Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「4・2」記念各部代表懇談会 御本尊を「わが胸中」に

1993.4.3 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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2  恩師が教えた大聖人の仏法の神髄
 どんな宗教も「本尊」が一番大切である。それでは、日蓮大聖人の仏法における「本尊」の本義はどこにあるのか。
 大聖人御自身が、こう仰せである。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」──この御本尊は、まったく、よそに求めてはならない。ただ、我々衆生が、法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである──。
 この御文を拝して、戸田先生は、このように講義された。
 「大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしゃるのです。これはありがたい仰せです。
 この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。
 ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。
 ですから、われわれの命はこうこうと輝いている。だから顔の色つやもよくなるのです。信心して青い顔をしている者は、信心したといってもほんとうにしていない。インチキなのです」
 「桜色にパッとしていなければならない。いくら年をとっていても青年のような顔色、そう思うと私もうれしい」
 信心が強いかどうかである。信心が強ければ、自分自身が功徳聚くどくじゅ(功徳の集まり)となっていく。大聖人は御本尊のことを「功徳聚」と仰せである。そして「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」──この御本尊も只信心の二字に収まっているのである──と。
 ゆえに信心強き人は、絶対に行き詰まらない。何が起ころうと、すべてを功徳に変えていける。幸福に変えていける。もちろん長い人生には、さまざまなことがある。悩み、苦しみがある。しかし、それらを全部、自分自身の境涯を開く糧とできる。 その意味で、信仰者にとって、根底は、一切が功徳であり、幸福なのである。信心強き人に、「不幸」の二字はない。
3  日寛上人は「観心本尊抄文段」の末尾に、こう述べられている。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、わが身即ち一念三千の本尊、蓮祖れんそ聖人なり。『幼稚の頸に懸けさしめ』の意、正しく此に在り。故に唯仏力・法力を仰ぎ、応に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆることなかれ」(文段集五四八㌻)──我らが、この本尊を信受して、南無妙法蓮華経と唱え申し上げていくならば、わが身が、そのまま一念三千の本尊であり、蓮祖聖人(日蓮大聖人)なのである。「(仏法に無知な末法の)幼稚の頸に懸けさしめ」との(観心本尊抄の)御文の元意は、まさにここにある。ゆえに、ただ仏力・法力を仰いで、信力・行力を励むべきである。一生を空しく過ごして、永遠の悔いを残してはならない──。
 御本尊への「信心」によって、わが身が即「本尊」と顕れ、「蓮祖聖人」(日蓮大聖人)と顕れると明言しておられる。そうなれるために、大聖人は御本尊を顕してくださったのである。ここに、大聖人の仏法の極理がある。
4  無量の生命力、無限の知恵も自分の中に
 信心によって、わが胸中の御本尊を開くのである。ダイヤモンドのごとき仏の生命を開き、輝かせるのである。
 本来、無量の生命力は、自身の内部にある。無限の知恵の泉は、わが胸中にある。それを、自在に涌現できるのが「信心」である。
 戸田先生は、よく言われていた。「自分の中にあるものが出てくるのだよ。無いものは出てこないぞ」と。
 強く清浄な仏の境界も、弱く醜い地獄・餓鬼・畜生等の生命も、全部、わが生命にある。縁に触れて現れてくる。また、生命は三世にわたるゆえに、過去の宿業が、大きな悩みとして現れ出てくる場合もある。しかし、「苦悩」の因が「自分の中に」あるのと同じく、それをそのまま「幸福」へと転換しゆく力も「自分の中に」ある。これが仏界の力である。
 結局、人間とは、どこまでいっても、戸田先生が言われたように、「自分の中にあるものが出てきた」ものである。それ以上でも、以下でもない。
 だからこそ、わが生命の大地を耕し、深く豊かに幸福の根を張らねばならない。「胸中の御本尊」を開き、何ものにも揺るがぬ大樹の自分をつくらねばならない。
 それが、境涯のうえでは優れた人間性や立派な振る舞いとなって表れ、生活のうえでは功徳・福運となって現れるのである。
5  ゆえに、大切なことは、「信心」があるか、ないかである。大聖人の「心こそ大切なれ」との仰せを、絶対におろそかにしてはならない。
 御本尊を形ばかり持っていても、まったく信心がなく、仏法を利用し、人々を苦しめる″邪心″の人間がいる。三悪道・四悪趣の醜い境涯である。今、日顕をはじめ、僧侶の醜行や最低の人間性が批判を浴び、また、さまざまな不法行為で社会から糾弾されている。
 「報恩抄」には、厳しく、こう叫ばれている。
 「大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり」──大うそを集めて、仏であると称しても、ただ無間地獄へ堕ちるのみである──と。
 形式ではない。地位でも財産でもない。「信心」ある人こそが、真の「幸福」の人である。
6  戸田第二代会長、「自己自身に生きよ」
 先日(三月二十七日)、ハーバード大学・世界宗教研究センター所長のサリバン博士と、「二十一世紀の人間と宗教」について語り合った。
 その際、私は、人間が「自分自身を知る」ために、生命の法を明かした宗教が不可欠であると申し上げた。
 「自己」を知り、「人間」を知り、「生命の尊さ」を知る──ここに宗教の重要な意義がある。
 大聖人が顕された御本尊は、「観心の本尊」であられる。「観心」とは、わかりやすく言えば「自己を知る」こととも言えよう。
 「自己を知る」すなわち「自分自身が仏である」と知り、その力を発揮していくために、大聖人は御本尊を教えられたのである。
 戸田先生は、こう語られている。
 「貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦げんかをして悲哀を味わうのも、あるいは火ばちにつまずいて、けがをするのも、結局、それは皆自己自身の生活である。
 すなわち、自己自身の生命現象の発露である。かく考えるならば、いっさいの人生生活は、自己の生命の変化である。ゆえに、よりよく変化して、絶えず幸福をつかんでいくということが大事ではないか。
 されば、自己自身に生きよ……いや、自己自身に生きる以外にはないのだ、ということを知らなければならない。あの人が、こうしてくれればよいのだとか、この世の中がこうであればしあわせなのだといって、他人に生き、対境(外にある対象)に生きるということは間違いではないか。
 しかし、人間の力というものは弱いものである。自己自身に生きていると、いかに力んでみても、他人に支配され、対境に支配されやすいものなのである」
 「そこで、自己自身の生命が、もっとも強く、もっとも輝かしく、もっとも幸福であるためには、十界互具、一念三千の仏法に生きる以外にはないと、吾人ごじん(私)は信ずるものである」
7  生命力が強い人は幸せである。確信が強い人は幸福である。人生を切り開いていける。
 「弱い人」は不幸である。また、不幸をみずからつくりだしてしまう。仏法の信仰は、自分自身が最も強くなるためにある。ゆえに、すべてを「信心」で受け止め、「信心」で乗り越えていこうという生き方に永遠の「幸せの道」がある。いちばん尊いのは「自分自身」である。皆さま方である。そのことを、大迫害を受けながら教えてくださったのが大聖人であられる。そして、この″仏法の真髄″を、そのまま信受し、民衆に教えたのが牧口先生、戸田先生なのである。我らは大確信をもって、大聖人直結の「この道」をまっしぐらに進んでまいりたい。
8  青年よ「確信」の力で立て
 戸田先生は、青年部に、こう指導された(昭和三十二年六月、男子部幹部会)。
 「若い時代にとくに大切なものは、自分の心を信ずるということである。自分の心というものは信じがたい。中心が動揺し、迷っている若い時代は、ことにありがちである。しかし、低級な宗教といえども、彼らは、ひとつの確信を人間に与える」
 「私はアメリカのポパイという漫画を見た。ポパイは、あれは弱くて負けてばかりいるが、ホウレン草を食べるとすぐ強くなる。たちまち敵を投げとばしてしまう。あれはホウレン草というものを信仰しているのである」
 「自分の心にひとつの確信なくしては、生きていけません。自分は御本尊様を信じている。だからどんなに困ってもかならず助かっていく、だいじょうぶだ。この確信があれば、なにをしてもよろしい。だが、泥棒や詐欺をやってはいかん。
 人生に生きる道であるなら、正しいと思ったなら、御本尊様を信じて、御本尊様を確信の芯にするのです。病気、貧乏であろうと、絶対、克服できる。それには、信というものが、かならずなくてはならない」
 「その心が強ければ強いほど、いかなることがあっても、青年は敗れることはない。青年はみずから信ずるものをもたねばならない。みずからの心を信じなければならない。この心はあぶないものであるから、御本尊様によってこの信をたてるのです。そうすれば、一生涯、ゆうゆうと生きていけると信じます。この立場にみずからも生き、他人をも指導していってほしい」と。
9  青年をこよなく愛し、だれよりも青年に期待を寄せる先生であられた。
 青年の成長のために、時には厳愛の叱咤もされた。臆病な信心、確信なき行動、醜いエゴ、卑劣な嘘を、徹底して戒められた。
 同時に、信心の確信に満ち満ちた青年の活躍を、先生は何よりも喜ばれたのである。
  「若き芽の のびゆく姿 ながめつつ 妙法流布の旅は たのしくもある」
  「若き身は 苦難の種を 蒔く時ぞ いつも忘るな 妙法の道」
  「三類の 強敵あれど 師子の子は 広布の旅に 雄々しくぞ起て」
 お歌にも、青年への戸田先生の熱い期待が、あふれている。
10  現在、私をはじめ秋谷会長、森田理事長等、先生が手塩にかけて育てられた青年たちが、学会の中枢を担っている。
 私もまた、先生と同じ心で、広布のため、学会の万代の未来のために、全力を尽くして若い人材を見いだし、訓育している。
 今回の北米訪問の折、アメリカに「未来部」が発足した。これも、二十一世紀の「広布」即「社会貢献」を展望しての布石である。
 青年が育ち、伸びている団体・組織には、停滞はない。豊かな未来性と、発展の活力がみなぎっている。
 学会は、常に青年を育て、広布の責任を託してきた。だからこそ、大発展した。
 支部や地区でも、青年を愛し、大切にしているところは人材も育っているし、組織も伸びている。
 壮年部や婦人部の方々には、これからも、未来のために、尊き使命の青年たちを、温かく見守り、励まし、ときには適切な指導をして、育成をお願いしたい。
11  「勇気」は「慈愛」と「知恵」と「勝利」の母
 青年は信仰の体験も少なく、人生経験も浅い。当然、未熟でもある。だからこそ、勇気を出して、すべてに挑戦すべきなのである。
 ゲーテは若き日に詠んだ。
   されば、勇気を新たにせよ! くよくよするな。
   花盛りの薔薇を摘む者は
   どうせ棘には刺されるさ。
   昨日のとほり今日もまた星はきらめく。
   ふさいでうなだれてゐるのはよせ、
   いつも前へ向って生きて行け
12  大切なのは「勇気」である。青年は、臆病であってはならない。
 大聖人も「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」──日蓮の弟子等は、臆病であってはならない──と、門下を戒められている。
 また「身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり」──身体が強い人も、心が弱ければ、多くの能力も役に立たない──と仰せである。
 心が弱く、臆病であれば、もてる能力を発揮することもできない。
 ″試合になると実力が出せない″という運動選手の話はよく聞く。どんなスポーツでも、心の強弱に左右されることが多い。人生も同じである。
 その「心」を最も強く鍛え、「心」の力を最も大きく引き出すのが妙法の「信心」である。だからこそ「勇気」ある信心が大切である。臆病であっては、妙法の真の功力を味わうことはできない。
 「勇気」は「知恵」を生む。友を思う「慈愛」も、勇気から生まれる。「勝利」も勇気の実践によってこそ得られる。
 「勇気の人」が「栄光の人」である。
13  戸田先生は、逝去される直前の昭和三十三年(一九五八年)二月、『大白蓮華』の巻頭言で、青年に訴えられた。
 「思えば、今日の政治の堕落の根源は、その罪の大半が青年にあると論ずる外はない。青年は敏感である。もし、自己というものを確立し、自己の思想抱負を尊重し、天下大衆の幸福を切願するならば、今日のような、腐敗した代議士にだまされるわけはない」「(政治腐敗の醜聞を)聞いて恥じない民衆、聞いて驚かぬ青年、関心なき婦人、まだまだ、日本の政治の貧困の続くことは、遠い遠い先までであろう」
 そして、最後に、こう呼びかけられた。
 「とまれ、青年は心して政治を監視せよ」と。
 忘れてはならない、永遠の指針である。いわば青年部への遺言である。
 青年をはじめとする「政治への無関心」こそ、政治の腐敗を助長してきた根源である──先生の烈々たる叫びには、「青年よ立て」との熱い期待が込められていた。
 先生が洞察されたように、政治の腐敗は、それから三十五年が過ぎた今日まで、十年一日のごとく続いている。いな、むしろ一段と悪化してさえいる。
 政界に限らず、指導的立場にありながら、自己の地位を利用して、私腹を肥やし、民衆を苦しめ、「民衆の敵」となる人間があまりにも多い。
 こうした「本末転倒」の一切の権威・権力と戦い、民衆を守り、よりよき社会へと偉大な「改革」を成し遂げることこそ、青年の使命であると、私は思う。
14  大聖人は、仰せである。
 「悪王あつて法華経を失わば身命をほろぼすとも随うべからず、持戒精進の大僧等・法華経を弘通するやうにて而も失うならば是を知つて責むべし」──悪王がいて、法華経を失おうとするならば、わが命を滅ぼしても従ってはならない。持戒・精進の大僧(高僧)などが法華経を弘通するかのように見えて、その実、(法華経を)滅ぼすならば、これを知って責めるべきである──。
 この御金言の通り、広布を妨げようとするあらゆる権力・権威と、身命を惜しまずに戦ってきたのが、私たち創価学会である。この御文の「大僧」に該当し、「宗教的権威」を振りかざして、正法と広布を破壊しているのが、日顕であり、現宗門である。
 御書に仰せの通りの事態が今、起こっている。大聖人は「責むべし」と厳然と仰せである。青年は、立ち上がらねばならない。悪と戦わねばならない。なかんずく、極悪は、最後の最後まで、妥協なく、怠りなく、責めて責め抜くべきなのである。
15  使命を果たすところに、広布の伸展があり、自身の「成長」即「幸福」がある。
 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」との戸田先生の叫びは、不滅の真理である。
 私も叫びたい。戸田先生と不二の心で、万感の思いで呼びかけたい。
 「青年の熱と力で、新しき世紀を創ろう」と。

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