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日蓮大聖人・池田大作

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最高幹部協議会 世界に友人を、それが先進国

1993.3.25 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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2  大使はナイジェリアのカヌリ(民族)の出身である。
 カヌリのことわざに「真実の友人は、もろ手で抱えよ」と。
 真実の友情ほど美しいものはない。私たちは、この豊かな無上の財産を大切に抱きしめていきたい。
 ほかにも、こんな素晴らしいことわざがある。
 「人に施した恩恵は、失われない(みずからの財産となる)」
 大使が、ナイジェリアと日本の友好に尽くされた偉大なる功績も、大使の広やかな人格のなかに永遠の輝きを放っている。
 人のために悩み、祈り、動いた分だけ、自分が豊かになっていく。「失われない宝」を積むことになる。私たちは、だれに対しても、春風のように温かな一人一人でありたい。
 さらに「希望は世界の柱である」ともある。
 今回、離任され、人生の新章節を開始される大使の希望の前途を、私は祝福したい。とともに、大使をはじめ世界の良識が、私たちSGI(創価学会インタナショナル)に「二十一世紀の希望」との期待を寄せてくださっていることは、まことにうれしい。その期待にお応えできるよう、いよいよ誠実に、いよいよ堂々と前進してまいりたい。
3  ツヴァイク「国家の順番は人間性を尺度にしたい」
 ところで今回、訪れたラテン・アメリカの国々は、いわゆる「第三世界」と呼ばれる、経済的にはこれからの国である。そのため、日本人のなかには、あからさまに、また陰で見みくだす人々もいるようだ。アフリカに対しても、同様である。
 しかし、先進国・途上国の違いは、単に「経済」だけを基準にすべきではないであろう。否、″金持ちかどうか″だけで、その国を判断しようとすること自体が、最も「非文化的な国」の証拠ではないだろうか。
 ブラジルをこよなく愛したオーストリアの作家・ツヴァイク(一八八一〜一九四二年)については、私はブラジル文学アカデミーでの講演(二月十二日、同アカデミー在外会員就任記念講演。「人間文明の希望の朝を」)でもふれた。
 彼は、晩年の著書『未来の国ブラジル』に、種々の統計表にこう書いている。
 「表による最も文化・文明の発達した国とは、最も生産が活発で、消費と個人資産の総額が最も多い国ということになる。しかしこれらの統計表には一つの重要な要素が欠けている。欠けているのは人間精神の算定で、これこそが我々の考えでは、文化や文明の最も本質的な尺度である」
 その国の人間の「精神」は、目に見える数字には表れない。しかし、そこにこそ「文化」の実体がある。
 「従って我々は国家に順番をつける場合に、産業、経済、軍事的価値でなく、平和的精神と人間性に対する姿勢を判定の尺度としたい。
 この意味で──わたしにとって最も重要なことだが──ブラジルは世界で一番模範的であり、それゆえに最も尊敬に値する国の一つに思える」
4  ツヴァイクは、ブラジルが侵略戦争をしたことがないこと、すべての人種の平等を実現していること(人種デモクラシー)などを挙げて、「世界の最先進国」の一つであると主張した。
 この二点において、日本は「後進国」といわれても、しかたがないであろう。自分たちは「先進国だ」と傲っていても、尺度を変えると、「人間は三流」の低次元の国に見られている場合が多いのである。
 このギャップ(隔たり)に日本の悲劇がある。「友人をもたない日本」と批評されるゆえんである。ゆえに私は、日本を「真の先進国」すなわち「精神の大国」「人権の大国」にする努力を重ねるとともに、全世界に友人をつくっている。
 今回の、南米の旅でも、しっかりした「友情の橋」を築いてきた。各国の多くの指導者から、また心ある日本のリーダーからも、感謝の声が寄せられている。
5  ケニア初代大統領「神聖な人類の同盟に参加を」
 友情を広げるために大切なことは、平等の対話である。対話で大切なことは、まず謙虚に相手に学ぶことである。傲慢であっては、人も国も、友人ができないのは当然であろう。
 その意味で、ケニアとトルコの英知の一端に耳を傾けておきたい。
 ケニアの独立の父・ケニヤッタ初代大統領(一八九一〜一九七八年)は、こう語っている。
 「今、私たちが考えていること──そして皆さんにも考えていただきたいことは、前を見ることであり、後ろを振り返ることではありません。私たちの子どもが、過去の英雄について学ぶことはかまわないでしょう。しかし、私たち自身の仕事は、子どもたちの未来を築くことなのです」と。
 仏法の「現当二世」の精神にも通ずる考え方であろう。
 また「私は今、皆さんに訴えたい。私たちは団結して祖国の未来のために戦おう。国民のなかから貧困を絶滅する戦いを遂行しよう。この目的達成のために、神聖な同盟に参加しなければならない。人類の同盟よりも偉大な連帯はない」と。「人類の同盟」──素晴らしい言葉である。
 さらに、団結を意味する″ハランベーの精神″についても、こう語っている。
 「団結なくして、価値ある仕事を成就することは一切できない」
 「私たちは、まず互いに尊敬しあい協調しあうことを学ぼう。そうすれば、人種の異なる人々が同じ国の市民として団結し、平和国家を建設できるという模範を、アフリカ全土に、そして全世界に示すことができる」と。
 ひとつの地域が″団結による勝利″を示せば、その模範は、波動となって、他の多くの人々を励ましていくのである。一地域が立ち上がることが、全体の勝利に通じる。
6  トルコ初代大統領「他国の悩みを自国の悩みに」
 また、トルコの父・ケマル初代大統領(一八八一〜一九三八年)については、これまでアンカラ大学での講演(一九九二年六月)をはじめ、何度も語ってきた。
 「古い友人と仲よくし、新しい友人をつくれ」というケマル大統領のモットーは、私たちSGIのモットーでもある。
 ケマル大統領は、こう語っている。
 「世界に、そして世界の諸民族の間に平和と調和、豊かな生活がなければ、ひとつの民族がいくら自分のために努力したところで、安寧をえられるわけではない」
 「世界のある地域にひとつの悩みがあっても、それは私の知ったことではない、といってはならない。このような悩みがあれば、あたかもそれが自分たちのものであるかのように、関心を持たなければいけない」
 そして、このような「考えこそ、人間を、民族を、国家を利己主義から救うものである」と。
 このように、ケマル大統領は、半世紀以上も前から、「地球的パートナーシップ(友好的な協力関係)」を呼びかけていた。昨年十二月にお会いした同国のデミレル首相も、その精神を受け継いで努力しておられる。
 私たちも今、軍国主義と戦われた牧口先生の精神、そして戸田先生の「地球民族主義」を継承し、その理想実現へ行動し続けている。これが私たちの「誇り」である。
7  唱題の団体ゆえに諸天が味方に
 きょうも御書を拝したい。大聖人は「諫暁八幡抄」で仰せである。
 「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり、又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」文」──(経文には)南無妙法蓮華経と唱える人を大梵天王、帝釈天、日天、月天、四天王等が昼も夜も常に守護するとある。また、法華経の第六巻には「(釈尊は)あるときは(仏界の)自分の身を説き、あるときは他の(九界の衆生の)身を説き、あるときは自分の身を示し、あるときは他の(九界の衆生の)身を示し、あるときは自分自身のことを示し、あるときは他の(九界の衆生の)ことを示す」(如来寿量品第十六)とある──。
 諸天善神、そして釈尊が、ありとあらゆる姿をとって、法華経の行者を守護するとの仰せである。
 「観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや・天台云く「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」等云云」──観世音菩薩でさえ三十三の身を現じ、妙音菩薩もまた三十四の身を現じられる。教主釈尊が、どうして八幡大菩薩となって現れられないことがあろうか(法華経の行者である大聖人と門下を守られないはずがない)。天台は言っている。「(仏は)形を十界の上に現し、種々の姿をとる」等──。
 「仏」の現れ方は、自在であり、多種多様である。今、さまざまな国の、さまざまな人々がさまざまな形をとって、SGIを支持し、顕彰してくださっている。総じて広宣流布を進める働きは、実は仏法の眼から見れば、根本的には釈尊=仏界の顕現なのである。
8  SGIは、宇宙にまで実在する仏界を揺り動かし、味方にして進んでいる。梵天・帝釈の守りもまた、諸天の仏性を私たちの「信心」と「唱題」が引き出しているのである。
 大聖人は「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ」──口に妙法の名を呼びたてまつれば、わが身の仏性も呼ばれて必ず顕れられる。梵天王・帝釈天の仏性は呼ばれて、われらを守られる──と。
 ″唱題の人″が″勝利の人″である。題目をあげ抜いた人には、諸天が続々と参集する。最大に幸福の方向へと導いてくれる。題目にかなうものは何もない。
 学会は久遠以来、最高の「唱題の団体」である。ゆえに、必ず梵天・帝釈が動く。勝利への道は開く。三世十方の諸仏・諸天を動かす、勢いある「信心」と「行動」をお願いしたい。
9  「悪の根絶」が自身の「不幸の根」を断つ
 悪との戦いに妥協はない。方便品の「本末究竟等」について、大聖人は仰せである。
 「本とは悪の善の根・末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」──(本末究竟等の)「本」とは悪の根・善の根、「末」とは悪の終わり、善の終わりである。善と悪の「根本」(本)から「枝葉」(末)までを、悟りきわめた人を仏というのである──と。
 「悪の根」とは、一切衆生に不幸をもたらす「不幸の根」である。大聖人は謗法の僧こそ、大悪であり、「悪の根」であるとされている。この「悪の根」を断つことが、人々の「不幸の根」を断つことになる。何より、自分自身の生命から、「不幸の根」を断つことになる。
 ゆえに絶対に最後の最後まで妥協してはならない。「悪の根」「一凶」を残しておけば、必ずまた悪の枝を伸ばしてくる。決して油断してはならない。
 日顕宗を″根絶″する戦いが、法華経の「本末究竟等」の法理にのっとった実践である。大聖人の御精神にかなった闘争である。悪とは断じて戦い抜く学会精神を一段と燃やしていきたい。
10  大聖人は、御自身と門下を指して「大乗平等法の行者なり」と仰せである。無上道を自証していると。
 大乗とは、多くの人々を乗せられる乗り物のように、多くの人々を救う教えである。全人類を乗せ、一切の人々を平等に成仏させる法=妙法の行者なのだと強調されている。
 そして末法は「南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり」と。
 にもかかわらず、「大乗平等法」を行じ、弘める者が、僧俗などの「差別」「不平等」を口にすることほど滑稽なことはない。それ自体、自分は大聖人の門下ではないと宣言している姿である。
 ここで大聖人は「権教は不平等の経なり」と明確に仰せである。
11  人類と世界は今、人間としての「平等」と「尊厳」の獲得へ動いている。「人権の世紀」の夜明けを求めている。
 ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁と私は、対談集『二十一世紀の人権を語る』の発刊を約束した。
 総裁は、即座に「『人権』についての対話では、『差別に対する戦い』が中心になると思います。すべての人間は、平等です。いかなる差別も許せない。絶対に許すことはできません」と、九十四歳の瞳を爛々と輝かせながら語っておられた。
 日蓮大聖人の御闘争を受け継いだ私たちの人権闘争は、「人類が味方」である。「新世紀が味方」である。そして諸天が味方であり、いよいよ大確信をもって進んでまいりたい。
 「大乗平等法の行者」として、「人類の希望」「世界の柱」の誇りをもって、ともどもに戦っていただきたい。

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