Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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群馬多宝研修道場開所記念勤行会 世界の同志の「健康の王宮」

1993.8.13 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  この研修道場は「多宝」という名前が冠せられているように、とくに広布の先駆者、功労者の皆さまのためのものである。
 群馬でも多宝会(指導部)の皆さまが、喜々として組織の第一線で汗を流し、″生涯青春″の模範の姿を示してくださっていることは、喜ばしいかぎりである。私はうれしい。
 九月からは、まず群馬県下の「多宝会」「守る会」の方々の研修会が始まる。来年四月以降は、全国の同志を迎えての研修会が開始される予定である。
 また、研修会以外で、日常的には地元・吾妻あがつま本部の中心会場として、使っていただくことになっている。これから、この「多宝の王宮」「健康の宮殿」には、日本全国、また世界中から多くの同志が集ってくることであろう。群馬の皆さまには、お世話になると思うが、どうかよろしくお願い申し上げたい。
3  草津は古き歴史の町
 さて、ここ草津の歴史は古い。伝説では、日本武尊ヤマトタケルノミコトが発見したと伝えられる。湯を浴びたところ、疲れがたちまちに吹き飛び、目のさめるような、さっぱりとした心地になったという。
 また、奈良時代の僧・行基ぎょうきによるなど、その他の説もある。
 さらに、ちょうど八百年前の一一九三年八月、源頼朝が草津の地を訪れ、温泉を発見したともいわれる。
 浅間山のふもとの三原で狩りを行った頼朝は、草津の入り口までやってきた。すると、あたり一面に硫黄のにおいがたちこめ、地面から白い煙がのぼっているのが見えた。さっそく、草を刈り、そこを掘らせると、見事な温泉が湧き出したという。このとき、草を刈って、うるおい出た所なので「草津」と呼ばれるようになったという説もある。
 一般的には、硫黄のにおいが強いため、「臭水くさみず」と呼ばれ、それがなまって「草津」になったとされる。
 中世においては、「九相津くそうづ」「草生津くそうづ」「九草津くそうづ」「九佐津くさづ」などと呼ばれ、ほぼ江戸時代より「草津」に定着したという。
 時代がくだるにつれ、草津の存在は全国に知られるようになった。戦国時代には、傷の治療や疲労をいやすために多くの武将が訪れている。一時期、草津は、武田信玄の領地にもなった。また、豊臣秀吉も、はるばる大阪から草津を訪れたいと希望した。
 さらに江戸時代になると、将軍の御用温泉の一つとされ、八代将軍・徳川吉宗は、草津の湯を遠く江戸城まで運ばせたという。
 江戸中期には、全国の温泉をランクづけた温泉番付表が発表されるようになった。それによると、草津は常にトップの東の大関に選ばれている(当時、相撲の番付には横綱はなかった)。
 全国から注目されるようになった当時の草津の繁栄の様子は「草津千軒せんげん江戸がまえ」とうたわれ、多くの家々が建ち並び、まるで江戸のようににぎわった。
4  この草津を国際的に広く紹介し、「世界の草津」へ高めたのが、明治時代、ドイツから来た医学者のベルツ博士であった。
 ベルツ博士は、軽井沢から草津へと、幾度となく歩いて訪れている。距離にして約四十二キロ。大の健脚家であった博士は、馬やカゴを勧められても、「いや、私は歩いていく」と言って苦もなく歩き通したという。
 ベルツ博士は、草津を愛してやまなかった。日記には、草津の印象のなかで、こう記している。
 「草津には、無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、まったく理想的な飲料水がある。こんな土地が、もしヨーロッパにあったとしたら、カルルスバード(ドイツにあるヨーロッパ随一の温泉地)よりもにぎわうことだろう」
 「この温泉の特異な効力が知れわたれば、あらゆる国の人々がやって来ることは確実だ」
 「草津は将来、(中略)世界的の温泉場となるに相違ない」(トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』、岩波文庫)
 このベルツ博士の言葉通り、今や草津は、世界の憧れの天地となっている。この研修道場にも、ドイツはもちろん、世界の同志が訪れることであろう。
5  古来、草津の地を訪れた人は数多い。日本の著名な文人だけでも、小林一茶いっさ十返舎じっぺんしゃ一九いっく田山たやま花袋かたい与謝野よさの晶子あきこ長節ながつかたかし斎藤さいとう茂吉もきち志賀しが直哉なおや高村たかむら光太郎こうたろう若山わかやま牧水ぼくすいなどが訪れ、草津の風情を生き生きと描いている。
 また、ここ数年、ほぼ一貫して訪問客の数は上昇しているという。
6  草津の歩みは、温泉という宝を、人々が大切に守り合ってきた歴史でもある。
 草津の町民憲章に、「歩み入る者に安らぎを去り行く人に幸せを」とある。この言葉にも表れているように、草津は、″開かれた町″である。とりわけ、病める人、年配の人など弱き立場にいる人々を迎え入れ、その人たちに「再生の活力」を贈ってきた。
 我が創価学会も、社会に「再生の活力」を送り続けている。
 また、草津はスポーツも盛んである。
 夏はテニス、サッカー、ラグビー、冬はスキーと、多くの人がさわやかな汗を流している。まさに草津は「健康の町」と呼ぶにふさわしい。
 さらに、一九八〇年(昭和五十五年)から、保養客に音楽のプレゼントを贈ろうと、世界の一流の音楽家を招いて、「草津夏期国際音楽アカデミー」を開いている。これには民音も協力している。日本の温泉地では初めての試みであるとうかがっている。たいへんすばらしいことであると思う。
 昨今の「健康ブーム」で草津の存在はますます脚光を浴びている。「健康の町」「文化の町」「いたわりの町」・草津のますますの発展を心からお祈りしたい。
7  勝者・源氏は「戦う人間」に集い
 「おごる平家」を打ち倒し、源氏の天下を開いた源頼朝──。頼朝がここ草津を訪れてから、この八月で満八百年となる。その時に、研修道場がオープンした。
 ここで御書を拝しながら、頼朝について少々お話ししたい。
 頼朝が征夷せいい大将軍になったのが一一九二年。大聖人は、その三十年後の一二二二年に御聖誕されている。
 なぜ平家が滅び、源氏が勝ったのか──。当然、さまざまな角度から論じることができる。また、これまでも何回か述べてきた。
 たとえば指導者論の次元から言えば、平家は上のほうから貴族化し、軟弱になった。それに対し、源氏は、頼朝をはじめリーダーが、ただひたすら「仇討ち」の一念で敵に挑んだ。そこに決定的な一念の差があった。上に立つリーダーが、ゆるんだららいくさは負けである。
8  また、組織論から言えば、平家は妻子などを伴って都落みやこおちした。戦えない人間、戦わない人間(公家や女官など)を大勢かかえ、あっちに気を使い、こっちに気を使い、戦いに集中できなかった。
 それに対し、源氏は、戦闘集団であった。「戦う人間」の集いであった。余計なことには気を使わずに″さあ、やろうじゃないか″と一丸となって前進した。
 こうした微妙な心の差が興亡の分かれ目となったのである。
9  そうした分析とは別に、仏法の眼から見るとどうなるか。
 実は、平家は大謗法の天台座主ざす法主ほっす)ら誤れる宗教を頼みとして滅びた。
 それに対し、源頼朝は、法華経を尊んだゆえに、勝った。御書にはこの原理が説き明かされている。
 大聖人は仰せである。
 「天台の座主・明雲等の真言師等・数百人かたらひて源の右将軍頼朝を調伏せしかば還著於本人とて明雲は義仲に切られぬ安徳天皇は西海に沈み給う
 ──(平家側の安徳天皇は)天台の謗法の座主(第五十七世)の明雲らの真言師たち数百人を味方に取り込んで、源頼朝を倒す祈祷をさせた。そのため「還著於本人」(かえって本人にきなん)の経文通り、祈った座主の明雲みずらが木曽義仲に首を斬られた。安徳天皇は西海に沈まれた──。
 どんなに祈っても、邪信の祈りは叶わない。それどころか、正義の側に敵対するほど、かえって自分を滅ぼす。この原理は広布の歴史においても、厳然と見られる。
 平家の悲劇は、悪しき宗教と手を結んだ悲劇でもあった。それに対し、源氏はどうであったか。
 御書には、頼朝自身の言葉として、次のように記されている。
 「かたきを打つのみならず・日本国の武士の大将を給いてあり、これひとへに法華経の御利生なり
 ──(頼朝が語るところによれば)「(私は法華経を修行したことによって父の)かたきを討つことができただけでなく、日本国の武士の大将となることができた。これは、ひとえに法華経の御利益である」──と。
10  万年にわたる民衆勝利の大闘争
 さて大聖人は「開目抄」に仰せである。
 「沛公が項羽と八年・漢土をあらそいし頼朝と宗盛が七年・秋津嶋にたたかひし修羅と帝釈と金翅鳥と竜王と阿耨池に諍えるも此にはすぐべからずとしるべし
 ──沛公(劉邦りゅうほう)と項羽が八年にわたって中国の国土を争ったことも、源頼朝と平宗盛が七年にわたって日本で覇権はけんを争ったことも、また修羅と帝釈の戦いも、さらに金翅鳥(竜を食べるという大鳥)と竜王とが、阿耨池あのくちという大池で争ったことも、これ(日蓮大聖人の末法広宣流布の大法戦)を超えるものではないと知るべきである──。
 中国の歴史を画する項羽と劉邦の戦い、また日本史に際立つ源平の合戦──こうした天下分け目の戦いも、大聖人に直結した広宣流布の大闘争に比べれば足元にも及ばない。
 これほど永劫に輝く戦いはない。それは、我が心の中に永遠の福運の「種」を蒔く戦いである。
 私たちは、ますます闘志をたぎらせ、この乱世にあって、万年にわたる民衆勝利の道を堂々と開いてまいりたい。
 頼朝が信仰したのは、いうまでもなく、大聖人の御出現より前であり、法華経文底もんていの大法ではなかった。それでも日本の総大将という果報があった。
 いわんや、これだけの大難を受けながら、大聖人の仰せどおりに、「最極さいごくの妙法」を弘めゆく学会が、世界一の大果報に包まれゆくことは、絶対に間違いない。
 この素晴らしい多宝研修道場も、大聖人が学会へのご褒美としてくださった″福徳の城″であり、皆さまの″大福運の象徴″と信じたい。
11  また、大聖人はこのようにも仰せである。
 「生年三十二より今年五十四に至るまで二十余年の間・或は寺を追い出され・或は処をわれ・或は親類を煩はされ・或は夜打ちにあひ・或は合戦にあひ・或は悪口数をしらず・或は打たれ或は手を負う・或は弟子を殺され或は頸を切られんとし・或は流罪両度に及べり、二十余年が間・一時片時も心安き事なし、頼朝の七年の合戦もひまやありけん
 ──(私は)三十二歳の年から今年五十四歳になるまでの二十余年の間、ある時は寺を追い出され、ある時は住む所を追われ、ある時は親族を苦しめられ、ある時は夜討ちに遭い、ある時は合戦に遭い、あるいは悪口を数知れずいわれ、ある時は打たれ、ある時は傷を負い、ある時は弟子を殺され、ある時は頸を切られようとし、ある時は二度も流罪に処せられた。この二十年あまりの間、ひとときも片時も心安らかなことはなかった。源頼朝が平家と戦った七年間でも、そのなかには(戦いの止んだ)いとまはあったであろう──。
 大聖人の大闘争には、わずかばかりの暇も、あられなかった。私たちも、身命を惜しまず、ただ御書の仰せ通り、師である戸田先生の指導通りに進んできた。だからこそ今日の大勝利、大発展がある。この師弟の正道を永遠に忘れてはならない。
12  戸田先生は、草津の地を訪れたことはなかったが、よく「草津に一度行ってみたいな」と語っておられた。また温泉をめぐって、武田信玄の話をしてくださったことを思い起こす。
 「信玄は、各地に「隠し湯」をもっていて、傷を負った兵士たちの治療と休養のために温泉を利用した。そこで皆の体を癒し、さらに壮烈な戦いへと挑んでいったのだ」と。
 まして私たちの広宣流布の戦いは、世界最高、人類最上の法戦であり、長く険しい道のりである。ゆえに、体を大切に、また体を鍛えながら、次の戦いに備えていくことが大事である。
 戸田先生は、学会の目指すものは、人類を幸福にする「宗教革命」であるといわれた。
 「私の念願としているところは、宗教革命である。ふつうの、いわゆる革命と違い、人を殺したり、共産主義革命のように、明治維新のように、家を壊し、女房、子どもにひもじい思いをさせる革命、このような革命は、革命のうちにはいらぬ。宗教革命というものは、からだがじょうぶで、金がもうかって、老年になって月に二回ないし三回ぐらいは温泉にはいって、そして幸福に暮らしながら、革命ができるのです」(昭和二十九年、一月度本部幹部会)
 私どもの進む道は、人も自分も、ともに幸福を満喫しながら、時代と社会を変えていく、偉大なる革命である。戸田先生は、″仏子である学会員の労をねぎらい、疲れをいやしてあげたい″──常にそう念じ、祈っておられた。偉大な境涯の先生であられた。
13  学会の研修道場・会館は現代の精舎
 この研修道場には温泉もあり、すぐ近くには見事な滝がある。(「嫗仙おうせんの滝」。「多宝の滝」と愛称が付けられた)
 中国の天台山にも「竜門りゅうもん」と呼ばれる大きな滝がある。
 御書にも「唐土に天台山と云う山に竜門と申して百丈の滝あり」と仰せである。
 また、霊鷲山りょうじゅせんのそばにも温泉がある。霊鷲山は、マガダ国の都・王舎城おうしゃじょうの近く。王舎城は、釈尊の四十数年にわたる教化活動の一大拠点であった。このそばに、インドでは珍しい温泉が出る。
 王舎城は周囲を山に囲まれた城塞都市である。岩山の一つには「多宝山」もある。そのほか、主な山が五つあるが(「五山」)、その一つヴァイバラ山の麓に、温泉はある。有名な「竹林精舎」の西に当たり、「温泉精舎」とも呼ばれる。
 「精舎」とは仏道修行のための施設である。現在でいえば、学会の会館や研修道場に当たろう。
 この温泉精舎は、現在はヒンズー寺院になっているようだが、もちろん釈尊の時代も利用されていた。釈尊や門下の人々も、この湯に入ったとされる。
14  川が流れており、橋を渡って温泉精舎へ。インドでは習慣として下着を身につけて入る。「温泉は何より心を清めるところであって、肉体を清めるのは二の次である」とされるからである。ガンジス川等で「沐浴もくよく」し、心を清めたいという思想に通じよう。
15  仏法では、「温泉」や「湧泉ゆうせん」を「心を洗い」「心身をよみがえらせる」ものとして、「法」の水にたとえる。
 たとえば、(法華経の開経である)無量義経にも「たとえば水の垢穢くえ(あか)を洗うに(中略)法水ほっすいまたまたかくごとし、能く衆生のもろもろ煩悩ぼんのうあかを洗う」(開結八八㌻)とある。
 また「仏の名を唱え、生命を清浄にする」ことにたとえる(唱題)。また、「清浄」や「悟り」の状態のたとえにも使われる。
 生命を清らかにする「善知識」のことを「沐浴もくよくの人」と呼んだ経文もある。
 このように、仏法では、「温泉」や「湧泉」は、いのちを清らかにする仏道の象徴となっているのである。
 その一例が次の経文である。
 「菩提心ぼだいしんなお湧泉の如し、智慧ちえの水を生じて窮尽くじんなきがゆえに」(華厳経、対象十巻)
 ──(悟りを求める)求道心は湧き出る泉のようである。(それは、求道心こそが)智の水を、くめども尽きぬよう生じさせるからである──。
 師匠への、傲りなき謙虚なる「求道」の一念こそが、限りない「智慧の泉」を胸中に湧き出させていくのである。
 なかんずくリーダーは真剣に御書を拝さねばならない。自分自身の「信心」を深めるために。正しき「仏法の眼」を養うために。また会合で話をする場合も、必ず御書を拝するようにしてはどうかと全幹部に提案申し上げたい。
 ともあれ、群馬多宝研修道場をはじめ、学会の研修道場・会館は、「求道」の力で「智慧の泉」をあふれさせ、個人と社会を蘇生させゆく、現代の「精舎」といえよう。
16  尊き「妙法の証明者」「学会の証明者」たれ
 「多宝」とは、法華経に出てくる多宝如来の名前である。多宝如来は「法華経の証明者」であり、仏道修行をしているときに、こう誓った。
 「自分は、成仏したら、法華経が説かれる所があれば必ず、そこに出現して、『すべて真実なり』と証明しよう」
 その誓い通り、釈尊が霊鷲山で法華経を説いたときも、宝塔とともに出現し、「皆是れ真実なり」と証明した。
 多宝会の方々は、長い間、仏道修行を重ねてこられた。多くの功徳の宝を得てこられた。
 その体験をもとに、その確信をもとに、妙法の証明者、学会の正義の証明者として、「皆、これ真実なり」と証明していっていただきたい。
17  多宝如来とともに出現した「宝塔」については、深い意味があるが、大聖人は高齢の阿仏房に、「阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」と仰せである。
 そして「此れより外の才覚無益なり」──(要するにこれだけを知っていればよい)このほかの才知や学識は無用である──。
 自分自身が、多くの宝で荘厳された「宝塔」である、「宝塔」とは自分自身のことである──これだけ知っていれば十分なのだと仰せである。
 大聖人直結で広宣流布に生きゆく人の生命こそが「宝塔」なのである。
 この明快な御言葉をまっこうから否定し、広布の仏子を迫害したのが日顕宗である。
18  日寛上人″懶惰懈怠の僧は外道″
 日寛上人は、ここ群馬のご出身である。「信心は大聖人の時代にかえれ、教学は日寛上人の時代に還れ」が、戸田先生の叫びであった。
 日寛上人は「当流行事抄」の中で教えられている。
 「行者まさに知るべし、受けがたきを受け、い難きに値う、曇華どんげにも超え浮木ふぼくにもすぐれたり。一生むなしくごして万劫ばんこう必ずゆ。身命をしまずしてすべから信行しんぎょうを励むべし。円頂方袍えんちょうほうほうにして懶惰懈怠らんだけだいの者はれ我が弟子にあらず、すなわ外道げどうの弟子なり云云うんぬんつつしむべし慎むべし、つとめよや勤めよや」(六巻抄194㌻)
 ──仏道を修行する者は、まさに知るべきである。受け難き人身を受け、あい難き正法にあうことは、優曇華うどんげ(三千年に一度咲くといわれる花)のたとえ、一眼いちげんかめと浮木の譬えをもってしても、あらわすことのできない大福運なのである。
 この一生をむなしく過ごすならば、万劫ばんこうにわたり必ず悔いを残すであろう。
 身命を惜しまず、信行に励むべきである。円頂(剃った頭)、方袍(袈裟の姿)の僧侶の身でありながら懶惰懈怠らんだけだい(なまけ、おこたること)の者は、我が弟子ではない。すなわち外道の弟子である。慎むべきである。慎むべきである。勤めなさい。勤めなさい」──。
 堕落の僧は仏弟子ではなく、我が弟子ではないと──日寛上人は、日顕宗の「外道」への堕落をどれほどお怒りのことであろうか。
19  また日寛上人は、「観心本尊抄文段」の中で仰せである。
 日寛上人「祈りとして叶わざるなく」
 「しばらくもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、すなわち祈りとしてかなわざるなく、つみとして滅せざるなく、福としてきたらざるなく、理としてあらわれざるなきなり」
 この無量の功徳を確信して、進んでまいりたい。
 この不思議なる天地、素晴らしき天地に誕生した世界の同志の王宮を、草津に来たいと言われていた戸田先生も、必ずや喜んでくださっているにちがいない。本当におめでとう!

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