Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三回アメリカSGI最高会議 「受持即観心」の本義

1993.9.21 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  日蓮大聖人の仏法は、仏法の真髄であられる。「いったい、自分の生命とは何か」「自分の使命とは何なのか」「宇宙と自分の関係とは」──ソクラテスがいう「汝自身を知る」ことが、この信仰でできる。
 あえて要約すれば、科学者の使命は真理の追究である。また、経済人は利益が、政治家は権力が課題であろう。
 それはそれとして「仏法の最高峰」には、すべての学問も、あらゆる価値も、根本的には含まれている。ゆえに、この「経の王」たる妙法蓮華経を生命に持ち、実践する人は、人間の「王者」なのである。
 その意味で、SGI(創価学会インタナショナル)は「王者の集まり」である。「地涌の菩薩の集い」である。なかんずく、皆さまは「仏法の指導者」である。これほど尊く、これほど根本的に人々を救いゆく立場はない。「人を幸福にする」のがリーダーである。
 皆さまは、「行動の王者」であっていただきたい。「仏法探究の王者」であっていただきたい。「生命の王者」「幸福の王者」「哲学の王者」「知恵の王者」「家庭の王者」「人生の王者」「社会の王者」になっていただきたい。
 とくに、ボストンの皆さまは「知性の王者」であられると私は信ずる。
3  真実は身近にある。「王者」といっても、何か特別な人間になるのではない。どこまでも「人間」である。どんなに、いばってみても、どんなに高い地位についても、人間が人間以上の存在になれるわけがない。ゆえに最も人間らしく、人間として輝く人が王者である。
 私たちにとって身近とは、「勤行」である。また「個人指導」「座談会」である。その現実の行動のなかに、王者の輝きがあり、仏法の光がある。この基本を銘記していただきたい。
4  広宣流布は人類待望の大文化運動
 「文化の都市」ボストンであるゆえに、一言、文化について語っておきたい。
 日淳上人は、日本文化と仏法の関係について、聖徳太子の文化改革運動や、伝教大師に始まる平安時代の一大文化運動について述べられ、時に適った正法を興隆させ、流布するところに、最高の文化運動が生まれることを説かれた。(一九五六年、創価学会男子青年部第五回総会)
 末法にあっては、大聖人の仏法こそが、文明をつねに、みずみずしく蘇生させる。そして生き生きと躍動する「人間文化」の源泉となる。
5  戸田先生は、「文化とは──知恵を知識化すること」とされ、こう語られた。
 「知恵を形式化するというか、とにかく形として、人に用いられるようにすることだろう。たとえば、赤んぼうの″おしめ″なんか、立派な文化です。″おしめ″だからといって、低い文化ということはできない。あれを発明した人は、たいした知恵者ではないだろうか」
 「真の文化というものは、自分の知恵が築くものです。したがって、最高の文化は、最高の知恵によらなければできない」
 「妙法以上の知恵は、現代には断じてない。この知恵のあるかぎり、人類は多くの危機を避けて、やがて絢爛たる文化を開くことができるだろう。このために、ただ一つ人類に残された道──広宣流布の必要があるのです」
 「この意味からすると、広宣流布ということは、最高の文化運動と言って、さしつかえない」と。
 私どもは、戸田先生の示された道を走った。全世界に平和と文化と教育の連帯を築いてきた。
 そして世界との大交流時代は、いよいよ、これからである。これから世界を舞台に、人間主義の「大文化運動」が始まる。
6  トインビー博士と対談した折も、「文明と宗教」の関係について、博士は、「各文明の形態は、その文明に固有の宗教がそこに現れたものだと考えています。また、諸文明を生み出し、それを長らえさせてきた生気の源泉が宗教にあったという点についても、まったく同感です」と語られた。
 博士は、また、「普遍的な生命の法体系」を説く高等宗教こそ、「現代人が必要とする宗教」である、と述べられた。
 ソ連のゴルバチョフ元大統領も、「今後、新しい文明、新しい世界を築くうえで、宗教が果たす役割について、私は『世界宗教の存在抜きに、新しい時代は開けない』と思う」と話されていた。
 時代は刻々と、新しき世界宗教の時代へと動いている。
 これに対し、ご存じのように、宗門では文化を軽視し、蔑視している。文化を軽蔑することは、人間の知恵の営みを軽蔑することであり、「人間蔑視」の表れである。
7  「万事を閣いて謗法を責むべし」
 日亨上人は、宗門の僧侶の醜い実態を、早くから指摘されていた。
 「信心って信徒を感泣せしめて、御供養を貪り取るのが善いことじゃ、これは仮令たといその刹那の間でも、信徒を満足させる功徳があり、御本山への御奉公にもなり、社会への奉仕にもなる。又自分の懐中かいちゅう(ふところ)も満足する。自他円満の方術ほうじゅつであると、イヤに悪度胸あくどきょうを据えてる者もある」
 「甚だしいことであって、自他を損害するもので、仏法を破り、宗門を損う者は、多くこの中から出るのである」(『追考 聖訓百題』)と。
 仏法を食い物にして、供養を貪るだけの悪侶は、宗門に昔から存在していたのである。現宗門は、日顕をはじめ、そうした破仏法の悪侶だけとなり、大邪宗となってしまった。
 大聖人は、邪法と正法が争っている時には「万事をさしおいて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり」と仰せである。日顕宗の大謗法を徹底して責めることが、御書に照らして、現在の「時」に適った仏道修行なのである。
8  「受持」の大功徳
 ご承知のように、このほど、日寛上人御書写の御本尊を全世界の会員に授与することが決定した。さっそく、SGI各国からも、このアメリカ各地からも、大歓喜の声が寄せられている。
 そこで、改めて、「御本尊受持」の本義について少々、述べておきたい。
 「観心本尊抄」には仰せである。
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
 「受持即観心」を明かされた有名な御文である。
 戸田先生は、この御文について、こう述べておられる。
 「『妙法華経の五字』とは三大秘法の御本尊である。また『釈尊の因行果徳の二法』という、その釈尊とは、権迹本ごんしゃくほん(権教ならびに法華経の迹門と本門)の釈尊の因行果徳の二法である。
 何らの功もなく、何らの功徳も積まず、何らの修行もなくして、ただ、大御本尊受持の功徳によって、仏の境涯をえられるのである。
 されば、受持とは何ぞや。これは二応三応にも考えられることではあるが、三大秘法の義によって、身口意三業の義によって、拝すべきではなかろうか。三大秘法の大御本尊を信じ、ただ、ひたぶるに南無妙法蓮華経と唱えることこそ、その根本義であることはいうまでもない」
 「大御本尊様を受けて部屋にかざっておくだけでは、ただ一応の受持になる。三大秘法の題目を分かって二つとして、一つは信、一つは行となる。
 行の題目となれば、自行化他にわたらなければならない。これが末法の題目である。ただかざっておくだけでは、信じているとはいえ、それはいまだ真の受持にはならない」(巻頭言「受持」『戸田城聖全集』第一巻)
 まじめに勤行・唱題に励み、広布のために労苦を尽くすSGIの皆さまこそ、御本尊を真に「受持」した人である。ゆえに、福運は計り知れなく、成仏は間違いない。
9  日寛上人「我が身即蓮祖聖人なり」
 大聖人は仰せである。
 「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり
 ──我が己心の妙法華経を本尊とあがめたてまつって、我が己心の中の仏性を南無妙法蓮華経と呼び、呼ばれて顕れるところを仏というのである──。
 戸田先生は、この御文を拝し、「御本尊に向かって題目を唱えている人それ自身が、本尊の体となること、これ明らかである。このゆえに、この姿こそ真の受持といわれるのではなかろうか」と語られた。
 宗門の先師日達上人は、大聖人即御本尊であるとされ、こう述べられた。
 「私共は一心にこの御本尊様を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、この身即ち御本尊となる。又宗祖大聖人様の尊体となるのでございます。これこそ即身成仏というのは、これをいうのでございます。どうか皆様は何の疑念もなく御本尊様に向って、一心に南無妙法蓮華経と唱え奉って、この凡身即大聖人様であり、御本尊様であるという信心を確立せられん事をお願いする次第でございます」(『日達上人全集』)
 この法理について、「当体義抄」には「妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」と。
 また、日寛上人は、「観心本尊抄文段」で「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と述べられている。
 日々、広宣流布を願い、法のため、人のために悩み、題目を唱えている、その人の身がどれほど尊いことか──。
 その尊いSGIの同志を見みくだし、学会を破門した宗門の罪は、大聖人を迫害した大罪に通じる。尊き「仏使」・学会員を、心から尊敬し、大切にしていく。その人こそ、真の大聖人門下なのである。
10  日顕宗には「大聖人への反逆」「破和合僧」の大罪
 大聖人は、仰せである。
 「今の世は既に末法にのぞみて諸宗の機にあらざる上、日本国一同に一闡提大謗法の者となる、又物に譬うれば父母を殺す罪・謀叛ををこせる科・出仏身血等の重罪等にも過ぎたり、三千大千世界の一切衆生の人の眼をぬける罪よりも深く・十方世界の堂塔を焼きはらへるよりも超えたる大罪を・一人して作れる程の衆生・日本国に充満せり、されば天は日日に眼をいからして日本国をにらめ、地神は忿りを作して時時に身をふるうなり
 ──今の世は、すでに末法に入って、諸宗で救われる機根ではないうえ、日本国の衆生は一同に、一闡提人・大謗法の者となった。また、日本国の衆生の罪は、譬えてみれば、父母を殺す罪、謀を起こす罪、仏身より血を出す等の重罪よりも重いのである。
 (広大な)三千大千世界の一切衆生の眼を抜いた罪よりも深く、十方世界の(仏法の)堂塔を焼き払ったよりも大きい罪を一人で作ったほどの衆生が、日本国に充満している。それゆえ、天は日々に眼を怒らして日本国をにらみ、地神は怒りをなして、折々に身を震わせるのである──と。
 さらに、この後の御文では、人々を正しい道へ導くべき智者・高僧の謗法の罪が、とくに重いことが示されている。
11  日寛上人は、この「謀反ををこせるとが」について「世間の国主にそむく罪すら重い。いわんや三世常住の主君である法華経・日蓮大聖人に叛く、その罪は甚だ重いのである」と。(文段集737㌻)
 大聖人の御精神に、ことごとく背いた宗門は、「御本仏への反逆」の大重罪人なのである。
12  また日達上人は「ここでは謀叛むほんの罪を起こせる科となっておりますが、これは五逆罪の中の破和合僧、和合僧団を破壊する者」「和合僧というのは、どこまでも正法を信仰する団体、それを破す、これが一番悪いことなんですね。正法を信心することは皆一同に成仏する。それを妨害することですから、世間の罪よりも余程重いのである」(『日達上人全集』)と。
 正法広宣流布に進む「和合僧団」である創価学会を破壊しようとする者は、「破和合僧」の大罪にあたる。このことが明確に示されている。
13  「一凶を禁じる」ところに立正安国
 このほど「立正安国論」の五カ国語(フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語)の翻訳が完成した。関係の方々に心から敬意を表したい。
 大聖人は、「立正安国論」に仰せである。
 「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」──(災難を根絶するには)かの、万もの祈りを行うよりは、この一凶(法然の謗法)を禁ずることである──と。
 現在においては、日顕宗の大謗法こそ、「一凶」である。ゆえに、今、私たちが、御本尊根本、御書根本に進めている「正義の宗教改革」こそが、現代における「立正安国」の行動であり、大聖人から、こよなく御称賛いただけることを確信していただきたい。
 最後に、幸福なる「歓喜の王者」としての皆さまのご活躍、そして、ご長寿をお祈りし、記念のスピーチとしたい。

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