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日蓮大聖人・池田大作

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SGIアジア記念総会 一番大切な時は「今」、人は「縁している人」

1993.5.16 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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2  私は世界に数多くの友人をもっている。先日、(元ソ連大統領の)ゴルバチョフ氏がライサ夫人とともに創価大学を訪問された。夫妻との語らいの折、ロシアの大文豪・トルストイのことも話題になった。私が、トルストイをはじめ、ロシア文学を愛読していることを夫妻は、よくご存じであった。
 トルストイは、わかりやすい民話や物語をたくさん残している。大地とともに生きる民衆のためであり、未来を託す少年・少女のためである。
 そのなかに「三つの疑問」という物語がある。
 ある時、皇帝が仕事をしていくうえで、三つの疑問にぶつかった。
 それは第一に、仕事にとりかかるにあたって、一番適切な「時」とはいつか、という疑問である。どういう「時」をはずさなければ、悔いを残さないですむのか──。
 第二に、自分にとってどういう人が、一番必要な人物なのか、どういう人を大切にしていけばよいのか、という疑問である。
 そして第三に、すべての事業のなかで、どういう仕事が、一番大切なのか、という疑問である。皇帝は、この三点を知りたいと強く願った。これがわかれば、成功の人生を歩めると、考えたからである。
 皇帝は、正しい答えを教えてくれた人には莫大なほうびを与えようと国中に知らせた。多くの学者が集まってきて、さまざまな答えを出した。しかし、皇帝はそのどれにも納得できなかった。
 「学者」が即「賢者」とはかぎらない。物語の詳しい内容は略させていただくが、皇帝は、庶民とともに生きる一人の賢者との出会いのなかで、真実の解答を見いだしていく。
 その賢者は示した。
 一番大切な時とはいつか。それは「今、この瞬間である」と。
 また、一番重要な人とは、だれか。それは「今、現在、自分がかかわっているその人である」と。
 そして、一番大切な仕事とは何か。それは「人に善をなすこと。人のために尽くすことである」と。
 大切なのは、いつかではない。今、この瞬間である。きょう、この一日である。今、この時に全魂を傾けていく。その「今」に「勝利の未来」が含まれている。
3  また、どこか遠くに特別な人がいるのではない。権威の人、知識の人、有名の人、富の人が大切なのではない。自分が、今、縁している人、その人を大切にしていく。そばにいる、あの人、この人を、その人の特質を考えながら、全部、生かしきっていく。それが賢人である。そこに万人の信頼を勝ち取る道もある。
 私が海外を訪問する場合も、飛行機を降りて、まず最初に会う人、その人に最大の真心で接していく。そこから、私の友好は始まる。
 (アメリカでSGI会長が会ったサンフランシスコ州立大学の教授ルナイン博士は、こう語っている。「一般に、多忙な要人といわれる人ほど、一時の出会いに心を込めない人が多いように思われます。一人に会った瞬間に、もう次の人との出会いのことを考え、″心ここに在らず″との印象を与えることがしばしばあります。しかし、SGI会長は、″今、ここにいる人″に対し、最大の誠意をもって、一人一人と人間としての温かな交流を果たされたのです。私は、そこに人間性の美の極致を見る思いさえしました」)
 また、無名であってもよい。平凡であってもよい。″自分のためではなく、人のため、友のために、民衆のために、私は私らしく行動の歴史を残した″。そう言い切れる人こそが、人間としての皇帝であり、人生の皇帝である。
4  「仏教は」人類の心を結ぶ宗教
 さて、アメリカの著名な宗教学者ジョージ・ラップ博士は、このほど名門校コロンビア大学の学長就任が決定した。
 きょうは、ラップ博士に聖教新聞の特派員がインタビューした内容から、そのまま紹介をさせていただきたい。
 たとえば、現代世界の対立の要因となっている宗教対立について、博士は、こう述べておられる。
 「宗教は本来、人間の狭いエゴや執着を解放し、より高きものに人々の心を結び付けていくところに使命があります。
 しかし、残念なことに宗教の指導者たちが示す、より高きものが依然、それぞれの狭い宗教世界を指しているにすぎないことが多いのです。
 しかも、一つの宗教社会が、他の宗教社会を支配し、征服しようとする意図をもった場合、エゴや執着を解放し、人々との共感を結ぶべき教えが、逆に対立と抗争の要因を提供するという大きな矛盾が生まれます。
 その点、世界の宗教のなかで、そうした矛盾を超え、より高き普遍的なものへと人々の心を結び付けることに成功しているのが、仏教であると思います」
 さらに、仏教に対する、より具体的な評価として、博士は語っておられる。
 「仏教は、常に小乗から大乗へ、などより高きものを目指し、新たな変革と前進を遂げてきた教えであると評価しています。創価学会が信奉する日蓮大聖人は、その新たな変革の道を開かれた一人であると考えております」
 また、二十一世紀の宗教のあるべき姿については、このような意見をもっておられる。
 「現実世界を離れて存在するのではなく、現実社会に住しながら、しかも現状に満足することなく、常に建設的な批判精神をもち、価値を創造し続ける宗教こそ、二十一世紀の宗教であると思います。
 (この二千年のうち)少なくとも千五百年間は、世界宗教といわれる宗教は、人々に、そうした建設的な批判精神を啓発し、現実変革と価値創造の知恵を与えてきたと私は考えております。しかし近代の五百年間、宗教はその力を失ってしまっている、というのが私の見方です。
 私は、若くして聖職者となり、この、宗教の限界と無力性を克服しようと試みました。しかし、私の属する教会の内部では、それは亜流として排斥されました。
 そこで私は聖職者よりも教育者の道を選び、私の考えを学問の分野で実証しようとしたのです。学問の世界は教会の世界よりも、革新的で、寛容でした。
 私は、創価学会は、建設的な批判精神をもって社会に価値を創造してきた模範の存在であると評価しております。仏教の教えを実生活の体験のなかで実践、昇華させ、その影響を社会へと及ぼしていくいき方は、素晴らしい洞察に満ちたものです。
 社会の既成の価値を容認し、それに甘んじるのではなく、鋭い批判精神をもって、現実の社会に新たな価値を創造する。その姿は、私自身が考えている宗教のあるべき姿と見事に一致しております」
 私たち″創価″の運動は世界の最先端なのである。その一つの「証言」として、紹介させていただいた。
5  牧口初代会長「僧侶は堕落、社会再生は教育で」
 昨日、香港創価幼稚園を訪問したが、まことに世界一の王子・王女の城である。またシンガポールの創価幼稚園の素晴らしい様子も、よくうかがっている。
 さらにマレーシアにも創価幼稚園が開園の運びとなった。牧口先生もどれほどお喜びであろうか。
 牧口先生は『創価教育学体系』のなかで、精神を再生させ、理想郷を築いていく源泉は、教育にあることを強調された。現代的な表現に直して申し上げると──。
 「教育も最終的には、最高の宗教の力に基づかねばならないであろう。しかし、昔、思想や善導(良い方向へ教え導くこと)を一手に引き受けていた僧侶や宗教家は、今日ではほとんど信用を失墜して、現実社会と絶縁してしまっている。したがって教育による以外に(精神の再生への)具体的な方策は立たないであろう」と。
 牧口先生は、堕落した宗門など、もともと信用されていなかった。教育にこそ、人類の普遍的な希望を見いだされていたのである。
 「教育」なき「宗教」は聖職者にだまされ、利用されていく。民衆が賢明に、強くなることが、宗教を正しく生かしていく条件である。その意味でも、アジアにも開かれた教育の流れができはじめて、私はうれしい。
6  日蓮大聖人は仰せである。
 「今日蓮等の類いは真実自証無上道・大乗平等法の行者なり」──今、日とその門下は、真実に「この上ない道である大乗の平等の法」を「自ら証得した」行者である──と。
 妙法は、「大乗・平等の法」である。
 大乗の「大」とは、広大無辺であること、「乗」とは、乗りものに譬えて、衆生を苦悩のこちら岸から、幸福の向こう岸へ渡らせる教えを意味している。いわば小乗教は数人乗りのカヌーであり、大乗教は堂々たる大客船に譬えられよう。
 すべての人に、「苦しみや悩みの海」を乗り越えさせ、幸福の岸へ渡してくれるのが「大乗」の法なのである。
 「平等の法」とは、全人類を、何の差別もなく、すべて平等に救っていける法をいう。大聖人の仏法は全人類を幸福にできる。全人類を平和にできる。
 世界のいかなる所で、どのような人が、どういう悩みをもって信心したとしても、必ずその祈りは叶い、悩みを解決して、幸福になれるのが、大聖人の仏法なのである。
 もちろん、大聖人が「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」──あなたの願いが叶うか叶わないかは、ご信心によるのです──と仰せのように、願いが叶うかどうかは、どこまでも自分自身の信心による。
 大いなる希望と、具体的な目標をもった、強い祈りを貫くことである。祈りの通り、行動することである。「信心」は自分のためである。「行動」は自分のためである。法のため、友のため、社会のために「動く」ことが、体で経を読んでいる姿であり、全部、自分自身の大功徳となっていく。
7  行動の「風」が現実の「木」を揺るがす
 戸田先生は、指導された。
 「なにがゆえに御本尊様を無上宝珠むじょうほうじゅというかというに、無上宝珠とは如意にょい宝珠を意味しているのであります。
 如意宝珠とは、心のままに宝を出すたまのことをいうのです。家がほしいと思えば家ができ、かねがほしいと思えば金ができ、なに一つとして、心のままにならぬものはないという珠を無上宝珠というのです」
 「御本尊様は、しからば、なにごとを求めても得られるか。はっきりと私は申し上げます。いかなる願いも、かなわないことはないのです」
 「過去に金持ちになれないようなことが、もしあったにしても、この御本尊様を拝む時に、過去世に金持ちになる原因をつくった人と同じ資格が得られるのです。原因ができたら、結果がでるのは、あたりまえです」
 「御本尊様は無上の宝珠、如意宝珠であるから、あなた方の願いは、なにごとも、かなうことになっている。それをつかみ出せないのは、あなた方の信力がたりない。行力がたりないからなのです。信力が強いものであるならば、それに相応して、仏力・法力も厳然と現れる。必ず、しあわせになる」と。
 私も同じ大確信をもっている。
8  大聖人は、「願いのかなう信心」について、わかりやすく教えられている。
 「水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはめるがごとし、木は道理のごとし・風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ」──水が澄めば月が映り、風が吹けば木が揺れるように、皆の心は水のようなものである。信心が弱いのは、水が濁っているようなものである。信心がすがすがしいのは、水が澄んでいるようなものである。木は道理のようなものである。風が(その木を)揺り動かすのは、経文を読むようなものである(経を読む″風″によって道理の″木″が動いていく)と思っていかれることです──と。
 水が澄めば映ると仰せの「月」とは、仏界の智慧と力とも拝されようか。
 日寛上人は「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、わが身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人(日蓮大聖人)なり」(「観心本尊抄文段」)と明かされている。
 わが胸中の「本尊」を輝かせ、わが身の中の「大聖人」の境界を顕すための、御本尊であり、信心なのである。また、「経文を読む」と表現されている仏法の実践とは、勤行・唱題であり、広くいえば、自行化他にわたる広布の「行動」も含まれると拝される。
 真剣な祈りと行動の「風」を起こした時、「道理」の木を揺るがして、すべてを勝利の方向へ、幸福の方向へ、願い通りの方向へと転換していける。不可能に思えることをも可能にできるのである。「風」を起こすことである。「木」を揺るがすことである。
9  労苦のリーダーの周囲は幸福
 先ほどは、マカオ大学の李学長から、光栄にも「日本研究センター」名誉所長の称号を賜った。
 マカオ大学は、東西文明融合の天地・マカオにあって、ボーダーレス(国境のない)の時代を照らしゆく英知の灯台である。皆さまの代表として、謹んで、この称号を受けさせていただいた。
 マカオと日本の友好は、中国またポルトガルとの友好へ広がりをもっている。私は、これを機に、いよいよ貢献していく決心である。
 マカオ大学の皆さまへの感謝の意味も込めて、大航海時代、マカオを訪れたポルトガルの大詩人・カモンイスの詩の一節を、皆さまにご紹介したい。
 それは、「長き苦悩とのわが闘いの歴史を聞きたまえ! そして汝の苦しみをわが苦しみで癒すがよい。自身の大いなる苦しみこそが他者の苦しみをせるのだ」と。
 ″私も幾多の苦しみを乗り越えてきたんだよ。君も必ず乗り越えられるから″という励ましのメッセージである。
 リーダーが苦労知らずになってしまえば、弱い人、悩んでいる人の本当の味方にはなれない。
 煩悩即菩提の仏法である。リーダーが、人の何倍も苦労して境涯を開いていくことが、友や後輩に、希望と勇気を贈っていく。
10  恩師・戸田先生は「東洋の民衆が皆われらと共に手をつないで幸福になってほしい」と、繰り返し呼びかけられた。
 私たちは、さらに仲良く、朗らかに、友情を広げながら、アジアの素晴らしき平和と繁栄と連帯の道を開いてまいりたい。
 皆さま方が、ますますお元気で、裕福で、そしてご長寿であられますよう、心からお祈り申し上げ、私のスピーチとさせていただく。
 どうか、ご家族の皆さま、またお会いできなかった同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください。
 次にお会いできる日を楽しみにしています。

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