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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」記念関西ファミリー総会 一遍の唱題に広大の功徳

1993.5.4 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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1  宝の一生を「健康」で完走
 大切な関西の皆さま、遠いところ、ようこそ!
 関西が健在であれば、創価学会は盤石である。何も心配ない。私は、絶対の信頼を寄せている。皆さまの明るさ、人間味、温かさ、けなげさ──私は「関西」が大好きである。
 さきほど、関西男声合唱団の代表が歌ってくださった。各種コンクールでも素晴らしい成績を収められている。(一九八六年・関西合唱コンクールで金賞、九一年・宝国際室内合唱コンクールで銅賞など)
 合唱団の皆さま、ご苦労さまです!
2  信心は一生である。そして三世である。広宣流布も、長い長い旅路である。
 その「幸福への旅」を、最後まで、どう完走するか。宝の一生の毎日、毎日を、どう価値的に、すがすがしく生きていくか。そこには賢明な「知恵」が必要である。
 たとえば、だれでも、「疲れがたまる」ことがある。「体調が悪い」ときもある。生身の体であれば、当然である。
 そのようなとき、勤行はどうしたらよいか。唱題は、どう考えればよいのか──きょうは皆さまの日ごろの疑問にお答えする意味からも、日蓮大聖人の御言葉を拝し語っておきたい。御書根本の、こういう「具体的な指導」が大切だからである。
 結論から申し上げれば、大聖人は「場合に応じて、唱題だけでもよいし、御宝前でやらなくてもよいのですよ」と、仰せになっている。これは、門下の大学三郎の夫人が、「月水げっすい(月経)」のときには、どうすればよいかを尋ねたことへの御返事である。
 古来、日本には「月水」を不浄とする観念が根強かった。質問した夫人も、このようなときに経典を読誦してよいかどうか、悩んでいたようである。
 それに答えられた大聖人は、「月水」は、まったく忌みうべきものではなく、大切な、生理的働きであることを強調された。当時としては、きわめて合理的な考え方であられた。
 そして体調の悪い「長病の様なる物」であるとされ、こうした場合の、実践の在り方を教えられたのである。
 現代では「不浄」等は、まったく問題にならない。むしろ、この御書での大聖人の御言葉は、広い意味で、体が本調子でないときに勤行はどうすればよいかという課題に、明快な解答を与えてくださっていると拝される。
 すなわち勤行も、種々の条件を考慮して、柔軟に実践していくべきであるとの原則を示してくださっている。
3  まず大聖人は、こう前置きされる。
 「一切の女人ごとの御不審に常に問せ給い候御事にてはべ」──これは、すべてのご婦人それぞれの疑問であり、常に質問なされることであります──。
 そして「一代聖教にさして説かれたる処のなきかの故に証文分明に出したる人もおはせず」──(人々は、このことについて、いろいろ論じてきたが)釈尊が一生の間に説かれた聖教(経典)に、とくに、これと特定して説かれたところがないからか、証文を明らかに出した人もいない──と。
 皆、経文にないことを文証も出さず、勝手に言っているのだと仰せである。これに対し、大聖人はどこまでも「経典根本」であられた。ゆえに、私たちは、末法の経典である「御書」を根本に進む。
 五座三座についても、御書に定めてあるわけではない。後世にできた形式である。しかも本来は僧侶の勤めであった。
 今は僧侶のほうが、きちんとやっていないようだ。それを多忙な在家が行っているのだから、大変なことである。
4  不調、疲労の時や深夜の唱題だけでも
 なかんずく婦人は、まじめさのあまり、夜遅く、疲れているときや、体調の悪いときでも、完ぺきに五座三座をしようとされる場合がある。その信心はあまりにも尊い。必ず御本尊に通じていくであろう。
 しかし、とくに年配の婦人は、無理をすると、大きく健康を害してしまう場合がある。体調に応じて、短い唱題だけ、あるいは題目三唱だけで、休んだほうが価値的なことも多い。それを自分自身で判断することである。
 一生涯の信心である。仮に五座三座の勤行が完ぺきにできない場合があったとしても、御本尊を信じ、求めゆく「信心」があれば、福運は消えない。「無理」と「強信」は違う。
 大切なのは、一日一日を、はつらつと、希望に燃えて生きていく生命力である。ゆえに、状況によっては、むしろ早く休み、疲れをとって、さわやかな気分で勤行をしたほうがよい場合もある。
 勤行・唱題は、凡夫の生活のなかで最も荘厳な、御本仏との対面である。自分自身の仏界、胸中の御本尊を開いていく儀式である。
 ゆえに、すがすがしく、喜びにあふれたものでありたい。終わったら、風呂あがりのように、さっぱりした、というような勤行でありたい。
 形式的になったり、時計ばかり気にしたり、気にしているときほど、時間の進み具合も遅く、くたびれて、長行のどこを読んでいるのやら、あっちに飛んだり、こっちに戻ったり、ぐるぐる回ったり、寝ぼけて題目の声もはっきりしない──。
 それでもやろうという信心は、すごいけれども、やはり聡明な信心即生活が大切である。
 その意味で、夜の勤行は、できれば、なるべく早く行ったほうがよいのではないかと思う。
5  大聖人は、こう結論しておられる。
 「御経をば・よませ給はずして暗に南無妙法蓮華経と唱えさせ給い候へ、礼拝をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給うべし」──(月水のときの勤行は、原則は、どこまでも自由であり)経(法華経)を読まれずに、ただ南無妙法蓮華経と唱題だけをなされなさい。礼拝する時も、経に向かわないで(御宝前に行かないで)礼拝をなされなさい──と。
 読経どきょうはせず、ただ唱題だけでよい。しかも御宝前でなくともよい、との仰せである。横になったままの場合も考えておられると拝される。
 このように、大聖人は、形態については、どこまでも柔軟であられた。どこまでも「ただ心こそ大切」なのである。
 もちろん、「いいことを聞いた」、「それなら、いつも実践している」などと″利用″してはならない。とくに壮年・男子部には″インチキ性″が強いから気をつけねばならない。
 あくまでも、勤行・唱題の基本に真摯に挑戦することが必要であることは言うまでもない。
 第一、御書を悪しく″利用″して仏道修行を怠っても、自分が損をするだけである。だれのためでもない、全部、自分自身のための信心である。
6  随喜から随喜へ──五十展転の大功徳
 「ただ唱題だけでもよいのです」──大聖人がそう仰せになる前提には「南無妙法蓮華経の大功徳」があられる。
 この御手紙のはじめには、こう述べておられる。
 「法華経は一日の所作に一部八巻・二十八品・或は一巻・或は一品・一偈・一句・一字・或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只一遍となへ」──法華経の一日の修行として、「法華経一部八巻二十八品すべてを読む」、あるいは「そのうちの一巻だけを読む」、あるいは「そのうちの一品か一偈、一句か一字だけを読む」、あるいは「(法華経の)題目ばかりを南無妙法蓮華経と、ただ一遍だけ唱え」(る場合があります)──。
 法華経の読誦どくじゅにも、いろいろな仕方があります、と。
 「或は又一期の間に只一度となへ・或は又一期の間にただ一遍唱うるを聞いて随喜し・或は又随喜する声を聞いて随喜し」──あるいはまた「一生の間にただ一度(題目を)唱える」、あるいはまた「一生の間にただ一遍、唱える声を聞いて随喜する」、あるいはまた「その随喜する声を聞いて随喜」(する場合があります)──。
 題目の声を聞いて、他の人まで「随喜」する。そのような、さわやかな唱題の声でありたい。妙法を唱える声、また確信の声に触れて、あの人は素晴らしいな、学会の人はすごいな、元気が出てくるな、と聞いた人も随喜する。
 また、血色もよく、いい顔をしているな、いい笑顔だな、輝いているな、と随喜する場合もあろう。
 このように、目に見える姿は大切である。諸法実相である。諸法=現象の姿は即、実相=生命の真実の姿である。
 こうした随喜の姿は、まさに「会友」の方々の姿といえよう。随喜から随喜へ──「会友」運動の方程式である。
7  「是体に五十展転して末になりなば志もうすくなり随喜の心の弱き事・二三歳の幼穉の者のはかなきが如く・牛馬なんどの前後をわきまへざるが如くなりとも」──このように(妙法の随喜を人に順々に伝え)五十人に展転して、終わりのほうになれば、その気持ちも薄くなり、随喜の心も弱いことは、ちょうど二、三歳の幼児が頼りないのと同様であり、牛や馬などが後先のことをわきまえないのと同様になりますが(はっきりしなくなりますが)──。
 「他経を学する人の利根にして智慧かしこく・舎利弗・目連・文殊弥勒の如くなる人の諸経を胸の内にうかべて御坐まさん人人の御功徳よりも勝れたる事・百千万億倍なるべきよし・経文並に天台・妙楽の六十巻の中に見えはべ」──(しかし、そうであっても、この五十展転の末の功徳は)他の経を学んでいる人で、機根もすぐれ、智が素晴らしく、舎利弗や目連、文殊菩薩や弥勒菩薩のような、多くの経典を暗記しておられる人々の御功徳よりも百千万億倍すぐれているのです。これは、経文ならびに天台・妙楽の著した六十巻の書物の中に記されております──。
8  それほど、題目の功徳はすごいのである。ただ一遍、南無妙法蓮華経と唱えても、広大な功徳がある。永遠の功徳がある。これが私たちの信心である。この大確信がなければならない。
 大聖人は続けて、″仏は、あらゆることをご存じであるが″と断られながら、経文を引いて、こう述べておられる。
 「只法華経の一字を唱えたる人の功徳をのみ知しめさずと見えたり、何にいわんや我等逆罪の凡夫の此の功徳をしり候いなんや」──ただ法華経の一字を唱える人の功徳だけは(仏の智をもってしても)知ることはできないと説かれています。いかにいわんや私たち逆罪の凡夫がこの(妙法の)功徳を知ることができるでしょうか(いな、決して、測り知れません)──。
 題目一遍でも、それほどの大功徳がある。
 弓矢も名人が放てば、一矢でピシッと的に当たる。一念の定まった、強く深き祈りは、「一念三千」で、宇宙の一切を動かしていくことであろう。
9  唱題に「画一性」「強制」は無価値
 一遍でこれだけの功徳があるのだから、「きょうは三遍もあげた」と大いばりでよいのである。その歓喜が大切である。御書には何遍あげなさいとか、何時間やりなさいとは定められていない。
 そのうえで、もちろん、題目は、たくさんあげられれば、そのほうがよいことは言うまでもない。しかし、それはどこまでも、自分自身の自覚と決意にまかせて行うべきである。義務や形式ではない。
 たとえば、題目を「十時間あげた」「八時間、唱えた」という話を、時折うかがう。もちろん、婦人部の方からである。壮年部や男子部からは、ほとんど聞かない。
 婦人部の皆さまの信心の一途さ、真剣さには、本当に頭が下がる。しかし、もし仮に、その陰で、ご主人やお子さんが「ご飯まだかな」、「買い物、だれが行くのかな」などと心配するようなことがあれば、かわいそうである。それでは「信心即生活」とは言えない。
 長時間、唱題することで、生活が放ったままになったり、人を巻き込んで嫌な思いをさせたりすることが、あってはならない。また自分は、一日にこんなに長時間、唱題したのだと、時間の長さを自慢する必要もない。
 こうした姿は、周囲に、さまざまな点で誤解を生じやすい。近隣から、狂信のようにも思われかねない。そうなれば、信頼を失い、法を下げてしまう場合もあろう。
10  組織での場合も同じである。″十時間題目闘争″等と銘打って行っている場合もあるが、二、三人の有志による自発的なものなどはよいけれども、大勢で一律に行おうとすれば、人それぞれに、生活時間帯は異なるし、忙しさも違う。体調も違う。
 その意味で、何人かには結局、無理をさせてしまう可能性がある。こまやかな配慮が必要である。いわんや強制はいけない。それに参加しなければ、創価学会の本来のいき方ではないというような極端はいけない。
 信心は「喜び」と「安心」「希望」を与えることが大切である。抑えつけるような、また苦しめるような指導は絶対に慎まねばならない。
 題目の偉大な功徳は当然のこととして、相手の状況に応じ、相手の立場に立って、皆が楽しく「信心即生活」のリズムで進めるように、「明快な」「良識豊かな」指導であっていただきたい。
 唱題の渦を起こそうと思えば、リーダーみずからが、率先して深く強く、祈ればよいのである。私は、関西の皆さまが、全国に、その模範を示してくださることを信じている。
11  未来部は勉学第一で
 ご家庭での教育について一言しておきたい。
 子供が勤行すれば、それだけで「成績が上がる」と思い込む──その信心の強さは素晴らしいかもしれないが、勉強はやはり自分で努力しなければ、成績も上がらない。当然の道理である。
 「実力」をつけるのは、自分の努力である。その努力を持続させるのが信仰の力であり、また実力をすべて出し切るための「生命力」と「福運」が信心で備わるのである。努力、実力自体がなければ、しかたがない。
 信心は一生である。未来部の時代は「勉学第一」で進むべきである。それが子供にとっての「信心即生活」である。
 「子供には、″人生の大変な時は信心で乗り越える″ことを、しっかり教えればよいのだ」と戸田先生は指導されていた。
 他の子供は、ニコニコ、楽しく学校に行っているのに、こちらは毎朝、口を開けば「勤行、勤行」と責められる。これでは、子供も毎日、憂鬱である。かえって、信心がいやになってしまうかもしれない。
 お子さんが題目三遍でも、方便品・自我偈だけでも、素晴らしいことなのだから、「よくやったね」とほめてあげることである。「早く行ってらっしゃい。あとは、お母さんがちゃんとやっておくから」と。
 それくらいのゆとり、余裕、おおらかさがあってよいと私は思う。
 ともあれ、だれよりも人生を楽しむための信仰である。その信仰のことで、無用な争いや苦しみを生むことは愚かである。
12  また、学会活動は、広宣流布の活動であり、「化他の修行」である。それ自体、で「経」を読んでいる姿なのである。
 「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり」との御文では、「経」とは「足」に当たる。「足」をはじめ全身で広宣流布へ「行動」していくとき、自分自身が妙法蓮華経の当体と輝いていく。
 大聖人は、末法は「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せである。この「自行化他の唱題行」を正しく実践してきたのは、ただ創価学会だけである。
 日顕宗の僧侶は、「自行」もきちんと行ぜず、社会の中での不惜の「化他」に至っては片鱗もない。ただ大聖人を利用し、学会員の信心を利用し、私たちだけを働かせて、自分たちは永遠に享楽の生活を送ろうとしたのである。極悪の魔性の存在である。
13  「随方毘尼」──仏法は「その地」に応じて
 大聖人は、この御手紙の中で、「随方毘尼ずいほうびに」(随方毘尼とは、随方随時毘尼ともいい、仏法の本義にたがわないかぎり、各地域の風俗・習慣や、時代の慣習に反しないようにすべきこと)のかいについて教えられ、″その国・地域等に応じて、仏法を実践していきなさい″と述べられている。
 そして、現実の状況や生活、社会を無視した「強義ごうぎ」(強硬な教え)を、戒められている。
 たとえば、正座の習慣のない外国のメンバーに「イスはいけない」とか、その他、実情を無視して日本的なやり方、これまでの習慣などを押しつけた人間もいた。
 大聖人は、こうした「強義」は、「多くの檀那を損ずる事あり」──多くの信徒を失ってしまうことがある──と仰せである。
 まったく、その通りである。
 「無理」や「強制」で大勢の人をリードしていけるはずがない。長続きするわけがない。広宣流布どころか、皆、離れていってしまう。
 結論していえば、すべてにわたって、どこまでも「その国の幸福のため」「その人の幸福のため」に、一番よい道を考えてあげるのが、仏法の心である。それが、釈尊の心であり、大聖人の御心なのである。
 常識のある「柔軟な知恵」にこそ、仏法の光は輝いている。
 そこに真の「強盛な信心」はある。
 皆さまが、きょうも「素晴らしい一日」であることをお祈りし、私の話を終わります。
 「関西の息吹」「関西の魂」を全国、全世界に伝え広げていってください!
 きょうは、おおきに!

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