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日蓮大聖人・池田大作

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関東会第十二回研修会 「変革」の原理──動執生疑

1993.8.17 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  ガルトゥング博士も、「平和」へと「無限の道」を歩むお一人である。
 博士は書かれている。
 「仏教は、多くの地球的諸問題を解決するに必要な思考のパターンを備えている。
 しかしながら、多くの仏教徒は、そのことを自覚して行動しておらず、地球的規模で行動することを、仏教の英知をもたない人々に委ねている。
 そのような中で、SGIと池田会長は、われわれにとって極めて刺激的な例外である。池田会長は仏教思想を具体的行動に結実し続けている。それは思想と行動の調和という点でも、模範的な例証である」と。
 私たちへの励ましとして紹介させていただく。
 本来、仏教は「平和の知恵」に満ちている。
 そもそも釈尊が出現した当時のインドは、どんな社会であったか──。
 それは端的に言えば、血縁で結ばれた「部族社会」から、部族を超えた「市民社会」への大転換期であった。そのころ多くできたナガラ(都市)に多様な民族が共生し始めていた。
3  ちょうど今、世界は「民族主義」「国家主義」から、民族・国家を超えた「世界市民の時代」へと大転換しつつある。この大潮流にも通じる釈尊の時代であった。
 釈尊はこの時、「人間平等」と「友愛」の旗を掲げて、異なる部族間の調和を目指した。
 今、同じく「対立」を「融和」へと導く仏法の知恵が求められている。
 博士は平和を探究し、仏教を研究するほど、SGIの運動の正しさを評価されるようになった、と。世界最高峰の平和学者の期待に、そして人類の期待の声に、私たちは、いよいよ全力で応てまいりたい。
4  学会の運動は法華経のとおりの軌道
 ここで「動執生疑どうしゅうしょうぎ」について、述べておきたい。″聞いたことはあるが、よくわからない″──そういう人もおられるかと思う。そうしたあいまいな点について、一つ一つ、明確にしていく習慣が、自分自身を充実させていく。
 「動執生疑」とは″執を動じ、疑を生ず″と読む。すなわち執着しゅうじゃくを揺り動かし、疑いを生じさせることである。
 わかりやすく言えば、小法への執着など、これまでの執着や、とらわれを動揺させ、″これまでの考えは本当に正しかったのだろうか″と疑いを生じさせて、より高い次元へと目を向けさせていくことである。
 天台の「法華文句ほっけもんぐ」に説かれ、法華経で釈尊が衆生を導くために使った化導法けどうほうの一つである。
 たとえば、涌出品ゆじゅっぽんでは、無数の「地涌じゆ菩薩ぼさつ」が出現する。このことは、他の菩薩たちを動揺させ、疑いを生じさせた。
 ″なぜ釈尊が成道じょうどうしてからの短期間に、これだけ多くの菩薩を教化できたのか?″と。
 この疑問に答える形で、寿量品じゅりょうほんでは、仏の成道が永遠の過去にさかのぼることが明かされたわけである。
 創価学会は、地涌の菩薩の出現である。その行動は、事実のうえで、社会に″動執生疑″の波を広げてきた。これまでの小さなワクにとらわれた人々の心を揺さぶり、揺り動かしてきた。
 動執生疑とは、いわば、そうした「変革」の原理であり、現実社会をダイナミックに、新しい大きな地平へとリードしていく行動である。
 私たちの運動は、法華経の通りの軌道で進んでいる。
5  大悪と戦わぬ利己主義は悪
 先日(八月八日、第六十九回本部幹部会)も触れたが、牧口先生は「ちりも積もれば山となる」ということわざについて、こう語っておられる。
 「よくよく観察してみると、塵が積もって出来た山はない。それでは、せいぜいつかくらいのものしか出来ない。現実の山は、天地の急激なる大変動のために出来たものである」と。
 このことを通して牧口先生は、″小善を積み上げていけば、やがて大善の境涯に至る″という考え方に反対された。
 そして、急激な大変動によって山ができるように、すぐさま大境涯へと至る方法があるとされた。それは妙法の実践であり、なかんずく″大悪と戦うこと″である。
 「悪人でも大悪に反対すればたちまち大善になる」と──。
 魔の勢力とは徹して戦い切っていく。その戦いこそが、「大善」の仏の境涯をもたらすことを教えられたのである。
 牧口先生はまれにみる大哲人であられた。
 日淳上人は、牧口先生は「法華によって初めて一変された先生でなく、生来せいらい仏の使つかいであられた先生が、法華によって開顕かいけんし、その面目を発揚はつようなされたのだと、深く考えさせられるのであります」とたたえておられる。
6  一方、″小善をこつこつと積み上げていけばよい″とする人について、牧口先生は、そのような小善の人間は「衆愚しゅうぐ(多くの愚かな人々)にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく(中略)悪を好まぬだけの心はあるが、善をなすだけの気力のないのは、個人主義をだっしきれないからである」と。
 大悪と戦わず、戦えないのは利己主義であり、ただ世間の人にほめられたい、よい格好をしたいという臆病さなのである。
 そして、このような人は、「可もなく不可もなく、いてもいなくてもいい人間である」と厳しく指摘しておられる。
 中途半端な「小善の人間」になってはならない。大悪と戦う「大善の人」であれ──これが私たちの偉大な創立者の叫びであられた。
 大悪と戦うときに初めて、爆発的な勝利があり、前進があり、成長がある。″戦おう″という一念が弱い人は、自分自身が、病魔をはじめ魔につけ入られてしまうであろう。
7  ガイヤ教授「仏法は人格と人格の触発」
 聖教新聞のアメリカ特派員が、このほどアイダホ大学で哲学・宗教学を教えるニコラス・ガイヤ教授にインタビューし、その内容を伝えてくれた。
 私のことも含まれていて恐縮であるが、世界の識者が学会をどう見ているか、その一端として、そのまま紹介させていただきたい。
 教授は、仏教を″普遍的なヒューマニズムの教え″としてとらえておられる。
 大学の講義でも『私の釈尊観』等を活用し、大きな反響を呼んでいるという。
 私が戸田先生に出会ったのは、一九四七年(昭和二十二年)八月十四日。満四十六年になった。特派員はインタビューのさい、その出会いのことをガイヤ教授に語った。
 教授は、そのなかからとくに、次の三点に深い関心を寄せられたという。
 (1)戸田先生が一青年に対し、平等に接し、対話されたこと。
 (2)戸田先生が理論をもてあそぶことなく、飾ることなく、直截ちょくせつで正直に、人生の真実を語られたこと。
 (3)そして、戸田先生が軍国主義と戦って牢に入れられた事実に、私が深く共感したこと。
 すなわち教授は、私が仏教の教義というより、戸田先生の人格に対してまず心を開き、動かされたことに注目され、こう語られた。
 「釈尊は自らを神格化し、その力に絶対従えなどとは言わなかった。死を前にして『私は法を説いた。あとは皆がその法に基づき、自分自身の人格の完成に努力すべきである。あなた方自身が真の人間として輝いていく責任があるのだ』と教えました」
 「いいかえれば釈尊の弟子たちは、教条的な教えやルールに盲従したのではなく、釈尊の徳と人格を学びつつ、自身の可能性を開いていったのです。戸田先生と池田先生の出会いは、まさに『偉大な人格者との触れ合いが、自身の人格を開く』という釈尊と弟子たちの普遍のヒューマニズムの軌跡を現代に映したものといえます」と。
8  「権威・形式・閉鎖の宗門は反仏法・反ヒューマニズム」
 また教授は、この釈尊の精神を歪めてしまった″権威の宗教″の矛盾について語っておられる。
 「一般に人々は、宗教にすがり、救済を求める傾向がある。それを利用して宗教の権威性が生ずる。しかし釈尊は、真の救済とは、その人が、もともと自身の中に持っている徳性、人格を引き出してあげることにある、と教えたのです」
 「その意味で、どこか特別なところへ行かなければ救済が得られない、権威や形式を踏まなければ救済が得られない、という教えは、釈尊の根本精神から外れたものです。
 それは、人間の可能性をたたえ、尊重した仏教のヒューマニズムに大きく反するものです」
 「特別な世界に救いを求めたり、逃避したりするのではなく、自分自身を変革し、その徳と人格をもって社会を変革し、平和に導くという視点こそ、ヒューマニズムの実践の精髄です」
 まったく同感である。
 総本山へ行かなければ成仏しないとか、僧侶による儀式がなければ功徳がないとか──それらは仏法の根本精神から、まったく逸脱した邪義である。自分自身の中に仏界はある。その仏界を引き出すのも、自分自身の「信心」なのである。
9  教授は、こうした考えから、日顕宗を厳しく弾劾しておられる。
 「私は宗門問題に深い関心を寄せております。教条的なルールに信徒を従わせようとし、従わなければ破門にする、という日顕宗のあり方は、釈尊の教えに反し、ヒューマニズムに反するものです」
 「自身の中に救済のカギがある、という真の仏教の精神に立てば、そのような脅しは、まったく無意味であり、恐れる必要などありません。また切られたとしても、何も失うものはありません。そのような閉鎖社会から自らを切り離し、仏教の原点に戻ろうとされることは、大変喜ばしいことであります」
 日顕宗と離れて本当によかったと祝福してくださっている。
 さらに教授は、「一人の人間が極端に神格化されると、それに盲目的に従い、自分たちのグループのみが正しく、他は悪である、という傾向が生まれます。その排他性が、対立と戦争の因になります」「しかし釈尊は、法のもとにすべての人が平等であり、尊厳であることを説きました」と。
 学会も「平等の世界」である。「一人を大切にする」人間尊厳の世界である。
 一方、日顕は自分の内証は大御本尊と一体不二だなどと言わせている。そして民衆の中には決して入ることなく、自分を神格化し、権威づけようとしているのである。
10  ガンジーの非暴力を釈尊に学んだ
 教授はまた、ガンジーと仏教のかかわりにも注目しておられる。
 「ガンジーは、この釈尊の教えを自らの非暴力の原点としました。ガンジーは、釈尊こそ私の非暴力の象徴的なモデルであると言明しております。
 もちろんガンジーは他の教えからも非暴力の精神を学びました。しかし、他の教えは、極端な形、ある意味では非現実的な形で非暴力を説く傾向にあったため、ガンジーは、現実的で中道の徳を説いた釈尊に最も深く学んだ、と私は考えております」
 (教授はまた、池田SGI会長について次のような評価を寄せている。
 「SGI会長の思想には、深い学術的な色彩があり、それでいて、人間としての正直な眼に貫かれています。
 こうした視点は、いわゆる宗教家といわれている人々にはまれであり、大変貴重であります。ゆえに、その思想が、仏教の素地をもたないアメリカの学生・研究者たちに何の抵抗もなく受け入れられるのです。
 私はSGI会長にお会いしたことはありませんが、自らを律した、大変責任感の強い方であり、毀誉褒貶きよほうへんに決してとらわれない方である、と思います。このような卓越した仏教の指導者を得た創価学会の皆さん方は大変に幸せな方々であると思います」)
11  ガンジーといえば、明年には「アショーカ大王・ガンジー・ネルー展」が東京富士美術館で開催される。
 これからも私たちは、日蓮大聖人の仏法の「正道」中の「正道」を一分の狂いもなく歩みながら、社会に開かれた宗教として、世界に開かれた大「人間主義運動」を展開してまいりたい。
 いよいよ私たちの時代である。法のため、人類のために、勇んで黄金の歴史をつづってまいりましょう!

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