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日蓮大聖人・池田大作

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全国青年部幹部会、小平・町田・中野合同… 「大願」の青春を、「充実」の人生を

1993.4.13 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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1  青年が真剣ならば広布は勝つ
 本日は、SGI(創価学会インタナショル)春季研修会のため来日された二十六カ国・四百人の″求道の指導者″の皆さまが参加されている。遠いところ、本当にご苦労さまです。全員で、改めてこの方々に賛嘆の拍手を送りたい。
 日本にいて、恵まれた環境で訓練を受け、高い地位についても、堕落し、退転する人間もいる。
 しかし、この方々は、「広宣流布のため」「自身の求道のために」と、ご多忙のなか、経済的にも大変ななかを、遠路はるばる集ってこられた。何と尊いことであろうか。日本はむしろ、この方々の信心に学ばねばならないと私は思う。
 また、「世界一の青年部」の全国幹部会、おめでとう。さらに、東京の小平・町田・中野の合同総会も祝福申し上げたい。
 また、全国の同志の方々の健闘を心からたたえたい。
2  広宣流布のすべての戦いは、青年の力で勝つ。これが学会の伝統である。私が示した道である。
 私は、戸田先生のもとで青年らしく戦い、すべてに勝った。いかなる闘争にも、厳然と「勝利」の実証を残した。「私は戸田先生の弟子である」「仏法は勝負である」「ゆえに断じて勝つ」との一念であった。
 学会が初めて推薦候補を立てた参議院議員選挙(昭和三十一年七月)でも、私は大阪で指揮をとり、社会の予想をくつがえす勝利を収めた。「『まさか』が実現」と、新聞も大きく報道した。その他の戦いも同様である。
 本当に「真剣」に祈り、心を合わせて戦うならば、必ず勝てる。これが、わが学会の法戦である。
 今、私は青年部の諸君に万感の期待を込めて呼びかけたい。「青年部よ、すべてを担い立て!」「青年の『団結』と『知恵』と『情熱』で、見事なる勝利の歴史を築こう!」と。
 本日は、インドからも、はるばる代表の方が参加されている。また昨日(四月十二日)は、インドのシャー新駐日大使と懇談した。
 大使との会談でも話題になったが、明年秋、世界初の「アショカ大王・ガンジー・ネルー展」が、インド文化関係評議会(ICCR)の協力を得て、東京富士美術館で開催される。
 同展では、人類の偉大な精神の足跡を刻む、二百点以上の至宝が公開されることになっている。数々の″国の宝″を、私への信頼によって出品していただくことになった。今秋からの「大ナポレオン展」のあと、オープンの予定である。
3  アショーカ大王「すべての人は私の子である」
 同展では、アショーカ(アショカ)大王の法勅ほうちょく(王による法令)を刻んだ石柱や碑文も紹介されることになっている。
 ″暴力″を捨て、″法″による統治によって平和な社会を築こうとしたアショーカ大王──。現存する多くの碑文から伝わってくるのは、民衆の幸福と安穏を願う大王の「慈悲」と「寛容」である。
 素晴らしい賢王であった。私は「一般の歴史のうえで、最も尊敬する人物は」と問われると、いつもアショーカ大王の名を挙げる。
 大王は、ある法勅の中で、こう宣言する。
 「われわれは人びとの信頼を得なければならない。すべての人は私の子である。私は王子のためと同様に、〔かれらが〕現世と来世の、すべての利益と安楽を得ることを願う」
 人々の「信頼」を得るために努力する──″大王だから、指導者だから、私に従え″というような傲慢ではない。権威をカサにきた、高圧さとは正反対である。また、自分の子供の幸福と同様、また、それ以上に、人々の幸福を願っていく。そこに「指導者」としての本当の姿がある。それは「仏法者」の精神そのものである。
4  アショーカ大王の碑文には、大王がその誓いを果たすために、多くの事業を行ったことが記されている。指導者は″仕事″をしなければならない。だれよりも率先して「働く」のがリーダーである。人々の上に君臨して、威張ったり、自分のことだけを考えているような人間は、指導者ではない。働かないで″取る″ことばかり考えているのはまさに、無慈悲な収奪者である。
 日顕宗の遊興僧をはじめ、そんな民衆利用の悪人に、絶対にだまされてはならない。
 大王は、たとえば道路にバンヤン(イチジク)の木を植え、また一定の距離ごとに井戸を掘って、人々や家畜が休息できる場所をつくっている。
 また、人間と家畜のための二種の療院(治療所)を建て、薬草を栽培させたりもしている。人間だけではなく動物のことまで考えて、王みずから福祉事業を推進している。
 仏法では、「一切衆生」の救済を説く。緑の環境を守り、人間のみならず、動物や植物も含めた、すべての生命を「慈悲」で包んでいく教えである。
 生命あるものすべてを尊び慈しんだ大王の精神──。わが創価学会の精神も同じである。
 大王は、ただ「民衆の幸福」を願い、民衆に憩いと安らぎを与えようと行動した。
 私にとっては、なかんずく「学会員の幸福」が、根本の目的である。それ以外には何もない。学会員の皆さまに「憩い」と「安らぎ」、永遠の「希望」と「喜び」を与えるために、そのためにのみ、私は生き、戦っている。
5  ネルー「大王は力や強制によらず、ただ人々の心をつかんだ」
 インドの偉大な初代首相・ネルーは、アショーカ大王の″法による統治″という偉業をたたえている。
 「アショーカは、熱心な仏教徒となり、法(ダルマ)を弘めるために、全力を尽くしました。しかし、それは力や強制によったのではありません。彼は、ただ人々の心を勝ち取ることによって、仏法に帰依させたのです」
 人々の心をつかむ──これがアショーカ大王の弘法ぐほうであった。仏法の指導者の極理ともいえる。「広宣流布」の魂である。
 大切なことは、人間の心をつかむことである。″あの人に会うと、うれしい。安心だ。希望がわく。確信がわく。勇気がわく″──こう、人々から慕われるのが真の指導者である。
 青年の「心」、民衆の「心」を勝ち取っていくところに、新しい歴史が開かれる。それ以外にない。反対に、権威や策の指導者からは、人々の心は離れていく。次第に民衆とともにいられなくなり、結局、民衆に対する反逆へと転落する。最後は民衆から侮蔑される惨めな姿となる。
 私たちは、どこまでも誠実に、どこまでも確信をもって進みたい。生き生きと、聡明に知恵を発揮しつつ、友情を、すがすがしく広げてまいりたい。
6  ガンジー「友に尽くすほど、人は偉大」
 インド独立の父・ガンジーについては、これまで幾度となく、語ってきた。本日も青年のために少々、紹介しておきたい。
 ガンジーは述べている。
 「一国の文化は、その国民の心と精神に宿る」と。
 一国の文化は、マスコミが追うイベント(催し)とか、流行とか、そういう目に見える華やかな姿に実体があるのではない。
 また一国の文化は、物質的な豊かさという尺度で決まるのでもない。人々の「心と精神」に宿るのが文化である──ガンジーの叫びは、人間社会の本質をついている。
 ″人々の心に何が宿っているのか″、また″何を宿らせていくのか″──ここに重要な問題がある。時代を開きゆく焦点がある。
 この一点に着目し、手を打ち、手を差し伸べているのが、創価学会であり、SGIの運動なのである。
7  また、ガンジーは、こうも述べている。
 「友の幸福のために、尽くした分だけ、人は確実に偉大になる」「私の活動はすべて、私の飽くことなき人類愛に源を発している」
 友の幸福のために行動する。人類の幸福のために日夜、働き、労苦の汗を流す──ガンジーは、どこまでも他人の幸福、他人の利益のために生ききった。ゆえに偉大であり、ゆえに幸福であった。
 ″人々のために″──この精神で立つ人は強い。何ものも恐れない。恐れる必要がない。ゆえに私も、ここまで一切を乗り越えてこられた。一切に勝ってきた。負けなかった。
 利己──自分のためであれば、あえて迫害に耐えて進む必要もない。何も行動しなければ、何の反動もない。自分のためなら、そのほうが、まったく楽であろう。しかし結局、利己の人は堕落である。向上がなく、充実がなく、幸福もない。
 今、あまりにも多くの政治家、宗教家が「利己」に生き、腐敗してしまった。″民衆のため″を本気で考えている指導者がいなくなってしまった。ここに社会の不幸がある。
 だからこそ、わが学会は、いよいよ民衆の絶対の味方となって、戦っていく。諸君も戦っていただきたい。人類愛の「偉大な人生」であっていただきたい。
8  さらに、ガンジーは語っている。
 「私と同じ努力をし、同じ希望と信念を養っていくならば、男女を問わず、だれでも、私が成しとげたのと同じことを成しとげることができる。このことに私は、露ほどの疑いも持たない」
 自分だけが特別なのではない。皆、平等である。皆、同じ人間である、と。
 いわんや日蓮大聖人の仏法は、全民衆を平等に「仏」にしゆく大法である。「僧が上で民衆は下」などという日顕宗は邪教である。
 第一、それでは「師弟不二」にならない。大聖人は、御自分と同じ境涯になりなさいと、そのために御本尊を遺してくださったのである。
 師と「同じ希望」「同じ信念」をもち、「同じ努力」を重ねていく──それが弟子である。そのことによって「同じ境涯」に至るのである。この師弟の道に、仏法の根本があり、人類向上の永遠の王道がある。
 ガンジーは″民衆のために「平和の道を開こう」「幸福の道を開こう」″と戦った。その模範の行動に人々が続いた。
 皆さまも、よき先輩の「模範」に続いていただきたい。自分自身が「模範」となっていただきたい。海外の皆さまも、ご自身の「人間革命」の足跡が、そのまま、それぞれの国で、万年の「道」をつくっているのである。この尊き使命を確信していただきたい。
9  「菩薩愛」の指導者を民衆は待望
 先日、私は、アメリカのクレアモント・マッケナ大学で講演を行った(一月二十九日、「新しき統合原理を求めて」)。
 その際、今年九十二歳のポーリング博士が、わざわざ駆けつけてくださった。博士は「現代化学の父」とうたわれ、ノーベル化学賞・平和賞を受賞されている。個人で二つのノーベル賞を受けたのは、これまでポーリング博士ただ一人である。
 私の講演のあと、博士は講評のなかで、こう語られた。
 「とりわけ私が感銘したのは、仏法で説かれる十界と人格形成について述べられた部分でした。
 とくに『ナンバー・ナイン(NO.9)』(十界の九番目)すなわち菩薩界という、『悩めるすべての人々を救おうとする慈悲の生命』について語られた部分です。人類は、この菩薩の精神に立たねばなりません。
 もし、我々は何をなさねばならないかと問われたら、我々は人間生命の『ナンバー・ナイン』つまり菩薩界の精神に立って行動するよう努力するべきである、と思うのです」
 「仏」といっても、それは内面の境界であって、外に現れる具体的な「行動」は、菩薩界の振る舞いとなる。
 今、私たちSGIが進める活動は、正法を根本とした真実の「菩薩の行動」であり、ポーリング博士が述べられたように、世界の知性が、この人間愛の運動に注目し、期待しているのである。
 人類の新世紀にとって、私たちの哲学と行動が、どれほど重大な価値をもっているか。とくに、青年部の諸君にそのことを、よくわかっていただきたい。
 二十一世紀は、諸君が大指導者となって活躍する時である。その「道」は、全世界に、できあがっている。あとは諸君が成長するだけである。
10  今世の法戦が永遠の大境涯を約束
 さて、大聖人の門下が激しい弾圧を受けた熱原の法難。この大難に対し、恐れることなく立ち上がった青年に、南条時光がいる。
 時光は、迫害に追われた同志を自分の屋敷にかくまうなど、わが身を危険にさらして、尊い仏子を守ろうとした。
 そんなことをしなければ、わが身は安泰であったろう。しかし彼は決意した──「同志を守ろう!」と。
 彼は、策謀を巡らす悪侶たちに対して、青年らしく真っ向から立ち向かった。その結果、悪侶と結託した権力者から弾圧された。
 自分が乗る馬もなく、妻や子供たちが着るものさえ満足にない、という不自由な生活を送る。
 それでも時光は大切な同志を守るため、法戦の行動を止めなかった。
 自分が一身に難を受ける。苦労を引き受ける。そして同志を厳然と守り抜いていく。これが学会のリーダーの根本精神である。私の精神である。
11  大聖人は、この青年門下の勇敢な行動を、最大に賛嘆された。時光が数えで二十一歳の時に与えられた御手紙では、こう激励されている。
 「願くは我が弟子等・大願ををこせ(中略)とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじ当時のごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」──願わくはわが弟子たちよ、(成仏への)大願を起こしなさい。(中略)ともかく、死は定まっているのである。そのときの嘆きは、現在の(迫害による)苦しみと同じである。同じことならば、かりにも法華経(妙法)のために命を捨てなさい。それは、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものであると思いなさい──。
 殉教者まで出した熱原の法難である。時光の受けた圧迫も筆舌に尽くせぬものであったろう。しかし、大聖人は、法難の苦しみも死ぬ時の嘆きも、苦しいことは同じであり、ならば広布の道を貫いて大境涯を得なさいと教えられている。
 人間にとって、死がどれほどの苦痛であることか。いかに金持ちでも、地位や権力があっても、死を前にしては夢のように空しい。幻のように、はかない。皆、これがわからない。
 それを、広布のために苦労することによって、自身の宿業を転換し、最高に安楽な「死」即「次の人生への出発」を迎えられるのが、この仏法である。その実証を、私たちは先輩や同志の姿に多く見てきた。
 この一点だけでも、正法の功徳は偉大である。ゆえに、正法を教えてくれた学会の恩にどれほど感謝してもしきれない。
12  「大願」に生き、わが生命を「大我」に
 大聖人は「大願ををこせ」と仰せである。人間、「何のため」に命をけるか。
 「異性のため」「財産のため」「栄誉のため」──それが人生の目的ならば、それはそれだけの刹那的な次元の人生となってしまう。
 我々の生命は、露や塵のように小さいともいえる。
 しかし、大海に入った露は大海と一体になる。大地に埋めた塵は大地と一体になる。その大地が草木を茂らせ、花を咲かせ、多くの実を結ぶ。
 それと同様に、我々が宇宙の根本法である「妙法」に命を帰していく時、自身の小さな境涯もまた、宇宙大へと拡大していく。「小我」が「大我」となる。
 「広布のため」「民衆のため」との大願の行動は、即「自分自身のため」「自分の眷属けんぞくのため」の大福徳となる。これが仏法の方程式である。
 私たちには「世界広宣流布」という「大願」がある。壮大な目標がある。ゆえに、目先のことに一喜一憂することはない。
 一切衆生を永遠に幸福にしきっていく──この最高の「大願」に生ききっていく時、わが人生は「世界大」「宇宙大」へと無限に広がっていく。そしてわが身の福運も無限に積まれていくのである。
13  大聖人は、引き続き、法華経化城喩品の次の一節を引かれ、御手紙を結ばれている。
 「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」──願わくは、仏に供養する功徳をあまねく一切に及ぼし、自分たちと衆生が皆、ともに成仏できますように──。
 皆さまの広布への献身は、仏への最大の供養である。妙法のために行動した功徳は、自分だけでなく、父母、兄弟など、すべての縁ある人々の成仏への力となっていく。皆を幸福の方向へ向かわせてあげられる。
 ゆえに「一人」が立てばよい。一切は「一人」から出発する。「一人」の勇気と確信の信心で決まる。このことを、私はきょう、強く申し上げておきたい。
 また、人の幸福を祈れば、その分、自分が幸福になっていく。人の健康を祈れば、その分、自分の健康も守られる──これが妙法の不思議な力用である。
 「利己」と「利他」のどちらに力点があるかで、人間の偉大さは決まる。信心が本物かどうかも決まる。
 退転者の本質は皆、醜い利己であった。根底が名聞名利の一念であった。現宗門も同じである。
 皆さまは、法のため、友のため、真剣に祈り動いて、「利己」から「利他」へと、ダイナミックな生命の転換を、偉大なる人間革命を実現していただきたい。
14  御聖訓「命限り有り惜む可からず」
 大聖人は、厳寒の佐渡に着かれて最初に出された御手紙を、こう結ばれている。
 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」──命には限りがある。惜しんではならない。究極して願うべきものは仏国である──と。
 ″命を惜しまない″──仏法者のみならず、偉大な人物は皆、みずからの使命に命をなげうって取り組んでいる。
 トルストイ、ゲーテ、ノーベル……先ほどのポーリング博士もそうである。
 まして、最高に価値ある仏法のためには命を惜しんではならない。
 大聖人の仰せ通り、身を惜しまず広布に働いたならば、「仏国」という三世永遠にわたって寂光に包まれゆく大境涯に至るのは間違いない。
15  「霊山」が、どれほど素晴らしい世界か──。大聖人は仰せである。
 「ただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」──ほどなく霊山に行かれたならば、太陽が出て十方の世界を見晴らすようにうれしく、「早く死んでよかった」と、喜ばれることでしょう──と。
 また、「あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道をさかへり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり」──なんと素晴らしいことであろうか。法界は皆、寂光土で、瑠璃をもって地面とし、黄金の縄をもって八つの道をしきっている。 天から四種類の花が降ってきて、空には音楽が聞こえ、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、心から楽しんでおられるのである。我らも、その数の中につらなって遊びたわむれ、楽しむべきときが、間近(まぢか)になっている──と。
 <「寂光土」は、仏の住む清らかな国土。「八の道」とは、八正道はっしょうどう(悟りに至る八つの正しい道)のこと。(1)正見しょうけん(世間、出世間に対する正しい見解)(2)正思惟しょうしゆい(正しい思索)(3)正語しょうご(正しい言語)(4)正業しょうごう(正しい行い)(5)正命しょうみょう(正しい生活法)(6)正精進しょうしょうじん(正しい努力))7)正念しょうねん(正しい一念)(8)正定しょうじょう(正しい禅定、悪を捨てた安らかな境地)などとする。「四種の花」とは、インドで最も尊重された「曼陀羅華まんだらけ(白蓮華)」「摩訶曼陀羅華まかまんだらけ(大白蓮華)」「曼殊沙華まんじゅしゃげ」「摩訶曼殊沙華まかまんじゅしゃげ」>
  
 「信心」を貫けば、死さえも、″楽しく″″明るい″世界となる。
 「こんなに素晴らしいのなら、早く死ぬんだった」──大聖人が、必ず、そのようになるとお約束なのである。大聖人の御言葉だけは絶対にうそがない。
 こうした、晴れ晴れとした「幸福の山」に至るには、今世の「修行の坂」を上らねばならない。御書の通りに、自行化他の正道を歩みきってこそ、初めて到達できるのである。この正道を進んでいるのは、ただ創価学会のみである。
16  悔いなく広布に生きる人生を
 大聖人は仰せである。
 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」──一生を空しく過ごして、万年にわたって悔いることがあってはならない──と。
 一生は短い。しかし、生命は永遠である。短い今世の戦いによって、永遠の福徳を積むことができる。ゆえに決して、今世の法戦に悔いを残してはならない。人生に悔いを残しては何のための信心か。
 お金がある。暇もある。しかし空虚だ──それでは人生は不幸である。
 反対に、たとえ、お金がなく、暇がなくても、充実感に満ちた人生は幸福である。この幸福の実像を最大限に得るのが信仰である。妙法である。
 広布に生きる人生は多忙である。苦労も多いかもしれない。しかし、普通の人生の十倍、百倍の価値ある人生を生きているのである。大聖人の仰せの通り、永遠の栄光に包まれた人生であることを確信していただきたい。
 尊き「二十一世紀の指導者」の諸君の成長と、ご活躍を心から祈りつつ、スピーチを終わりたい。
 SGIの方々も、カゼをひかれませんように。残された滞在期間を楽しく有意義に過ごして、また、いらしてください。
 全国の青年部の諸君、ご苦労さま! これからの戦い、よろしくお願いします!

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