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日蓮大聖人・池田大作

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第十四回九州総会 二十一世紀にふさわしい宗教を

1993.5.22 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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1  興隆を広げ、境涯を広げよ
 きょうは、楽しく、朗らかにやりましょう!
 総会といっても堅苦しくなる必要は何もない。九州らしく、座談会のように、ざっくばらんでいきましょう!
 あるがままで、すべてが常楽我浄──それが仏法の精髄である。
 怒られても常楽我浄。戦っても常楽我浄。お金があっても、なくても常楽我浄──。何があっても、変わらず、一切を楽しみ、悠々と生き抜いていける強き「自身」をつくることである。また、そうした同志の集いとなっていただきたい。
 これが、信心と人生の醍醐味である。
2  まず、昨年の十月は、総会に出席できず、皆さまとのお約束を果たせなかったことを深くおわびしたい。
 久方ぶりに、この大講堂で懐かしい九州の皆さまにお目にかかれて私はうれしい。晴れの九州総会、おめでとう!遠いところ本当にご苦労さま。
 九州は本当によく戦われた。さまざまな難もあった。大きな山もあった。しかし全部、立派に乗り越えられた。そして「大九州」に発展された。
 また、九州をはじめ、全国、そして全世界の同志の真心の唱題に包まれて、フィリピン、香港の旅を大成功に終えることができた。心から御礼申し上げたい。
 昨年、九州と合同総会を行った香港の友、また奄美や、八女出身の方が活躍するフィリピンの友からも、皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えくださいとの伝言を託されてきた。
 九州とアジアは、古くから交流を重ねてきたえにし深き仲である。
 このほどフィリピン大学に「平和の家」(イケダ・ホール)がオープンした。その開所式の際である。男女学生の合唱団が、それは見事なコーラスを披露してくださった。
 そのなかに、日本語で歌われた曲もあった。熊本の民謡「五木の子守唄」である。あの美しい歌声は忘れられない。
 今後、九州とアジアの交流で、多くの人がアジアを訪れ、友好を深めていただきたい。
 「人を知り」「自分を知る」よい機会である。見聞、境涯も開けてくるであろう。事故なく、楽しい有意義な旅であっていただきたい。
3  「三代の魂の旗」高らかに「アジアの模範」へ
 「九州男児よろしく頼む」──これが戸田先生の九州への遺言である。
 ″東京男児″でもない。″日本男児″でもない。「九州男児よろしく頼む」──この一言に意味がある。
 戸田先生は、現代の広宣流布の総帥であられる。先生の「一言」には常に深い深い意味があった。この点だけでも、私にとって、九州がどれほど大切であるか。
 関西も日本一に仕上がった。中部も関西に迫る勢いで発展している。″いよいよ次は、九州を盤石に仕上げる番だ″と、私は心に決めている。
 九州は「やるときには猛烈にやるんだが、やらないときには全然やらない」と言われているようだ。
 しかし、素晴らしい「力」「パワー」をもっている。時に暴走するようだけれども、どこにも負けないファイトがある。方向づけさえ、うまくできれば、これほど頼もしいところはない。
 「世界一」は将来のこととして、まず「アジア一」の九州をつくりましょう!
 私も全力で応援したい。いよいよ九州が非常に大事な時代に入ってきた。
 皆さまは、「全国に先駆」の行動で、きょうの総会を迎えられた。
 四月度の聖教新聞の啓蒙では、九州の各地ですばらしい発展の実証を示されている。
 また、婦人部の素晴らしい会友大会(四月)をバネに、全九州で百五十万の会友のネットワークを広げられた。そして、すべて大勝利で飾られた。全国への波動も大きい。
 勝つことは楽しい。誉れがある。誇りがある。自信が生まれる。
 負ければ暗くなる。文句も出る。悲しいし、みじめである。
 ゆえに勝たねばならない。「幸福」は「勝利」にある。「仏法は勝負」であり、一切法は皆、仏法である。一切が勝負なのである。皆さまは一切に勝ち、人生に勝って、最高の幸福者になっていただきたい。
 連戦連勝の九州の友のご健闘を、私は最大にたたえたい。
4  戸田先生は、八女支部の旗をみずから高らかに掲げて九州広布の火ぶたを切られた。以来、四十周年。(支部旗授与は昭和二十八年三月三十一日)
 さらにさかのぼれば、昭和十三年(一九三八年)の夏、牧口先生が正法弘通のため、はるばる鹿児島まで足を運ばれてから、今年で五十五周年。
 また牧口先生の八女初訪問(昭和十四年)からは、明春で五十五周年となる。
 牧口先生の五十回忌を迎える今秋、八王子に東京牧口記念会館が完成する。その大礼拝室には、八女の石も埋納されている。
 八女から八王子へ。「八人の女性」から「八人の王子」へ──。
 九州にしるされた牧口先生の弘教の足跡は、不思議でもあり、また未来永遠に光を放っていくであろう。牧口先生、戸田先生も今日の九州の発展を、どれほどお喜びになっておられるだろうか。
 私の九州訪問も、今回で七十五回となった。
 ここ九州の地には、三代の会長の魂が刻まれている。ゆえに、私は後世のために、こう宣言しておきたい。「九州創価学会の旗」は、「三代の魂の旗」である──と。
5  道理にかなった信心即生活を
 人生を健康で生き抜くためには、どうすればよいか──。
 もちろん、いちがいに決められないし、国によっても違うが、参考として、以前、熊本で、そのための″四つのモットー″を挙げてお話しした。
 それは(1)張りのある勤行(2)無理と無駄のない生活(3)献身の行動(4)教養のある食生活、である。
 きょうは、このモットーを踏まえ、より具体的に「健康の四原則」を提案しておきたい。
 第一に「よく眠ること」である。
 第二に「よく歩くこと」である。
 第三に「怒らないこと」である。
 第四に「食べ過ぎないこと」である。
 いずれも簡単なことのようだが、大切な「基本」である。
 この反対だと、どうなるか──朝、起きられないほどの寝不足。歩かないで、何でもすぐ車。すぐ怒る。そして、夜中の食事。こんな生活を繰り返せば、体がおかしくなっても当然であろう。
 「仏法は道理」である。道理に反することは仏法ではない。「信心即生活」のいき方こそ「仏法の正道」である。「一切法は皆是仏法」であるからだ。
 たとえば「夜中」や「疲れた時」は「休む時」である。それを、寝ないで、「生命力で頑張る」というだけでは、道理にかなっていない。
 人生も広宣流布も「長期戦」である。「長い旅路」である。無理は長続きしない。「よく眠る」ことは何よりの薬である。疲れをためてはいけない。
 とくに「夜中の飲食」はひかえるべきである。肥満の原因ともなる。また、お酒を飲むことは自由であるが、絶対に「飲み過ぎ」はいけない。
 もう一つ「新聞など活字を読むこと」を加えておきたい。新聞をはじめ「活字」「文章」をよく読む人はボケないようである。
 新聞は開いても、見るのは大きい見出しだけ。それも幹部のほうが読まないようだ。
 幹部になって、活字は読まない、車には乗せてもらう、夜食はする、寝不足を続ける──これでは、まるで体を悪くするために信心しているかのようである。それでは転倒である。
 だれよりも「健康」で「爽快」な人生を有意義に生きるための信心なのである。
6  また、火災、交通事故にも、くれぐれも気をつけていただきたい。女性は自転車に乗る方が多いが、荷物が多いときなど、とくに注意をしていただきたい。一瞬の油断や不注意が大きな事故につながる場合が多い。
 火災や交通事故は、あまりにも悲惨である。真剣な祈りと、細心の注意で、絶対に無事故であっていただきたい。ご家族のため、自分自身のために。
7  さらに、先日もスピーチしたが(五月四日、関西ファミリー総会)、学会活動等で、帰宅がやむをえず遅くなってしまった場合、また体調が悪い場合は、三座の勤行でなく、方便品・自我偈の勤行でも構わないと思う。題目だけでも大功徳がある。
 御書にも、″五座三座をしなければならない″とは仰せになっていない。現在の勤行の形式は、後世に定められたものである。
 大切なのは「信心があるかどうか」である。「広宣流布へ行動しているかどうか」である。この根本の「信心」が強くあれば、福運はついていく。
 もちろん唱題に挑戦したほうが得であることは言うまでもない。とくに、男性の場合は、今までやっていないぶん、しっかりやっていただきたい。
8  だれでも生身の体である。当然、不調の時、病気の時もある。そんな時は、無理をしてはならない。させてもならない。
 具合が悪かったら、医者にかかればよい。病気のことは専門家に聞くことだ。高血圧などの場合も、よく病院で診てもらい、決して自分勝手な判断をすべきではない。
 「信心で治す」──その一念は大切であるが、利用できるものは皆、利用したほうが、価値的である。その「知恵」を引き出すのが信心である。
 指導も、言うまでもなく「信心指導」が根本であるが、その上で、ただ「信心すれば何とかなる」と教えるだけが指導ではない。相手の立場に立って、よく話を聞いてあげ、自分のわからないことは、わかる人を教えてあげたり、その人がどうすればよいのか、具体的に示してあげる必要がある。信心根本の、常識的かつ、細やかな指導──これが本当の指導である。
 ともあれ、幹部は、会員の「健康」「無事故」に気を配ることである。祈って、祈って、祈り通していける幹部であっていただきたい。それが全部、自分自身の福徳になっていく。
 私も、肺病で、三十歳まで生きられるか、と戸田先生は心配されていた。医者は二十五、六歳まで、と言った。しかし、六十五歳の今日まで生きて生き抜き、戦っている。しかも私の戦いは、いよいよ、これからである。これが「信心」の力である。
 皆さまも、健康で、長生きして、ともに「よき人生」を生きていただきたい。
9  しかも、本当に信心を貫いた人は、死ぬ時にも苦しまない。眠るがごとく──そうした大安穏の臨終を、私たちは無数に知っている。
 人生最大の問題である「死苦」を根本的に解決する「是好良薬」、それが妙法である。この一点だけでも、信心がいかにすごいか。信心を教えてくれる学会がどれほどありがたいか。何千億のお金にも代えられない。その素晴らしさを強く強く確信していただきたい。
10  「先駆」とは世界市民への成長
 福岡、また九州は、アジアと世界へ開かれた国際都市である。吉野ケ里はじめ多くの遺跡や太宰府などに見られるように、古代から大陸と活発な交流を繰り広げてきた。いわば、″玄関″であった。また、二十一世紀へ開かれた未来都市であることも、間違いない。
 私は、福岡研修道場のある可也山かやさんへ行った。途中の街の様子もすべて見てきた。驚くべき発展である。とくに臨海部の埋め立て地に″福岡ドーム″をはじめ、新しい建造物が並んでいる。
 昨年(平成四年)五月、福岡で環境問題の国際会議が開催された。(「ローマクラブ福岡会議イン九州」。テーマは「地球環境と地域行動」)
 会議を主催したローマクラブのホフライトネル会長も、この福岡の先進性、九州の素晴らしさを高く評価されている。
 ローマクラブは、私の友人である故・ペッチェイ博士が創立された。世界的な英知の集団である。人類の危機の打開を探究する──これが目的である。
 ペッチェイ博士との対談集(一九八四年一月一四日発刊、『二十一世紀への警鐘』、読売新聞社)に続いて、現在、ホフライトネル会長とも、「対談集」発刊の準備を進めている。
11  先の国際会議では、「福岡宣言」が採択された。そして会議終了後、ホフライトネル会長は、真っ先に、東京の私のところへ来られた。(一九九二年五月十五日、聖教新聞社で会談)
 ″地球市民″としての自覚と行動を呼びかけた「福岡宣言」。会長はみずからの署名入りの「宣言」の″第一号″を、届けてくださった。
 その時の語らいのなかで、会長は、″「二十一世紀にふさわしい人間」になるために、私は学び続けたい。対話を積み重ねたい″と心情を語っておられた。
 つまり、二十一世紀という「新しい歴史のページ」にふさわしいかどうか──ここに一つの判断の″基準″をもっておられた。海外の一流の方はそれぞれ「基準」がしっかりしている。「視点」が明確である。「哲学」がある。
 「感情」や「流行」「利害」「表面の面白さ」──それらに動かされ、流されているようでは、日本は世界から相手にされなくなってしまうであろう。
12  ホフライトネル会長が、″二十一世紀に、まったくふさわしくない″と断定されたのが、宗門である。
 会談の席上、会長は自分から話し始められた。
 「私は実は、宗門の問題も聞いております。今、私のメッセージに耳を傾けてほしい相手は、宗門です。彼らは、人類の歴史を長期的に見ることができない人々であり、二十一世紀に向けて、歴史の″新しいページ″をめくっていない人々なのです。
 人類が現在の″限界″を乗り越えるべき必然性を、そして地球が現在の段階を超克すべき必要を、彼らは理解しなければなりません」
 「宗門が名誉会長やSGI(創価学会インタナショナル)の邪魔をするようなことは、二度とあってはなりません」。
 時代錯誤の宗門を叱りつけるような、お話であった。私はただ「ごもっともです」と相づちを打つだけ──それほどの勢いであられた。世界の英知は、本当に厳しく見ておられる。
 そして、会長が、″二十一世紀にふさわしい″理想の天地として期待するのが、福岡であり、九州なのである。
 九州は「先駆」を──私は、かねてから、そう訴えてきた。
 「先駆の九州」は即「二十一世紀の先駆」であり「人類の先駆」である。世界市民への成長へ、期待が寄せられている。
 九州の偉大なる使命を自覚していただきたい。
13  二十一世紀にふさわしい識見と人格の指導者に
 リーダーの在り方について述べておきたい。
 広布も社会も、すべて「人」で決まる。新時代にふさわしい、「よき指導者」でなければ、皆を幸福にすることはできない。民衆を勝利させ、広布を発展させることはできないからである。
 会合を開く場合も、参加する人にとって、開会時間、集合時間は都合がよいか、行き帰りの交通の便は大丈夫か等、事前の細かい配慮は当然として、集ってきた人々が、「おなかがすいていないか」「疲れていないか」等を、敏感に察知していただきたい。
 参加者が疲れている時は、長時間の会合は苦痛を増すだけで、価値的ではない。難しい話も耳に入らない。そういう時は、運営する側が会合を早く終えて、皆が早く帰宅して休めるようにすることである。
 また、幹部が話をする際も、「今、皆は何を望んでいるのか」「何を聞きたいのか」と、参加者の「心」が基準になければならない。
 皆が疲れている時には温かな励ましを送り、新たな前進の進路を知りたい時は明確な目標、指針を示していける、賢明なリーダーであっていただきたい。
 皆がホッとする話が大事である。胸のつかえが取れた、気持ちが軽くなった、満足した──と、歓喜がわき、生命力が増すのが、本当の指導である。
 したがって、話は威圧的であってはならない。また決して叱ってはならない。広布へともに進む同志を、どこまでもたたえていくことである。仏子を「たたえる」ことで、相手も自分も、喜びと功徳が増していく。
 話し方も、大声を出せばよいというものではない。さわやかな、相手の胸に染み入るような話し方のほうが、心を打つ場合が多い。
 いわんや、頭ごなしに怒鳴るような話し方では、ただうるさいだけで、何も心に残らないであろう。
 多くの人々が納得でき、信頼できるよう、幹部自身が品格と教養を磨くことである。
 九州は″燃え上がると、わき目も振らずに猛進する″伝統がある。それは長所にも短所にも通ずるが、知性と良識の面でも、「アジアの模範」となっていただきたい。
14  会員のために働く、親切に面倒をみてあげる──すなわち「仏子」に尽くすことは、「仏」と「法」に供養することに通ずる。自分自身の仏の生命が強まっていく。すべて、自分の福運となっていくのである。
 大聖人は、「兄弟抄」に「此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属けんぞくなり」云々と。すなわち「われわれの住む娑婆世界は、第六天の魔王の領土である」と仰せである。
15  正法を持つ「正義の人」に敵対し、迫害する「悪」の軍勢が支配しているのが、この世であると。ゆえに広宣流布とは「魔」との戦いであり、勝負である。
 リーダーであるほど、魔の働きも強い。したがって、惰性に陥り、広布への「戦い」を忘れた場合は、魔に負けて、「悪鬼入其身」となってしまうであろう。その実例が日顕である。魔は「奪命者」である。生命力を奪い取っていく。
 もちろん、幹部であっても、自身の宿業との戦いがある。一時的な姿だけを見て、あれこれ言うことは誤りである。同志として温かく激励し合って進んでいきたい。
 要は、一生涯、広宣流布への情熱を燃やし続けることである。魔に負けない「信心の戦い」を続けることである。前進をやめれば、生命はよどむ。「気迫」をもって進めば、魔は退散する。
16  かつて、東京などから幹部として九州に来て、威張り、皆に迷惑をかけて退転・反逆した悪人もいた。
 九州の人は″人がいい″というか、朝廷や幕府から派遣された役人が、権威・権力を利用して私腹を肥やした史実もある。
 学会も、ただ″人がいい″だけでは、悪人につけ入らせてしまう。堂々と胸を張って、自分たちの地域を、自分たちの力と祈りで、自分たちが本当に満足し、誇れるように建設していっていただきたい。
 九州は、若い人材も登用された。新しい出発を心から祝福したい。
 どうか、先輩方も、若い世代のフレッシュな力を大切にし、温かく応援していってほしいと念願する。
17  ″波浪よ来たれ 我は不動なり″
 先日(五月十六日)、SGIアジア記念総会の折、香港の合唱団が「浪が打ち寄せる」という名曲を聴かせてくださった。心に染み入る歌声であった。
   浪が打ち寄せる
   だがいわお(岩)は浪を恐れない
   うしおと浪は砂を洗いどんなに巌を打ち続けようとも
   巌はいにしえと変わらぬ姿で屹立きつりつし風雪に耐える
   怒涛どとうも波浪も恐れはしない
  
   波浪の音が不断に言う『巌よおまえをくだかん』と
   されど巌は微笑びしょうこたえる『浪などに構うものか』と
  
   潮は引きしおは満ちものみな変わらざるものなしといえど
   明日もまた昨日きのうよりも強くなにものにも負けはしない
   『熱情はわが心にありだれ人もおかせはしない』
  
   潮と浪は砂を洗いどんなに巌を打ち続けようとも
   巌はあくまでもここに屹立する
   『波浪よ襲いかかるがよい
   我は不動なりただ頑固(がんこ)の度を増さん』と
 私の十九歳の時からの座右ざゆうの銘は「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」である。それを想起そうきさせる歌であった。心と心が通い合う合唱であった。
 人生は戦いである。戦い続けるのが人生である。戦うごとに強くなる人が幸福者であり、真の「人間」である。
 皆さまは、全員が、九州新時代の人である。「身も心も軽やかに」きょうから出発していただきたい。
 総会おめでとう!本当におめでとう!

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