Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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カナダSGIバンクーバー総会 生きること自体が楽しい境涯を感得

1993.10.1 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  それと同じく、諸天善神も、十方の諸仏・諸菩薩も「懸命」な信心の人を守ってくださる。御本仏日蓮大聖人が必ず守ってくださる。
 勤行は御本仏を賛嘆申し上げる儀式である。仏様を最高に賛嘆する詩であり、歌であるともいえる。それは同時に、永遠なる宇宙生命の賛歌であり、自分自身の仏界を賛嘆していることでもある。
 勤行の時間(夕べの)といえば、他の人はテレビの時間であったり、団欒の時間であったり、休息の時間かもしれない。また一日の疲れが出るころでもあろう。そうした時に、一生懸命勤行し、御本仏を賛嘆申し上げ、また仏の使いとして広宣流布に向かっていく。その「真剣の人」を御本仏が守ってくださらないはずがない。
 仏法も人生も「勝負」である。勝つか負けるか、幸福になるか不幸になるかである。懸命な人は、必ず勝つ。必ず勝利と幸福に輝いていく。
 このことを、きょうは「バンクーバー宣言」の第一条としたいと思うが、どうだろうか。
3  余裕有る人生は内実が豊か
 第二条は「余裕をもって生きる」。
 たとえば朝、早めに起きれば、一家で楽しく団欒しながら食事ができる場合がある。一事が万事で、余裕が人生を豊かなものにする。
 朝ギリギリの時間に「あなた! 時間よ! 何してるの!」と、たたき起こされ、「すぐ勤行しないと遅れるわよ!」。こうして、けんかとともに一日が始まる。
 勤行は、幸せになるためのもののはずである。けんかをするためのものではない。
 もう少し、心にゆとりをもって、言葉も聡明に、たとえば「あなた。ゆっくり寝ていただいてかまいませんが、朝ご飯はできています」、「温かいうちに召し上がっていただくと、うれしいですわ」──こう言えば、夫も気持ちよく起きるかもしれない。
4  勤行も「方便品・自我偈だけでも、素晴らしいですわ」と、ほめたたえ、ときには「私がやっておきますから、安心して行ってください」と激励する──これくらいの余裕があったほうが、幸福ではないだろうか。
 子供に対しても、「きょうの試験、できが悪いと、家に入れないわよ!!」と追いつめるようなことを言わないで──ある場合は″私の子供時代を考えたら、子供に期待しすぎるのが無理なのだ″と達観し、「ママが見守っているから、頑張ってね」と優しく安心させてあげる──そういう余裕があったほうが、勉強だってスムーズに進むかもしれない。
 ゆとりが、知恵を生むのである。
 日常生活も、髪を振り乱して、いつもいつも駆け回っている──それも真剣の表れかもしれないが、ときには、ゆったりと、自分を見つめ、人生を考える「大きな心」をもったほうが幸せではないだろうか。
5  弘教がなかなか進まない。そういう悩みをもっている人もおられるかもしれない。それ自体、最高に崇高な悩みである。
 しかし、生命は永遠である。末法は万年、そして尽未来際である。悠々と、焦ることなく、着実に、一人一人が幸福になっていけばよいのである。
 しかもカナダは広い。日本みたいに、ガチャガチャと気ぜわしく動くような風土でもない。
 伸び伸びと、余裕をもって、全員、二百歳まで生きるくらいのつもりで、楽しく、大らかに進みましょう!
6  快活に生きる人生は強い
 第三に「快活に生きる」。すなわち「愉快に生きる」ことである。
 私たちは御本尊をたもっている。妙法をたもっている。ということは、すなわち自分自身が妙法の当体である。大福運の当体であり、多宝の宝塔である。ゆえに、負けるものはない。恐れるものもない。
 自分自身が宝塔である、自分自身が仏の当体である──このことを確信しきるとき、我が境涯は「生きていること自体が楽しい。愉快である」──こうなっていく。この大境涯を事実のうえで感得し、獲得するのが信心の目的である。
 学会の、広布の世界で生き抜いた人は、三世永遠に、この境涯を楽しんでいける。
7  楽観主義で生きるのか。悲観主義で生きるのか。
 悲観主義の人は、何でも悲しい方向に、苦しく、暗い方向に考えていく。「うちの夫が死んだら、どうしよう」「女房が病気になったら、どうしよう」「目標が達成できなかったら、どうしよう」「うちの娘が悪い人と付き合ったら、どうしよう」等々──。
 いつも悲観ばかりしていたら、「一念」自体が悲観に染められてしまう。それでは幸福になれるはずがない。
 いつもいつも「ああ、金がない」、「ああ、また会合か」、「きょうも奥さんに叱られるのか」──これでは「生きること自体が苦しい」ような姿である。
 反対に、何が起こっても、それを楽しんでいく。いい方向、楽しい方向へ、前向きの方向へと受け止めていく。それが楽観主義であり、その究極が信仰である。
 たとえば病気になっても、「ああ、いい休養ができる」、「ゆっくり三世永遠のことまで思索しよう。いいチャンスだ」と。そして希望をもって「こんな病気に負けてたまるか! 絶対に生き抜いてみせる!」と、病魔を打ち破っていく。
 このように、楽観主義の人は強い。いい方向へ、いい方向へと自分でとらえ、自分で「そうなる」「そうなってみせる」と決めることである。
 喜劇王チャップリンのごとく、何があっても、愉快に笑い飛ばしながら、苦労を楽しみに変えながら、快活に生き抜いていただきたい。
8  仲良く生きる人生は明るい
 第四条は、「皆、仲良く」あっていただきたい。
 兄弟も、夫婦も同様であるが、広布の組織においても「仲が良い」ことが一番大切である。
 「仲良くしていこう」と思える人は幸せである。「仲良くしていこう」と心を配り、行動していける人は立派である。「心」がきれいであり、豊かな人である。
 反対に、仲良くなれない人、楽しい団結を壊す人──「怨嫉」の人は、心が狭く、暗い。そういう人は、どこにいても同じように振る舞う。家庭でも、世間でも、皆から嫌われていく。
 SGI(創価学会インタナショナル)は、妙法に照らされた、最高に仲の良い世界である。
 悩める人がいれば、相談にのってあげ、祈ってあげる麗しさ。病気のときは激励し、だれかが亡くなったときも皆で題目を送ってあげ、皆が動いてあげる慈愛。家族も及ばぬ思いで面倒をみてあげる真心。こんな世界はほかにはない。
 この美しき世界を絶対に壊してはならない。皆で守っていかねばならない。
9  そのために大切なことは「善知識」に近づくことである。「良き人」を大事にすることである。大聖人は「仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん」等、「悪知識を避けて、善知識に近づきなさい」と仰せである。
 また釈尊は涅槃経に「悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」──悪象に殺されても悪道には堕ちないが、悪知識にたぼらかされたら悪道に堕ちてしまう──と説いている。
 象に殺されることは、今でいえば、交通事故などのことになろう。
 悪人は人を三世にわたって苦しめる。ゆえに、悪人を、この素晴らしき世界に入れてはならない。悪人とは戦わなければならない。
 どうか、どこまでも「仲良く」進んでいっていただきたい。日本のある作家の言に「仲よきことは美しきかな」──とあるとおりである。
10  誇りに生きる人生は崇高
 最後に、第五条として「誇りをもって生きよ」と申し上げたい。
 皆さまは、だれよりも尊貴なる「地涌の菩薩」である。
 「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」──皆、地涌の菩薩の出現でなければ唱えることのできない題目である──と大聖人は断言しておられる。
 大聖人の仰せ通り、自行化他にわたる唱題をしているのはSGIだけである。SGIこそ、唯一の「地涌の菩薩の集い」である。仏法を利用するだけの日顕宗は、法を盗む法盗人にすぎない。
 仏意仏勅は我がSGIにある。これ以上の「誇り」はない。この無上の「誇り」で人生を飾っていただきたい。
11  お金持ちではないかもしれない。有名人でも、権力者でもないかもしれない。しかし、そういう人々が、どれだけ人類に貢献しているのか。かえって多くの人々に迷惑をかけ、自らも不幸になる人も多い。
 これに対し、皆さまは、自他ともに幸福にし、人類に平和と繁栄をもたらす根本の行動を重ねておられる。これほど崇高な人生はない。
 大聖人は、妙法をたもつ人は、どんな高僧よりも百千万億倍、勝っていると仰せである。
 かりに表面は、苦悩の姿であっても、実は自分自身が願って、その姿で生まれてきたのである。「私は″お金のない役″で」「私は″病気の役″で」──そうして信心によって人間革命し、妙法の力を証明していこう、と。
 その意味で、いわば皆、妙法広布のドラマを演じる″役者″なのである。
 ゆえに、根本は何があっても歓喜である。何があっても希望があり、余裕がある。自分で決めた、暗から明へのドラマをつづれないはずがないからだ。
 この最高の誇りと、勇気をもって生きていただきたい。
12  平和の心をつたえる先住民の姉妹の物語
 ここバンクーバーを私は初めて訪問した。本当に美しい町である。世界の人々が憧れるのも当然だとわかった。
 そしてバンクーバーは平和を愛する町でもある。市民の活発な平和運動が高く評価され、「国連」から「平和の都市」として表彰されていることも有名である。
 市として「非核地帯」の宣言も行っている。戸田先生も喜ばれるにちがいない。
13  さて、この地には、美しい平和の心を伝える先住民の物語が残されている。皆さまはご存じと思うが、世界に紹介する意味で、残させていただきたい。(以下、女流詩人ポーリン・ジョンソン女史の「聞き書き」から)
 はるかな昔、雄大な太平洋を望むこの海岸地方には、多くの勇敢な先住民が暮らしていた。
 当時、彼らの間では、娘が成人する時には、多くの客を招き、盛大な祝いの儀式を行う風習があった。ある偉大なリーダーの二人の娘が成人した時のことである。
 この二人のかわいい娘のためにリーダーは、晴れやかな儀式の準備をすすめていた。
 しかしその前に、一つの暗雲がたれこめていた。それは、長い間の宿敵である北方の人々が、自分たちに対して戦いの準備をすすめていたからである。
 祝いの儀式を間近に控えたある日、二人の娘は、父であるリーダーのもとに行って、こう頼んだ。
 「お父様! ひとつお願いがあります。私たちもいつの日か母となって、お父様のような力強い指導者となる子供を生む時が来ます。どうかその日のために、北の人々(敵の人々)も私たちの祝いの儀式に招いていただけませんでしょうか」
 リーダーは娘たちの願いに驚いた。いつ襲ってくるかもしれない敵を、祝いの席に招こうというのか!
 だが、ほかでもない、かわいい娘たちの心からの願いである。リーダーは娘の願いを認めざるを得なかった。
 「お前たちが望む平和の恵みを、いつの日か生まれてくる子供たちに贈るがよい」──。
 こうしてリーダーは、長年の敵である北の人々にも使いを送り、彼らを祝いの儀式に招いたのである。
 やがて敵である北の人々が、大勢の妻たち、子供たちとともに、たくさんのお土産を持ってやって来た。偉大なリーダーも、招きに応じた北の人々を盛大なごちそうで歓迎した。
 祝いのうたげは何日も続き、楽しい時が過ぎた。これまでの「戦いの歌」は「女性たちの喜びの歌」に変わり、子供たちが仲良く遊ぶ、にぎやかな声があふれた。
 いつしか人々の間には笑顔がこぼれ、かつての敵同士の間にも、麗しい友情が結ばれていった。
 やがて二人の娘が生んだ「平和」と「兄弟愛」が、この地を支配した。
 バンクーバーの北西に「ライオンの山」と呼ばれる美しい双子の山がある。伝説によると、平和を愛した二人の娘が、この双子の山となって今もバンクーバーの人々を見守っているのだといわれる。
 平和を愛する女性の心は強い。その心は社会を変え、歴史を創っていく。リーダーは女性の声を最大に尊重していくことである。
14  まず「人」が仲良くなることこそ
 一人一人、皆、個性がある。考え方も違う。文化の背景も違う。習慣も違う。そうした差異を乗り越えていくには、まず、人間としてお互いに仲良くなっていくことである。
 私たちの広宣流布という最極の平和運動にあっても、あらゆる「差異」を超えて、まず仲良くなることが大切である。
 大聖人は「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」──法は自然に弘まるものではない。人が法を弘めるのであり、だからこそ弘める人も弘まる法も、ともに尊い──と教えておられる。
 また、大聖人は「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」──不軽菩薩が人を敬ったのは、何を意味するのでしょうか。教主釈尊の「出世の本懐(世に出現した根本目的)」は、人間の振る舞いを教えることだったのです──と。
 法といっても、人の振る舞いにあらわれる。まず、人間として心を開いて友情を結んでいく。そこから「法」への理解も生まれ、共感が広がり、信頼が深まる。
 絶対に焦る必要はない。カナダはカナダらしく、バンクーバーはバンクーバーらしく、心広々と、悠然たる前進をお願いしたい。
 私は毎日、一生懸命、皆さまの幸福を祈っている。
 「素晴らしい人生」を送っていただきたい。「素晴らしい人生」を生きる権利が皆さまにはある。
 皆さまは絶対の勝利の「法」をたもっておられる。妙法の利剣をもっておられる。
 この利剣で一切の障魔を断ち切り、一切の不幸を断ち切って、一人残らず、「私の人生は最高だった。素晴らしかった」と誇れる幸福者となっていただきたい。
 どうか、きょう、お会いできなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えください。

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