Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第六十八回本部幹部会、群馬県総会 民衆に根ざして生きる勇者こそ最強

1993.7.7 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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2  ポルトガルに、有名な詩人・ジュンケイロ(一八五〇〜一九二三年)がいる。
 彼は七十年前のきょう七月七日に亡くなった。私と同じくブラジル文学アカデミーの在外会員である。
 彼の言葉に、「夜明けを迎えるすべての人には、希望の笑顔が輝く」と──。
 私はこの言葉に、あの地この地で戦う皆さまの笑顔を思い浮かべる。どうか皆さまは、″広布の夜明け″へ、楽しく、おもしろく、朗らかに進んでいただきたい。
3  中村元博士「『奴隷の学問』に反撃した牧口氏」
 東京大学名誉教授の中村はじめ博士といえば、日本最高峰の世界的な仏教学者であられる(東方学院院長、比較思想学会名誉会長)。私が創立した東洋哲学研究所とも親しくしていただいている。
 その中村博士が、このほど発刊された近著『比較思想の軌跡』(東京書籍刊)の中で、牧口初代会長への高い評価を述べておられる。
 これは「奴隷の学問をのり超えて」と題する講演を収録したもので、当初、比較思想学会の大会(第十五回)のために発表されたものである。一般には、今回初めて、広く紹介されたことになる。
 昨日(七月六日)は、ちょうど牧口先生の法難から五十周年。この″時″に、日本の学術界の最高峰からの評価が公刊されたことは、私たちにとって、うれしい出来事である。
4  講演の中で博士は″日本の学問は、外国の学者の研究に「注釈」をつけてきただけであり、自分で考えることをしなかった。その意味で、精神的には自立しておらず、自信がない。「奴隷の学問」である″と厳しく批判されている。さらに、「では、日本人がすべて自信がなかったかというと、決してそうではない。いわゆる知識人と呼ばれている人々に自信がなかった」と。
 一流の人の言葉は違う。簡単な表現のようだが、日本の社会のもろさ、底の浅さを鋭く突いておられる。知識人、インテリ──だれよりも利口で、キャリア(経歴)もあり、明確な展望もありそうな人々が、実は自信がない。
 指導的立場にある人が、一時の″時代の風″やムードに流されてしまうのも、哲学と信念がなく、自信がないからなのである。その自信のなさを取りつくろうために、ことさらに権威に寄りそったり、自分を偉く見せようとする。″仮面″であり、本物ではない。残念ながら、この点、日本は今も変わっていないようだ。
 「しかし」と、中村博士は述べておられる。
 ──しかし、「民衆に根ざして生きていた人」「迫害にも抗した人」は、「ものすごい自信をもっていた」と。
 迫害に遭い、批判され、しかも、それに負けることなく、民衆とつながり、民衆に尽くした人──この人こそが、本物なのである。
 この一点を見ても、牧口先生、戸田先生の偉さが、しのばれる。
5  中村博士は、論じておられる。
 「西洋思想に対して批判的であった一つの例としてわたくしが感ずるのは、牧口常三郎である」
 「なぜわたくしが注意するようになったかというと、わたくしの学生時代(昭和初期)から、哲学とは新カント派の『真善美』、あるいは『聖』を付け加えて、価値の体系を立てる。どの(日本の)哲学者もそのとおり講義していて異論をはさむ者がいなかった。
 で、わたくしは密かに考えてみたのである。これらの諸々の価値は矛盾することがある。日本の古典を見ても、これらの価値が矛盾するというような場合はいくらもある。
 ところが、大学の哲学の先生は、そういうことには全く関係なく、ただヴィンデルバントとかリッケルトとかの(西洋の哲学者の)言われたことをずうっと述べている。それに対して反撃をくらわしたのは牧口常三郎一人だけなのである」
 (ヴィンデルバント<一八四八年〜一九一五年>、リッケルト<一八六三年〜一九三六年>は、カントの流れをくむドイツの哲学者)
 皆、西洋の哲学者の説を輸入し、″うのみ″にして、繰り返すばかりだったとの指摘である。
 ところが、牧口先生は、ただ一人、そびえ立つ当時の権威に対して、真っ向から、反撃したのである。
 「そのことを知ったときに、わたくしは驚いた」──博士は、こう述べられている。
 「『真善美聖』という価値の領域から、彼は『真』と『聖』とを除いて、そのほかに『利』を設定した」
 美・利・善の価値体系である。
6  人のためを図る「利」は、仏教の核心にある価値
 「『利』というと利益を連想されるけれども、しかしこれは、案外、東洋哲学の核心に迫るものだと思われる。仏教でいちばん大事にするものは何だというと、結局、『人のためを図る』『人のためになる』ということである。
 その『ために』というのをサンスクリット語で『アルタ』(artha)という。これを『利』と訳すこともあれば、『義』と訳すこともある。『利』と『義』では違うと言われるかもしれないけれど、両方の意味にかかわる。人のためにもなり、それがまた自分のためにもなる、というところに一つの中心を置いているわけである」
 「利」というと、すぐに商売の利益とか、利息のことかと思う人がいる。また現世利益とか、利己主義を連想する人もいるようだ。
 しかし、実は、「人のため」に、「利」が説かれた本義がある。
 「人のため」「民衆のため」「人類のため」に私たちは戦っている。そこに仏教の核心の生き方があり、哲学的には、大いなる「利」の価値、「善」の価値を創造しているのである。
 「わたくしは牧口常三郎の思想をとくに研究したこともなく、また評価することもできないが、『人のためを図る』ということは仏教の基本精神であり、大切なことであると思う。ところが、日本の西洋哲学研究者は、そこまで思いをはせることがなかったのではないか」
 博士は、牧口先生だけが、他の学者とは違って、「何かそこに自分なりの統一を見出そうとした」と。
 「そういう努力をしたというところには、自分で考える態度が見られる。だから、そこは自主的で、己が主人だったわけである。
 ところが、残念なことには大学の諸先生は、西洋哲学に対してどこまでも隷属的な態度をとっていたのではないか。そこまで言ったら言いすぎであろうか」
 このように論じておられる。牧口先生だけが「奴隷」ではなかったとの評価である。
 私たちも、いかなる権威にも惑わされない自立の人生でありたい。確固たる信念に生きる自立の信仰者でありたい。
 しかも、牧口先生の価値論は、「人のために」という仏教の核心と合致しているとの指摘である。そして先生は、論じるだけではなく、身をもって「人のために」生き、そして信念に殉じられたのである。
 五十年前、日本はこの偉人を投獄し、獄死させた。だが、ようやく日本も、牧口常三郎という偉大な先覚者の価値を見いだしつつある。中村博士の評論は、そのことの例証と思い、紹介させていただいた。
7  また折しも、今朝、ベセル博士と話をされた方から報告が届いた。博士は、アメリカの比較教育学の第一人者で、初代会長の「創価教育学」を長年にわたり研究されてきた。現在、牧口先生の『人生地理学』を翻訳しておられる。
 その『人生地理学』について博士は、感嘆して次のように語っておられたという。
 「牧口常三郎は、すべてを驚くべき視点でとらえていた。他の人々とは異なった観点で、ものごとを見る眼をもっていた」
 「彼は自然のすべての要素に対し、深い思いをもっていた。すべてを畏敬と感動をもって見ていた」
 「人間と自然界との関係、すなわち相互に及ぼし合う影響について深い関心をもっていた。それ以上に、人間の環境を全体的で総合的な視野をもって見ていた。人間社会対自然界、というように二つに立て分けることはしなかった」──と。
 牧口先生の先見性は、今や世界的な評価を勝ち取りつつある。私たちは、この先師を大いなる誇りとしてまいりたい。
8  「たたえる心」に学会の強さ
 さて創価学会は、なぜ勝利したのか。
 それは、「日蓮大聖人の仰せ通りに進んできた」からである。そして、大聖人の御心を拝して、常に「学会員を大切にした」からである。
 「会員を幸福にする」「会員を喜ばせる」──この一点に徹してきたがゆえに、学会は勝ち、発展した。
 反対に、会員を手段にしたり、利用し、いじめる──この罪は、御書に照らして、限りなく重い。宗門はいうまでもない。議員であれ、弁護士であれ、幹部であれ、例外はない。
 学会員が、あまりにも人柄が良いことに付け込み、利用したり、いばったり、怒ったりする。そうした人は、必ず行き詰まる。やがて美しい学会の世界には、いられなくなっていく。
 会員を大切にする──その具体的な実践の一つを挙げれば、「ほめたたえること」である。
 御書を開くと、大聖人は常に信徒を心から、ほめたたえておられる。御書には、「信徒への称賛」の御言葉が、いたるところに、あふれている。
 その御心が、宗門には読めない。多くの指導者には読めない。
9  また有名な御文であるが、大聖人は「諸法実相抄」に、こう仰せである。
 「余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり、是ほむる処の言よりをこり候ぞかし
 ──あまりに人が自分をほめる時は、「どんなふうにでもなろう」という心が出てくるものである。これは、「ほめる言葉」から起こるのである──と。
 あんなに、ほめてくれるのだから、やろう、と。これが人情である。いつも、いやみばかり、追及ばかり──これでは、いやになってしまう。
 ある婦人部の幹部は「皆、どうして、ほめてあげられないのかしら」と。心が小さく、狭い人は、なかなか人をほめられないのかもしれない。それでは自分も周囲の人も損である。
 大聖人は、「法華経の功徳はほむればいよいよ功徳まさる、二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと思食すべし」──法華経の功徳は、ほめれば、いよいよ功徳が多くなる。法華経二十八品は、教えそのものは、わずかであり、ほめる言葉こそ多いと知りなさい──と。
 法華経を行じている「人」をたたえることは、「法」をたたえることに通じる。
 広宣流布に戦っている学会員は、大聖人のお使いであり、「仏子」である。その学会員を、ほめれば、自分が功徳を受ける。自分の仏界が強まる。相手を、ほめているようでいて、実は、かえって、自分の仏界をも賛嘆しているのである。
 「自他不二じたふに」──自分も他人も一体、の法理である。
 「御義口伝」には、この「自他不二」についてわかりやすく仰せである。
 「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」──鏡に向かって礼拝するとき、映った姿もまた、(こちらのほうを向いて)我が身を礼拝するのである──と。
10  「阿仏房御書」には仰せである。
 「多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う」──多宝如来の宝塔(御本尊)を供養されるかと思えば、そうではない。あなた(阿仏房)は、我が身を供養されているのである──。
 「御本尊を供養する」ことは、「我が身を供養する」ことである、と。
 「御本尊を大切にする」ことは、実は「我が身の御本尊を大切にする」ことなのである。
 ここに信心の究極があり、仏法の真髄がある。
 また「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」「阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」と仰せである。
 ″あなたが宝塔(御本尊)なのですよ、宝塔はあなたなのですよ″──この大聖人の教えを、宗門は無視し、ねじまげ、自分たちだけが尊いとして、権威主義で信徒を抑えつけてきたのである。
 牧口先生、戸田先生は、そうした宗門の本質を、鋭く見破っておられた。大聖人の仏法は、まったくここにはない、と。
11  広宣流布の仏子を大切にすることは、我が身の仏界を大切にし、強めることになる。頑張っている人を、たたえればたたえるほど、自身にも組織にも「福運」と「勢い」がつく。
 仏子を「ほめたたえる心が強い」ことが、「仏界が強い」証拠でもある。「御本尊をたたえ、広宣流布の勇者をたたえることのできる人」が「仏界の強い人」である。
 また、日寛上人は「信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(六巻抄22㌻)と。
 宗門が、「信徒をほめられない」のは、それ自体、「仏界」すなわち強き「信心」が消えている証拠なのである。
12  もちろん「善人は、ほめれば、もっと善くなり、悪人は、ほめれば、もっと悪くなる」ことも事実である。これはイギリスの著述家・フラーの言葉である。
 戸田先生も、同じ趣旨の話をされていた。悪を増長させてはならない。
 ゆえに、「広布の同志」は徹底して、たたえることである。そして「広布の敵」は徹底して、たたくことである。それが正しい仏法の在り方となる。
 「自他不二」であるゆえに「広布の敵」の悪に妥協した分、「自分自身の生命」の悪をも許すことになってしまう。それだけ自分が不幸の方向へ進んでしまう。
 悪の″根″を切る戦い。それは我が身の悪の″根″を切り、不幸の″根″を切る戦いなのである。
 ほどほどに妥協し、″根″を残したならば、やがて、また悪の草が茂ってくる。自分の生命にも不幸の″根″が残り、自分自身が、また苦労することになる。
 ゆえに、どこまでも「友をたたえ」「敵と戦う」──この精神で、晴れ晴れと進みたい。
13  「未来」を選ぶのは自分自身
 最後に、ユゴーの話をしたい。
 人生には、さまざまな苦難がある。どんな人も、何らかの苦難がある。
 ユゴーは言う。
 その苦難に対して、(1)あきらめるか(2)傍観するか(3)飛び込んでいくか──これによって「未来」は大きく変わると。
 まず、何かあると、すぐに、″できない″″私には力がない″とあきらめる人。それは「弱虫」である。その人にとって、未来は「不可能」でしかない。何ひとつ素晴らしいものを生めない。幸福もない。
 次に、手をこまぬいて何もせず、″私は知らない″″私には関係ない″と傍観する人。それは「卑怯者」である。その人にとって未来は、いつまでも「不可知」なまま、わからないままである。
 学会の幹部にも、こういう人間はいる。行動しないのだから、結局、受け身の人生である。晴れやかな喜びはない。無責任なのだから、充実もなければ、向上もない。最後は不幸である。
 第三に、″断じて私は負けない″と雄々しく現実の真っただ中に飛び込む人がいる。ユゴーは、その人こそ「哲人」であり「勇者」であると。
 その人にとって未来は、「理想」として現れると論じている。明るく美しい未来が約束されている。これは仏法の説く生き方にも通じよう。
 三つの生き方に三つの未来。心ひとつで、行動いかんで、未来は変わっていく。人生に対するユゴーの深き洞察である。
 大聖人は、「臆病にては叶うべからず」と繰り返し仰せになっておられる。妙法には無限の力がある。しかし、それを引き出す人の信心が臆病であってはならない。願いも叶わない。
 皆さまは、広宣流布という大いなる「理想」に向かって、日々、現実のなかへ飛び込んでおられる。皆さまこそ、偉大な「哲人」である。「賢者」である。「仏使」であられる。
14  ユゴーは叫んだ。「弱虫よ黙れ! 卑怯者よ黙れ!」
 ″あきらめの心、傍観の心、それを私は打ち破ろう。そして我が「理想」へと、未来の征服に出かけよう!″──。
 私たちも、この心意気で、進み、戦い、勝ち抜いてまいりたい。それが、輝く「我が人生の完成」となる。「勝利の完成」となる。「幸福の完成」となる。
 長時間、ご苦労さま。ありがとう! どうか、お体を大切に。朗らかに、楽しく勝利し、素晴らしい″夏休み″を迎えましょう!

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