、苦労をなめて、やっと子供たちを育て上げた。
 しかし、ほっとするまもなく、政争に巻き込まれて、愛する故郷コルシカを、命からがら追放されてしまった。
 フランスのマルセイユの港に着いたときには、乞食のような一家だった。
15  苦労に鍛えられ、彼女は「逆境にも誇りを失わず、順境にもおのれを失わない」女性になっていた。
 若きナポレオンは、しばらく、うだつが上がらず、軍隊からも追い出されかけて弱音を吐いた。そのとき、母は教えた。
 「不運に『負けない』ことが、立派で高貴なことなのです。
 『不運はかえって幸福となる』と言ったら、おまえは信じますか?
 あなたを『追放する法令』も、やがて、輝かしい『栄誉の証書』となります。必ずそうなります。いつか、あなたは、その栄誉に達し、名声も高まるのですよ。そのことを信じるのです」
 この強い楽観主義。不幸をも幸福へのバネとする強さ。「負けない」人生。これを彼女は息子に教えた。
 青年ナポレオンは、母の激励に応えたい一心で、運命と格闘していったのである。
16  私は忘れない「人間の道」を
 やがてナポレオンが成功し、一家は突然、裕福になった。欲しいものは何でも手に入る。
 ところが、この母だけは絶対に、ぜいたくをしなかった。「順境でも、おのれを失わなかった」のである。
 彼女はむしろ、「むだづかい」を憎んだ。「私は、昔、子どもたちを配給食で育てたことを忘れません」──。
 「忘れない」人は、信用できる。地位を得たり、光が当たると、とたんに恩も忘れ、信条も忘れ、使命も忘れてしまう──そういう人間があまりにも多い。
 彼女はせっせと節約し、貯金をした。
 派手ずきのパリの人々に、「ケチ」とうわさされ、批判されても、彼女の信条は変わらなかった。いつも、娘たちのぜいたくを叱った。
 「いつか、お金が必要になる日が来るかもしれないよ」。やがて、その予感は当たった。ナポレオンが失脚したからである。
17  栄光の絶頂にあったナポレオンの将来を、一番不安な目で見ていたのも母であった。
 「どう見てもナポレオンの成功は、急速すぎる。急速にできたものは、滅びるのも急速に違いない」
 母は、息子が上昇するほど不安になった。
 だれもがナポレオンの威光にひれ伏し、その権力の盤石さを、露ほども疑わなかったころも──周囲がナポレオンの成功をたたえると、彼女は言った。
 「続いてくれさえすればいいのですが……」
 ナポレオンが皇帝になるときも、一番、反対したのは母であった。彼女には、あまりにも危なっかしく見えた。築かれた土台は、もろすぎる──。
 ナポレオンの戴冠式にさえ、結局、彼女は出席しなかった。
 ダヴィッドの壮大・華麗な絵、「ナポレオンの戴冠」には、正面に彼女が描かれている。しかし、これは画家が後から描き加えたものであった。
18  「逆境でも誇り高く」生きた彼女は、「順境でも謙虚に」生きた。
 皇帝の母になっても、相変わらず、″庶民のおばさん″の心をなくさなかったようだ。無用な儀礼や敬礼、つまらない宮廷の習慣を毛嫌いした。
 一方、人間として「筋(すじ)が通らないこと」は許さず、その点、威厳に満ちていた。
 彼女は迷わず、信じる「人間の道」を歩んでいた。
 ナポレオンが、ヨーロッパ最高の名門であるオーストリアの皇室から妻(マリー・ルイーズ)を迎えたときのことである。
 この″お姫さま″に、彼女は、あいさつに行かなかった。
 「私はあの人の義母です。あいさつに来るべきなのは皇妃のほうです」
 ナポレオンさえ遠慮して頭が上がらなかった″ヨーロッパで一番のお姫さま″は、こうして、方言まる出しの庶民のもとへ、あいさつに行った。
 ナポレオンが失脚し、エルバ島へ流されたとき、まっ先に駆け付けたのも、母であった。
 「やっと、私が役に立つときがきた」。母は息子に蓄えを渡した。
 どんなに世間が冷たくなろうとも、息子とともに暮らせて、彼女は幸福であった。彼女は、どこまでも一人の母であった。子供が不幸なときほど、そばにいてやりたかった。
19  「母の子を思う慈悲の如し」と大聖人は仰せである。母の愛は崇高である。人は順境のときには取り巻いてくるが、逆境のときは手のひらを返したようになる。しかし母の愛は反対である。
 しかも仏法の慈悲は、それ以上に深い。母の愛は慈悲に似ていても、それには及ばないのである。慈悲には「一人の人」を根底から救い切っていく力がある。そして創価学会には、この慈悲の働きが脈打っている。
 悩める人のため、病む人のため、祈り、励まし、これほど温かい世界は他には絶対にない。この美しき世界を皆で守っていただきたい。
20  母が来てくれたことはうれしかったが、革命児ナポレオンが、こんな小さな島(エルバ島)に満足できるはずはなかった。
 あるとき、彼は言った。「私は発ちます」
 母は驚いた。「どこへ?」
 「パリへ! しかし、まず母上の御意見をうかがいたいと思います」
 言うまでもなく、再びパリへ行くことは、そのまま死を意味するかもしれない。彼女はしばし沈黙し──やがて言った。
 「行きなさい……息子よ、あなたの運命のままに行きなさい。あなたは、こんなつまらない島で死ぬようには生まれついていないのです」
21  そしてナポレオンは島を脱出。有名な「百日天下」となった。
 そのあと再び失脚して、(アフリカ沖の)セント・ヘレナ島へ流された──。
 五年後にナポレオンは死ぬ(五十一歳)。
 しかし、母は、ナポレオンの死後、さらに、十五年も長生きをした(八十七歳まで)。
 その間、どんなに敵視され、どんなに侮辱(ぶじょく)されても、「私は私です。私はナポレオンの母です」と、誇り高く生き抜いた。
 彼女は最後まで変わらなかった。
22  現在、ナポレオンに対しては称賛もあれば、非難もある。
 しかし「ナポレオンの母」については、多くの人々が賛嘆を惜しまない。
 それは彼女が常に、「人間の道」を踏みはずさなかったからであろう。
 「人格の光」だけは、華やかな、すべての栄光が色あせたあとも、時を超えて輝きを失わない。
 彼女は言っている。
 「私は宮廷の栄華やへつらいに、決してだまされませんでした。息子たちが、私の言うことにもっと注意を払ってくれたら、彼らの人生も、もっと良いものになったでしょう」
 あるいは、その通りかもしれない。ともかく「母は偉大」である。
23  「断じて進めば不可能はない」と
 強固な「花崗岩の魂」を、ナポレオンは母から受け継いだ。そして人生を戦い抜いた。
 その目的の次元はともあれ、彼は「断じて進む人間に、不可能はない」と信じ、前へ前へと向かっていった。
 信心がなくても、恐れずに前進したのである。いわんや、私たちは、広大無辺の妙法を持っている。恐れるものは何もない。
 この確信で、カナダSGIは、カナダらしく、仲良く、悠々と進んでいただきたい。カナダは、いよいよ北米と世界の大切な拠点になってきた。
 今回、お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えください。本当にありがとう!

1
1