Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川・静岡最高会議 英国紳士の「精神的ふくよかさ」

1993.6.10 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

前後
2  聖教新聞に掲載された氏の随筆を、私はフィリピン・香港ホンコンから訪れた福岡の地で拝見した。以来、早、半月を経たが、氏の「ポルトガルへの思い」は、私自身の旅情とも交響して、今なお深い余韻を残している。また、署名をいただいた氏の著作『遙かなるケンブリッジ』も、広島、神戸の旅のなかで、読了した。まことに流麗な筆致であり、イギリスの緑の風に包まれゆくような、さわやかにして充実した読書の時をもつことができた。
 崇高なる学問の探究、異国の文化への懐の深い理解、ほほえましくも尊き家族のスクラム、そして青年を育む大きな慈愛──ケンブリッジの春夏秋冬に刻まれたドラマが、一つ一つ、すがすがしく心に映った。とともに、「人間」と「世界」と「文明」を見つめる澄んだ眼差しに、私は強い感銘を受けた。
3  ケンブリッジ大学といえば、私にとっても忘れ得ぬ学問の府である。
 一九七二年、私は、歴史学者トインビー博士のご招待を受け、訪英した。芳香漂うメイフラワー・タイムの季節であった。当時、私は四十四歳。氏が留学された年齢と同じである。その折、ケンブリッジ大学を訪問する機会にも恵まれた。
 私は、東洋学部のM・ローウィ学部長らと、ケンブリッジの伝統、大学教育の在り方などを語り合い、トリニティ・カレッジをはじめ、多くのカレッジを案内していただいた。
 私が創価大学を創立したのは、その一年前のことである。七百年の荘重な伝統を誇る大ケンブリッジが、赤子のごとき誕生まもない東洋の一大学の代表を、まことにフェア(公正)な心で迎えてくださった。私は今も感謝とともに思い起こす。
 学生寮も見せていただいた。いずれも、古びた質素な部屋であったが、ノーベル賞に輝く俊英を数多く輩出したのもこの部屋であることを思うと、感慨は尽きなかった。
 ケンブリッジの冬もさぞかし寒いことだろうと、私は八王子の創価大学の寮のことを二重写しに思った。もともと、都心の喧騒を離れた緑豊かな武蔵野をキャンパスに選んだ私の念頭には、オックスブリッジ(オックスフォードとケンブリッジ)の教育環境が一つのモデルとしてあった。
4  ケンブリッジを訪問した翌日も、私は、トインビー博士と対談を重ねた。
 その折、ベロニカ夫人から、開口一番、「私の母校・ケンブリッジにきてくださったことを心より感謝申し上げます」との丁重なご挨拶をいただき、恐縮した。
 夫人は、ケンブリッジ初の女性学士であったとうかがっている。春の日差しのごとく穏やかに微笑まれながら、博士と私の対談の成り行きを見守っておられた夫人の、母校への愛情は、今、思い返しても心温まる思いがする。
 また二年前の訪英の折、私は、ケンブリッジの教授である天文学者フレッド・ホイル博士、並びに、その弟子であり、私と対談集を発刊したウィックラマシンゲ博士と、宇宙と生命をめぐって語り合った。お二人との対話も、既成の概念にとらわれずに真理を探究しゆくケンブリッジの創造的な学風を、垣間見せてくれた。こうした思い出が次々に溢れ出てくるほど、藤原氏の詩情は、私の「遙かなるケンブリッジ」をも蘇らせてくださった。
 氏も著作の随所で指摘されているように、イギリス人には、確固たる人格の柱がある。いかなる時にもユーモアを忘れない「精神的ふくよかさ」がある。三十年を超える交友を通して、私自身が抱いてきた英国紳士の実像が、実に瑞々しく描き出されており、感嘆した。
5  イギリスの少年たち「私たちの非難は最後で結構です」
 イギリスの国民性に対し、私が認識を新たにした思い出がある。
 ケンブリッジ訪問の前年(一九七一年)の八月。静岡の大石寺近郊の朝霧高原で開かれていた「世界ジャンボリー大会」(ボーイスカウトの野営大会)が、折からの豪雨のため、急きょ、大石寺に避難した。私は、各国から集まった六千人の少年たちに、風邪をひかせてはならないと、雨の中を陣頭指揮で救援に当たった。
 このボーイスカウトが避難し始めたとき、水びたしになったテントに、けなげにも最後まで残っていた少年たちがいた。
 「私たちは、最後で結構です。どうか、他の国の仲間をよろしくお願いします」と。
 その一団が、イギリス隊だった。
 少年にして、かくも気高き言葉──。私は、リーダーと固く握手し、その勇気を心からたたえたことを覚えている。
6  こうした良きイギリス気質は、藤原氏の故郷である信州の気風に、一面、通じるものがあると思えてならない。
 最初はとっつきにくい。けれども、ひとたび友情を結ぶと、その心の深さに、だんだんとひかれる。また、用心深く、自分の考えをなかなか変えようとしない。しかし、慎重に思索して決意すると、直進して決してひるまない──等々。
 また、氏による、イギリス人の内気さ、レイシズム(人種差別)の根強さ、更に″熟年の美学″などの洞察にも、多くの示唆を受けた。
 「イギリス人には、こちらから話しかけてやるに限る。見かけとは大違いでおしゃべりな彼等は、嬉しくて自ら胸襟を開くのである」との一節も、的確に急所を突かれている。
 私も、イギリス人との交際においては特に、曖昧さのない明快な語りかけ、また心を開いた積極的な働きかけを心がけてきた。
 四年前、ロンドン郊外のテムズ河畔に「タプロー・コート総合文化センター」を開設(一九八九年五月二十一日)したのも、開かれた両国の広場をつくりたいとの願いからであった。
7  ユーモアの底にゆとりと無常感
 また、イギリス・ユーモアの源泉には、「現実から一歩だけ退き、永遠の光の中でそれを見直す」距離感覚がある、そして、その根底には「無常感」がある、という観点には新鮮な感銘を覚えた。
 「いったん自らを状況の外へ置く」、また「対象にのめりこまず距離を置く」──この姿勢が、イギリス人特有の「余裕」を生むとともに、国際経済競争に取り残される要因ともなっているとの洞察は、まことに示唆に富んでいる。
 この″ゆとり″を大切にしながらも、更にもう一歩、現実に力強く関わっていく精神の発条を、どう薫発していくか。「イギリス病」打開の一つの鍵も、ここにあるといえるかもしれない。
 「無常感」も、大乗仏教においては、決して消極的な諦めではない。千変万化してやまない「世間」から、ひとたび距離を置く「出世間」のベクトルとともに、その透徹した眼をもって、再び「世間」へと立ち戻っていく──いわば「出・出世間」のベクトルも併せて示している。
 すなわち、刻々と進歩し変化する社会から決して遊離するのではない。それらを達観しつつ、しかもそこに生き生きと活力を与えていく。こうした東洋思想のダイナミズムについては、トインビー博士も鋭く注目されていた。
8  いずれにせよ、新しい時代の前進の息吹は、やはり「教育」によって引き出されるべきである。
 その意味において、氏が、貴重な研究の時間を割きながら、学生たちと接される姿に、私は敬愛の念を抱く。控え目な筆づかいのなかにも、周囲から「要注意」の烙印を押された学生を見守り、理解し、導いていこうとする氏の情熱が伝わってくる。
 更に、「小学校の先生が尊敬されなくなると、その国は近い将来、必らず衰退します」との危機感は、私も共有するところである。
9  藤原氏「日本は、無私で果敢な人類への貢献を」
 最終章の「イギリスとイギリス人」で、氏は、日本の果たすべき役割について論じられている。
 日本が「人格なき国家」と言われるようになって久しい。氏が喝破されているように、日本は「田舎成金紳士」としての幸せに甘んじる、無責任で利己的な立場を、未だに脱することができずにいるといえよう。
 なかんずく、「アジアとの一体感を根底に置いた、無私で積極果敢な人類への貢献を計ることで、世界のリーダーとして尊敬されるようになることが、結局は最終的贖罪となるのではないだろうか」との卓見は、急所を射た提言であろう。
 かつて日本軍が占拠したフィリピン大学のキャンパスに、このほど、創価大学との友情の結晶として、国際交流のセンター「平和の家」が設立された。開館式に臨んだ私の胸に去来したのも、更なる償いへの決心であった。
10  氏は、「その国を真に好きになるには、人間的要素が不可欠」と述べられている。文化・教育のネットワークによって、「民衆」と「民衆」、「人間」と「人間」の出会いを積み重ねていく意義もここにあろう。
 「友情」を広げることが「平和」を広げることである──。これが、数学者でもあった戸田先生から受け継いだ私の信条である。
 総じて、政治には矛盾が、宗教には裏表が、経済の世界には格差がある。しかし、友情は、平等である。普遍であり、永遠である。
 二十一世紀を展望するとき、日本の未来も、世界に真の「友人」をつくっていくという姿勢が根本になければ、孤立し、時代から取り残されてしまいかねない。
 友情という「心の門」を開くことができれば、そこから多くの課題も解決の糸口が見いだされることであろう。
 現実に踏み出す″一歩″の尊さ。たとえ今は目に見えなくとも、その一歩が限りない未来性を秘めていることを、私は「行動の人間」として確信している。
11  氏のご尊父であられる新田次郎氏は、私も愛読してきた作家である。
 もう四半世紀前になるが、潮出版社の「週刊言論」に、新田氏が、名作「ある町の高い煙突」を連載してくださった。
 それは、村を襲う公害に対して、一人の青年が身を挺して立ち上がり、多くの人々を救っていく物語であった。今日の環境問題をも鋭く照射されていた。
 また、新田氏の代表作の一つ「芙蓉の人」は、多くの婦人部の方が愛読された。氏には聖教新聞のてい談にもご登場いただいた。いささかの気取りもなく、年配のご婦人をいたわりながら、闊達な語らいを広げてくださった。
 また、お母さまの藤原てい女史も、聖教文化講演会で、何度も素晴らしい講演をしてくださっている。感謝にたえない。
 「山の峰に咲く美しい花を得ようと、道なき道を一人で登って行く」──研究にかける氏のロマンの登攀が、更なる栄光に包まれゆかれんことを、私は願い、思い描く。そして、ご家族のいよいよのご多幸とご健康をお祈り申し上げたい。
 最後に、ますます「素晴らしき神奈川」を、ますます「偉大なる静岡」をと念願している。
12  退転者の原因は明らか
 最後に、神奈川、静岡の友のいっそうの幸福を念願し、一言申し上げたい。
 立派な信心を、まっとうした人は、立派な「人格」と「良識」をもった、「水の信心」の人である。
 反対に、退転し反逆していった者たちの多くは、次のような黒い原因があった。
 (1)幹部、議員になりたかった、という名聞名利があった。
 (2)慢心強く、増上慢強く、正論を聞き入れる清くして大きい心がなかった。常に自己の我見と我欲にとらわれていた。
 (3)正しい信心の在り方、人生と生活の在り方について忠告されたことに対し、怨嫉し、忠告してくれた人を恨み、去っていった。「正しい世界」にいられなくなって去っていくのである。
 (4)社会的地位や名誉を鼻にかけ、まじめに広布にいそしむ学会員を軽視して、最後は皆からバカにされて去っていった。
 (5)組織の地位を利用し、金銭問題または女性問題を起こし、多くの人々から批判され、非難されて、いられなくなっていった。
 (6)幹部になって、威張り散らして、皆からわれる。また幹部になって、明快な指導ができず、皆から軽(けいべつ)される。幹部でありながら、一家の生活はだらしがなく、また見栄(みえ)にとらわれて、多くの人々から非難され、いられなくなっていく。
 去っていく人は、去っていってもらった方が、和楽の世界は清らかになっていく。これは、皆さま方が体験し、ご存じの通りである。
 神奈川・静岡は、広宣流布ひとすじに生きる、「良き心」の「良き同志」の「良き集い」であっていただきたい。

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