Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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SGI春季研修会K 仏子を守れば、広布は栄える

1993.4.11 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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1  SGIの尊き同志の質問に答えて
 遠いところ、本当によく、おいでくださった。皆さまは各国の広宣流布の万年の基盤をつくられている方々である。最高に尊貴な方々である。
 皆さまを大切にする人は、諸天・諸仏から大切にされる。皆さまにいばったり、利用する人は、諸天・諸仏から叱られる。日蓮大聖人から叱られる。
 この一点を知り、尊き同志のために心をくだくのが真の「SGI(創価学会インタナショナル)のリーダー」である。その人は厳然と福徳に包まれ栄えていく。この精神がある限り、SGIも永遠に栄えていく。
 SGIは、何でも語り合い、励まし合う″家族の集い″である。きょうの研修会も、ゆったりと、リラックスした″家族会議″としてまいりたい。
2  ″内なる力″を引き出すのが信仰
 「戸田先生は、『学会は病院をつくらない』と指導されたとうかがいました。それはなぜでしょうか」(マレーシア・男性)
 結論から申し上げると、どこまでも「信仰の力」で人々を幸福にする。成仏の境界に導く、これが大聖人の仏法の目的であるからです。
 病に打ち勝つ人間自身の″内なる力″を引き出していくのが、宗教本来の使命です。
 ゆえに、宗教自体の力で人々を救うこともなく、教団として病院や薬局を営業していくならば、それは宗教教団としては、本道をはずれた″亜流″の行き方になってしまう。
 自分たちの宗教で人々を健康にし、幸福にすることができない″力不足″をカムフラージュする姿と見ることさえできるかもしれない。いわんや病院によって利益を得るようになっては堕落といわざるを得ない。
 いうまでもなく仏法は医学を否定するものではない。
 戸田先生は、「病院には病院の使命がある。私たちは、信心を根本にして医学を使っていけばいいのだ」と言われていた。
 要は、次元の違いであり、仏法は生命の内側から、根底的に人間を健康の方向へと向かわせていく。その根本的使命をこそ教団は果たすべきだということです。
3  「冥の照覧」は因果の理法
 「『みょう照覧しょうらん』について教えてください」(カナダ・女性)
 「冥の照覧」とは、目には見えなくとも、因果の理法は厳然であるということです。
 だれが見ていなくとも、私たちの一念・行動を、全宇宙の諸天・諸仏が見守っている。御本仏・日蓮大聖人が、すべて御覧になってくださっている。これを「冥の照覧」というのです。
 ゆえに信心は、他人に「どう見えるか」ではない。自分自身が「どうあるか」「どう行動したか」である。
 目には見えない「一念」と「行動」が、長い間には必ず目に見える結果となって現れてくる。長い目で見れば、その人の真実は、自然のうちに明らかになっていく。裏表のない人が最後に勝っていく。たとえば、″電波″は目に見えないが、火星や金星にまでも、つながっていく。生命の一念も、凡夫の目には見えないが、「一念三千」の法則によって、諸天・諸仏をも動かし、厳然たる「実証」となって現れる。
 「信心」とは、いわばこの「冥の照覧」を信じきることと言えるでしょう。私も、それを信じて、人の知らないところで戦ってきました。
 「確固たる信心」の人は必ず「確固たる幸福」の人生を開いていく。このことを確信してください。
4  話は変わるが、仏法では「煩悩即菩提」と説く。
 人生も課題の連続である。組織においても、凡夫の集いである以上、多くの課題があることは当然である。課題があるからこそ、よりよき解決へ祈り、努力することによって「煩悩」が即「菩提」となっていく。次の発展と前進の糧になっていく。
 ゆえに組織上のことも、何でも率直に先輩に相談しながら、決してあせらず、悲観的になったり、グチになったりすることなく、「自分がまず祈っていこう」「自分がまず模範の存在になっていこう」と朗らかに取り組んでいっていただきたい。広布のための「悩み」は即、自分自身の永遠の「幸福(菩提)」になっていく。
5  さて私は先日(四月九日)、チリのロドリゲス駐日大使と会談し、エイルウィン大統領からの「親書」をいただいた。チリは、私が海外五十カ国訪問という歴史を刻んだ、忘れ得ぬ国である。
 創価学園の入学式(四月八日)でも、私は、「美しき詩心の国」チリの二人のノーベル文学賞詩人である、ミストラル女史(一八八九年〜一九五七年)とネルーダ(一九〇四年〜七三年)の深き友情について紹介した。
 革命詩人ネルーダは、チリの自然の美しさ、豊かさを、こうたたえている。
 「チリの森を知らない人は、この地球を知らないといえよう。そのチリの大地から、その土から、そして、その静けさから、私は出てきたのだ。世界を歩き、謳い続けるために」そして「″チリ″と私たちが名づけている祖国は、(多くの教えを秘めた)『本』である。私は、この『本』を片時も離したことはない。またチリの細長い国土から目を離したこともない」と。
 祖国を何よりも愛する心、そして抽象的な知識だけでなく、「現実から学ぶ」「大地から学ぶ」という英知が、生き生きと伝わってくる。
6  ネルーダは、チリの民衆を深く愛し、民衆とともに戦うことを誇りとしていた。
   わたしは人民だ、数かぎりない人民だ
   わたしの声には 深い力がある
   それは 沈黙をぶち破り
   くらやみの中でも 芽をだすのだ
 民衆ほど強い力はない。民衆のなかで、民衆の最大の味方となって進んでいくことである。民衆とともに──ここに一切の繁栄の因がある。限りない力をわき出だす源泉がある。
 SGIは悩める人、弱い立場の人、苦しんでいる人の絶対の味方である。この根本精神を銘記していただきたい。
7  チリの民衆も、長い間、軍事独裁政権(一九七三〜八九年)と戦った。そして、民主を勝ち取った。
 当時の人権蹂躙がいかにひどかったか──。エイルウィン大統領は、その真実を明らかにするため努力されている。
 大統領は語っている。
 「いかなる共生においても、真実の尊重が基本であります」
 「真実が尊重されないところでは、人間同士の信頼が崩れ、疑いや信用の失墜が生じ、そのために憎悪や暴力行使の誘惑にかられます。虚偽は暴力に至る控室であり、平和とは相容れないものであります」──。
 ″ウソ″と″暴力″は、きわめて近い間柄だというのである。日顕宗もまさにその通りである。「本当のこと」が言えないような陰湿な社会、団体には「信頼」も「友情」もあり得ない。互いに疑惑と憎悪で傷つけ合いながら滅んでいく。
 SGIは座談会をはじめ「開かれた対話」の世界である。ゆえに発展している。
8  先日も、日蓮大聖人の仏法における「本尊」の本義についてスピーチさせていただいた。(「4・2」記念各部代表懇談会)
 大聖人の御本尊は「観心の本尊」であられる。「観心(心を観ずる)」とは、端的に言えば、「わが心を、ありのままに観ること」「自己を知ること」であり、その目的は「自分自身が仏である」と自覚することである。
 「自分自身が仏である」と自覚するための御本尊であり、信心なのである。
 大聖人は、「観心」について仰せである。
 「所詮しょせん己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり(中略)実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終をわる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず」──要するに、自分の心と仏身は一つであると観ずれば、すみやかに仏に成るのである。(中略)実に、自分の心と仏の心とは、ひとつの心であると悟れば、臨終を妨げる悪業もない。生死(の苦しみ)に縛りつける迷いの念々もない──。
9  この御文を拝して、戸田先生は述べられている。
 「己心と仏心と一なりと観ずるとは、仏心も妙法五字の本尊であり、己心も妙法五字の本尊である。
 すなわち、われらの生命それ自体が、妙法の五字であるということである。されば、仏心、己心異なるといえども、妙法五字の本尊は異ならない。
 しこうして、異ならないということを、どう『観』ずることができるかというに、それは、われら衆生の信力・行力にあるのである。
 されば、初信の行者が、なにもわからないで、ただ一心に御本尊を信じて、信力・行力を励むならば、自然に、己心と仏心とが冥合みょうごう(奥深くで融合)する状態になるのである。
 ここに、大御本尊の法力・仏力が、その衆生の生命のなかに厳然と現れ、功徳を成ずるのである」と。
 「自分自身が仏である」と知るといっても、単に、そう思っただけでは観念である。事実の上に、生活の上に、生命の実感の上に、「己心の仏」の力と躍動と知恵と福徳を顕現せねばならない。そのためのカギが、「信力」であり「行力」なのである。
10  信力・行力によって己心に仏力・法力が顕現
 さらに戸田先生は、述べられている。
 「一の信力・一の行力は、一の法力・一の仏力となって現れる。百の信力・行力は、百の法力・仏力となって現れる。万の信力・行力は、万の法力・仏力となって現れる。この理をよくよく心に刻んで、純真無二の信心をはげまなければならない」
 「もし、信力に、一点でも不信の虫がつくならば、行力の効なく、その大木はくさって倒れてしまう。どこまでも戒心かいしん(用心)しなくてはならないのは、疑うということである」
 「御本尊は、清浄なる法水であるから、その大敵たる汚水をいとうものである。
 もし、信力に、この汚水がまじったならば、己心の妙法五字の本尊は、これがために汚れて、清浄なる妙法五字の大御本尊と冥合できなくなる。ゆえに法力・仏力は絶対に現れないことになる。
 このゆえに、大信力を起こして、大御本尊を信じなければならぬ。
 絶対に功徳あるものとの信念を、少しなりともゆるがせにしてはならない。露ばかりの疑いをも、決して許してはならない。
 また、大信力があったとしても、これを行ずる力なくては、仏力・法力は現前しない。このゆえに、大行力を行じなくてはならぬ。
 大信力あって、唱題に、折伏に、大行力を行ずるならば、仏力・法力の現れぬということは絶対にありえない」と。
 大切なのは「信心」であり、広布への「行動」である。どんなに御本尊を受持していても、「信心」なく「行動」なき日顕宗では何の功徳もない。自行化他の法理にかなっていない。いな、わずかな「汚水」をも許されない清浄な正法の法水に、これほどまでの大濁水をまじえてきた罪は、地獄の業因となっていることはまちがいない。
 SGIには清らかな絶対の「信心」がある。不惜身命の「行動」がある。
 この「信力」「行力」に、偉大なる「仏力」「法力」が顕現して、SGIは世界に正法を弘めたのである。
11  「正法の行者」を憎む者には仏罰
 大聖人は仰せである。
 「法華経をば経のごとく持つ人人も・法華経の行者を或は貪瞋癡により或は世間の事により或は・しなじな品品ふるまひ振舞によつて憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほるなり」──法華経を経文の通りに持つ人々であっても、法華経の行者を、あるいは貪り・瞋り・癡の煩悩によって、あるいは世間的なことによって、あるいはさまざまな振る舞いがよくないといって、憎む人がいる。このような人は法華経を信じていても、信ずる功徳はない。かえって罰を受けるのである──と。
 末法の法華経の行者、すなわち日蓮大聖人を怨嫉し、憎む罪を述べられている。
 総じて、いかに御本尊を持っていても、自分の感情や、名聞名利などから、正法を正しく実践する者を憎んだ場合には、功徳がないばかりか、罰を受けるのである。
 現代でいえば、大聖人の仰せのままに信・行・学に励む学会員を怨嫉し、憎み、誹謗する者が、この御文に当たる。
 いわんや「経のごとく」実践していない、道心なき現宗門の罪は深重である。
12  牧口初代会長「同じ悪でも高位ほど大悪に」
 しかも同じ罪でも、指導者の罪は大きい。牧口先生は、価値論の上から、論じられている。
 「同じ小悪でも、地位の上がるにしたがって次第に大悪となる。いわんや大悪においては、なおさら極悪となり、その報いとして大罰を受けなければならない」
 「現在のごとき恐怖悪世くふあくせの相を現出して、釈尊の三千年前の予言たる『末法濁悪じょくあく』の世が現実に証明されるのは、強盗・殺人等の大悪よりも、(中略)高官・高位に蟠踞ばんきょ(そこに根拠地を占めて、勢力をふるう)して賢善有徳けんぜんうとくの相をしていながら、大善を怨嫉し軽蔑して大悪に迎合し加勢し、もってその地位の擁護と現状の維持とに力を尽くす高僧、大徳、智者、学匠によるといわなければなるまい。『仏法によって悪道に堕つる者は大地微塵の数、仏法によって成仏する者は爪上の砂』との仏戒が、これによってはじめて理解されるのである」と。
 広宣流布という大善に反対する者は「大悪」である。法主という最も地位の高い者が広布を破壊しようとした行為は「極悪」中の「極悪」である。大罰を受けるのは必然であろう。まさに「末法濁悪の世の証明」である。
13  また、「極悪」と戦う者は、「極善」となる。ゆえに、今こそ極悪と戦い、責め続けなければならない。その人が大功徳の人である。
 牧口先生は、「悪人の敵になりうる勇者でなければ善人の友となり得ぬ」と。
 悪と戦う勇気がなくて、どうして人々を救えようか。仏の敵を打ち破ってこそ、広宣流布は伸展する。
 戸田先生も、こう詠まれている。
   「一度ひとたびは 死する命ぞ 恐れずに 仏の敵を 一人あますな」
   「魔の神も 鬼の姿も おどろかじ 仏の御命ぎょめい うせるをうれう」
 私たちは、いよいよ強盛な信力・行力で大聖人の御遺命の通り、世界広布の大道、永遠の幸福の大道を、希望と勇気をもって前進していきたい。
 皆さまは広宣流布のために、本当に遠いところから研修に参加されている。その求道の信心に深く、また深く敬意を表したい。
 私は皆さまの健康、幸福、無事故、長寿を、毎日、毎日、真剣に祈っている。どうか安心して進んでいただきたい。
 楽しく、有意義な研修であられますよう、心から念願申し上げたい。サンキュー! メルシー! ありがとう!

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