Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表幹部会 広布の山に向かって共に歩もう

1993.6.28 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

前後
2  インタビューの中で、戸田先生は、「創価学会に青年が多いのはなぜか」について、こう答えられた。
 「学会に青年が多いのは、哲学が深いからです」と。
 端的に急所を突いた、鋭く、深い、鮮烈(せんれつ)な答えであった。
 指導者は、こうでなければならない。パッと聞かれたら、パッと明快に答える。歯切れよく、わかりやすく、「なるほど」と、印象に残る話をする。それが「力」である。
 戸田先生は「若い青年は、それ(哲学)を究めようとする。究めようとすれば、ますます山が高くなってくる。だんだんと山に登りますから、楽しみも増えるというわけです。ですから、青年は、ついたら離れないのです」と。
 仏法は、「宇宙」と「生命」の法則を完璧に説ききっている。人間の宿命、生死の問題を解決する大法である。観念ではなく、現実に根差し、社会をリードしていく哲学である。仏法は、いかなる思想・哲学よりも奥が深い。
 その仏法を実践する求道の青年を、戸田先生はだれよりも愛しておられた。青年への慈愛がほとばしる、インタビューのやりとりをうかがいながら、私は戸田先生の偉大さをあらためて痛感した。
3  先生は「私も、自分自身も、その道を歩んでいるのです。ただ一歩先か、二歩先かの問題です。″山を究めた″と言っているのではないのです。″山を目指して一緒に歩こう″と言っているのです」と。
 「山を目指して、一緒に歩こう」──これが戸田先生のお心であった。上から傲慢に見みおろしたり、命令主義になることなど、まったくなかった。
 仏法の世界は、皆、平等である。私も同じ精神である。
 「広宣流布の山」も、一つの峰を踏破すれば、またさらに、大いなる展望が広がる。そして新たな峰を目指して、皆で朗らかに、上へ上へと登っていく。これが私たちの人生であり、最高に張り合いのある生き方である。
4  インタビューの最後に、戸田先生は、「一番大きな喜びは何ですか」との質問に対して、「どこにいても生きがいを感じ、喜んで生きていけることが、うれしい」と答えられた。
 世間は無常であり、一時の栄誉も喜びも、すぐに変化してしまう。しかし、仏法の法則だけは、永遠に不変である。
 結局、自分の人生に、この「永遠にして最高の軌道」をもっているか否か──この一点こそが、最も重要となる。
 大事な人生である。ただ空しく遊び暮らして、一生を終わらせてしまうのも自分。偉大な仕事に取り組み、幸福の充実感を得るのも自分しだいである。
5  先日、ある人が言っていた。「いよいよ夏。どうせ暑さに汗をかくのだから、私は偉大なことに汗を流そう」と。こうした張りのある人、喜びをもって生きる人は、いつも若々しい。
 私たちの広宣流布は「人類を救う大運動」である。狭い日本だけではない。世界が相手である。
 活動も、選挙の支援だけやっているわけではない。それは、一次元である。文化運動、教育運動、平和運動、人間革命運動、仏法運動、哲学の探究運動、そういう運動を全世界的に展開しているのである。人類の未来のために、これほど多角的に、広い分野にわたる活動を展開している団体はないであろう。他は政治次元だけの運動である。どうか、この最高に誇りある道を、広布の「山」へ向かって、一緒に進み抜いていただきたい。
6  ログノフ博士「人類には『人間革命』が必要」
 先日(六月十六日)、ログノフ博士(モスクワ大学前総長)とお会いした(十一回目)。立派なひげをたくわえられた博士は、世界最高の賞にも値する偉大な学者であられる。アインシュタインのようだ、という人もいる。
 その会談の後、博士は、SGI(創価学会インターナショナル)の代表や、対談連載中の月刊誌「潮」の関係者と懇談された。その内容を、報告されたままに、話させていただきたい。
 「私は、今回の訪日、また池田先生との『科学と宗教』の対談、そのすべてが、夢のような素晴らしい人生の思い出を刻ませていただいていると感謝しております。本当にありがとうございます」──まず、こう、前置きされた。本当に謙虚な方であられる。
 「池田先生とは、一九八一年の四月に、創価大学で、初めてお会いしました。先生は、実に不思議な方で、お会いするたびに、私の人生とは異なる、私の人生にない、新しいものを発見させてくださいました」
 「昨年四月、池田先生から『私と″科学と宗教″について語り合いましょう。後世に残る対談を協力してやりましょう』とのお話をいただいたとき、本当に驚きました。正直言って、私の心の準備はできていませんでした」
 「これは大変な課題をいただいたものだ、と思いました。人類にとっての、これほど大きな課題について、考えたこともありませんでした。人生の総仕上げの時に入って、私は、なんと幸せな、なんと充実した時間を、池田先生から頂戴したことか──そう、心から感謝しております」
7  博士は、超一流の科学者である。何を質問しても、答えは明快である。その博士が、ありのままに正直な真情を吐露しておられる。立派な博士であると、私は深く感銘した。海外の名士には謙虚な人間性がある。
 「無神論の教育を受けた私にとっては、(対談は)″骨の折れる仕事″になることは覚悟していました。以来、私なりに一生懸命、勉強し、熟慮しました」
 「十数年前から、池田先生とお会いして、宗教の話もうかがいました。学会の皆さんからも話を聞きました。当初は、たいへんむつかしいし、興味ももっていなかった。理解にも、ほど遠いものでした」
 「しかし、″科学と宗教″というテーマをいただいてから、池田先生との折々の懇談、会見の話題などが次々と思いだされ、それまで理解できなかったことが、漠然とですが、わかるような気になってまいりました」
 「そして、この一年間、私は池田先生の存在、池田先生の指し示してくださっている方向こそが、人類の未来にとって正しい方向であり、袋小路に入らない道だ、と確信するにいたりました。
 池田先生が指し示してくださっているように、社会の向上、世界平和、また直面する環境問題等々、すべてが『人間革命』『精神革命』によらなければ実現できないのだ、という思いにいたりました」。
 「物理学でもそうですが、ものごとを正しく理解する人があまりにも少ない。その意味では、プーシキンはじめ、ゴーゴリ、トルストイといった偉大な人物も、当時は十分には理解されなかった。ごく少数の人々だけが理解し、死後はじめて、真の偉大さが証明されていったという歴史があります」
8  プーシキン、ゴーゴリ、トルストイ──私も、若き日に、彼らの作品を徹底して読んだ。戸田先生は言われた。
 「世界的な文学を読みなさい。そうすれば、『御書』がよくわかるようになる」。
 先生一流の教育法であった。私は、いつも聞かれた。
 「きょうは何の本を読んだ?」「この本はどうか?」
 それに、すぐに答えなければ、ご機嫌が悪い。叱られてしまう。それほど、厳しかった。
 ログノフ博士は「池田先生に対しても、彼らと同じように、本当に理解する人は少ないかと思います。池田先生の本当の偉大さというものは、もっともっと時間をかけて、後世に続く人々が証明していくのであろうと思います。否、皆さま方が証明していかねばならないともいえます」
 「いずれにしても、私は池田大作というその人と知己を得た。共同の仕事をさせていただいている。そのことに限りない喜びを心から感じています。改めて池田先生に感謝したい、そう伝えてください」──。
 私自身のことでもあり、大変、恐縮だが、私たちは同志であるゆえに、そのまま紹介させていただく。
9  ″すべてを喜びに変える″のが人生の達人
 さて、会談のなかで、私は、博士も愛読されているトルストイの言葉を引いた。
 「喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい」
 喜べ!──これがトルストイの一つの結論であった。何があっても喜んでいける人生。そこには人間としての大境涯があり、強さがあり、幸福がある。
 反対に、何があっても、文句ばかり、批判ばかりの人生。それでは、たとえ外見は立派そうに見えても不幸である。
 トルストイは、一九〇一年、教会から破門された。七十二歳という晩年のことである。海外からも尊敬を受けている偉人を、こうすれば困るだろうと「破門」──。
 しかし、その権威の画策を、彼は、歯牙にもかけない。悠然と見下ろしていた。
 「喜べ! 喜べ!」。その信条は変わらなかった。彼には、燃え上がる″闘争の一念″があった。
 トルストイの生涯は、創作の苦しみ、家庭生活の不幸、自分の体の不調など、すべてが順風というわけではなかった。しかし文豪の魂は、どこにあっても、いかなるときでも「喜び」を求めた。「喜び」をつくりだしていった。
 仏法に通ずる生き方といえる。皆さまも、そうした人生であっていただきたい。
10  大聖人は、「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せである。
 広布の人生は、「大歓喜」の人生である。
 さらに、「流人なれども喜悦はかりなし」──流罪の身ではあるが、喜悦は計(はか)り知れない──。
 「御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし」──(権力による)処罰を受けたので、いよいよ喜びを増すのである──
 「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」──大難が来れば強盛の信心(の人)は、いよいよ喜んでいくべきである──と。
 また、竜の口の法難の際にも、(門下の四条金吾に)「これほどの悦びをば・わらへかし」──これほど喜ばしいことではないか。笑いなさい──と仰せになっている。
 苦難があれば「賢者はよろこび愚者は退く」──賢者は喜び、愚者は退く──。これが大聖人の教えである。
 挑戦すべきことがあればあるほど、いよいよ喜び勇んで進んでいく。さっそうと戦っていく。これが仏法の真髄である。人生の究極の生き方である。
 ″喜べない人生″は不幸である。「また活動か」、「またか」「大変だな」などと、いつも下を向き、苦しい顔をして、文句や批判ばかり。これでは御書に反してしまう。
 すべてに「喜び」を見いだしていける人。すべてを「喜び」に変えていける人。その人こそ「人生の達人」である。
 「佐渡御書」には、「賢聖は罵詈して試みるなるべし」──賢人、聖人は罵って、(本物かどうか)試みるものである──と仰せである。
 どんな批判をも耐え抜き、それでも悠々と喜びの人生を送っていけるかどうか──そこに本当に偉大な人かどうかの分かれめがある。
 すべてに喜びを見いだしていく──自分が喜べば、周囲も、さわやかになる。笑顔が広がる。価値が生まれる。
 リーダーは、何より皆が「喜んで」前進できるように心を砕くことである。
 怖い顔をして、すぐにどなるような幹部では、皆がかわいそうである。リーダーとして長続きしない。仮に学会の中では周囲の忍耐に支えられて続いても、社会では通用しない。
11  「さわやかな笑顔」に、まったく無縁なのが日顕宗である。いつも、威張ってばかり、どなってばかり。自分も周囲も荒廃している。
 政治家も、支持者の恩を深く感じ、心から大切にするのが、人間としての当然の道である。そして支持者のため、社会のため、世界のために、一生懸命に働くのが使命である。威張ったり、問題を起こして迷惑をかけたり──そんな人間を応援する必要など、まったくない。
 皆さまは、こんな人間たちに馬鹿にされては絶対にならない。学会があまりにも私心なく、誠実であるために、悪い坊主や政治家や、学者、売文家が、つけ上がり、利用しようとする。そんな時代は二度と繰り返してはならない。
 今は私が一人、矢面に立っているから、まだよい。しかし将来は、悪人が、ずる賢く動き始めるであろう。そのとき、絶対に悪を許してはならない。学会を守りきっていただきたい。
12  われらこそ「日本の柱」「世界の希望」と
 今年は「九三年」──あのフランス大革命は、一七九三年を大きな節としていた。ユゴーも(小説「九十三年」で)描いた、政治上の大変革の年である。
 また昨年、一昨年は、私たちにとって「宗教革命」「宗教改革」の年であった。僧侶による権威的宗教を打倒した歴史的な年であった。
 私は、三十数年前の総務時代から明言していた。「宗教革命は即、政治革命、政治改革につながっていく。それが歴史の方程式である」と。
 私はやがて、この理想が実現すると信じている。
 ところで本日は、海外からも多くのメンバーが参加されている。遠いところ、ご苦労さまです!
 また、今回の東京の同志の活躍に対して、海外七十カ国の友から祝福のメッセージが寄せられている。心から感謝申し上げたい。
 私たちの戦いを「世界」が待っている。広い「地球」が、私たちの舞台である。
13  大聖人は、「種種御振舞御書」で仰せである。
 「日蓮にりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり」──日蓮によって日本国の有無(存亡)は決まる。たとえば、家に柱がなければ保てず、人に魂がなければ死人である。日蓮は、日本の人の魂である──と。
 「日本国の存亡は日蓮によって決まる」──大聖人直結の私たちは、この烈々たる御確信を忘れてはならない。
 戸田先生は、この御文を講義されて、仏意仏勅のままに進む学会の誇りを語られた。「この創価学会を倒したならば、日本のほんとうの繁栄はないのです。創価学会こそ日本の国の柱であり、眼目です」と──。これが戸田先生の確信であり、ご遺言である。
 学会は、日本の動向を決する「柱」であり「魂」である。学会があればこそ、「新しき世紀の夜明け」を開くことができる。この大いなる確信と誇りに燃えて進んでいきたい。
14  バッジオ選手──「広布の大願」が自分を生かす
 今、日本もサッカーブームである。休む間もなく展開される試合は、片時も目が離せない。真剣そのもののプレー。実に魅力あふれるスポーツである。
 先日(六月十七日)、イタリアの天才サッカー選手バッジオ氏夫妻が学会本部にお見えになった。ヨーロッパ随一、さらに世界一ともうたわれるスーパースターであり、空港など、どこへ行っても、すぐにファンのサイン攻めにあう、大変な人気である。
 彼はイタリアのSGIメンバーである。私は、遠路はるばる訪れた求道の友を心から歓迎した。
 私は、完成したばかりの左門町(東京・新宿区)の戸田記念国際会館を初訪問するところであった。ご夫妻とともに国際会館に行き、また夕食をともにしながら語り合った。
 彼は、二十六歳。全身バネのような、鍛え上げた肉体。
 皆さんは、精神は鍛えられているが、肉体は少々、太りすぎの方もいるようだ。学会活動は運動にもなるし、やせるのにもいいかもしれない。仏法に無駄はない。
 バッジオ氏には、常に真剣勝負に挑戦する精悍なまなざしがあった。しかも名声や人気に流されない謙虚な態度があった。まことにさわやかな好青年であった。奥さまも人柄のいい方である。
15  彼は五年前、イタリアのSGIの友を通じ、仏法と出あった。
 ″いつも大事な時に、ケガなどで苦しむ自身の宿命を転換したい″″いま一歩のところで勝てない自分の弱さを打ち破りたい″──こうした悩みを「必ず解決できる」との友の確信にふれて、彼は入信した。
 以来、朝夕の勤行を欠かしたことがないという。日顕宗の坊主などとは比べものにならない。時間があれば、すぐに唱題する──彼は、たゆみない唱題で、ヒザの重い故障も乗り越えた。
 彼は語っている。
 「以前は、ただ試合に勝つことだけを祈っていました。しかし今では、″サッカーを通して、広宣流布のために、お役に立ちたい″と祈れるようになりました」と。
 微妙なタッチの差である。しかし、決定的な違いである。
 自分の目下の課題について祈り、全力を挙げることは当然である。同時に、″広布のために″という祈りに立ったとき、その大きな一念に、小さな悩みは全部、含まれ、全部、好転していく。
 大宇宙の惑星にも公転と自転がある。「広宣流布」という大願への祈りは公転である。自分自身の悩みへの祈りは自転である。自転と公転があって初めて、自分という小宇宙が、大宇宙の軌道と調和できる。
 皆さまも、「今の行動は、すべて広宣流布のための活動である」──こう一念を定めていただきたい。すべて友好の道を開き、仏縁を結んでいるのである。
 バッジオ選手は、″広布への祈り″に立ってから、自分の境涯も、視野も、行動も、すべてが大きく変わっていったという。また、自分が変わることで、周囲も変わった。チームも、チームを取り巻く状況も、良い方向へと回転し始めた、と。
16  彼は、私と会った翌日、長旅で疲れているにもかかわらず、創価学園、創価大学を訪れ、サッカー部のメンバーと思い出のひとときを刻んでくれた。
 創価学園、創価大学は、勉学とともにスポーツにも力を入れている。将来のために、あせることなく、じっくりと実力を養ってほしいと願っている。
 これは万般について言えることである。要は「人」である。一級の人材を育てることである。
 学園で、ある生徒がバッジオ選手に質問をした。
 「ぼくも将来、プロのサッカー選手になりたいのですが、バッジオ選手が心がけている点は何ですか」
 答えは「意志、すなわち″やる気″が一番、大切です」と。
 勉強でも、仕事でも、学会活動でもそうであり、人生すべてに通じる法則である。
 「サッカーは見ている人にとっては楽しいかもしれませんが、仕事としてやっている者には、重いものです。ですから、まず必要なものは意志。そして、それ以上に大切なものは信心です」と。
 実に明快で、堂々とした答えである。
 勝負の要諦は″信心″──これが″若きサッカー王″の確信である。信心から出発し、信心で戦えば、勝てない勝負はない。
17  皆の力を生かすのが名リーダー
 ところで、彼をはじめ超一流のサッカー選手に共通する長所は何か。
 ポイントの一つとして、″仲間の選手に素晴らしいパスを送る″ことが挙げられる。
 自分が見事なシュートを決めて、得点するだけではない。絶妙なパスを出して、仲間の力を最大に生かしていく──ここに名選手の要件がある。
 リーダーも同じである。自分だけが偉ぶって、皆を抑えつけるのではない。皆に自由奔放に動いてもらい、もてる力を引き出してあげるのが名指導者である。
 サッカーでは、絶えず四方八方に気を配り、仲間のために心を砕いていく──こうした目に見えない心と心の信頼のなかに、ゴール(得点)を全員で喜び合う、あの美しい光景が生まれる。
 学会の世界も同様である。
18  さて、我が同志・バッジオ選手は、先月、行われたヨーロッパの大会(欧州サッカー連盟カップ)で、イタリアの名門チーム(ユベントスFC)のキャプテンとして大活躍した。仲間の相次ぐケガ、マスコミの悪意の報道などを、すべてはね返して、堂々と優勝を勝ち取ったのである。
 今回の来日も、この勝利を私に報告したいとの思いからであったという。しかも直接、私に言わないで、あとから、私は、人づてに、そう聞いた。自慢のようになるから、と思ったのであろうか。その心が美しい。
 決勝戦の相手は、強豪ドイツであった。バッジオ選手率いるイタリア・チームは、最初から一気に猛然たる勢いで攻撃していった。そして、試合開始から、わずか四分で先制のゴールを決めた。
 勝負は最初の勢いで決まる。″初めからエネルギーを出せば息切れする。だから少しずつ力を出そう″などと考えていては勝負にならない。相手が強豪であればあるほど、最初から全力で挑んでいく──そこに勝利への突破口も開ける。そうなれば、心の余裕も生まれる。
 先取点に熱狂する大観衆。だがバッジオ選手は、浮かれた様子を見せない。キャプテンが少しでも浮つけば、チーム全体に感染する。
 彼は試合前から、″これでもう勝ったと油断してしまえば、そこからゲームが狂ってしまう″と、自分に言い聞かせていたのである。
 彼を中心にイタリア・チームは、怒濤のごとく、最後の最後まで、攻めて攻めて、攻め勝った。最初の勢いを最後まで持続したのである。
19  彼は、自分の勝負哲学をこう語っている。
 「まったく同じ力をもったチームが試合をした場合、勝負の決め手になるものは何か。それは、勝負どころで、″絶対に勝つんだ″という一念でチームが結束できるかどうか。その勝負への執念が試合を決める」と。
 もうダメだと心を乱せば負ける。絶対に勝つと決めたほうが勝利を手中にする。この試合、結果は三対〇で、バッジオ選手は、ついに念願の優勝を果たすことができた。
 ともあれ私たちも、「大闘争」の七月を、喜び勇んで戦い、勝利してまいりたい。
 そして、ともどもに晴れ晴れと集い合いましょう!

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